ところが名主と組頭が組んで不正を行うことが多かった。
本当は500石と言ってきたのに550石と指示されたと言って余計に集めネコババ
したり、組頭が自分の分を軽くしてその分を他の四人に負担させたりした。
明らさまな不正でなくても、村受け制度の結果、その年収穫が悪くて年貢を払えない
百姓がいれば他の百姓たちが立て替えなければならないわけで、最終的な割り付け
やその償還・利子の支払いにあたって不正が行われることが多かった。
さらに、村の入り用(村の自治のための費用)は年貢とともに集めるので、年貢より
多くの米を集める。そこで、入り用の額を誤魔化すという形で不正が行われる
余地もあった。
(字が読めず計算もできないと誤魔化されることが多かったので、百姓たちは子供に
読み書き算盤を習わせた。これが日本で識字率が高かった理由の一つだという。)。

こうした誤魔化しを監視するために、江戸時代中期から本百姓たちの代表としての
百姓代という役職が設けられたのである。
百姓代の活動を通じて、本百姓たちは年貢の仕組みや村入り用の内容を知り、改革
の意思を持つようになった。特に本百姓たちが問題にしたのが村役人に対する種々の
免租の特典であった。不合理なものというより、村役人たちが勝手に作り出したものが
多かったのである。年貢の割り付けや立て替えも不公平なものが多く、村入り用に
関する不正も多かった。せっかくの百姓代も名主たちと同じ穴のムジナであることが多く
なり機能しなくなる。すると本百姓たちは改革を求めて騒動を起こした。
これを村方騒動という。
百姓一揆が領主に対する反抗であるのに対して、村方騒動は不正を暴いて領主に
訴えるところに違いがある。