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【Y-DNA】ハプログループで語るスレ47【mtDNA】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/12/15(土) 09:20:10.46ID:e0IiCTsh
ハプログループを学術的に議論するスレです。
スレの内容とは無関係な政治的言動、形質と文化の関連への排除的言動は控えてください。
                           
●日本人Y-DNAハプログループ比率
D1b--32%
O1b2-32%(旧表記O2b)
O2---20%(旧表記O3)
C2----6%
C1----5%
O1b1--1%(旧表記O2a)
O1a---1%
N1----1%
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)

自分のハプロタイプが調べられる機関
https://genographic.nationalgeographic.com/
https://www.familytreedna.com/
https://www.23andme.com/

最新ツリー -ISOGG、YFull
https://isogg.org/tree/
https://www.yfull.com/tree/

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1543072764/
0002名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/12/15(土) 12:10:32.79ID:bcROxAfR
O1b2(旧O2b) も O2(旧O3)も元々はバイカル湖あたりから拡散した

O1b2(旧O2b)はバイカル湖あたりから長江に移住して稲作を始めた
そして何千年か後で漢民族に征服、民族浄化されて日本に逃げて来たのが弥生人:

陸稲は焼き畑農耕と一緒に縄文中期に長江から九州に伝わった
水田は弥生初期に長江から北九州に伝わった
天皇一族は朝鮮での権力闘争に敗れてソウルから北九州に移住した



稲の来た道論争
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku368.htm

稲作の渡来(稲作はどこから来たか?)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku359.htm

4.呉の国と日本・稲作の渡来
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku358.htm#04

縄文時代に長江から九州に伝えられた照葉樹林帯文化
https://dankai.akimasa21.net/east-asian-evergreen-forest-culture/

遡る縄文稲作の年代
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_01jyoumonninasaku.html

長江人が九州に移住して作った吉野ヶ里遺跡の鳥居と鳥信仰
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

朝鮮を追われた天皇家が日本に移住して作った魏志倭人伝の伊都国・邪馬台国での鏡信仰
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm
0003名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/15(土) 12:12:09.90ID:bcROxAfR
弥生人が稲作を日本列島に持ち込んだ民族(従来の歴史ではそのようにしてある)であるとするのなら、弥生人の故郷は、朝鮮半島ではなく、中国の南部であるという。

これは最近の科学的ミトコンドリアDNA鑑定によって、稲および弥生人のDNAが中国南部のそれと一致するからである。


1999年(平成11年)3月23日、中日共同調査団が発表、 「弥生人」の起源は江南地方か

共同通信によると、日本に稲作を伝えたとされる渡来系弥生人の人骨と、長江
(揚子江)下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、
DNA分析で配列の一部が一致する個体もあることが、18日までの中日共同調
査団の調査で分かった。

 渡来系弥生人は、朝鮮半島や華北地方から来たという説が有力と考えられてい
たが、稲作の起源地とされる長江下流域を含む江南地方からも渡来した可能性が
高くなり、弥生人の起源を探る上で注目されそうだ。

 同日、東京で記者会見した日本側山口団長らによると、調査団は1996年か
ら3年計画で、江蘇省で出土した新石器時代から前漢時代(紀元前202−紀元
後3年)にかけての人骨と、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人や縄文人の
人骨を比較した。

 その結果、弥生時代の直前に当たる春秋時代(紀元前8―同5世紀)から前漢
時代にかけての江蘇省の人骨と、渡来系弥生人の人骨には、頭や四肢の骨の形に
共通点が多かった。

 また日本列島では縄文時代から弥生時代にかけて前歯の一部を抜く風習があっ
たが、江蘇省の人骨二体にも抜歯の跡があった。

 江蘇省の人骨三十六体からDNAを抽出し分析した結果、春秋時代の三体でD
NAの塩基配列の一部が弥生人のものと一致したという。

 中国側団長の鄒厚本南京博物院考古研究所所長は「弥生人と江南人骨の特徴が
極めて似ていることが分かり、弥生人渡来の江南ルート説に科学的根拠が与えら
れた。今後も多方面から研究を進め、弥生人渡来の実態を解明したい」と話して
いる。
0004名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/15(土) 12:13:08.16ID:bcROxAfR
長江からの移民はすぐに縄文女を現地妻にして、その混血児の子孫が弥生人になった

