【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
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南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか? 特に吉野が落とされた後はもはや北朝側に分裂が生じない限りもはや付け込む隙が無かったからな
その意味でも正平一統は最後のチャンスだった 洛陽長安程度の差じゃないもんなあ
あえていえば、平陽(三皇五帝の終わり近い堯帝の時代の都)と長安の差ぐらいか、辺鄙度や距離感的に。 薬子の変の時期にはまだ平城京は副都のような重みがあったしなあ それに平安京はまだ作られて間もなく平城京の方がある意味では上だったとも言えた 中国の南北朝は同じ文化圏において南北に別々の王朝があったというだけ
日本の南北朝は親族間の王位継承争いが長期化したようなもの 王朝の分裂とは違うけど源平時代初期の
頼朝(関東東海)
義仲(北信越)
平家(西日本)
これが日本史でもきれいに勢力圏が分裂してた数少ない例なんじゃないだろうか。
南北朝ったって中国みたいに北と南に国がわかれたのと違い、
日本各地で「オレは武家でオマエは宮」と入り乱れてたからな。 それは義経によって崩されてしまうんだよな
そしてそれは本人自身をも破滅させるわけで >>589
そのうち平城京に戻ると思ってる関係者がまだまだ少なくなかった時代だしな
難波京や恭仁京のごとく平安京も短期間で廃絶されると信じる根拠は、全くないわけではなかったし ある意味ではこの勝利によって平安京の最初の権威が出来たとも言える 東北地方の端まで日本の版図に入ったのが奥州藤原氏を滅ぼしたとき、
逆に言えば秀衡の領土の多くはまだ日本の版図ではなかった
といっても秀衡の領土の全体が日本の外だったわけでもない、
境界みたいな感じか 中国の三国時代に四番目の国、遼東公孫氏(燕国)があったみたいな感じかな 秀衡は正式な陸奥守なんだから
その勢力圏は日本の版図と言っても
差し支えないのでは? 599で書いた通り
真っ先に(蜀を滅ぼすより先に)滅ぼされた燕と
義仲や平家よりあと最後に滅ぼされた奥州藤原氏だと順番違いだけどさ 南朝(百済朝廷)と北朝(新羅朝廷)、どちらが正統な皇統なのか?
またはどっちもイヤ? また『天子神璽』の話をしているの?
もしかして聞いたこともない話だった? >>604
朝鮮三国時代は日本と支那の南北朝みたいな当時から正統性で争う歴史はないだろ。 三国志だと、
魏と蜀のどっちが正当性があるのかという論争はいまだにあるね
こういう結論が出るわけもない過去の歴史の名分を争う議論を「腐儒の論」と言います もともと正統は魏だったが、宋代の特殊な対外関係のもと、
宋と遼や金との関係性を投影した結果として、
蜀こそ正統という新しい発明がなされたんだよ 日本土人は新羅から出張してきた天皇のもと農奴にされ
この日本列島上で新羅の王族と百済の王族が争った
それを源平合戦とか南北朝時代とか呼んでいる
多分、自民と民進もチョン同士の争い ちなみに新羅の神話時代の王の一人は倭から渡海して新羅を制覇してる 東晋や南宋といった政権時代に正統論の方向が決まったんだよな
要するに自分たちと同じ立場だから
あと孔明が持て囃されたのは有能な忠臣を求める願望から 献帝には曹丕への禅譲を拒否する環境にない
だから献帝の譲位詔書を無効とする論も理解はできるよ
現代でも脅迫による契約は無効だ 但し献帝が生きている限り劉備の即位は認められない
だからその即位は献帝は殺されたという捏造を前提に行われている 暴力による強制が無効なのは近現代特有の例外で、古代中世なら有効だぞ
滅亡した旧王朝からあとを託されたわけでもないのに親族だからという理由だけで
亡命王朝をたてても、実際のところ、王朝としての連続性もないし、
同時代人の大半は正統の後継者とは認めてなかったんだよな、蜀漢も東晋も。 東晋の場合はまだ北の勢力が分裂状態だったためまだ正統を主張できたが >>617
有効無効をいうなら、天意を受けたといって勝手に帝位に即位するのも有効だわなw そもそも天命をうけたと言って勝手に即位するのが中国での基本であり本道なので、
亡命政権が抵抗を続けることの意味自体がない
正当性の根源が血筋ではなく天命にあるのだから。 確か比叡山での和議で新田の重臣が後醍醐を罵ったのもそこだった 下手に叱れば殺されなかったので皇太子の恒良を人質同然に渡して窮地を脱出
実質的には見捨て見殺しだった 皇子だけじゃなく神器も渡したんじゃなかったか
