武家政権時代の朝廷公家は、覇道の世界によらない、学問、文藝の世界に身を置くことで保身を全うしてきたわけだが、
関ヶ原の戦いの丹後田辺城攻城戦のさい、不意に朝廷は、自らの意思を表明する
「幽斎を喪うのは、朝家の嘆きである」

なぜ、この時だけ、朝廷が、いにしえの国家権力のような毅然とした姿勢をとったのかね