縄文人のmtDNA解析数も蓄積されて、地域差が見えてくるようになりました。
琉球列島を含む関西以西ではM7aが卓越するのにたいして、北海道・東北ではN9bが多数を占めています。
また、サブグループまで分類すると、関西以西と東北・北海道では、M7aでもそれぞれ異なるグループが分布しています。
そのため本書では、地域間の人的交流が広範囲に及ぶものではなかったかもしれない、と指摘されています。
もっとも、後述するように、遺伝的交流は盛んではなくとも、交易などによる文化的交流はある程度以上活発だった可能性もじゅうぶんあるとは思います。

 また、現代日本人では、N9bが2%程度で、7%程度存在するM7aも、縄文時代の関西以西のサブグループで大半を占めることから、
現代日本人に継承されている縄文人のDNAは、おもに西日本の縄文人に由来するのかもしれません。
そうだとすると、弥生時代最初期にユーラシア大陸から九州北部に渡来した集団が在地の縄文人と混合し、東進していったために、
現代日本人に占める縄文人の遺伝的影響は、西日本系の方が東日本系より高くなったのかもしれない、
と本書は推測しています。
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html
0005名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/15(土) 12:14:00.78ID:bcROxAfR
弥生人と言われていた民族も弥生前期は長江系、後期は朝鮮系で、別民族だった。 天皇一族は漢民族系朝鮮人:

弥生時代後期の弥生人骨は大半が朝鮮からの渡来系だった 2018年11月18日
https://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/news/20181117-OYTNT50025.html


 鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期の人骨について、
県埋蔵文化財センターや国立科学博物館などが実施している
DNA分析調査の中間報告会が17日、同町の市青谷町総合支所で開かれた。
大半の人骨のルーツが大陸からの渡来系だった。

 遺跡からはこれまでに約5300点の人骨が出土。
調査では、頭蓋骨約40点から微量の骨を削り取り、DNA分析を行っている。

 篠田副館長によると、九州北部の遺跡から出土した弥生前期の人骨の分析では、
在来の縄文系と渡来系の遺伝子が見つかった。当時の人が両方の祖先を持っていたことを示しており、
青谷上寺地遺跡の人骨についても、両方の遺伝子が検出されると予想していたという。

しかし、今回DNAを抽出した人骨32点のうち、31点が朝鮮からの渡来系で、縄文系は1点だけ。
DNAの型は29種類に分かれ、血縁関係がほとんどないことも分かった。

 青谷は遺跡の発掘調査から、朝鮮などとの交易拠点だったと考えられており、
分析からも、朝鮮から多くの渡来人が入ってきて、交易で栄えていたことがうかがえるという。

また、従来の研究では、稲作の普及や定住生活の広がりに伴って弥生後期には日本人の中に
渡来系と縄文系が交ざっていたと考えられていた。しかし、今回の調査結果は定説に当てはまらず、
篠田副館長は「これまでの説について発展的に考える契機になる」と述べた。
0006名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/15(土) 12:15:11.82ID:bcROxAfR
中国鏡を太陽神として崇拝している漢民族系朝鮮人が作った伊都国と邪馬台国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm


高天原故地碑(たかまがはらこちひ)は、大韓民国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑。日本神話の天津神が住む高天原は、ここであると記されている。

慶尚北道 高霊郡 地図
https://map.konest.com/daddr/4783034032

高天原は実在の地域を反映しているとする説は古くから存在し、第二次大戦後は主としてアマチュア研究家によって
朝鮮半島説も唱えられることがあった。当初その比定地とされたのは、
戦前から一部の研究家によってスサノオが立ち寄ったという新羅のソシモリの候補とされた、『冬のソナタ』のロケ地として知られる江原道春川市であって、慶尚北道高霊郡ではなかった。
春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者で、
1999年6月28日に「高天原故地」と記された石碑が建立された。

李慶煕総長によると
高皇産霊尊は、高と霊の字が含まれるので、高霊郡で誕生した[1]。
東国與地勝覧に書かれている伽耶の天神夷毗訶の次男伊珍阿豉(イジンアシ)はイザナミと発音が似ている。
そのため、伊珍阿豉はイザナミである。
任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は『主人の国』や『母なる国』を意味する。
高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルを指す。

