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いいくにつくろう鎌倉幕府
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0001日本@名無史さん2011/09/03(土) 00:45:37.06
いまでは1185年?

幕府とは何ぞや、ってまったりと議論しませんか?
0003日本@名無史さん2011/09/03(土) 11:53:58.67
「鎌倉幕府」の成立は1192年以外ありえない。この年源頼朝に対して征夷大将軍宣下。これにより頼朝の政権は晴れて「幕府」と呼ばれるようになった。
確かに実質的には1185年に政権が出来ていたかもしれないが、それは高校レベルで注釈として補足しておけばよいこと。
朝廷の果たしていた役割を、ことさら矮小化しようとする悪だくみを認めてはいけない。
現代だって、運転免許試験に合格したという事実だけでは不足。免許証が交付されてはじめて運転が許可される。
0004日本@名無史さん2011/09/03(土) 12:20:56.74
敵対する軍事派閥が消滅した1185年以後、源氏の天下だから1185年説でもいいんじゃないか?
幕府の本来的意義は戦場に張る本陣を囲む幕のこと。中国風には柳営と言う。つまり天子から
軍事の全権を委任された将軍のいる本陣こそ幕府である。軍事氏族が源氏のみになった
1185年に日本で幕府がようやく1つになったと捉えればいい。それまでは2つあったのだ。
0005日本@名無史さん2011/09/03(土) 14:48:00.24
別に悪だくみとかそんなんじゃないでしょうw
今では中世史の研究家で守護・地頭を制した段階が政権の成立期であるとする学説が通説だし、
頼朝が求めた地位が征夷大将軍職だったわけではないことも分かっている。朝廷側は頼朝の要求に
右往左往したということも伝わっており、決して好意的に将軍職を宣下したんじゃないから。
0006日本@名無史さん2011/09/03(土) 15:56:54.81
在京の官でなければ何でも良かったのだろう。
摂関家が分裂し、九条兼実が頼朝の肩を持ったのも大きい。
幕府成立に摂関家の争いが味方したのは皮肉だ。
0007日本@名無史さん2011/09/03(土) 18:39:40.13
頼朝が征夷大将軍を辞任したのは何故?
0008日本@名無史さん2011/09/03(土) 21:41:48.03
>>7
鎮守府将軍・平泉藤原氏を倒す口実として、同職を上回る肩書きが必要だったのだが、それも一瞬のことだったため。
0009日本@名無史さん2011/09/03(土) 22:39:22.28
結局、土地を支配する者が天下人ってことだっぺ
0010日本@名無史さん2011/09/04(日) 01:53:21.71
>>8
奥州征伐は1189年でしょ
征夷大将軍になったのは奥州征伐より後だが。
0011日本@名無史さん2011/09/04(日) 11:33:26.45
確か義仲も征夷大将軍に任じられたりしてるんだろ?
0012日本@名無史さん2011/09/04(日) 12:31:07.97
征夷大将軍は同時期に1人だけという決まりはないな。
頼朝はそんな苔の生えた官職などどうでもいいと思っていただろう。
頼朝の力の源泉は日本国惣追捕使・惣地頭の両職。征夷大将軍など
任命されても兵馬の動員が出来なければ何もできん。
0013日本@名無史さん2011/09/04(日) 12:43:11.27
じゃあ何故あれほど征夷大将軍に執着したの?
それから頼朝以降の鎌倉将軍は皆征夷大将軍になってるし。
0014日本@名無史さん2011/09/04(日) 13:22:14.55
>>13
>>6参照
京都から来た政治顧問の大江広元あたりの入れ知恵と思われる。
頼朝以降の将軍が就任したのは単に創業者に倣ってだろう。
4代九条頼経は鎌倉下向後7年を経てようやく将軍になっている。
まあ幼少だったのが理由だろうが、将軍不在でも用が足りたわけだ。
0015日本@名無史さん2011/09/04(日) 13:55:18.83
本郷先生の本だったと記憶してるんだけど、鎌倉武士団の政権を「幕府」と呼称したのは
徳川幕府の頃あたりからだったみたいね。頼朝も北条氏も幕府を開いたという認識は持ってなかったって。
政権についても朝廷に対抗する意識はそんなに強くなくて(せいぜい鎌倉暦作ったくらいで)、
朝廷側の方が鎌倉武士団の政権を強く意識していたみたいだよ。
0016日本@名無史さん2011/09/04(日) 14:18:45.31
>>15
朝廷側が勝手に承久の乱を起こし自滅した観はあるね。
今までの武士は朝廷に擦り寄って来たのに、頼朝がそうしないので
ニュータイプの武士の扱いに戸惑ったのだろう。
0017日本@名無史さん2011/09/04(日) 19:58:34.58
じゃあ後白河が頼朝の征夷大将軍任官を認めなかった理由は?
0018日本@名無史さん2011/09/06(火) 09:09:31.34
>>13-14
征夷大将軍は朝廷からはなれた遠征地で、朝廷の許可なく裁判処断を行使できるからじゃないの。
0019日本@名無史さん2011/09/06(火) 11:28:32.88
>>17
それを示す史料はなに? そんなのないでしょ?
0020日本@名無史さん2011/09/07(水) 13:48:14.72
ぎすぎすしないで、まったりといきましょう。
高橋昌明先生が「六波羅幕府」「福原幕府」を主張されてますよね。
今度の大河が「平清盛」で、しかも高橋先生は時代考証だそうですから、
そうした説はますます注目を集めるように思うのですけれども、どんな
ふうに受けとめるべきなんでしょうか? 
とくに、関西の方にお聞きしたいです。
0021日本@名無史さん2011/09/07(水) 14:06:36.64
>>20
幕府という名称より、最高権力の所在がどこにあるかが本質だと思う。
清盛は院政停止を行っているし、後白河を鳥羽殿に軟禁しているから、
事実上の最高権力である。故に六波羅幕府と言っても差し支え無いだろう。

