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切腹・介錯について語らないか?Part5
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0002日本@名無史さん垢版2010/09/20(月) 23:18:32
三島先生!三島先生!
ああ、三島先生!
人類史上、切腹をキチンとやり遂げたのは三島先生しか居られない!
三島先生こそが真の武士!
日本人の鑑!真の日本人なら、三島先生を見習って腹を切ろう!
ああ、三島先生!
0003日本@名無史さん垢版2010/09/21(火) 19:48:51
ハラキリにおいて死は消滅する。死という人間的諸条件を、ある人間の意志が、自由に否定する行為であるからだ。
ハラキリにおいては、より高き倫理価値が自己に対する超越のかたちによって、死に対する克服のかたちによって
肯定されているからである。

切腹をかびくさい前世紀の遺物のように片づけることは、人間における最も「神聖なるもの」への冒涜である。

アンドレ・マルロウ
来日時のインタビューより
0004日本@名無史さん垢版2010/09/21(火) 19:49:08
三島にとっては死は行動として一つの強烈な現実性を持っていた。日本の偉大な伝統と、儀式とによる死。
それでも異常なことだが、西欧ではローマ人的なこの死とロマンティックな自殺とを、混同するに至っている。
西欧のロマン主義者は、決してこのような方法では自殺しなかった。どのような文明も、死を祭儀的行為として
提議してはいないのである。
ある意味では日本の武士道精神がそれを提議した。

アンドレ・マルロオ
竹本忠雄との対談より
0006日本@名無史さん垢版2010/09/21(火) 21:43:59
とりあえず、魅死魔さんの生首写真見ろよ。

話はそれからだ。
0007日本@名無史さん垢版2010/09/22(水) 14:02:11
 歌舞伎俳優の市川海老蔵が、仲代達矢が主演した不朽の名作
「切腹」(1962)を三池崇史監督が3Dリメイクする映画化企画に主演することが決まった。
公私ともに充実する海老蔵にとって、フリーキャスターの小林麻央との結婚後、初となる映画出演。
「出口のない海」(06)以来4年ぶりの主演作は、63年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞した本格的な時代劇で、
歌舞伎界のプリンスが真骨頂を発揮する。

 小林正樹監督がメガホンをとった「切腹」がモチーフとなる同作は、時代劇としては初めて3D上映される。
「切腹」は、仲代のほか石濱朗、岩下志麻、故丹波哲郎さん、故三島雅夫さん、故中谷一郎さんらが出演。
武家社会の虚飾と武士道の残酷性といった要素が取り入れられた、重厚なテーマが話題を呼んだ。

 当時、仲代と丹波さんが繰り広げた決闘シーンでは、殺陣に使われる竹光ではなく真剣が使われたという逸話が残されており、
三池監督がどのような演出を手がけるのかにも注目が集まる。10月にクランクイン予定で、11年に公開予定。
http://eiga.com/news/20100916/3/
http://image.eiga.k-img.com/images/buzz/23716/ebizo_large.jpg
0009日本@名無史さん垢版2010/09/23(木) 00:18:30
海老蔵って三島由紀夫に似てますぬ。
0010日本@名無史さん垢版2010/09/23(木) 20:08:39
>>9
反日ブサヨお伝え!
あの府抜けた女たらしが三島先生に似ているということはありえない。
0012日本@名無史さん垢版2010/09/25(土) 12:10:00
日本はみかけの安定の下に、一日一日魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいて
ゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。
(中略)
日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。
諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。
私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。
一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。
青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。

三島由紀夫
昭和45年11月、楯の会会員への遺言
「楯の会会員たりし諸君へ」より
0013日本@名無史さん垢版2010/09/25(土) 12:46:48
武士でもない奴が武士道って
笑えるね。
精神だけ学んでも、結局あんたは武士じゃないから。
0014日本@名無史さん垢版2010/09/25(土) 13:17:22
>>13
切腹してから言え。
0015日本@名無史さん垢版2010/09/25(土) 13:58:48
播磨のドン百姓の末裔が武士道なんて・・・

まあ、女系では徳川家康や水戸頼房の血をひいてるらしいが。
0016日本@名無史さん垢版2010/09/26(日) 02:10:19
武士の心は血筋じゃありません。農民あがりの立派なサムライも沢山います。
0017日本@名無史さん垢版2010/09/26(日) 02:14:44
サヨクほど意外と、血筋や女系だのに、やたらこだわるアイロニー。
0019日本@名無史さん垢版2010/09/26(日) 22:14:15
弥生時代の小国の王・首長→古代の国造・豪族→奈良・平安前期の郡司
→平安後期の荘官・在庁官人→鎌倉時代の地頭・荘官→室町時代の国人領主
→戦国時代・近世の武士

全くの土百姓ではないな。
0021日本@名無史さん垢版2010/10/02(土) 11:41:27
 三島由紀夫研究会「公開講座」のお知らせ
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次回「公開講座」は新保祐司教授をおむかえします!

とき   10月22日(金曜日) 午後六時半
ところ  アルカディア市ヶ谷 五階「赤城」
     http://www.arcadia-jp.org/access.htm

講師  都留文科大学教授 文藝評論家 新保祐司
演題  「日本の優雅なる衰退、ベネチアと三島由紀夫」(仮題)
会費   おひとり 2000円(会員は1000円)
   新保氏は「海ゆかば」(大伴家持)を作曲した信時潔の伝記を書かれ、正論大賞新風賞受賞。気鋭の評論家、産経コラム「正論」でも活躍中です。
ベネチアの衰退と日本の現在の衰微は「優雅さ」において近似しているとされる新保氏の熱弁に期待しましょう。
0022日本@名無史さん垢版2010/10/09(土) 00:55:02
三島由紀夫氏没後40周年 憂国忌墓前奉告祭のお知らせ
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日程    平成22年11月28日(日)
集合    午後1時
      多摩霊園正門前「よしの屋」
府中市紅葉丘2−7−4 042−361−2176
  地図  http://www.yoshinoyasekizai.com/info/map.html

      当日はスタッフが「よしの屋」の前で「憂国忌墓前奉告祭集合場所」と書いた紙を持って立っています。直接行かれる方は、多摩霊園10区1種13側 三島先生のお墓に      1時10分までに直行してください。

 墓石は本名である「平岡家之墓」となっておりますのでご注意ください。多摩霊園管理事務所で三島由紀夫のお墓とお尋ねいただければ、地図とともに場所を教えてもらえます。

直会    奉告祭終了後、上記「よしの屋」にて
二次会   希望者のみ近辺の居酒屋を予定しています
****************************************

 弊会編集の『憂国忌の四十年』(並木書房)
  11月初旬発売、定価1890円が確定しました!

  グラビア16p、本文308p ハートカバー
  定価1800円+税
0023日本@名無史さん垢版2010/10/09(土) 12:45:01
三島先生!三島先生!三島先生!三島先生!
我々日本人は全員三島先生を崇めております!
三島先生に見習って全員腹を切ります!
0024日本@名無史さん垢版2010/10/09(土) 19:46:01
女も切るのか??
0025日本@名無史さん垢版2010/10/09(土) 23:48:16
童貞だと切腹させてもらえなかったとか何とか。
つまり斬首ですか?
0026日本@名無史さん垢版2010/10/10(日) 04:01:19
三島先生は男らしい奴の切腹しか見たくないんだぞ。
0027日本@名無史さん垢版2010/10/14(木) 17:59:14
■■中国に抗議するデモ■■
10月16日(土)
青山公園南地区(地下鉄 乃木坂駅5番出口)
14時00分 集会、 15時30分 デモ出発

詳細は「頑張れ日本 全国行動委員会」 で検索。
合法デモです。前回は老若男女多数が参加しました。
★他サイトへ転載して下さい。

■中国に抗議するデモ予定■
10月23日 香川高松。詳細調整中
10月30日 大阪。午後。大阪市西区「新町北公園」
10月31日 名古屋。13:30。若宮大通公園ミニスポーツ広場
0028広義介錯人 山田朝右衛門垢版2010/10/15(金) 22:49:49
ハラキリが無実だというばあいは、内臓をえぐり出すことにより抗議の意を示したそうでござる
0029日本@名無史さん垢版2010/10/16(土) 05:13:02
童貞だと切腹じゃなくて自刃という。

まめ知識な。
0030日本@名無史さん垢版2010/10/16(土) 10:51:11
>16
新撰組にも農民上がりとかかなりいたが
そういうやつが隊規違反とかで腹切らされたときは
本当の武士以上に堂々と十文字に腹かっさばいたらしいよ
隊規違反て言っても言いがかりみたいのが多かったから無念だったろうが
最後の意地だったんだろな
0031日本@名無史さん垢版2010/10/16(土) 12:03:20
●三島由紀夫・森田必勝両烈士追悼四十年祭「野分祭」●

11月24日(水)午後7時より
花園神社(新宿)

野分祭のあと、荒谷卓先生(至誠館館長)による記念講演
「神道と武士道の現代的意義」が行われます。

お問い合わせは「野分祭実行委員会」へ
TEL03(3364)2015
0032日本@名無史さん垢版2010/10/16(土) 21:22:22
29はウソ。
ここにも現れたか。。。w
0034日本@名無史さん垢版2010/10/22(金) 19:51:46
切腹とは、死ぬことではない。死を行なうことである。