これらの主張は、2001年に訪韓した筑波大学の馬渕和夫名誉教授らの賛同を得ている。
このとき、馬渕教授は李総長の主催する学会で「朝鮮民族が日本を征服し大和王朝を建てた」と発表している[2]。
0007名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/15(土) 12:18:33.47ID:bcROxAfR
10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg
天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。
これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。
それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。
日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。
民俗学的考古学的に調査を行った話としては、
天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、
それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、
同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。
この話はあるメディアに流れました。
38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、仮にこの付近が関連する村であると、
南だけではなく北とも天皇は接点を持つ可能性が浮かび上がります。
(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係していなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、
気にしすぎでしょうかね)
こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで
爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。
天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、
平成一桁の時代において戦争経験者が多く存在する時代ですし、
天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではないといえるでしょう。
そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
0008名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/15(土) 12:19:14.63ID:bcROxAfR
畿内の縄文人を民族浄化した天皇一族はソウルの近くから日本に移住して来た漢民族です。
ソウルの近くに、中国鏡を太陽神として崇拝している漢民族の村があって
そこが天皇家の出身地だと言われています。

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、
天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、
それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。
この話はあるメディアに流れました。
0009名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/15(土) 12:21:02.10ID:bcROxAfR
古事記ではスサノオは高天原から出雲にやってきたということになっているが、「日本書紀」には異なる伝承が語られている。
それによると、スサノオは高天原から追放されてただちに出雲に降りたわけではなく、
まずその子イタケルとともに新羅の「ソシモリ」という所に降り立ったというのである。

天皇は漢民族系朝鮮人

日本神話で有名な八咫烏も高句麗のシンボルである。
八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。
日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、 導きの神として篤い信仰があります。

平安から鎌倉時代にかけて皇族や貴族から篤い信仰を受けた熊野神社の主祭神は朝鮮半島ソシモリ出身のスサノオであり、
そのお仕えである八咫烏は高句麗のシンボルである。熊野神社は高句麗系渡来人の神社であったのだろう。

スサノオは朝鮮半島のソシモリから虵の韓鋤の剣を携えやってきてヤマタノオロチを退治した。
「虵の韓鋤の剣」は間違いなく朝鮮製の剣であろう。ヤマタノオロチは蛇である。

日本の古くからの信仰は蛇信仰である。蛇信仰は注連縄や鏡餅や土器などに見ることができる。
脱皮し永遠の命を持つと思われた蛇は信仰の対象であった。その蛇を朝鮮半島からやってきた神が
朝鮮製の剣で退治したヤマタノオロチの神話は示唆的である。

これは渡来人が蛇信仰の土着倭人を殺戮した歴史では無いだろうか。
0010名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/15(土) 12:24:11.41ID:bcROxAfR
天皇家の神話は朝鮮神話を焼き直したもの、ニニギノミコトが天孫降臨したのはソウルの山だった

朝鮮と日本の神話を考える 上田正昭 京都大学名誉教授

高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。
いずれもクシという字があります。
朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。
それだけではなく
「日向の襲の高千穂の添山峰」。
それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。
朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。
『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。
天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
0011名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/12/15(土) 12:26:44.73ID:bcROxAfR
アマテラスの墓と八咫の鏡は既に特定されている

昭和40年糸島郡前原町平原(当時、現在は平原市)において、農作業の最中に多量の朱と共に大小鏡の破片等が発見された。

偶然の発見であったが、福岡県教育委員会はただちに原田大六を調査団長とした発掘調査団を組織し、
調査・発掘が実施された。結果、遺構は東西十八m、南北十四mの長方形の方形周溝墓で、
弥生時代から古墳時代にかけての遺構であるとされた。原田大六は、2世紀中頃であるとしている。

遺構の中央部には、割竹形木棺を収めていたと思われる痕跡もあった。

この遺跡からは、破砕された合計39面の鏡、ガラス・メノウなどの装身具、素環頭太刀等が出土し、
鏡の枚数は一墳墓からの出土数としては我が国最多であった。
日本一大きな国産の内行花文八葉鏡四枚について、考古学者故原田大六はその図抜けた大きさと特異文様とが、
伊勢神宮に関する種々の史料から内宮の御神体である八咫鏡( や たのかがみ)と同じものではないかと推察し、次のように述べている(『実在した神話』、学生社)。