そもそも後白河の登極は、息子である守仁親王を即位させるための中継ぎであった。
故に守仁(二条)崩御後の後白河に政権を主催する根拠が無いのである。
0023日本@名無史さん2011/09/07(水) 20:07:25.02
そうとも言えない。
治天の君は時代によってポジショニングが違ってるから。
単なる上皇から院政で最高権力者なった人までいたから。
0024日本@名無史さん2011/09/08(木) 10:59:35.70
うん?
複数いる上皇のうち、政権をもってる人が
治天の君じゃないの?
そうじゃなきゃ、「治天」って表現使わないんじゃない?
0025日本@名無史さん2011/09/12(月) 02:54:16.33
会社の会長さんみたいなもんじゃないか
会社の経営を握る力を持っている人も居れば単なるお飾りな人も居るみたいな
0026 忍法帖【Lv=3,xxxP】 2011/09/23(金) 14:01:23.28
都に上れば武家は朝廷に取り込まれ、散々頤使され使い捨てにされるのだから、
頼朝が鎌倉から動かないのは理にかなっている。都から離れていても権力を行使することのできる官職は
征夷大将軍くらいしかないな。
0027日本@名無史さん2011/09/24(土) 02:01:51.36
>>26
頼朝は右大将として権力を行使したのでは?
実朝は右大臣にまでなったし。

もし実朝に子孫が続いたとしたら、
清華家としての家格を獲得したかも知れん。
0028日本@名無史さん2011/09/24(土) 08:16:56.91
幕府って、国軍最高司令官陣幕のことだろ?

いまは「市ヶ谷幕府」でOK?
0030日本@名無史さん2011/09/24(土) 12:35:43.80
征夷大将軍が武士の棟梁という慣例、ってとこがおかしいんだろ。
そんな慣例家康から。
え、じゃあ家康は誰に習って取得したの?
どーん、蝦夷征伐隊隊長は中華思想からみた東夷征服隊の延長です。
倭寇も一緒です。

朝廷に従わなかった蝦夷が関東武士です。
京の王家の血筋者を立てて反乱を起こしました。
相模武士団は京の倭国本山に実力を認めさせて全国に赴任していく。
そして京朝廷はそれをコントロールする者として
源氏を蝦夷征伐隊総帥に任命する。
そしてその婿源氏は地元北条氏に安楽死させられ、
以下、形だけの源氏でもない征夷大将軍を京から受け入れながら
全国勢力としての蝦夷、関東武士の北条氏が支配する。これが鎌倉政権。
0031日本@名無史さん2011/09/24(土) 13:08:57.12
>>30
>征夷大将軍が武士の棟梁という慣例、ってとこがおかしいんだろ。
>そんな慣例家康から。




0032 忍法帖【Lv=4,xxxP】 2011/09/24(土) 13:16:38.39
足利幕府は必然的に出来た。嫡流に近い源氏が足利しかいないから。
他方徳川は血筋なき覇者だから権威で自己を補強した。これしかあるまい。
0033日本@名無史さん2011/10/10(月) 09:11:48.84
幕府なんて呼ばれてないだろ
幕府というのは江戸時代末期に倒幕派が公儀を指して使った隠語だ
藩というのも明治になってそれまでの大名領をそのまま行政単位にした
ときの名前で一年ほどで廃藩置県
江戸時代に藩というものは無かった
だから長州藩というのはなかったし
拙者は長州藩士何々と申す などと言わなかった
0034日本@名無史さん2011/10/10(月) 11:16:50.47
鎌倉時代は「鎌倉殿」だね。鎌倉武士政権を幕府と呼び出したのは江戸期の儒学者で、
その呼称が定着したのは明治になってから。
0035日本@名無史さん2011/10/11(火) 05:10:32.88
幕府が複数出来ると区別の必要が生じる。
そこで「鎌倉」等の地名をつけて呼称する。
他方朝廷一つしか無いので、一々「京都朝廷」とは言わない。
0037日本@名無史さん2011/10/16(日) 13:19:37.44
0239年 卑弥呼が魏にデリヘル嬢を遣わす
0672年 妊娠の乱
0710年 正常位京に都を移す
0794年 性感京に都を移す
1192年 源頼朝は六本木にキャバクラ幕府を作る
1205年 放尿義時が失禁になる
1221年 セクハラ探題設置
1232年 御性感色欲の制定
1274年 猛根襲来
1338年 足利尊氏が吉原に風呂町幕府を作る
1467年 オナニーの乱
1549年 クリトリス教の伝来
1600年 関ヶ原の合コン
1603年 徳川家康がエロ幕府を作る 
1841年 ティムポの改革
1853年 黒乳首来航
1868年 ボイン戦争
1871年 パイパン痴犬
1877年 性感論、性難の液
1904年 に遅漏戦争勃発
1914年 第一次性感体位戦勃発
1922年 関東大陰唇祭
1931年 マン臭事変
1945年 第二次性感体位戦終結
1970年 大阪でマンパク開催
1972年 腰縄変姦
1995年 阪神淡路大陰唇祭
2001年 アメリカ同時多発エロ
2003年 イメクラ戦争
2005年 愛・子宮博
2011年 東日本大陰唇祭
0039日本@名無史さん2011/10/16(日) 22:04:15.17
>>38
全国の大名の官職を記憶しないといけないから大変だね。国替えも発生するし。
たしかにこれじゃあ分かりにくいので、時代劇の考証でアウトだわ。
0040日本@名無史さん2011/10/27(木) 01:42:03.59
幕府
 少なくとも当事者が自称したことはない(江戸時代に至るまで)
 政権を指す学術用語として使われるのは明治以降
征夷大将軍
 後白河が認めなかったのは畿外にあって独断専行で検断権を行使できる権能を持つため
 頼朝の辞任は大姫入内運動との兼ね合いだろう(権大納言、右大将辞任とは意味が異なる)
0041日本@名無史さん2011/10/27(木) 17:00:41.56
高橋昌明氏説に倣えば北畠顕家は奥州幕府といえる?
0043日本@名無史さん2011/10/28(金) 08:18:51.13
>>42
朝廷→関東、東国
御家人→鎌倉殿

