>>95
>幕府側からの幕藩改革であって、それも結局は実行できなかったからな


文久2年(1864)10月、土佐勤王党と長州の武士達は土佐藩主山内豊範を擁して、
土佐→京都→江戸に下り、幕府に攘夷を迫ります。
(京都からは、勅使三条実美・副勅使姉小路公知の護衛としてですが…)

まさにその時、文久2年(1864) 10月20日
春嶽は「一翁が『あくまで朝廷が幕府に攘夷を迫るのであれば、
いっそ大政を奉還して駿・遠・三の三国に引きこもっちゃえ』と言ったのは名案だけど、
(幕府の重鎮たちは)腹を抱えて笑って残念」と言ってます。(逸事史補)

(その後一翁は、慶喜と板倉たちに左遷されられます 11月5日付で 『続再夢紀事』『昔夢会筆記』)


で、春嶽と容堂は親友でしたから、この提案を知ってたと。
(ひょっとして容堂も豊範と一緒に江戸城に行ったかもしれません)

だから5年後に龍馬→後藤経由で、大政奉還を再び聞いて、この案を思い出したんじゃないのかなぁ
(つまり大政奉還は龍馬の考えじゃないよと)