アンドレ・マルロー
0035日本@名無史さん垢版2010/10/23(土) 12:11:34

ミシマの本はすべて必読だ。

アンドレ・マルロー(ド・ゴール政権下の文化大臣、作家)
0036日本@名無史さん垢版2010/10/24(日) 21:45:53
切腹の時に取り乱したりした人はいたんでしょうか?
例えば
「やだー!わしは死にたくない!死にたくないよー」
「わしは侍ではない!侍ではない!」
といって暴れたり、刃物を振り回して検死官を殺傷する人もいたんでしょうか?
0038柳生義禅垢版2010/10/25(月) 22:51:46
怪異、見事果てたか
0039日本@名無史さん垢版2010/10/25(月) 22:56:27
毒味唇役阿部頼母、正に毒の如し。どこか憎めぬ男が、その数奇なる一生の幕を下ろした。
0041日本@名無史さん垢版2010/10/25(月) 23:32:33
たわけ!ここは大名家の公儀介錯人たる拝一刀のことを語る偉大なスレだ。
公儀介錯人とは、暗殺人、探索人と並ぶ大公儀の影の支配勘定であり、柳生家は、柳生宗矩には宗厳、宗冬の他に、隠し子義禅、又の名を烈堂!。これが裏柳生を操る首領であろうが!
立ち会うのだ!
0042日本@名無史さん垢版2010/10/26(火) 11:12:36
覚えておいてくださいよ。切腹は自殺にあらずということを。
切腹とは、祖廟をまえにした犠牲(いけにえ)であるということを。
この庭園も、これまた一個の祖廟ならずしてなんであるか。

アンドレ・マルロー「日本の挑戦」より
0043天問 ◆CsSu9fRs1Ge4 垢版2010/10/28(木) 01:28:04
>>36
ひょっとすると「童貞だから無理だよー」と言って抵抗した人は居たかも知れませんね。
その場合は迷わず斬首となったでしょう。
ペニスは男の刀。
己の男刀を女体で試したことのない侍に真剣で腹を掻っ捌く勇気など無い。
真の侍は脇差の乗った三宝を前にして、男刀を最大膨張率までエレクトさせ
カウパー液で充分に濡れまくりながら真剣で己の腹を掻っ捌いたらしい。
0044日本@名無史さん垢版2010/10/28(木) 14:34:44
公式の報告では侍らしく見事に腹を切ったってことになってても
実際は暴れたりぶるぶる震えたりで腹を切れなかったやつもいたみたいだよ
そういうやつは何人がかりかで押さえつけて首を切ったあと死体の腹を十文字に切って
自分で腹かっ切ったみたいに見せかけてた
そういうのは切腹命じられたやつだけでなく介錯人や切腹に立ち会った連中にとっても不名誉になるから
絶対口外しなかった
0045日本@名無史さん垢版2010/10/28(木) 16:09:57
>>44
絶対口外しなかった、ことをなんで君が知ってて、事実かのように語れるの?
0046日本@名無史さん垢版2010/10/28(木) 18:27:45
士風が廃れた江戸中期以降は切腹つっても自分で腹なんか切らないし
それどころか刀を置いた三方の前に座るだけで実質的には打首でしょ
0047日本@名無史さん垢版2010/10/29(金) 07:41:57
世の中には「噂」ってものがあるんだよ。
もちろん公式には「噂」が「事実」だという証拠は何もない。
最後に「らしい」って付ければよかったのかな。
0048日本@名無史さん垢版2010/10/29(金) 22:07:58
三島由紀夫はゲイで腹切りマニアだったらしい。
0049日本@名無史さん垢版2010/10/29(金) 22:54:08
>>44
弘兼さんの漫画に書いてあったけど
切腹どうしても怖くて、
薬でってのがあった。
やっぱり怖いと思うよ。
0050日本@名無史さん垢版2010/10/31(日) 00:55:05
切腹の場面で腹切った後に耳の下の血管を切るのをテレビでよく見かけますがあれは作法としては嘘なのですか?
0051日本@名無史さん垢版2010/10/31(日) 01:05:10
>>43
そういえば、童貞切腹じゃねーけど
世界史板のスレ見かけた記事で「古代ローマ法では処女は処刑できない」という決まりがあって
謀反人の一族郎党全員処刑とかで幼女を処刑する場合は予め処刑執行人が幼女を犯して非処女にしてから
処刑したつー話。嘘かホントかしらんけど。
童貞の場合も、切腹男児を予め非童にしてから切腹させたのかもしれねーな。
とりあえず勃せて奴婢かなんかの適当な卑女に強制挿入させれば一応非童ってことでOKとかw
0052日本@名無史さん垢版2010/10/31(日) 16:49:14
処女と童貞一緒にするなよ。
0053日本@名無史さん垢版2010/11/01(月) 01:45:40
「童貞が処女が」というのは根拠のないデタラメ。
本当だというなら具体的事例を出せ。
0055天問 ◆CsSu9fRs1Ge4 垢版2010/11/04(木) 00:50:59
>>53
白虎隊士の最後の場所である飯盛山に行ったことがあるのですが
そこには「史蹟・白虎隊士自刃之地」とう石碑がありまして
なぜ彼らが"切腹"ではなく"自刃"なのか?
要はまだ元服前の前立のあるウブな少年だったからでしょう。
0056日本@名無史さん垢版2010/11/04(木) 02:32:39
お前さん、本当にバカだな。
「自刃の碑」は白虎隊だけじゃないぞ。
自刃ってのは、切腹という露骨な表現を幾分和らげた表現にすぎない。
0057天問 ◆CsSu9fRs1Ge4 垢版2010/11/04(木) 03:08:39
>「自刃の碑」は白虎隊だけじゃないぞ。

それこそ、すべての武士が非童じゃなかったってことの証です。
男色とかも容認されてたようだし。
0059日本@名無史さん垢版2010/11/04(木) 19:36:58
白虎隊は切腹だけじゃなくて刺し違えて死んだ隊士もいたはず
だから自刃という表現にしたんだろうな
全員が切腹しなかったのは切腹しても介錯してもらえないおそれがあったからだよ
いくら少年たちが武士らしく腹かっさばいてもそれだけでは死ねないから
見苦しい姿さらすことになるのを恐れたんだと思う
0060日本@名無史さん垢版2010/11/04(木) 23:27:57
義士自刃命日祭に1000人
http://www.ako-minpo.jp/news/184.html