「伊勢神宮の八咫(やた)の鏡と平原弥生古墳出土の大鏡は上述のように、
寸法、文様ともに食い違ったところを見受けないのである。
これがもし事実だとしたら、平原弥生古墳には大鏡の同型同笵鏡(どうはんきょう)が四面あることから、
はじめは五面を作製したものの一面が伊勢神宮の御神体になっているといわれないことはない」

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)
として祭られていると推察している。

 森浩一氏も、この原田説を支持された
0012名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/12/15(土) 12:29:50.93ID:bcROxAfR
ニニギノミコトの弟はアマテラスから2枚の中国鏡を神宝として手渡されて丹後に天下った

京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、
天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。
 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。
現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。

「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、
いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、
「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、
辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、
もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、
後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。
 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
0013名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/12/15(土) 12:32:38.81ID:bcROxAfR
籠神社の系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。
最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、
その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。
 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、
「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、
「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。
 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。
なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、
「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。
宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、
彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。
 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。
主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。
 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、
いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。
しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、
「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、
海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)
と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。
ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、
もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、
後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。
0014名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/12/15(土) 12:35:53.58ID:bcROxAfR
神武東征は古墳時代直前(250年から300年ごろ)の出来事

「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、
舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、
兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し
血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。

現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。

でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、
この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、
海水が河内湾にも流入していたのです。

その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。

このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、
時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。

____

神武天皇の橿原宮跡伝承地で伝承通りの即位式の行われた跡が発掘された。

辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)(神武天皇)と称した。

「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に
口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。
幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、
明治21年(1888年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋に対し、
宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。


昭和15年の皇紀2600年祭に合わせ、神武天皇を祭る橿原神宮外苑の整備工事がおこなわれた。
その際、京都帝大の若き末永雅雄博士を中心に大掛かりな発掘調査がおこなわれた。

その結果、大量の縄文・弥生遺跡とともに櫟樫(いちいがし)の切り株が多数見つかった。
古代橿原の地には神聖な樹木である樫の森があり、そしてそれを伐採して造った大きな建物跡も見つかったそうだ。
0015名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/12/15(土) 12:44:20.75ID:bcROxAfR
天皇一族に民族浄化された畿内の縄文人の生き残りは全員エタ部落に集められた

2013年12月17日 形質人類学のデータ

エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、
近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、
全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、
0016名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/12/15(土) 12:45:33.31ID:bcROxAfR
部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質
に一致している。

とし、

頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。
したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、
一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。
しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

と書き、さらに、

大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が
孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、
特異の形質がよく保たれているものと思われる。

と述べている(図2参照)。
0017名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/15(土) 13:05:51.41ID:bcROxAfR
重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、
部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、
エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html
0018名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/15(土) 13:09:32.79ID:bcROxAfR
漢民族の天皇一族が古墳時代以降昭和まで朝鮮からの渡来人を大量に入れ続けた理由

中国は外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。
もしかしたら紛争程度の小競り合いでは勝っているかも知れないが、国同士の戦争ではない。
秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。
モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。
局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。
ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。
台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。
清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。
だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。
今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。
黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。

戦争に勝てなくても領土を増やす方法
そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。
稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。
長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。

漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。
これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。
チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。
半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。
台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。

このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。
中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
0019名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/15(土) 13:12:21.06ID:bcROxAfR
漢民族の天皇一族は古墳時代以降、畿内に朝鮮からの渡来人を大量に入れ続けた



国内最古の大壁建物跡か、奈良 渡来人の定住早まる可能性 2018年11月27日
http://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2018112701001874.html


 奈良県高取町教育委員会は27日、同町の市尾カンデ遺跡で4世紀末から5世紀初めに渡来人が建てたとみられる
朝鮮半島式の大壁建物跡が16棟分見つかったと発表した。
国内最古とみられ、これまで5世紀後半以降とされていた渡来人の本格的な定住時期が大幅に早まる可能性がある。