窮地を脱してすぐに偽神器と発表して義貞の怒りに油を注いだが だから北陸勢力については吉野の南朝とも違った独立勢力という見方もある 懐良と違って吉野南朝との連携を欠いたんではないか、という意味じゃないの >>628
懷良と菊池は九州独立を目指したのでは? 南朝皇子は大なり小なりその傾向があったようだね。
一番メジャーなのが北関東の藤氏一揆でしょ。
興良親王を担いだとも言われてる。 >>629
吉野側の令旨と九州側の、それぞれの発給文書の照らし合わせ研究の結果から、かなり末期まで独立志向ではなく連携指向で動いていたと考えられるようになった模様 新田の北陸王朝は独自の年号使って半独立、
藤氏一揆は明らかに北畠に非協力的だったな。 九州の独自性は距離の問題もあるだろうな
ある程度の専行が認められなければ状況の変化に対応出来ないと 征西府からの発給文書について、吉野方の追認文書を欲しがるものが多かったり、
征西府を経由せずに直接に吉野と交渉したがるものがいたりして
割りと複雑だった模様 後村上は懐良を呼び戻して片腕として働かせようとしていたようだし、
決して二人の関係は悪くなかったと思う。
興良は後醍醐に迫害された護良の息子だから吉野に反発するのも当然、
新田も恒良も捨て駒扱いだから独立しようと考えても不思議ではないわな。 独立ってのがまずできない
鎌倉室町にかけては自分に正当性があるんだ〜!って在地の豪族らに味方になるよ〜に募集かけるスタイル
どこか陣所に腰掛けてどれだけ兵が集まるか?ってのも賭けなんだよ 自分の身内の兵数なんていいとこ300人くらいだぞ
武辺とか名前が売れてるとかで集まる兵の数がまったく違ってくる
木曽義仲なんてのも上洛したときの主力兵なんざ丹波兵が多かった
在地に行ったときは在地で兵を集めるんだよ >>637
足利尊氏全国で7000余。新田義貞越後新田党などをあわせて1500。 逆賊に神風吹いた多々良浜
さぞかし戦前は説明し辛かったろうな 638
全国ってか三河くらいしかいないだろ
三河で集めて上洛んとき一万てやってたが? >>640
北は陸奥から西は美作まで。丹波篠村で後醍醐方に叛いたんだが、丹波にも足利の拠点があった。 >>641
637さんが300とかいうから、新田のような貧乏御家人でも1500程集めてるぞと言いたかっただけ。
東関東系といっても義家流はほとんど尊氏に従って京都に行って、信濃源氏や佐竹とかの義光流が多かったんでは?山名とかは新田一族でも尊氏に従ってたんもんね。 足利新田の私兵といっても、 その多くの割合が、分家達の私兵だ
だから戦時においては本家が一方的に威張れるものではなく、
分家達の助力が必要だった >>644
新田も山名には相手にされず尊氏に従われ。岩松は信濃源氏を勧誘に行き別行動。
でも越後新田党は「本家の一大事」と里見が旗頭になり大館・大井田・田中・羽川と碓氷峠に馳せ参じる。 佐々木京極、土岐らの系統違い源氏も源氏の棟梁という概念での集合意識が多少はあったのかな >>642
丹波は母方の上杉じゃないかな
実際集まった中に細かい清和源氏系もいたかもしらんが それ自体がもう一つの幕府だった北条得宗家単体の動員力はどのくらいだったか 御内人って北条氏の家人ってことだろ
高一族は足利の家人だから、間違ってはいないがな
んで、徳川の家人は旗本・御家人と譜代大名だ >>651
徳川の御内人は長崎や高ほど権力ないみたい。 徳川の家人の筆頭とは要するに老中だぞ
長崎とか高より権限が少なく見えるか、お前さんには? >>653
ドラマで見た感じでは長崎円基は執権の金沢貞顕や赤橋守時をあごで使っていたし。
高師直も足利直義を追い落そうとしたりしていたぞ。 高氏没落の後は特権的な家人というのは無くなったんだよな
その意味でもあれは画期だった そういや室町時代は御内人で権力握る人少ないね
上杉のち日野のような嫁権力は鎌倉時代と同じく出てくる
侍所など官庁の官僚的なのも多少出てくる蜷川とか伊勢とか
満済は幕府組織的にはどこから出てきたんだろ 有力守護大名一族の一系を大名に一系を身内的な将軍直属権力へと
分断策として一族内の数人を色々な所に配属して本家争いをさせるみたいな政策だから
この一族は身内人だと単純に括るのが難しくなってる 鎌倉時代に御内人という特殊な身分が発生したのは、北条氏が実質的な
支配者であったにもかかわらず名義上の主君ではなかったからでしょ。
室町、江戸の両幕府にはそういうねじれはなかったから、そういう特殊な
身分も発生する余地がなかった。外様だろうと譜代だろうと徳川家の家人で
あることには違いないし。
敢えて比較するなら、藩政・幕政を壟断した家老・老中の家臣がそれかもしれないけど。
