ちょっとだけ高度な話をしてやろう。

『三国志』が鬼道と書いた張魯の天師道は、医療を主眼とした巫呪祈祷の部分が民衆の支持を集めた。
古代における医療は直接的に生命にかかわるから、これが民心を集めただろうことは容易に察しがつく。
民心の掌握は効果的な政治手法として機能する。
事実、張魯の場合は群臣たちが天子を号するよう進めたほどだ。
ここに、宗教教団が巨大な組織となり、教団組織が国家を形成する過程をかいま見ることができる。

57年に朝献した倭人は、王朝を知り、朝献をしり、その作法を知っていた。
彼らは、国家を知り、政治手法も戦い方も知り尽くしていたのだ。
そこから150年ばかり経過した邪馬台国の首脳たちの戦略性というものを考えたことがあるか。

彼らは、列島における勢力拡大と進出事業の効果的な戦略ツールとして、
三角縁神獣鏡とセットの医療符呪と祭祀(とくに葬送祭祀)様式を全国に拡散させた。
現実には、ほとんど戦うことなくこれを遂行したものと思われる。

これに魏朝の年号を入れたのは、魏の支援を得て列島最強となった勢力が、
拡大戦略ツールとして魏の威光を匂わせるために工作したのではないか。
つまり、拡大戦略ツール国内生産のために、呉からやってきた職人に鏡を造らせた。
そのデザインとつくりは、当然ながら呉式の神獣鏡になる。
倭人はそうした産地特性には頓着することなく、「魏朝から頂戴したありがたい鏡」ということで、
これに魏朝の年号を入れさせたのではないか。

今まで誰ひとりとして唱えることのなかった「新しい神獣鏡の世界」だが、
素直に理解できる奴がいるかなー。