 町教委によると、大壁建物は狭い間隔で柱を立てた後、土で壁の中に柱を塗り込めるのが特徴。
全容が分かる最大のもので東西約15メートル、南北約13メートルだった。
高取町の森ヲチヲサ遺跡で見つかった大壁建物跡と並び最大級という。
同町ではこれまで約40棟見つかっていた。
0020名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/15(土) 13:19:47.02ID:bcROxAfR
天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、昭和天皇に質問したそうだ。
天皇は、オフレコならばと前置きして答えられた。


Q:天皇家の先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられたと。

三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。

現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。
0021名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/15(土) 13:31:58.84ID:bcROxAfR
畿内の縄文人・弥生人を民族浄化して滅ぼした天皇一族はソウルの近くから北九州の伊都国に移住して来た漢民族です。
ソウルの近くに、中国鏡を太陽神として崇拝している漢民族の村があってそこが天皇家の出身地だと言われています。

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、
天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、
それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。
この話はあるメディアに流れました。

北九州の伊都国を最初の本拠地とした天皇一族のアマテラスは

ニギハヤシノミコト(物部氏の始祖)を大和
ニニギノミコト(神武天皇の祖父)を日向
ホアカリノミコト(海部氏の始祖)を丹後

に中国鏡を神宝として授けて天下りさせます
0022名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/12/15(土) 14:47:39.32ID:bcROxAfR
ニギハヤヒノミコトはアマテラスオオミカミから十種の瑞宝/十種神宝(とくさのかんだから)という人を治め、身や心の病をいやす霊力をそなえた様々な神器を受け、天磐船(アマノイワフネ)という船で高天原から降臨されました。

十種の瑞宝の中の有名なものは「フツノミタマの劔」と高天原から降臨した天津神である証明となる「天羽々矢(アメノハハヤ)」です。

これらを持ち、ニギハヤヒは神様として、河内国(今の大阪の東南の地域)に向かいます。

その当時、そのあたりは鳥見(登美/とみ)と呼ばれる地域で、長髄彦(ナガスネヒコ)という首長とその一族が治めていました。

その長髄彦(ナガスネヒコ)や一族はとても好戦的でしたが、天津神という神様のニギハヤヒと会いその先進的な文化の差を感じ争わずにニギハヤヒに従うことになりました。

そして妹の登美夜毘売(とみやひめ,三炊屋媛(みかしきやひめ))と結婚します。

十種の瑞宝/十種神宝(とくさのかんだから)

これは、以下に見る2つの鏡、1つの剣、4つの玉と3つの比礼(女性の服飾)です。
沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)
蜂比礼(はちのひれ)
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)
0023名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/15(土) 14:49:03.72ID:bcROxAfR
ニギハヤヒが鳥見(登美/とみ)の里を治めて繁栄を謳歌していたときに、神武天皇(この当時は天皇ではないのでカムヤマトイワレビコと呼ばれている)が東征をされます。

神武天皇は大阪の浪速国の白肩津に上陸をされると、長髄彦(ナガスネヒコ)率いる軍勢に追い返されます。

一度は失敗しましたが、その後神武天皇は別のルートから攻めます。

そして長髄彦(ナガスネヒコ)のいる生駒山まで行きます。

そこで、長髄彦(ナガスネヒコ)とまた戦います。

その戦いの最中、神武天皇は自分がアマテラスオオミカミの玄孫であり、この土地を治めに来たと言いますが、長髄彦(ナガスネヒコ)はそのことを信じず戦闘が続きます。

やがて、金色のトビが空からやってきて、光輝き戦闘ができなくなります。

その時に長髄彦(ナガスネヒコ)はこのように神武天皇に伝えます。

「何ゆえこの土地を攻めるのか?私たちは天津神の櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)に従い、この土地を守っている。あなた(神武天皇)は天津神の子孫と言ったが、こちらはニギハヤヒノミコト様という天津神の元でこの土地を収めている。

お前は偽物の神様だろう!」と。

そこで、神武天皇と長髄彦(ナガスネヒコ)はそれぞれが自分たちが天津神に関わるものだということを天羽々矢を見せ合いました。

どちらも本物だとわかったのですが、長髄彦(ナガスネヒコ)は戦いをやめなかったためにニギハヤヒは長髄彦(ナガスネヒコ)を殺し、神武天皇に従うことを誓いました。
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