稲村 ぼくはもう少し違うのですが、民主主義というものと、平和とか暴力とかいうものに関する考え、ことに平和とか民主主義とかいう考え方については、もっとも広くぼくは解釈したい。
これは前にも問題にしたのだが、それはそのときになって、そのときの条件によっては−民主主義的方法というものはどういうふうにするかといえば、原則として議会主義の法則、議会というものを中心にしてやるということが、その議会を中心に合法的にやっていくということに、平和的推進というものが問題になって来ると思う。
これは暴力といい、平和といっても、実を言うと、いかに平和的にやったとしても、やはりある程度力の行使というものはやむを得ぬ場合もあり得るんだね。
なぜかというと、こっちが行使しないでも、敵が行使する場合があるから、そうすれば、力の行使というものは限界があるといっても、力は行使せぬといっても、やむを得ない場合もある。
ただ力は議会を通じて合法的にやるのだ。これがぼくはやはりわれわれの言う民主主義的、平和的という解釈になると思う。
そういうふうな建前から、ぼくらはどうかというと、一応やはり政治権力は確保するというある時期なり、段階がある。これはもちろん経済的条件のないところにはできぬ。
経済的な一定の条件が成熟したとき、それからこちらの方の政治的条件が成熟したとき、このときにおいては、ぼくは議会というものを中心にして、議会主義の原則にのっとって、政権を確立し、その政権をもって今までチェックされておった一切のものを解放して社会主義的な質的変化をさせる。
こういうエポックがある。このエポックを目ざしておるところに社会主義革命がある。こういうことが言えるのではないかと思う。
この点は、民主主義、それから暴力とか力とかいうものをきわめて狭く解釈すると、非常な大きな疑問ができるかもしれぬけれとも、それはたとえば、いかなる場合においてもわれわれは戦争に反対である、こういう平和主義運動があったとしても、それならば平和を撹乱するような勢力に対してどうするかというと、やはり実力を行使しなければならぬということも起きる。
力の行使とか、平和主義というものについて、平和的手段といっても、平和をあくまで維持するために、平和を撹乱するエレメントを押えつけるというこの態勢が、ぼくらにとってやはり考えられなければならぬと思う。民主主義的な勢力が存在しておる場合はいざ知らず、民主主義的勢力でないものが議会にある場合には、それを議会から放逐するということが必要であり、力によって放逐することもやむを得ぬこと。がある。
そういうふうに見ると、それはどういう条件かというと、一々ぼくは考えられないけれども、そういうふうな平和のために民主的な力を行使しなければならぬという時代ができる。
ただそのときには、ぼくらの問題として、常に議会を中心になされるということだけは、いかなる場合にあっても、日本の実情から考えてなさなければならぬものだ、こういうふうに考えている。
この点については、平和とか民主主義とかいうものの解釈を非常に幅広く解釈して、あんまり狭く解釈して自縄自縛にならぬようにしていくのがほんとうじゃないかと、こうぼくは考えておるのだがね。