>>55に言わせれば、「赤穂浪士は全員童貞だった」という何よりの証拠。
0062日本@名無史さん垢版2010/11/04(木) 23:55:06
太平記をつらつら眺めたが、「切腹」は全く無く、全て「自害」。
0063日本@名無史さん垢版2010/11/04(木) 23:56:04
>>55 切腹というのは、もともとは自ら腹を切って死ぬという方法のことだけれども、江戸時代には罪を犯した者に対する刑罰の呼び名となっていた。
それと区別するために「自刃」が用いられる。
0065日本@名無史さん垢版2010/11/05(金) 00:34:40
55はいうことないのか、、、
情けない奴だな(苦笑)
0066日本@名無史さん垢版2010/11/06(土) 14:45:11
切腹って習慣は
何時代からですか?
義経の最終回、
タッキーが自分の首筋に刃物を近づけたけど、
この時代は、腹切らなかったんですか?
0068日本@名無史さん垢版2010/11/06(土) 21:47:27
>>66
切腹が武士身分の処刑として出現したのは豊臣政権から。高松城主清水や北条氏政とか。
確立したのは江戸時代初期。島原の乱あたりまでは大名でも打ち首された例あり。
0070日本@名無史さん垢版2010/11/13(土) 15:59:50
昔時代劇で切腹してからさらしをまいて登城した武士がいたけど
あんなことできたの?
0071日本@名無史さん垢版2010/11/13(土) 23:47:07
いやだー!死にたくない!死にたくないよおー!
わしは侍ではない!腹を切るなど真っ平じゃー!
0072日本@名無史さん垢版2010/11/14(日) 00:12:56
>>70
傷が浅ければ無問題
0073日本@名無史さん垢版2010/11/14(日) 07:53:36
>>72
でも傷が浅かったら死ねないから目的を果たせないじゃん
0074日本@名無史さん垢版2010/11/14(日) 12:36:01
時代劇だからオッケー
0075日本@名無史さん垢版2010/11/14(日) 17:39:45
陰腹は忠言を奏上した直後ぐらいに失血死するように切るのが肝心。
もっとも、人の意見に耳を貸さずに遊び呆けている暗君だと、予想以上に待たされて、控えの間で息絶えていそうでタイミングが難しいね。
0076日本@名無史さん垢版2010/11/14(日) 21:31:54
>>71
千利休のことかな。
でもあなたは太閤様に唐入りをあきらめさせようと徳川様に
相談したでしょう。茶人が政治に深入りしてはいかんです。
0077日本@名無史さん垢版2010/11/16(火) 15:47:16
利休殿はもっと達観された方だと思っていました。
0078日本@名無史さん垢版2010/11/16(火) 16:42:46
公儀御唇役が政治に深入りすると、大変なことになります
0079日本@名無史さん垢版2010/11/16(火) 20:09:46
童貞は切腹させてもらえないって書き込みあったけど
童貞かどうかってより元服してるかどうかじゃないのかな
昔は陰毛生えると大人ってことになって元服したから
無毛のガキは切腹できなかったってことだろ
0080日本@名無史さん垢版2010/11/16(火) 20:35:13
元服前でも切腹できるよ
0081日本@名無史さん垢版2010/11/16(火) 22:05:55
>>79
童貞妄説がけちょんけちょんに否定されたから、今度は元服妄説かよ。
妄想を書き込む前に、具体的事例をキチンと調べろよ。
0082日本@名無史さん垢版2010/11/17(水) 17:55:47
堺事件の妙国寺に行ってきましたよ
遺髪など、いろいろ生々しいものが残ってた
0085日本@名無史さん垢版2010/11/20(土) 20:33:10
当方♀だが、11歳で発毛しました。
今は立派な歴女です。
だれか貰ってやって下さい m(__)m
0086日本@名無史さん垢版2010/11/21(日) 03:56:38
>>85
これだけは言っておく。お前はもっと良い男を知るべきだ
そうすれば、もっと良い女になる
0087日本@名無史さん垢版2010/11/21(日) 11:38:34
>>85
戦国時代・忠臣蔵・幕末だけでなく飛鳥奈良時代にも詳しければ許す。
特に幕末だけフアン・新選組フアンはお断りです。
0089日本@名無史さん垢版2010/11/21(日) 23:31:06
>>87
自分の場合、古代がメインです。
コンパクト一眼持って、遺跡・古墳めぐりとか好きです。
毎年、連れと奈良に行きます。
明日香、橿原、桜井、斑鳩、奈良とか、殆ど庭同然です。
レンタサイクルで秋の空気を吸いながら巡るの好きです。
ちと、マイナーでしょうか?
0090日本@名無史さん垢版2010/11/22(月) 04:34:48
テメー、スレ違いも大概にせい
そもそも切腹できない女子に切腹を語る資格ねーよ
聖徳太子萌えのキモ女子w
0092日本@名無史さん垢版2010/12/19(日) 21:03:44
介錯のない切腹で100%しねるのか?
0093日本@名無史さん垢版2010/12/20(月) 12:52:39
日本人が侍魂を持ってるなら自殺するのに切腹するやつが誰もいないのはなんで?
0094日本@名無史さん垢版2010/12/20(月) 13:24:05
江戸末期にはほとんど実際腹切る奴はいなかったみたいよ。。
0096日本@名無史さん垢版2010/12/20(月) 22:30:46
包丁で腹を刺されたら即死かな。
俺なら痛くて暴れまくりそうだが。
0097日本@名無史さん垢版2010/12/21(火) 22:52:00
包丁で腹刺されても即死はないだろ、、、
腸とか露出して苦しむんじゃね?
0098日本@名無史さん垢版2010/12/21(火) 22:57:20
腹が急所じゃないなら切腹は苦しむための儀式
0099日本@名無史さん垢版2010/12/22(水) 02:29:19
てか腹膜まで刺せないんじゃない?普通。
0100日本@名無史さん垢版2010/12/22(水) 22:46:24
切腹って腸がドロドロとはみ出して来そうだけどな。
0109日本@名無史さん垢版2011/04/08(金) 04:41:07.08

0110日本@名無史さん垢版2011/04/21(木) 08:09:23.39
仁の切腹シーンは良かった
0111 忍法帖【Lv=17,xxxPT】 【東電 75.3 %】 垢版2011/05/14(土) 16:13:33.65
てs
0112日本@名無史さん垢版2011/05/14(土) 21:00:14.84
「角川シネマ有楽町」で三島映画フェステバル開催
5月14日から6月3日まで。
http://kadokawa-cinema.jp/yurakucho/news.html#22023
三島由紀夫の美しき世界と夢  史上最大規模の三島映画祭
全23本一挙公開!
『にっぽん製』※デジタル上映
『潮騒』('54)
『永すぎた春』
『美徳のよろめき』
『炎上』
『不道徳教育講座』
『燈台』
『からっ風野朗』
『お嬢さん』
『黒蜥蜴』('62)
『剣』
『潮騒』('64)
『獣の戯れ』
『肉体の学校』
『複雑な彼』
『愛の渇き』
『憂国』R18+
『黒蜥蜴』('68)
『人斬り』
『潮騒』('71)
『音楽』
『潮騒』('75)
『春の雪』

【入場料金】一般・大学生・高校生:1,300円(シニア:1,000円)
0113日本@名無史さん垢版2011/05/15(日) 01:52:21.63
>>66
童貞だと切腹できなかった。
だから、頸動脈を切った。

以上
0114日本@名無史さん垢版2011/05/20(金) 20:10:21.34
ビンラディンと同様だった東條英機

http://s1.shard.jp/rabbit1/02/3/40_1.html

東條英機も遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄されていた。
0116日本@名無史さん垢版2011/06/23(木) 10:22:13.85
元パリ・マッチ特派員アルフレッド・スムラー著「日本は誤解されている」より抜粋。
「別に日本人戦犯の責任を軽減するつもりはないが、占領地域で最も嫌われたのは、
このころ日本国籍を持っていた朝鮮人だったことに注意しておかなければならない」
0117日本@名無史さん垢版2011/06/23(木) 10:22:39.36
南シナ海で支那とベトナム&フィリピンの間で緊張が高まり、ベトナムもフィリピンも支那の侵略に備えているのに、
日本は尖閣や艦隊通過と、やられたい放題。支那に対峙するベトナム人の気概のルーツを解説。
西村幸祐氏のfacebookより http://t.co/aI5KGZj

インドを含めた東南アジア諸国の独立は間違いなく日本。ベトナムと日本軍に関してはここで知りました。http://t.co/DmknPc2
0118日本@名無史さん垢版2011/06/24(金) 13:43:49.64
切腹て便秘腹痛MAXの時より痛いのかな・・・
0120日本@名無史さん垢版2011/08/31(水) 21:15:20.09
大根役者っぷりだな。
0121日本@名無史さん垢版2011/09/01(木) 15:05:48.71
武士のためらい傷!
0122日本@名無史さん垢版2011/09/10(土) 18:41:30.33
ミシマとか三島でググッたら、グロ画像がでてきそうで怖い。
0124日本@名無史さん垢版2011/09/13(火) 09:28:18.80
三島由紀夫研究会 秋の墓参のお知らせ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
下記の通り会員有志で秋の墓参を行います。 ご希望の方は是非ご参加ください。
          記
日時:    9月25日(日) 13時半に多磨霊園正門前「よしの家」に集合
予定:    集合後多磨霊園内平岡家墓地に移動し墓参
        墓参後、14時半頃から「よしの家」で懇親会を行います。
        お問い合わせは事務局まで。

  三島由紀夫研究会 HP URL http://mishima.xii.jp/
      メール  yukokuki@mishima.xii.jp
0125日本@名無史さん垢版2011/09/13(火) 09:36:50.46
幕末の外人などの手記によると、切腹の際の介錯ってあんまりスパッと
いかなかったみたいだね。大概切り損ねて悲惨なことになってたみたいだ。
0126日本@名無史さん垢版2011/09/13(火) 10:21:14.60
>>122
ミシでググッたら、三島由紀夫の画像検索結果というのが出て、
チラッと白黒のデスマスクみたいなのが見えた。
キモイので、瞬時に消したけど、もしかしてあれが例の生首?
0127日本@名無史さん垢版2011/09/13(火) 23:04:33.86
アフリカやアマゾンの首狩り族を日本人が見ると野蛮だと思う。
でも侍は手柄の証として敵の首を取った。晒し首もした。
これは日本だけじゃない。世界中で首狩りって案外やってるよな。
0129日本@名無史さん垢版2011/09/15(木) 07:06:23.72
昭和20年の終戦の時に、大東塾という右翼団体で集団自決があって、
その際、介錯人が1本の日本刀で13人を介錯し、最後に自分もその刀で自決した
1本の日本刀で斬ったことが確実な人数として、この14人というのが最高記録らしい
たぶん、1人斬るたびに血や脂を拭いたりしたんだろうけど、最後の頃には
刃こぼれもひどかっただろうね
0130日本@名無史さん垢版2011/09/26(月) 23:03:49.25
昔、おんな風林火山っていう時代劇やってたが、その切腹がかなりヤバかった。

確か武田信玄の息子の切腹が血みどろでヤバかったのを覚えている。

しかし実際の切腹はあんなに血が飛び散るようには出んだろうけど…
0131日本@名無史さん垢版2011/09/27(火) 00:19:53.04
メキシコ動画で首切りとか現在でやってんじゃん
日本の首切りも刃こぼれとか散漫にあったと思う
実際切られながらウィーキュー命乞いは言ったと思う
0132日本@名無史さん垢版2011/09/27(火) 00:46:50.15
予備の短刀で首を削いだんじゃねえの
見届け人ってのがいるからなw
0133日本@名無史さん垢版2011/09/27(火) 06:42:54.50
>>131
メキシコのなまくらと日本刀を一緒にするなカス。
日本刀ならスパッと一刀両断のもと切り落とせるんだよ。
0134日本@名無史さん垢版2011/10/01(土) 01:20:27.03
切腹・介錯って日本独自なのか?調べても出てこないし著作があるの?
本来、欧州のギロチンだよな行き着くのは、中国史上も切腹はないだろ?
大化の改新絵図で首はねが歴史上日本では一般的だよな
現在でもロシア中東メキシコ動画があるけど
罪人や敵対に対しての見せしめって日本が初なのか?
0135日本@名無史さん垢版2011/10/01(土) 15:21:16.31
散らかった文章だな。
切腹を儀礼化して、少なくとも一部階級の処刑なり自殺の一般的手段にしたのは日本のみ

斬首は世界各地で見られる。
生首を威嚇手段に使うのも世界中で見られる。
0136日本@名無史さん垢版2011/10/01(土) 18:43:11.50
ヨーロッパではいつ頃から敵将の首取りをしなくなったんだろう?
0137日本@名無史さん垢版2011/10/02(日) 00:36:36.04
腹切りは日本独自だよ
「自己を否め自己を制す」
理解出来ないから諸外国の宣教師が疑問を語っている
0138日本@名無史さん垢版2011/10/02(日) 01:19:33.17
はあ?だからコイツラw
今 現在現時点で首切り斬首やってんがなww全部見たのかw
ビビッテ見れねーのかwwすべて確認ぐらいしろよw
知らねーのかw大笑いだw偉そうにしてんじゃねーツーのw
0140日本@名無史さん垢版2011/10/07(金) 02:26:28.60
ほんとだなw
0141日本@名無史さん垢版2011/10/09(日) 01:21:55.28
>>129
>最後の頃には刃こぼれもひどかっただろうね

あえて刃毀れさせた刀で斬首された藤原経清という人物もいたんだが。
藤原三代の最初の清衡の実父の人です。

0142日本@名無史さん垢版2011/10/09(日) 19:28:20.33
ちなみに合戦前には刃こぼれをなくす目的で、わざと刃に砥石をあててなまくらにしてたそうな。
0145日本@名無史さん垢版2011/11/02(水) 00:55:06.81
143
主役の男性なかなか高青年だけど
切腹シーンの上半身、三島はもっと腹筋も胸筋もあったはず!
上半身が薄っぺらくて残念だ。今から取りなおせばいいのに。
0146日本@名無史さん垢版2011/11/06(日) 15:39:11.63
 三島由紀夫氏追悼会「憂国忌」プログラムが内定しました。
                
11月25日 午後五時半に会場を開場
 (総合司会 玉川祐紀子)
午後六時半 開会の辞 松本徹
黙祷
記念講演 新保祐司「三島由紀夫と崇高」
追悼挨拶 石平
午後八時十分 閉会の辞  
午後八時二十分 「海ゆかば」合唱

場所   星陵会館二階ホール(地下鉄「永田町」「国会議事堂前」)
0147日本@名無史さん垢版2011/11/09(水) 17:05:26.34
映画『人斬り』にはもう一つの隠されたエピソードがある。田中新兵衛が少将姉小路公知暗殺の嫌疑で捕縛された時の
京都町奉行は、三島の父方の祖母なつの祖父にあたる永井主水正(もんどのしょう)尚志(なおむね)〔なおゆき、
などの説も〕だったのである。しかし映画では尚志は登場せず、新兵衛を呼び出して吟味するのは京都所司代の
与力という設定になっている。残念ながら、三島は曾々祖父の面前で切腹ということにはならなかったが、
その役のめぐり合わせを楽しんだ。『人斬り』の撮影中に林房雄に送った手紙には次のようにある。

〈(中略)明後日は大殺陣の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の
曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう。〉
(昭和四十四年六月十三日付)

三島と幕末との結びつきは、その家系に根ざしていたのである。

山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
0148日本@名無史さん垢版2011/11/09(水) 17:06:03.21
(中略)
私はここでさらに幕末の水戸藩についてふれておきたいと思う。三島の祖母のなつの母親は高といい、水戸の
支藩である宍戸藩の八代藩主松平頼位の側室の娘であったからだ。頼位の長男頼徳、次男頼安の妹である。
九代藩主となった大炊頭頼徳は水戸天狗党による筑波挙兵の鎮圧にあたったが天狗党に同情し、非業の死をとげている。
なつの父方の祖父である永井尚志は直参の旗本であり、母方の祖父である松平頼位は徳川家の嫡流という血筋である。
(中略)
三島のなかに流れていた「水戸の血」は、その生涯にもわずかな翳りを落としている。それはなつの言うところの
「宿命」であったかもしれない。それには二つのことを語らねばならない。一つは幕末の水戸藩が尊皇攘夷思想の
中心的存在として、その指導的立場にあったこと。二代藩主徳川光圀によって始められた『大日本史』の編纂は、
光圀の死後も藩の事業として継続され、明治三十九年に十代藩主徳川慶篤の孫である圀順によって完成をみた。
それがいわゆる水戸史学、通称水戸学と呼ばれる尊皇論であり、幕末になって攘夷論と結びつき尊攘思想が生まれた。

山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
0149日本@名無史さん垢版2011/11/09(水) 17:06:29.01
九代藩主斉昭は過激な尊攘家として知られ、後期水戸学を推し進めた。そこから相沢正志斎、豊田天功、藤田東湖ら
すぐれた学者を輩出した。若き日の吉田松陰、西郷隆盛もまた水戸を聖地として訪れ、彼らと面談している。
水戸学による尊攘思想は、三島が『革命哲学としての陽明学』で語る行動哲学に密接に結びついている。
もう一つは、水戸学につよい影響を受けた尊攘派の藩士たちが蹶起した天狗党の乱である。この乱は大きく二つに
分けられ、最初の蹶起は元治元年(一八六四)、藤田東湖の四男である小四郎が幕府の外国政策に不満を抱き、
攘夷をつよく主張。水戸藩町奉行の田丸稲之衛門と筑波山で蜂起し、幕府と水戸藩の追討軍と北関東を中心に
転戦したものである。この時、小四郎は二十三歳の若さであった。(中略)
次の行動は、同年十月水戸藩家老の武田耕雲斎が、小四郎らとともに那珂湊の戦いを終えたあと、総大将となって
一橋慶喜を擁立するために京に向かって行軍したもの。

山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
0150日本@名無史さん垢版2011/11/09(水) 17:07:01.89
(中略)背景には、藩内で権力を握っていた門閥派(諸生党)との対立があった。小四郎、耕雲斎らは改革派
(天狗党)と呼ばれている。(中略)藩主慶篤は、天狗党の蹶起を理由に耕雲斎を罷免し、門閥派の中心人物で
ある市川三左衛門を要職に復帰させた。市川は尊攘派を徹底的に弾圧し、耕雲斎の殺害をも命じた。耕雲斎は
身の危険を感じ、一族郎党をしたがえて藩を脱出した。
一方、幕府は関東諸藩に天狗党追討を命じた。それに呼応して、水戸藩も市川を中心に追討軍を編成した。天狗党は
賊徒とされたのである。(中略)(藩主慶篤は)支藩の宍戸藩藩主松平頼徳を水戸に赴かせ、藩内の統制を
はかろうとした。しかし頼徳もまた尊攘思想の信奉者であった。父の頼位は斉昭の心酔者であり、その影響を
つよく受けていた。藩主慶篤の名代として江戸を出発した頼徳には、江戸にいた尊攘派も随行した。これを
知った耕雲斎が途中から合流し、さらには元目付の山国兵部らも加わり、頼徳の一団は尊攘派の一大勢力と
なってしまった。

山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
0151日本@名無史さん垢版2011/11/09(水) 17:07:28.03
当然、市川ら門閥派は危険を感じ、頼徳を阻止しようとする。(中略)頼徳は戦闘になるとは夢にも思わず、
和議を申し入れるが聞き入れられず、ついに応戦に出る。その戦闘を知った小四郎らは筑波山を降り、頼徳に
共闘を願い出る。頼徳は困難な選択を迫られるが、軍議の末、耕雲斎の助言に従い、天狗党との一時共闘を決断する。
門閥派には頼徳を討つ好都合の大義名分ができてしまったのである。こうして那珂湊の戦いが始まる。(中略)
門閥派は頼徳を天狗党と同じ賊徒とし、追討のために幕府に画策した。(中略)これ以上人命が失われることを
憂いた頼徳は釈明によって疑いを晴らすことができると考え、降伏。しかしその機会は与えられず、「賊魁」という
汚名を着せられたまま、切腹。元治元年十月五日、享年三十五歳。父の頼位もこれに連座、官位を剥奪され、
羽前新庄藩預りの身となった。藩は改易され、江戸藩邸も幕府没収となった。三島の「水戸の血」には、
切腹した大名がいたのである。祖母なつの伯父であった。

山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
0152日本@名無史さん垢版2011/11/11(金) 17:27:58.11
この天狗党の乱は、昭和十一年に起きた二・二六事件と思想的に共通点がある。日本陸軍の皇道派の二十一人の
青年将校たちは、(中略)政治の腐敗と農村の困窮の元凶である元老や重臣を武力をもって排除することによって、
大義を正し、天皇親政の実現を断行しようとした。一君万民の天皇制による国家改造計画は、明治維新の原点へ
帰ることだった。幕末期に大政奉還によって、天皇は親政をもって近代日本の建国を決意し、国民国家を実現させた。
青年将校たちにとって、時代は幕末の混乱期と同じだった。(中略)首謀者の一人であり、陸軍一等主計だった
磯部浅一は、その「獄中手記」において藤田小四郎の父である藤田東湖の言葉を引用して、次のように書いている。

〈藤田東湖の「大義を明かにし人心を正さば、皇道爰んぞ興起せざるを憂へん」これが維新の真精神でありまして、
青年将校蹶起の真精神があるのです。〉

藤田東湖は天狗党の思想的師父といってよかった。天狗党が目ざしたのも「尊皇」であった。

山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
0153日本@名無史さん垢版2011/11/11(金) 17:28:36.19
(中略)
しかしこうした青年将校たちの天皇に対する至純の恋は報われることななかった。(中略)
「賊徒」となった天狗党、「反乱軍」となった青年将校たちの、帰順後の運命は同じである。三島は『英霊の聲』で
(中略)終戦の勅許による天皇の「人間宣言」を批判した。しかし「人間宣言」そのものを否定したわけではなく、
英霊の声として「それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう」と前置きして、次のように書いたのである。

〈だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての
義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度の
きはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。それを二度とも陛下は逸したまうた。もつとも神で
あらせられるべき時に、人間にましましたのだ。
一度は兄神たちの蹶起の時、一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。〉

これは三島自身の恋闕といっていい。

山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
0154日本@名無史さん垢版2011/11/11(金) 17:29:15.54
(中略)三島にとって、十一歳の少年の時に際会した二・二六事件は「挫折」という観念と「英雄崇拝」の
原点となった。(中略)
三島は、磯部の遺稿をもとに、「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」を書き、二・二六事件の
思想的背景を考察している。蹶起によって天皇に「昭和維新」を直訴しようとした磯部らの心情につよく共感し、
それは「蹶起ののちも『大御心に待つ』ことに重きを置いた革命である」としている。だからこそ三島の天皇の
「人間宣言」に対する批判が深い意味をもつのである。(中略)
三島のなかに流れている「水戸の血」は、一方に二・二六事件の思想的源流ともいうべき天狗党の乱をもち、
一方にその天狗党の乱によって詰腹を切らされた徳川直系の大名をもつのである。
司馬に天狗党と二・二六事件について書かれた作品はない。天狗党については、『竜馬がゆく』の「希望」の章の
なかで、その悲惨な結末を一つのエピソードとして紹介している。

山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
0155日本@名無史さん垢版2011/11/11(金) 17:29:40.69
司馬は、水戸から京に向かった武田耕雲斎の率いる行軍の惨憺たる様子にふれている。さらに武田耕雲斎以下幹部
二十四人が斬首され、つづいて三百五十二人もの同志が斬首されたことを述べ、「史上まれな大虐殺」であったと
言っている。竜馬には「残虐きわまる徳川幕府」と言わせている。天狗党の乱は、幕末史上稀にみる大虐殺によって
終結したのである。
三島と司馬は共に幕末維新の精神を重んじる。三島はそれを肉体化した思想とすることで、自己の美学的な存在の
根本条件としている。それに対し司馬は歴史小説家という立場から、そうした精神とは距離を置き、自己の内面的な
思想に執着せず、フィクショナルな物語を創作していった。つまり司馬は三島のように、生きるように書き、
書くように生きるというタイプの作家ではなかった。三島は幕末の平田国学に始まり、神風連、二・二六事件へと
連なる精神の系譜に、存在証明を見出そうとしたのである。私はそこに天狗党の乱を加えることによって、
三島の思想的帰結の宿命をみたいのである。

山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
0156日本@名無史さん垢版2011/11/11(金) 18:25:34.62
著作物の部分引用の範疇を大きく越えているように思うが、大丈夫なのか?
0157日本@名無史さん垢版2011/11/12(土) 00:32:44.69
打ち首より切腹の方が名誉だと思うのがスゴイよね、自分で自分の腹を切るなんて、スゴイ罰ゲームじゃん
打ち首の方が楽に死ねてラッキーなのに、しかも介錯する人がいなければ中々死ねないし、これって拷問だよね
それを名誉だと思うのが面白い
0158日本@名無史さん垢版2011/11/13(日) 01:05:01.71
切腹には解釈付きだろ。
お前日本人か?
0159日本@名無史さん垢版2011/11/13(日) 01:29:04.61
介錯無しだったら乃木のように半日のたうち回るぞ。
0160日本@名無史さん垢版2011/11/13(日) 04:06:30.98
>>157
打ち首だって、そいつの腕が悪けりゃ、うまく斬れなくてやっぱり痛くて苦しいぞ
(まあ、それは切腹の介錯人も同じことだけど)
腕がよければ一瞬で一刀両断だけど
0161日本@名無史さん垢版2011/11/13(日) 17:06:13.15
首と胴体離れても少しの間意識あるんですか?
0162日本@名無史さん垢版2011/11/13(日) 17:26:16.39
>>161
1905年、まだ死刑にギロチンが使われていたフランスで、ボーリューという医師が、死刑囚に
名を呼ばれたらまぶたを3度上下させろと事前に打ち合わせて、首を斬られても意識があるか
どうか実験している
その死刑囚は、2回までまぶたを上下させたという
0163日本@名無史さん垢版2011/11/13(日) 19:39:09.59
ありがとうございます
怖いな
0164日本@名無史さん垢版2011/12/12(月) 11:11:58.35
あげ
0165日本@名無史さん垢版2011/12/12(月) 11:58:10.61
>>157
切腹が始まったのは鎌倉時代頃からだけど、平安時代末期頃から武士たちの間で
戦に負けたら敵の手にかかって死ぬのではなく自殺する、という風潮が生まれた。
これは、平安時代中期以降、敵の手にかかった武将に残酷な私刑を科すことが横行したから。
源義家は、後三年の役で捕えた藤原清衡を、数日かけてさびた鈍い刀で首をのこぎりひきさせて
なるだけ酷い苦痛を与えながら殺害している。
敵の手にかかって酷い殺され方をするくらいならば、自殺したほうがまだ楽だというわけだ。
初めから苦しいほうを選んで切腹していたわけではない。
0167日本@名無史さん垢版2011/12/15(木) 14:11:47.17
切腹の装束が欲しいな
麻の裃とかどこかに売ってないですか
0168日本@名無史さん垢版2012/01/12(木) 22:01:42.64
切腹するの?
0169日本@名無史さん垢版2012/01/26(木) 13:50:25.02
>>162
首が切り落とされたとき、落ちて頭を打つよね。
そのとき「痛っ」とか思ったのかな?
それで「おーい返事しろ」とか言われて「頭打って痛いよん」て思いながらパチパチしたのか?
0170日本@名無史さん垢版2012/02/02(木) 23:36:16.05
誰もが平岡家を語るが、橋家に言及する者はほとんどいない。平岡定太郎と夏子ばかりが論じられて、橋健三と
トミは等閑視されてきた。あたかも三島由紀夫には、定太郎・夏子という父方の祖父母しか存在しなかったかの
ようであり、「一世紀ぐらい時代ずれのした男」と「或る狂ほしい詩的な魂」の女だけが三島文学の形成に
影響を与えたかのような印象を受ける。しかし、それは事実だろうか。三島は、母方の橋家からは大して影響を
受けなかったのだろうか。
健三は、万延2年(1861年)1月2日に金沢に生を享けた。加賀藩士の瀬川朝治とソトの間に次男として生まれ、
武士の血をひく。健三は幼少より漢学者・橋健堂に学んだ。明治6年(12歳)、学才を見込まれて健堂の三女・こうの
婿養子となり、橋健三と名乗る。健三は14、5歳にして、養父の健堂に代わり講義を行うほどの秀才だったという。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0171日本@名無史さん垢版2012/02/02(木) 23:36:45.93
やがて健三は妻子を連れて上京し、小石川に学塾を開く。(中略)明治21年(27歳)、共立学校に招かれて漢文と
倫理を教え、幹事に就任する。妻・こうの死去により、健堂の五女・トミを後妻とした。明治27年(33歳)、
学校の共同設立者に加わる。明治43年(49歳)、第二開成中学校(神奈川県逗子町)の分離独立に際して、
健三は開成中学校の第五代校長に就任した。
開成中学校校長としての健三の事績は『開成学園九十年史』に詳らかで、(中略)顔写真を見ると、健三は白い
長髯を蓄えて、眼光炯々とした真相である。生徒は、「青幹」「漸々」「岩石」と渾名をつけたという。
(中略)
漢文の授業では、教科書として四書五経ではなく、『蒙求』を使用した。(中略)『蒙求』は、清少納言から
漱石に至るわが国の文学者に影響を与えた故事集である。テキストの選択から健三の教育観の一端を窺うことができる。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0172日本@名無史さん垢版2012/02/02(木) 23:37:14.18
(中略)
(開成の)初代校長は、高橋是清。(中略)第四代校長の田辺新之助は、(中略)英学者にして漢詩人として
令名を馳せた。長男が哲学者の田辺元で、三島は学習院時代から『歴史的現実』など元の著書に親しんでいる。
第九代校長の東季彦は、(中略)一人息子が、夭折した東文彦である。三島と文彦との親交は『三島由紀夫
十代書簡集』に詳しく、晩年の三島は『東文彦作品集』の刊行に尽力した。二・二六事件、田辺元、東文彦……、
健三をめぐる歴代校長の人脈と三島との関わりは以外に深い。
(中略)
健三は雇われ校長ではなく、学校経営者であった。学校の移転拡張を図るため、大正4年に組織を財団法人とし、
校主は理事となる。当時の寄付行為第五条には、三校主(健三、石田羊一郎、太田澄三郎)が学校の動産及び
不動産の全部を寄付し之を財団法人の財産とすることが謳われており、「この三校主の勇気決断は、この学校の
出身者の特に肝に銘記しなければならないことである」と学園史に記されている。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0173日本@名無史さん垢版2012/02/02(木) 23:37:51.43
建物は老朽化・狭隘化が著しく、教室の床や廊下は波打ち、机は穴だらけで、生徒は「豚小屋」と呼んだという。
校舎の移転整備が課題であるが、学校側には土地も資金の当てもなかった。そこで健三たちは、窮状を詩文に託して
早大教授の桂湖邨に訴えた。桂はこの話を前田利為侯爵に伝え、大正10年に前田家の所有地を格安で払い下げて
貰うことになった。場所は、現在の新宿文化センター一帯である。詩文で土地を手に入れるとは、三島の祖父に
相応しいエピソードである。漢学者の桂は『王詩臆見』など王陽明に関する論文を著し、『奔馬』の藍本の一つ
『清教徒神風連』の著者・福本日南とも親交があった。(中略)
ところが、この土地に目をつけた東京市長・後藤新平が、電車車庫の整備を計画して、学校側に譲渡を申し入れてきた。
健三は直ちに突っぱねた。是清からも譲渡を勧められるが、硬骨漢の健三は拒絶する。やがて関係者と相談した結果、
市民のために東大久保の土地を譲る。紆余曲折の後、学校は新たに日暮里の現在の高校敷地を入手した。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0174日本@名無史さん垢版2012/02/02(木) 23:38:17.78
(中略)
永年にわたり健三は、赤字と襤褸校舎を抱えた開成中学の校長・理事として奮闘した。校舎の移転用地を確保し、
建設資金を集め、震災を乗り越えて新校舎を竣工させた。また、校長就任時に600名であった生徒定員を文部省との
粘り強い交渉の結果、1000人に拡充している。開成学園の今日の隆盛の礎は、健三が築いたといっても過言ではない。
こうした多年の功績により、大正12年2月、健三は勲六等に叙せられ、瑞宝章を授与された。
(中略)(平岡)夏子が一人息子・梓の嫁に迎えたのが、健三の次女・倭文重(三島の母)であった。健三は、
開成中学校校長を辞職後、昌平中学(夜間)の校長として、勤労青少年の教育に尽瘁した。昭和19年、四男の
行蔵にその職を譲り、故郷の金沢に帰った。同年12月5日、健三は永眠する。享年84歳であった。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0178日本@名無史さん垢版2012/02/25(土) 16:44:37.37
>>174つづき
(中略)
トミは、明治7年に金沢で生を享けた。父は橋健堂、祖父は橋一巴で、いずれも加賀藩の漢学者である。トミは
六人姉妹の五番目で、(中略)姉・こうの死去により(中略)明治23年に健三の後妻となる。健三は29歳、
トミは16歳であった。二人の間には、雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子の三男三女が生まれた。(中略)
昭和13年、中等科二年の公威(三島)はトミに連れられて能を観る。初めて目にした能が『三輪』であったことは、
三島の生涯を思うと極めて暗示的である。『三輪』は、世阿弥の作と伝えられる四番目物であり、三輪明神が
顕現する。『奔馬』で本多繁邦と飯沼勲が邂逅する場所は、わが国最古の神社で、謡曲の『三輪』の舞台となった
大神神社である。
昭和20年2月、三島は兵庫県で入隊検査を受け、即日帰郷となる。金沢のトミから三島に宛てた2月17日付けの
書簡には「心の亂れといふものが千々の思ひに幾日かを過ごす」とあって、孫の身を気遣うトミの温かい人柄が
偲ばれる。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0179日本@名無史さん垢版2012/02/25(土) 16:45:09.47
(中略)
兄弟について、倭文重は「私なんか娘のころ、男はやさしいものと思い込んでいました。実家の兄たちを
見なれてましたからね」と証言している。
昭和5年1月、公威は自家中毒に罹り、死の直前までゆく。

〈経帷子や遺愛の玩具がそろへられ一族が集まつた。それから一時期ほどして小水が出た。
母の兄の博士が、「助かるぞ」と言つた。心臓の働らきかけた証拠だといふのである。
ややあつて小水が出た。徐々に、おぼろげな生命の明るみが私の頬によみがへつた。〉
(『仮面の告白』三島由紀夫)

『仮面の告白』に登場する「母の兄の博士」が、健行である。橋健行は、明治17年2月6日に健三・こうの間に
生まれた。生母・こうの死去により、明治23年からトミに育てられる。
健行は、ブリリアントな秀才であった。明治34年に開成中学を卒業し、一高、東大医科に進んで精神病学を
専攻するが、常に首席であったという。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0180日本@名無史さん垢版2012/02/25(土) 16:45:41.73
斎藤茂吉は、『回顧』に「橋君は、中学でも秀才であつたが、第一高等学校でもやはり秀才であつた。大学に
入つてからは、解剖学の西成甫君、生理学の橋田邦彦君、精神学の橋健行君といふ按配に、人も許し、本人諸氏も
大望をいだいて進まれた」と記している。茂吉は、開成中学の同級生・健行に二年遅れて医師となった。(中略)
健行は、早熟な文学少年であった。開成中学三年(14歳)頃から文学グループを結成した。村岡典嗣(日本思想史)を
リーダー格として、吹田順助(独文学)、健行、(中略)九名で、「桂蔭会」と称して廻覧雑誌を作った。
弁舌爽やかな少年たちで、住居が本郷を中心としていたことから「山手グループ」と呼ばれた。また「桂蔭会」は、
「竹林の七賢」とも称されて、周囲に大きな刺激と影響を与えた。触発された生徒のなかに茂吉や辻潤がいた。
当時の「桂蔭会」メンバー写真を見ると、健行は帽子をあみだに被り、自負心の強そうな面構えをしている。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0181日本@名無史さん垢版2012/02/25(土) 16:46:09.10
(中略)
開成中学の『校友会雑誌』は投稿を建前としていたが、実態は課題作文の優秀作を掲載することが多かった。
この度、開成高等学校の松本英治教諭(校史編纂委員会委員長)の御協力を得て、『校友会雑誌』に掲載された
健行の文章が明らかになった。(中略)

〈一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく流水の暢々たるが如く、珠玉の
転々たるがごとく、高尚なる思、優美なる想を、後に残して止まらざるもの、これを
文士の筆となす。〉(『筆』五年生 橋健行)

蒼古たる文章である。(中略)しかし〈一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく……〉という一文は、
三島由紀夫という作家を予見したような感がある。そして『校友会雑誌』の常連であった開成中学の文学少年・
健行は、40年後に『輔仁会雑誌』のスタアとなる学習院中等科の文学少年・公威(三島)を髣髴とさせる。
「桂蔭会」で村岡や吹田に伍した健行の文才は、なまなかなものではなかった。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0182日本@名無史さん垢版2012/02/25(土) 16:46:48.72
東大精神科の付属病院は、東京府巣鴨病院(後の松沢病院)であった。大正期、院長は呉秀三教授、副院長は
三宅紘一助教授、医長は黒沢良臣講師と橋健行講師の体制をとっていた。(中略)

〈明治四十三年十二月のすゑに卒業試問が済むと、直ぐ小石川駕籠町の東京府巣鴨病院に行き、
橋健行君に導かれて先生に御目にかかつた。その時三宅先生やその他の先輩にも紹介して
もらつた。〉(『呉秀三先生』斎藤茂吉)

健行と茂吉の「先生」とは、呉秀三である。箕作阮甫の流れを汲む秀三は、日本の精神医学の先駆者で、鴎外に
親灸し『シーボルト先生』や『華岡青洲先生及其外科』を上梓するなど名文家としても知られた。そして秀三の
長男が、ギリシア・ラテン文学の権威・呉茂一である。三島は、昭和30年頃に「呉(茂一)先生」からギリシア語を
学ぶ。秀三――健行、茂一――三島の二組の子弟関係は、奇しき因縁である。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0183日本@名無史さん垢版2012/02/26(日) 03:55:35.40
ds
0184日本@名無史さん垢版2012/05/24(木) 15:48:29.03
倭のものは、全て朝鮮が起源。

倭にオリジナルなぞない。

よって、腹切りも朝鮮起源に決まってら w
0185日本@名無史さん垢版2012/06/21(木) 08:20:03.12


グロ動画 / 斬首処刑
http://www.liveleak.com/view?i=46327ba5c5&to_friend=1
http://www.m90.org/violent-videos/60971_dude-gets-brutally-beheaded-with-a-rusty-knife/
http://www.m90.org/violent-videos/62238_oh-lol-jamal-totally-lost-his-head-during-that-fight/
http://theync.com/media.php?name=4321-extremely-graphic-video-shows-two-hostages-beheaded-in-iraq
http://theync.com/static_html/18172-new_media.html
http://www.m90.org/violent-videos/61686_captured-prisoner-gets-extremely-dead-and-beheaded/
http://www.theync.com/media.php?name=15644-beheading
http://deathism.blog.fc2.com/blog-entry-17.html
http://www.liveleak.com/view?i=081b763bba
http://mousagasanaide.blog137.fc2.com/blog-entry-314.html

0186國學院大學 學生垢版2012/07/15(日) 09:09:02.24
最近、
金沢大学の学生が
十文字切りで割腹自決したそうです。
0187日本@名無史さん垢版2012/09/11(火) 07:29:08.42


グロ動画 / 斬首処刑
http://www.liveleak.com/view?i=46327ba5c5&to_friend=1
http://www.m90.org/violent-videos/60971_dude-gets-brutally-beheaded-with-a-rusty-knife/
http://www.m90.org/violent-videos/62238_oh-lol-jamal-totally-lost-his-head-during-that-fight/
http://theync.com/media.php?name=4321-extremely-graphic-video-shows-two-hostages-beheaded-in-iraq
http://theync.com/static_html/18172-new_media.html
http://www.m90.org/violent-videos/61686_captured-prisoner-gets-extremely-dead-and-beheaded/
http://www.theync.com/media.php?name=15644-beheading

グロ動画 / 斬首処刑
http://theync.com/static_html/17711-just-released_media.html
http://theync.com/static_html/15998-new-beheading_media.html
http://theync.com/static_html/23804-chainsaw_media.html
http://www.m90.org/violent-videos/61686_captured-prisoner-gets-extremely-dead-and-beheaded/
http://kickassasia.com/2012/07/%E5%A4%A7%E4%BA%BA%E3%82%92%E6%96%AC%E9%A6%96%E3%81%99%E3%82%8B-12%E6%89%8D%E3%81%AE%E5%B0%91%E5%B9%B4-%E9%96%B2%E8%A6%A7%E6%B3%A8%E6%84%8F/

http://www.heavy-r.com/video/117710/Man_Beheaded_By_Taliban/
http://www.liveleak.com/view?i=081b763bba

0188日本@名無史さん垢版2012/12/06(木) 06:00:34.57
う〜ん、切腹と言えば江戸時代中期には、小刀を三方の上に置いて
それを切腹する人間が手を伸ばした時に介錯人が首を切っていたらしい。
また木刀で腹を切る真似をするというパターンも会ったとか
見る限り近世中期の武家社会などは、切腹と言うのは精神的なものより
、事務的にあの世に送るといった感じだったんだろうな。
こういう所に近世と今の死の死の認識の違いがあったんだろう
幕末には自ら小刀で腹をさばく切腹が流行ったらしく、縛吏から逃げおおせた
志士たちが、その場で腹を切ったらしい。
この違いをとやかく言うのは邪道だとおもう、死の認識が違ったんだから実際に当時の武士に
生まれんと分からんだろうよ
ただ何となく言えるのは、その時でも死に対する恐怖はあって、怖い人は怖かった
残虐に人を殺した人の陰にはそれがあったんじゃないかなぁ…
0190日本@名無史さん垢版2013/04/21(日) 08:19:24.50
>>166
あった。但し、一部の異常な支配者を除き、本場中国と同じく余程のことがない限り
普通は実行されていない。

保元の乱の首謀者の藤原頼長が一番有名だろう。ちなみに、車裂きは頼長本人
だけで、頼長の妻子、姻族は普通に斬首(幼児は串刺し)。
0191日本@名無史さん垢版2013/04/24(水) 03:40:06.14
戊辰戦争でも、首謀者に斬罪が言い渡されたけど切腹と書いてある史料があって、
どういうことかと思ったら、本人の名誉を重んじて切腹の形だけ取って、実際は斬罪にしたのね。
だから本人は襟元を緩めて「ご介錯を」と言うだけ。

この頃はわりとそういう感じになってたと思われる、切っ先を腹に当てたら首斬るとか
前のめりに倒れてもがいてる人の首って、押し切るしかないもん
0192日本@名無史さん垢版2013/04/24(水) 03:47:15.40
加徳丸事件の下手人とされた上関義勇隊士の検視では
○水井精一 検死記録   胴横に五寸計突引切疵壱ケ所
  左耳より一寸計筋違計突抜疵一ケ所
  右耳下附根より五分計前へ寄疵口五分計突抜疵二ケ所
  臍より一寸五分上横に四寸計薄切り疵一ケ所
○山本誠一郎 検死記録
  胴横に五寸計突引切疵壱ケ所
  首筋横ニ一寸計突抜疵壱ケ所
  臍より上一寸程上六寸計筋違ニ薄切り疵弐ケ所。  

この2人は自刃を迫られた事情があったので参考程度だが、2人とも横に切ったのが15センチ程度
ほんとに形ばかりで、致命傷は頸部の刺し傷(他人の介錯による)
0193日本@名無史さん垢版2013/04/29(月) 19:52:03.69
白虎隊の生き残りの人も明治頃聞かれて
皆死ぬことになんのためらいもなかった
子供の頃からそういうふうに育っていたとか言ってたらしい。
たしか俳優の西村晃も特攻隊の生き残りらしいが当時はそういうふうに
教育されてた今の人にはわからないだろうと言ってた。本当は怖かったろう
と言ってるがそういう人もいるかもしれない。しかし今の時代でも自爆テロ
をする人は確実にいる、当然怖くてやめた人もいるかもしれない。
0194日本@名無史さん垢版2013/04/30(火) 00:30:53.69
ちなみに童貞の場合は切腹ではなく自刃というらしい。

豆知識な。
0195日本@名無史さん垢版2013/04/30(火) 01:10:43.92
剣術の腕が確かな介錯人なら一拍子の動作で斬る。
座った状態からでも飛び跳ねたかと同時に斬りおわってたという外国人の記録もある。
立った状態の構えから斬るより、座って腹を切って前のめりに倒れる人間の首を斬るには理にかなってるかもな。
ただ江戸末期には剣道が流行してたくらいだから、本物の剣術使いがごろごろいるわけでもないし、
優れた技だからといって全国に正しく広まるような時代ではなかったから、
やり方は色々あるだろうね。
0196日本@名無史さん垢版2013/04/30(火) 01:13:31.38
>>190
藤原頼長は車裂きにされてないし、子供たちは配流で済んでるのだが
長男の師長にいたっては数年後に都に帰還して、最終官位は太政大臣

最近同じような内容の書き込みが多いけどもしかして三属皆殺しの人?
0197日本@名無史さん垢版2013/04/30(火) 01:24:27.04
ついでに指摘しとくと、藤原頼長は処刑されてすらいない
流れ矢による傷が死因でむしろ討死に近い

処刑されたのは平治の乱の藤原信頼だがこれは斬首であって車裂きではないな
0198日本@名無史さん垢版2013/04/30(火) 13:42:32.13
医学博士でもある作家の渡辺淳一の作品のなかに首切り浅右衛門
について書いたエッセイのような作品を昔読んだ。
それによると人間の首を骨の所を一刀で切るのはかなりむずかしい
はずだと考えいろいろ検証している。それによると頭と背骨の所
に角度によっては骨に当たらず切れる箇所があるのに注目して
浅右衛門はこういう場所を代々の言い伝えで知っていてここを
切っていたのではないかと推理していた。そこをきると普通の人の
生首のイメージと違って後頭部の上の方から顎にかけて切られて
首としては見栄えが悪くなるらしいが。作者は明治頃の斬首の
写真を見ながらたぶん間違いないと推理していた。覚悟を決めて
しずかに首を差し出す人はきりにくく暴れる人の方が切りやすい
というのもそういう見地から解釈していた。
0199日本@名無史さん垢版2013/05/01(水) 07:59:36.13
堺事件では介錯人が切り損じて数太刀におよび、外国人が真っ青になってるから、
確かにマジ切腹でもがいてるのを後ろから突き通すなり、押し斬るほうが的が定まりやすいのかも知れないな。
0200日本@名無史さん垢版2013/05/01(水) 08:03:23.03
>>193
士中二番隊も戦闘で重傷を負ったり、体力を相当消耗してる状態で自刃を決めたわけだが、
「切腹」は意外と少ない。相手の心臓を狙って刺し違えたり、最初から頸動脈を切ってる。
自分たちの体力に合わせた無理のない?な自刃をやってる。
0202日本@名無史さん垢版2013/05/02(木) 01:35:10.30
介錯の練習なんてそうそう出来ないだろうし
山田家のような職業的介錯人でもないかぎりぶっつけ本番なんじゃない
0204日本@名無史さん垢版2013/06/05(水) 09:04:08.13
三島の首を介錯できなかった森田の代わりのコガさんは、スパスパ斬ったっていうじゃないか。
達人とか言われてたらしいけど、人を斬るなんて、江戸時代だって初めてじゃそうそう巧く斬れるもんじゃなかったんじゃね。
何人か練習で斬ってたのかね?
0205日本@名無史さん垢版2013/06/10(月) 17:22:20.71
武士も斬首を見たり、検視をする機会があるから見よう見まねで知ってたんじゃなかろうか
0206日本@名無史さん垢版2013/06/12(水) 03:51:04.63
戦前の人は短刀であばら骨の何番目を刺せば良いとか知ってる人間が大勢いた。
武士もそんな感じだろ。
0207日本@名無史さん垢版2013/06/24(月) 00:27:01.27
知識として知ってるのと実践するのとでは結構違うとおもうんだ
誰だって初めては緊張してうまくいかないだろ?
0208日本@名無史さん垢版2013/06/24(月) 02:35:37.62
知識として知ってるだけで相当違う。
幕末の武士なんて、戦争を見たことも聞いたこともなかったのにすぐ適応してる。
0209日本@名無史さん垢版2013/06/25(火) 00:10:47.94
切腹は介錯人がいるし、介錯人が失敗して狼狽した時に備えて介添えがいるのじゃないか
0210日本@名無史さん垢版2013/09/25(水) 19:26:57.01
介錯の作法は今でも居合いなどに存在します。
介錯人は一番身近な者がつとめるべきであり身内で介錯する腕がないのは
武家の恥でした。

介錯のタイミングは色々ですが早く楽にしてあげるのが武士の情けとされます。
扇子腹もその一種です。切腹する人は何も知りません。

切腹する人が…

「介錯は…手を伸ばした瞬間…イクから…がんばって…。」

「刀じゃなくて扇子を用意したから…。」

と言われても何の慰めにもなりません。
0211日本@名無史さん垢版2013/09/25(水) 19:28:01.91
介錯の作法は今でも居合いなどに存在します。
介錯人は一番身近な者がつとめるべきであり身内で介錯する腕がないのは
武家の恥でした。

介錯のタイミングは色々ですが早く楽にしてあげるのが武士の情けとされます。
扇子腹もその一種です。切腹する人は何も知りません。

切腹する人が…

「介錯は…手を伸ばした瞬間…イクから…がんばって…。」

「刀じゃなくて扇子を用意したから…。」

と言われても何の慰めにもなりません。
0212日本@名無史さん垢版2013/10/09(水) 14:04:01.83
腹切り問答
0213日本@名無史さん垢版2013/10/30(水) 09:45:28.25
玉木文之進の介錯は松陰の姉がやったんだよな(当時40歳)。
ちゃんとできたんかな?
0214日本@名無史さん垢版2013/11/16(土) 12:05:59.04
切腹最中
0216日本@名無史さん垢版2014/04/29(火) 03:15:35.95
>>215
面白かったw
これはやってほしいなぁ
豚というのがまた気が利いてる
人体の大きさに似てるからね
0218日本@名無史さん垢版2014/05/20(火) 15:31:42.02
という名のインチキでした
0220日本@名無史さん垢版2014/06/24(火) 03:13:46.02
>>184
こらえ性の無い朝鮮人にはらがきれるかよ。
0221日本@名無史さん垢版2014/06/28(土) 06:47:10.83
切腹とは、本来介錯なしの十文字はらだ。
0222日本@名無史さん垢版2014/06/28(土) 07:09:22.23
宝治合戦の三浦光村の自害が面白い。
顔を切り刻んで誰だか分からないようにするというのが鎌倉から南北朝にかけて時々ある
貴人を人目にさらさせない(平治の乱の藤原信西がまさにそれ)という伝統と通底する。
ただ顔の皮剥ぐのは郎党にしてみたら忍びないし、逃げ込んだ神域などを汚す罰当たりな行為にもなりかねないので、
遺体をめちゃくちゃにして相手に目を背けさせる=ただでは渡さない
という所が残ったんじゃないかと。だから切腹と言う形式自体が名誉とされれば何も実際に腹にブスッとやる必要はなかったのではないか
0223日本@名無史さん垢版2014/06/28(土) 10:07:34.09
切腹する為には先ず切る腹が無ければ成らない
0224日本@名無史さん垢版2014/06/28(土) 10:18:50.41
>>25 童貞違う元服前元服前;

子供も連座して死ななければならない場合に元服させて一緒に腹を切らせた例もあった
0225日本@名無史さん垢版2014/06/28(土) 10:35:00.60
陰腹(有史以来ユーラシア大陸全域に遍在した諫言に説得力を持たせる為の習慣)
 ↓
日本に於いては戦死の際に手抜き裏切り寝返り等無かった旨の主君に対する本領安堵アプリケーション化
 ↓
諫言行為から抗弁行為へ(正式の司法手続き化)
 ↓
実際面倒な判例あれこれ
 ↓
殿「手前っ!!儂の顔を建てろーっ!!」

が切腹史概略
0226日本@名無史さん垢版2014/06/28(土) 20:24:15.19
日本法制史のテキストに載ってるのかしら
そういう切腹の変遷みたいなやつ
0229日本@名無史さん垢版2014/10/16(木) 23:00:18.31
http://blog.livedoor.jp/nappi11/archives/4204532.html
ここの
(残虐なシーンがあるので閲覧注意)ISの首を切ったり、遺体を切り刻む報復をする民兵
というところをクリックすると海外のサイトにとんで
continue(続けます)というところをクリックすると首切りシーンが出てきた
気持ち悪くなるが戦国時代はあんな感じだったんだろうな
死体を切り刻むのはさすがに日本では一般的ではなかったかもしれないな。
中国の歴史書なんかではよくでてくるような気がするが。 
0231日本@名無史さん垢版2016/01/21(木) 20:26:03.05
いまだに自分の腹を刃物で刺して自殺を図るバカ男がいるんだな
自分の体を刃物で傷つけ〔られ〕るのがそんなに好きなのか、男どもは
いったい何時代の人間なんだ、こいつら
そういう俺は男だが、自分の腹を刺す〔刺される〕なんて絶対に嫌だね
0232日本@名無史さん垢版2016/01/22(金) 02:01:56.67
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0233日本@名無史さん垢版2016/01/22(金) 02:02:27.02
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0234日本@名無史さん垢版2016/11/24(木) 03:07:56.99
切腹に使えそうな刃物を入手しやすそうなものからいくつか挙げるとどんなかんじですか?
0235日本@名無史さん垢版2016/12/18(日) 21:26:53.74
昭和45年11月25日(水) 
昼12時10分頃、森田必勝と共にバルコニーから総監室に戻った三島由紀夫は、誰に言うともなく「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた。
そして益田兼利(ましたかねとし)陸上自衛隊東部方面総監の前に立ち、「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」
と話しかけ、自分の制服のボタンを外した。
三島は、小賀正義が総監に当てていた短刀を森田の手から受け取り、代わりに抜身の日本刀・関孫六を森田に渡した。
そして、総監から約3メートル離れた赤絨毯の上で上半身裸になった三島は、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、
森田に「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。
割腹した血で、“武”と指で色紙に書くことになっていたため、小賀は色紙を差し出したが、三島は「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、
右腕につけていた高級腕時計を「小賀、これをお前にやるよ」と渡した。
そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹した。
左後方に立った介錯人の森田は、次に自身の切腹を控えていたためか、尊敬する師へのためらいがあったのか、
三島の頸部に二太刀を振り降ろしたが切断が半ばまでとなり、三島は静かに前の方に傾いた。
まだ三島が生きているのを見た小賀正義と古賀浩靖が、「森田さんもう一太刀」「とどめを」と声をかけ、
森田は三太刀目を振り降ろした。総監は、「やめなさい」「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだ。
介錯がうまくいかなかった森田は、「浩ちゃん(ひろちゃん)頼む」と刀を渡し、
古賀が一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断した。
最後に小賀が、三島の握っていた短刀で首の皮を胴体から切り離した。
その間小川正洋は、三島らの自決が自衛官らに邪魔されないように正面入口付近で見張りをしていた。
0236日本@名無史さん垢版2016/12/18(日) 21:28:29.08
続いて森田も上着を脱ぎ、三島の遺体と隣り合う位置に正座して切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、
それを受けて、古賀が一太刀で介錯した。その後、小賀、小川、古賀の3人は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両人の首を並べた。
総監が「君たち、おまいりしたらどうか」「自首したらどうか」と声をかけた。
3人は総監の足のロープを外し、「三島先生の命令で、あなたを自衛官に引き渡すまで護衛します」と言った。
総監が「私はあばれない。手を縛ったまま人さまの前に出すのか」と言うと、3人は素直に総監の拘束を全て解いた。
三島と森田の首の前で合掌し、黙って涙をこぼす3人を見た総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「自分にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した。
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