統一した呼称はなかったと言われてる。
0044日本@名無史さん2011/10/28(金) 13:12:20.52
>>43
レスどもthx。

でもあの、「室町幕府」のリアルタイムの呼称・・・
0046日本@名無史さん2011/10/28(金) 22:19:29.67
>>45
京都にある室町幕府のことを朝廷が
>関東、東国
と呼び、
京都にある室町幕府のことを御家人は
>鎌倉殿
と呼んでいたの?
0047日本@名無史さん2011/10/30(日) 00:30:53.88
>>44
公方(幕府、将軍の地位とも)じゃないの?
0048日本@名無史さん2011/10/30(日) 00:47:58.13
清盛の政治顧問であった平時忠の息子の時家が
鎌倉で頼朝の政治顧問やってたんだって?

面白いな
0049日本@名無史さん2011/10/30(日) 21:46:31.67
>>48
幕府も出来たころの院と同じで、家柄が低くて出世できない貴族の勤務先だった。
だから院も幕府も朝廷と併存できる。決して単なる暴力装置ではない。
0050日本@名無史さん2011/12/01(木) 18:42:10.18


源 頼朝は、
13歳から京都二条東の旅籠で働き始めた、
木曽義仲長男。

14歳から27歳まで、
京都二条東町の地頭として、
76盗人を斬る。

それが藤原定家の目に留まりました。

源 頼朝 知能1.41/1.24。

0051日本@名無史さん2011/12/06(火) 17:28:22.27
鎌倉は三方山で囲まれた天然の要害は歪曲

鎌倉幕府滅亡の際の戦闘も中先代の乱も時行から鎌倉奪還した尊氏の鎌倉入りも
数日で勝負がついている。
鎌倉が攻めにくく守りやすい土地ならば、これほど次々と陥落することはあるまい。
そもそも鎌倉が城塞的な都市であることの根拠は少ない。

鎌倉を戦場とした和田合戦、宝治合戦、霜月騒動などは鎌倉の市街戦であり、
天然の要塞にふさわしい合戦は見られず、宝治合戦の折に、三浦氏が切通や
切岸で苦戦したという話も聞かない。

三方山が城塞の役目をしていたのなら、山の外に建長寺や円覚寺
時頼が私寺の最明寺を建立したのは違和感を覚える

段葛の遠近法を利用した作りも徳川秀忠が再建した当時にヨーロッパで大流行した手法で
当時の作庭のほとんどに関与していた小堀遠州も西洋人から勉強しており段葛で実戦した

釈迦堂切り通しや大切岸などは明治時代の石切り場だったのが定説
極楽寺周辺は砦でもなく海運を掌握していた経済的側面が強い

鎌倉が城塞的な都市だというのは武士の都であるがゆえのイメージでしかない
0052日本@名無史さん2012/02/01(水) 12:50:53.60
そもそも事実上政治的にいわせてもらえば、


1 事実上常に日本は地方府があった。
2 分国体制である
3 そして事実上江戸時代ないし最近までは統一された政府機構すらない。これ現代でも行政的にはにてるんだけどね。

さてその状態で、
そもそも鎌倉政府以前には順次的統一政府などはない。鎌倉ですら分国連合体制なのに、

それ以前は事実上連合統一府そのものがない。



0053日本@名無史さん2012/05/04(金) 05:39:49.32
>>51

鎌倉幕府の滅亡の時。

幕府の水軍が戦闘した記録がないみたいだが
幕府は水軍を活用すればもうちょっとは粘れたんだろうか?
0054日本@名無史さん2012/05/04(金) 16:16:25.30
焼け石に水
0055日本@名無史さん2012/05/08(火) 23:31:45.99
>>53
新田勢の三木俊連が極楽寺坂の裏から忍び込み火を放った
→稲村ケ崎を守っていた北条軍の軍船がつられて移動
→新田義貞が稲村ケ崎の引き潮を利用して鎌倉府内へ侵入
0056日本@名無史さん2012/05/09(水) 10:58:38.42
なるほど。

