「天皇は男性がなる」というのが明確に決まったのは、皇室典範ができてから。それが現在、女性天皇の論議になるのは後継者がいない、もしくは少ないから。
でも、徳川家には御三家という後継者を立てるための家があり、また、徳川宗家も完全に途絶えたわけではなかった。鎌倉幕府や天皇家とは事情が異なる。
そして、摂関家や皇族から将軍を迎えた後に源氏の家に跡目を返した前例はない。足利氏は実力で将軍の地位を得たのである。
だから、酒井忠清が皇族から将軍を迎えようとしたのは、中継ぎとしての目的ではなくて、以後、将軍を輩出する家を皇族に変えようとしようとしたとみることができる。
したがって、忠清のような考え方が出ているということは、この時点では将軍になれるのは源氏に限定されていなかったと考えられる。
綱吉以降に、源氏に限定するようになったのは、皇族や摂関家ではなくて徳川家こそ将軍を輩出する家であるということを明確にする必要があったから。
そして、朱子学の大義名分論が興隆するに及んで、なぜ天皇家ではなくて幕府が政を行うかという点を、
朝廷の許可なく裁量を認められた将軍→足利以降、将軍は源氏であるのが慣例→将軍は源氏である徳川家でなければならない、という理論を構築したのではあるまいか。