複合下層の変容-都市型被差別部落における高齢化問題を中心に
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/1460/1/r-sbk-ky_013_003.pdf

戦前から都市スラムとして形成されてきた朝日町では、元々人々の流動'性が非常に高かった、という事実がある。
これは「固定された身分的差別」という我々の部落に対する素朴なイメージを壊すものだが、
こうした流動性の高さは、この地域が日本の資本主義の発達過程にしっかりと組み込まれていたことを表しているのである。
朝日町の周辺には相対的に貧しい地域が広がっており、ここをクッションとして、人々は一般地域と朝日町とを往来してきた。
一般地域における貧困層が、同じ階層文化を媒介としたインフォーマルな出会いを通じて朝日町に流入している。
このことがこの地域の階層的同質性を確保してきたといえる。

そして、戦後の解放運動と同和対策事業の展開によって地域内部での階層が分化し、
一部の住民は同和奨学金や公務員への就職などによって階層を上昇させると、よりよい暮らしを求めて流出していく。
地域内の同和住宅には収入や世帯員数などによって細かい規定が多数存在し、ある程度安定した職業を得て結婚し、
子供が大きくなると、60年代や70年代に急造されたレベルの同和住宅ではどうしても生活しにくいという現実がある。
そのため、教員や公務員、会社員などになった住民たちは、周辺に流出して一戸建てやマンションを購入するようになっていく。
もちろん流出した人々のなかには、完全に朝日町と連絡を断ってしまうことなく地理的にも近いところに住宅を購入して
解放運動の地元支部にも参加を続けているものも多くいるのだが、とにかく解放運動や同和対策事業の影響、同和住宅への入居規定など、
構造的な要因によって朝日町を始めとする都市型部落から多くの住民が流出していることは確かである。

こうした流動性の高まりのなかで、比較的若く高学歴で収入の高い層が流出した結果、地域内に残って暮らす人々が次第に高齢化していったのである。
興味深いことにこの高齢者たちもその8割が転入者である。
インフォーマルなつながりを辿って、同和事業で住宅が建設された朝日町に転入し、年金や生活保護で暮らすようになっているのである。
この人々にとっては他の地域へ転出する理由はまったくないだろう。