稲村ヶ崎に水軍が入れば、もうちょっとは粘れたのか。

まあそれでも幕府は倒れただろうが。
0057日本@名無史さん2012/10/15(月) 08:06:16.39
すんげえ遅レスだが
>>43
室町のこと聞かれてるのにお前バカなの?
>>46
公儀とか公方じゃない?
南北朝のときは2つ存在しちゃってるけど

0058日本@名無史さん2012/11/01(木) 11:36:10.34
鎌倉陥落の時、庶民の女達は乱暴狼藉に遭ったのか?
0059日本@名無史さん2012/11/01(木) 13:57:32.02
当時「幕府」という言葉は使われていたのか?
鎌倉様とか鎌倉殿、と言われていた、という説
を聞いたことがあるが。
0061日本@名無史さん2013/01/16(水) 00:45:16.71
幕府とは「公儀」って定義したいね。公権力を行使する主体という意味で。現在でいえば中央政府。
江戸時代には、実際そう呼ばれていたしね。

>>1
さて、鎌倉幕府だが、NHK高校講座では次の4説を採り上げていた。
1.1180年説 頼朝挙兵、侍所の設置
2.1183年説 東国支配権の公認
3.1185年説 全国への守護・地頭設置権の公認 
4.1192年説 征夷大将軍への補任

最近は教科書などで3説が多いが、この頃の頼朝の政権はまだ発展途上。
個人的にはいいクニの4説(1192年)を支持したい。
0062日本@名無史さん2013/02/21(木) 18:06:58.15
結局1185年説が有力になったのは、支配とは土地制度の問題だという認識から来てるんだろう。
0063日本@名無史さん2013/02/21(木) 22:55:27.34
本来の将軍府としての意味から言えば、1990年の右近衛大将補任。

ホンマ、この話にも征夷大将軍=武家の棟梁としての正統性 という風に歴史を捏造した徳川政権の、
今日に至る日本の歴史・文化を歪めた罪の深さが如実に現れている。
0065日本@名無史さん2013/02/22(金) 22:08:10.29
>>63
でも、鎌倉幕府も室町幕府も名目上のトップは征夷大将軍には就任してきたけど、
右大将には就任しなかった人多いでしょ?
0066日本@名無史さん2013/02/22(金) 23:08:43.68
鎌倉幕府のトップは途中から執権に。
0067日本@名無史さん2013/02/22(金) 23:38:31.42
鎌倉幕府の成立は頼朝軍が鎌倉に入って南関東に政権が成立した1180年では。
そして幕府が武士たちの所領の領有権を保証する実力をもったときが、鎌倉時代の始まりといえる。
0068日本@名無史さん2013/02/23(土) 19:42:55.57
1183年10月の宣旨が重要。これを画期に反乱軍・私政権→東国支配に係る公権力 だから。
0069日本@名無史さん2013/04/13(土) 19:00:42.14
実は、学者の間でも幕府の成立はいつなのか、多くの説が対立しており、今日でもまだ決着がついてはいないのだ。
ある日、あるとき、頼朝がおごそかに鎌倉幕府の成立宣言を読み上げたことなど一度もなく、
そもそも当時、「鎌倉幕府」ということばが存在しなかったからである。

A説 1192年 頼朝、征夷大将軍となる
B説 1190年 頼朝、右近衛大将となる
C説 1184年 公文所・問注所の設置
D説 1180年 南関東に軍事政権が成立
E説 1185年 頼朝、日本国総追捕使となる(いわゆる「守護・地頭」の設置)
F説 1183年 十月宣旨の獲得

わたくしは以上のうちA・B・C各説はいずれも現在、ほとんど問題にならない、と考えている。
のこるD・E・F説は、それぞれに鎌倉殿を首長とする軍事政権成立の各段階をとらえているが、
ここでは一応、なかでもその成立をもっとも早くおくD説に従っておく。
たとえ地域的にはまだ南関東一帯にしかすぎなくとも、このときすでに
鎌倉殿をいただく軍事政権としての特徴は出そろっている、と考えるからである。
むろん、それはE・F両説があやまりだ、ということを意味しない。
その根拠となった事実は、どれもたしかに重要な目じるしであり、
幕府は1180年末にひとまず「成立」したとしても、内乱のなかで成長をとげ、
1183年十月宣旨をへて、1185年11月末にいたってようやく「確立」した、というのが正しいだろう。
(石井進 『日本の歴史』)
0070日本@名無史さん2013/06/10(月) 20:54:48.20
寿永の宣旨をもらうまでは頼朝は反乱軍であって独立王国なわけだ。宣旨によって政権が合法化された。
兵士滅亡後 頼朝の勢力は西日本に及んだ。sy護持等の設置によって 頼朝は朝廷から軍事警察権と徴税権の一部を
移管されたわけだ。

それと、ここまでで「柳営」という語句に触れた人がいないのに驚き。
ここの住人は建武式目読んだことないのか?
0071日本@名無史さん2013/06/11(火) 02:53:57.34
日本語でタノム
0072日本@名無史さん2013/06/21(金) 08:59:05.24
1192年で何がおかしいの?
いい国を作ろうとしたわけでは無かったって事?
0073日本@名無史さん2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN
頼朝が宣言をしなかったから
色々解釈が出来て諸説出来たって事
説は1185と1192だけじゃ無く
1180〜1192までの間にたくさんあるな
0074日本@名無史さん2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN
鎌倉の世界遺産登録を目指して
幕府跡の発掘が必要みたいな事を
文化庁長官が言ってるな
0075日本@名無史さん2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN
そろそろ保守
0076日本@名無史さん2013/09/18(水) 00:51:40.29
幕府という言葉を使いたければ、近衛大将の年じゃないのか
0077日本@名無史さん2013/09/22(日) 15:41:25.31
幕府という単語が定着してのは明治の歴史教科書のせい。
平氏政権や織豊政権を幕府にカウントしてもいいと思う。頼朝 尊氏の将軍職補任は、
政権の実態が成立した後の称号授与みたいなもんで、政権の承認ではないし。
0078日本@名無史さん2013/09/22(日) 17:39:23.06
じゃ室町幕府ができたのは建武式目を制定した1336年か??
0079日本@名無史さん2013/09/22(日) 17:54:17.76
鎌倉時代の鎌倉は人口どのくらい?
0082日本@名無史さん2013/11/15(金) 02:53:41.96
もう複数説併記とか
徐々にって感じになってるな
0083日本@名無史さん2013/11/15(金) 22:15:48.44
日本人であれば京都・奈良を日本の都・聖地としてたたえる。
キリスト教の国々がエルサレムやローマを聖地とたたえるように

・日本仏教の総本山や本山も大半が京都・奈良、畿内に存在する。
ちなみに、日本仏教の聖地は高野山と比叡山である。

・伊勢神宮をはじめ、神社の総本社も大半が近畿に存在する。
二十二社は京都をはじめ畿内の神社から選ばれ、国家の重大事の時に朝廷から特別の奉幣を受けた。

・兵庫県淡路島の伊弉諾神宮には、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が祀られている。

・天皇陵も京都の泉涌寺など京都や奈良、近畿にそのほぼすべてが集中しており、歴代天皇が眠る畿内、近畿はまさに日本の聖地

・日本の世界遺産もその多くが京都・奈良に存在している。
0085日本@名無史さん2013/12/10(火) 01:16:14.56
1、1、8、5で幕府をつくる
0092日本@名無史さん2014/06/26(木) 22:07:06.22
1985年サザンオールスターズが8枚目のオリジナルアルバムKAMAKURAをリリース
0093日本@名無史さん2014/07/11(金) 07:01:54.62
北条氏が本当に平氏ならなんであんなに没落していたんだ?
0094日本@名無史さん2014/07/11(金) 09:28:27.12
>>93
都から貴人が来た→地方豪族が自分の娘を夜伽に侍らす→生まれた子は天皇の末裔
なんてのは幾らでもあると思うけどな
北条が本当に平氏かどうかに関わらず
0095日本@名無史さん2014/07/12(土) 00:51:15.67
平氏じゃないけど貴人でいうと、宇多天皇の女御の藤原胤子の出生にそんな話あったな
山科で雨宿りをした時に郡司の娘と一夜を共にした時に孕んだのが胤子だとか
胤子は妻に迎えられたらしく4人の子に恵まれているし、
地方豪族にとっちゃ上手くいけば娘が妻に迎えられるチャンスなのかね
捨てられることもあっただろうけど
0096日本@名無史さん2014/07/15(火) 02:50:50.69
捨てられても子供は、貴種の子として田舎では一目おかれるんじゃね
0097日本@名無史さん2014/07/30(水) 14:50:38.53
幕府にとって征夷大将軍の存在は欠かせないからこれまで通りの1192でいい
0098日本@名無史さん2014/07/30(水) 15:34:55.70
実質は1185年だけどな
0099日本@名無史さん2014/07/30(水) 17:24:40.02
室町幕府・江戸幕府の成立は
足利尊氏・徳川家康が征夷大将軍に任じられた時で争いはないのに
鎌倉幕府だけおかしいよな
0100日本@名無史さん2014/08/02(土) 12:03:05.97
鎌倉幕府は次第に武家政権としての骨格を定めていったので、「このとき、
鎌倉幕府が成立した!」と言える瞬間がないのだろう。
征夷大将軍任官がその決定的瞬間とも考えられない。

征夷大将軍は源頼朝にとってそれほど価値の高い官位だったのだろうか。
任官後まもなく辞任しており、「将軍であることによる権限」は特段なかっただろう。
また、源頼朝の呼称は「右大将家」(右近衛大将)であり、頼朝の地位の高さを
象徴的に示す官位は、右近衛大将だったのではないか。
0102日本@名無史さん2014/08/15(金) 23:12:30.25
>>98
徳川政権の始まりも1600年からだな
0103日本@名無史さん2014/08/16(土) 20:51:18.26
頼朝が落馬したのを、武家の棟梁が落馬なんて不自然だから暗殺に違いないっていうけど
体力が衰えていたら別に不自然でもないな。
佐竹義重も生粋の武士だけど落馬で死んでるのに。
0104日本@名無史さん2014/08/16(土) 22:15:32.55
そもそも当時の武家政権を「幕府」という言葉で定義することが適切ではない。
将軍の本営を表す言葉としてなら構わないが、政権の名称として使うのはおかしい。
どうしても定義が必要なら単に「鎌倉政権」「足利政権」「徳川政権」とかでよい。

「幕府」という名称のせいで、
征夷大将軍に就任した年がいつだから、幕府の成立がどーたらとかいう話になるが、
征夷大将軍なんて、頼朝の時に余ってた名誉職ってだけで、それ自体たいした意味はない。
たいした意味のないものにこだわるなんて、そらもうナンセンスよ。
0105日本@名無史さん2014/08/18(月) 15:10:20.63
山槐記によると頼朝は単に大将軍になりたいので相応しいのを選んでくれ
と朝廷に依頼、朝廷は幾つか候補を挙げて吉例(坂上田村麻呂)だから
征夷大将軍でいいだろとなったようだがどうなんだろうね?

あと「幕府」というのは近衛大将の唐名じゃなかったっけ?
0106日本@名無史さん2014/09/09(火) 10:33:15.51
幕府という言葉ができたのは幕府だっけ
0107日本@名無史さん2014/09/09(火) 18:22:27.92
江戸時代中期
0108日本@名無史さん2014/09/14(日) 21:15:47.43
東国武士の願いは平将門から同じ
源頼朝は神輿
だから源氏本流が滅んでも鎌倉幕府は続いた
0109日本@名無史さん2014/09/16(火) 17:09:12.13
摂家将軍、宮将軍は鎌倉幕府特有のもの
0110日本@名無史さん2014/10/02(木) 16:56:49.96
御家人達にとっては武家政権さえ確立すれば将軍なんてお飾りで十分ってことだな
0113日本@名無史さん2014/11/03(月) 20:18:18.80
応仁の乱以降の将軍もお飾りだし
0114日本@名無史さん2014/12/01(月) 14:28:17.58
ニュース速報+では、1192派が圧倒的に優勢で、1185なんてのにするのは天皇の権威を貶めようとする左翼の陰謀だの日教組がどうだのって珍論が展開されてた。
私を含めて歴史をやってる人間が反論しても全然ダメで、呆れました。
徳川家康が征夷大将軍になった意味と、源頼朝がなった意味とを区別しないんだもんなあ。
0115日本@名無史さん2014/12/01(月) 14:33:35.71
征夷大将軍職への就任が幕府成立のメルクマールになるなら、1195に将軍を辞任したら、幕府がなくなっちゃったことになるだろって言っても、1192に成立しなかったことにはならねーだろなんて頑張られちゃった。
このスレを借りて鬱憤ばらし。
1192説を言い出したのは誰?
龍粛さんかなとオレは思ったんだけど。
0116日本@名無史さん2014/12/02(火) 17:48:50.84
そもそも幕府の定義とは何かって話だな
幕府という単語時代が江戸時代末期にできたものなら
0117日本@名無史さん2014/12/04(木) 03:02:42.46
源家将軍が途絶えた後の空白も鎌倉幕府だったり
足利義昭が追放後も征夷大将軍だったのに追放時を持って室町幕府滅亡と言われたり

征夷大将軍=幕府、ではないのは間違いない。
0118日本@名無史さん2014/12/05(金) 19:34:05.00
付け加えるなら
建武の新政時に大塔宮とかも征夷大将軍になってるけど幕府があったわけじゃあないしな
その後南朝方の興良親王も征夷大将軍になってるけど南朝が幕府を開いてるわけでもない
征夷大将軍=幕府説をとるなら>>117の指摘もふくめ問題点が多いことは事実
0119日本@名無史さん2014/12/06(土) 03:10:54.72
>>116
幕府という単語自体は平安からあったのが説明をめんどくさくしているな。

頑なに征夷大将軍=幕府説を信じ込んでいる奴に
幕府なんて江戸時代の発明で頼朝も家康も幕府のばの字も知らなかったんだよばーか
と言えないのがもどかしい。単語くらいはさすがに知ってたはず(てか頼朝は右大将だし)

武家政権という意味で幕府という言葉が使われだしたのは〜
って長ったらしくてインパクトが薄い。
0120日本@名無史さん2014/12/06(土) 12:55:23.72
しかし、幕府の定義を単に武家による中央政権とするなら
織田政権や豊臣政権も幕府に含まれるな。
0121日本@名無史さん2014/12/06(土) 15:26:31.41
実際福原幕府なんて提唱してる人もいるみたいだしな。
0124日本@名無史さん2014/12/06(土) 20:23:25.47
いっその事幕府という概念を取っ払ってみるのも良いかもね。
昔は幕府なんて誰も意識してなかったんだからじゃあ尊氏は家康は何を思って統治機構を作り上げたのか。
01252014/12/08(月) 15:53:10.41
>>114
それで,気になって明治期や大正期の小中学校の教科書ではどうなってたかを
確かめてみたんだ.

高等小学歴史(文部省,明治24)
「治承四年,源頼朝幕府ヲ鎌倉ニ建テテ,仮リニ軍政ヲ行フ」
中学校用国史教科書(三省堂,明治35)
「頼朝は天下の形勢に考ふる所あり,戦勝に乗じ京都に走せ上りて高位高官に就かず
鎌倉に幕府を建てて根拠を固くしたり」(頭注「頼朝の始めて鎌倉を開きしは治承四年にて
平氏滅亡の前六年なり」)
中学日本小史(金港堂,明治35)
「寿永三年(一一八四)東国の政務を行はんがため,公文所・問注所・侍所といふ三つの役所
を置き・・・鎌倉幕府の起源なりき」

他の教科書類や受験参考書などをみても,明治期や大正期および昭和初期の発行物では
幕府の創建は,治承四年(1180) とするものが多い.
公文所・問注所・侍所といふ三機関がそろった寿永三年(1184)説もある.
この幕府の支配権を公に朝廷が認めたのが1185年であるが,これは「鎌倉幕府の確立」の年であって
幕府創建の年とはされないのが普通だ.
(しかし,目次などをみると,中古から近古への時代区分としては,1185年が重視されてゐるやうだ)
また,頼朝の任官(右大将1190,征夷大将軍1192)は,頼朝個人の事績として記述されてゐるにすぎない.

以上をまとめると,幕府創建の年を1192以外であると考へるのは(最近の珍説ではなく)最初から
教科書類での通説だったのであり,昭和のある時期から(とくに初等教育の目的においては)
1192年説が急浮上したらしいのである.
0126日本@名無史さん2014/12/08(月) 22:33:33.67
やっぱいいくに作ろう鎌倉幕府って語呂が良すぎたからなんじゃ
794うぐいすと平安京と大化の改新645匹と並んで年号暗記のド定番だし
0131日本@名無史さん2015/02/06(金) 17:33:36.06
教科書に「幕府」って用語をつかうから混乱する
「軍事政権」でいい。で、脚注に江戸時代の儒者のなんちゃらが「幕府」と呼びだしたと記しておく
0132日本@名無史さん2015/03/07(土) 10:00:47.79
やはり女の子が使う武器で、槍に勝るものはないな。
0133日本@名無史さん2015/05/31(日) 08:15:07.17
そんなら鎌倉府は北条が駆逐された後も鎌倉幕府として続いてることになるんでわ
0134日本@名無史さん2015/05/31(日) 13:50:52.98
1190年が一番しっくりくるな
0135日本@名無史さん2015/05/31(日) 14:57:06.14
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0136日本@名無史さん2015/05/31(日) 14:58:40.83
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0137日本@名無史さん2015/07/28(火) 18:55:35.15
>>119
幕府という言葉にこだわるなら右大将に任官した時が鎌倉幕府の始まりだな
0138日本@名無史さん2015/08/27(木) 02:29:19.83
鎌倉幕府滅亡前の十数日間って劇的なんだなぁ・・・
0139日本@名無史さん2015/09/01(火) 02:24:05.40
>>138
佐野のエンブレム騒動みたいだな。
0140日本@名無史さん2015/09/14(月) 12:46:24.17
        WW2の勝者は親米反日売国奴!! 陸海軍は共倒れwww



海自は創隊時から米軍の空母機動艦隊を守るだけの役割を担わされた。その精神は対米追随どころか、海自は米海軍と一体化が理想。連合艦隊の精神など皆無。
https://twitter.com/kamiura_jp/status/641757312814743552

「1532」

戦後作られた「海軍善玉論」神話(海軍は、ずっと平和主義者だった。悪いのは陸軍だった、という歴史の捏造。)。
海軍の“海軍反戦トリオ(米内、井上、山本)”は、戦後の創作(でっちあげ、虚構)であり、彼らは始めから敵と内通していた英米派だった。
海軍は、陸軍とは断固協調しないで、日本を始めから戦争に負けるように仕向けたのだ。

米内(光政、よないみつまさ。開戦時もずっと海軍大臣だった。こいつが軍人では最大のアメリカの手先。
極東軍事裁判でも、絞首刑になったのは、東條英機以下6人陸軍ばかりで、あと一人は外交官の広田弘毅=ひろたこうき=だ。
海軍は、ひとりも死刑になっていない。起訴さえされていない。このことのおかしさを、日本国民は、真剣に考えなければいけない。

南雲忠一(まぐもちゅういち)、栗田健男(くりたたけお)(聯合艦隊司令長官)ども!!!許さん。
それから、航空隊の司令官の、源田実(げんだみのる。戦後もずっと自衛隊代表で、参議院議員をやっていた)。
お前たちも、心底、怪しいのだ。始めからアメリカとつながっていた、スパイ軍人どもだ。

ミッドウエー海戦という決定的な敗北を喫した。山本は、ずっと呉(広島)の戦艦大和の艦橋に居て、無線で指令を出していた。
無線封止(むせんふうし)さえしていなかった。これらはすべて露見している。
ミットウエー海戦で敗退したあとも、山本を連合艦隊長官から罷免せず、単に海軍内の庇(かば)い合いだけをした。

本当は、ミッドウエーには、戦艦大和 が先導して、空母艦隊を守りながら、戦闘(海戦)をするべきだったのだ。
この時の、「飛龍」艦長、山口多聞少将(第2航空戦隊司令官)の戦い方と死に方こそは、帝国海軍の軍人の鑑(かがみ)である。
「私たち海軍は、平和主義だった」などと、よくも、アメリカの奴隷になった軍人どもは、言えるものだ。
0141日本@名無史さん2015/10/17(土) 17:19:28.72
>>105

> あと「幕府」というのは近衛大将の唐名じゃなかったっけ?


252年には大将軍府の開府が許された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%BB%E3%82%A4

          ↑

この大将軍府=幕府とする説もあったと思う。
0142日本@名無史さん2015/11/15(日) 08:46:31.38
>>114
行政機構が一年かそこらでできるわけないのだから
「xxxx年○○幕府成立」とやるやり方がそもそもおかしいのだが
もしそうするなら便宜上、幕府成立の定義をしないといけない。

この場合「征夷大将軍就任」が一番わかりやすい指標だから
鎌倉幕府の場合は1192年成立でいいかと。
0143日本@名無史さん2016/11/30(水) 12:53:15.39
>>128
幕府とは(固有名詞ではなく一般名詞として)軍事による仮りの政府を意味する言葉だから
それは鎌倉時代どころかそれ以前からあるわね
0144日本@名無史さん2016/11/30(水) 13:24:15.91
1190年のときは頼朝本人がわざわざ上洛して任官してるものな
(1992年のときは上洛すらしてない)

1990年説ももちろん弱すぎるけれど(頼朝視点にせよ朝廷視点にせよ歴史家視点にせよ)
1992年はそれよりももっと重要度が低いことだわ
0145日本@名無史さん2016/11/30(水) 15:47:34.21
>>144
>(1992年のときは上洛すらしてない)
1990年説ももちろん弱すぎるけれど(頼朝視点にせよ朝廷視点にせよ歴史家視点にせよ)
1992年はそれよりももっと重要度が低いことだわ
 199○年?
0146日本@名無史さん2016/11/30(水) 16:28:05.19
1190年説の根拠は近衛大将の任官ではなく、日本国総追捕使への補任でしょ。
大体 1185年の守護設置って、地域限定かつ翌年廃止されとるし。
でも、平氏滅亡の意味は大きいし、1185は1180年と1190年の中間にあたるから
何となく無難である。1192年説は政権樹立に関係ない話なので却下していいだろう。

それと、ふと思ったのだが江戸幕末に尊攘派が徳川政権を「幕府」呼ばわりしたのは「ご公儀」を
避けたかったためじゃないかな? 公儀は元来朝廷を指す言葉だったが江戸期に徳川政権を指す言葉に転じたと言われているし、
テロリストの尊攘派が徳川を敬うような呼称はテロリスト魂に反するものだ。
テロリストたちが作った明治政府統治下で「幕府」の呼称が学術用語へと出世したのもむべなるかな、と思われ。
0147日本@名無史さん2016/11/30(水) 16:37:58.89
誰かも書いていたが、室町時代 江戸時代は「柳営」が武家政権の呼称に使われているな。
後世の我々からみれば、「営」より「府」の文字が付いている「幕府」の方が、政権の別称として通りがいい。
明治時代の国民教育では「わかりやすさ」が大事だからね。しかし、平氏政権や織豊政権を「幕府」のカテゴリから
オミットしたために「幕府」の定義がわけわかめになっちまった。
「征夷大将軍の武家政権を幕府」というのは後付けの理屈だろうね。
0148日本@名無史さん2016/11/30(水) 23:26:30.81
鎌倉府、室町府だった?
0149日本@名無史さん2016/12/04(日) 14:59:48.93
>>39 そもそも、正式な名前は、
苗字、官職、氏(うじ)、姓(かばね)、名前
だからはっきりとわかる。


それだと長すぎるからあだ名として、鎌倉殿とか、右大将と言えばわかった。
0150日本@名無史さん2016/12/04(日) 15:52:43.90
>>58 お前ね、山賊達じゃあるまいし、魏志倭人伝の昔から大和民族は卑しからず、法を厳しく守る民族だったんだよ。
街中でそんな乱暴狼藉を許すはずがない。 山中人気がないところでは知らんが。
0151日本@名無史さん2016/12/04(日) 16:02:12.50
>>59 うちの先祖は、義朝にも頼朝にも使えて数々の武勲をあげそれなりの地位と領地を与えられてたが、幕府なんて言葉は一言も出てこない。
義朝はそのまま、頼朝の事は右大将。 木曽義仲の事は木曽冠者、大友能直の事は一法師丸。

苗字官職氏姓名前が正式な呼称だが長すぎるからあだ名みたいにして表してたんだろう。
0152日本@名無史さん2016/12/04(日) 16:27:31.46
>>61 うちの先祖は富士川の戦い(1180年水鳥の羽音の故事)で戦死し、その子は範頼、義経と共に奥州征伐(1189年)にも参加しその後文治五年(1189年)その戦功によりに地頭に任ぜられた。

元々の所領は奈良にあったんだけど、地頭に任ぜられたのは九州で以後そこに住みついた。 暫くして元の親分も守護として近くに任ぜられ(1193年)結局腐れ縁が続くことになる。
0153日本@名無史さん2016/12/05(月) 14:17:31.42
やっぱり日本国総追捕使だよな。これが一番効いてる
0155日本@名無史さん2017/06/16(金) 10:30:56.15
そういやドラマとかでは
阿野廉子の陰謀もあって鎌倉幕府が潰れた的な書き方されるけど
実際はどうなんだっけ?

まぁ事実なら北条のせいで殺された
先祖の阿野全成の無念を晴らしたことになるんだけど
それはもうオカルトか…
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