安倍宗任wikipedia
松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍し、その為、治承・寿永の乱(1180〜1185)により、現在の山口県長門市油谷に流罪となった。
その後、高俊の娘が平知盛の子平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害から逃れる為に安倍姓を名乗った。

平知忠(1180(1176?)〜1196)wikipedia
寿永2年(1183年)、源義仲の攻勢の前に平家が都落ちを決意したとき、知忠は幼少のために父の命令で伊賀にいる乳母子の橘為教のもとへ預けられた。そのため、伊賀大夫とも称されている。
父の知盛は寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水自殺し、母は一命を助けられて京都に戻った。知忠は伊賀で成長した。
しかし建久7年(1196年)、突如として京都法性寺に現れる。これらには諸説があるが、有力説は源頼朝の妹婿である一条能保の暗殺計画を企み、
平家の再興を図ったものと言われている。しかし幕府にいち早く察知されて、知忠とその主従はことごとく討たれてしまった。享年17。
死後、彼の母が首実検のために息子の首を見極め、泣き伏したことは有名である。なお、彼の生年には安元2年(1176年)説もありこれに基づけば享年21となる。

【長門 安倍氏系図】
安倍知任(1196-  )

〜引用〜

もし平知貞が平知忠のことなら、伊賀にいた知忠は松浦高俊の娘と長門で婚姻したことになる。
その後1196年京都に移動し一条能保の暗殺に失敗し死亡。同年、子の知任が誕生する、と。

何か腑に落ちない・・・