井伊大老家中の長野主膳とか。
>>651
外様大名だって徳川家の家人だぜ。 つっても、普代が従者的な立場に近いのに対して外様大名は家礼に近い立場だぞ、客人と部下の中間。 源将軍→執権→得宗の内管領とどんどん内側の実務層に実権が移ってく様はたしかに興味深いが
様相としては戦国時代の下克上と似たようなもんかも
平禅門や長崎が北条得宗を打倒しなかっただけ 正平一統の前の北米朝と幕府の間にはいろいろと悶着があったみたいだな >>663
室町時代の後期にも将軍→管領→三好→松永という同じような構図があったね。 長崎とかは滅んだあと得宗のもとに権力が戻ったけど、
三好松永のあとは管領に権力戻ってないんだよな 斯波も細川も畠山も
分裂してたり家臣に実権奪われてたりで
所領の実効支配ができてないし
幕府権力そのものが有名無実化してたからな >>667
でもまた長崎へ移った
北条貞時は平頼綱を滅ぼした後、
御内人を統率する内管領を北条一門の北条宗方を任じた
そして10年後の嘉元の乱で貞時が連署の北条時村を滅ぼすが、
北条氏庶流(大仏宗宣ら)の反発が強まり、鎌倉が騒然となる
貞時は父時宗の二月騒動に倣って、下手人11人を処刑して事を収めようとしたが、
収まらない。結局、北条宗方を斬り、平頼綱と同族の長崎高綱を後任の内管領に
任じ、大仏宗宣を後任の連署に任じたことで収束したが、貞時は統治意欲をなくして遊興にふけるようになった。また幕政の実権は長崎高綱が掌握するようになった。
ここからは史料がなくてもうそうだが、この一連の出来事で大仏氏ではなく、
長崎氏が幕政の実権をなぜ掌握できたのか?
それは貞時と北条氏庶流が対立した時に、長崎氏ら御内人が「動かなかった」からではないか。だから貞時は庶流に屈服せざるをえなかった。庶流も長崎氏のおかげで勝てた。だから長崎氏が幕政の実権を掌握できたのではないか。 まさに御内人自体が独自の勢力として確立していり感じですね
大河ドラマでもやってましたがまさに長崎氏がキングメーカーに 御内人の実像としては河内の楠木氏のような中小地頭などの悪党勢力をイメージしてる(正しいかどうかわからない)
田畑水利だけじゃなく各地の河川、港湾、街道などで得宗の名を利用して儲けてた層のボスとして長崎がいたんじゃないかと
そしてそれらは得宗権力崩壊後、南北朝どちから縁故が深い方を奉って各地での利権争いを継続していった感じ 北条って権力の大きさの割に儲けてないイメージ
んで楠氏って零細じゃなさそうなイメージ、ってか地頭じゃなくひょっとしたら御内人じゃないか? 畿内を活動地盤にしてる武士の大半が当時は商工系だったという説もあるがな
楠も赤松も特殊ではなくむしろ普通だとかで。 名和はよく言われてる通り日本海側で海運業に従事してた武装商人集団でしょ >>677
後醍醐を隠岐から脱出させたのは、阿波にいた新田の支族の岩松の流れをくむ海運業者と聞くが。
名和が海運業者なら名和の手でやったらいいのにと思うんだが。 名和には後醍醐を救出しに行く義務も義理もない
よって船を出す理由が全くないだけの話 海運するにしても自衛戦力がいるし
金貸して借金のカタとして土地や下司や地頭職などを持ってたりもするし
という感じじゃない
名和の実態について詳しく調べたことないわ 尊氏と直義の政治的態度の違いについてよく議論されるけど
尊氏はこういう層も含めた総合的な頭領を目指したのに対して
直義は源氏与党含めた関東武士と従来的支配者(貴族寺社など荘園領主)の正当権利しか認めなかった
と捉えてる 高野山、興福寺など権門領主の寺社が
薬屋、情報業、酒など食品産業、各種建築工匠などを兼ねた総合コングロマリットみたいな感じになってくのもこの時期 永代供養とかでまとまった寄付をもらっても、毎年の法事の度に資金は減って、しかし新しい収入は他の人の供養の分しかない
(荘園領主としての収入が別にあるけども)
なら、利殖で預かった財物を増やして年々の供養代に充てないと永代という言葉が嘘になってしまう
そのために寺院が利殖を行わなくてはならなくなったのだと聞いたとき、目から鱗が落ちた気がした >>683
そう言えば、2-3年前高野山財テク失敗してたな。 利子とか利息ってのは伝統的農耕社会の価値観では理解できない不労所得なので、
神仏の権威を背後にもって初めてできたんだ、って説も聞いたことある。
ユダヤ人みたいな被差別民だけが金融に携われた、てのとも通じるものがあるな。
聖なるものと賎なるものは紙一重ってことで。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています