{{{源氏の素性・正体}}}
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新羅三郎 八幡神 突如とした騎馬集団 義経モンゴル逃亡説 言えばきりないほどの渡来系疑惑。 真実を解き明かそう ここが腑に落ちない。過去、古事記や日本書紀は 夢に出た→お告げ→大義名分 という解釈してる。三郎がなぜ新羅神社の夢だけそのような拡大解釈したのか。 あなたも毎日夢見るでしょ?なぜその中で新羅神社だけチョイスしたと思う? たとえば島津家。あの一族は秦王朝の末裔を自称してる。 だから島津は惟宗姓を必ず名乗ってた。 名乗りまで上げるというのは、それ相応の思い入れがなければやらない。 なぜ三郎は夢で一回出たものをそこまで担ぐ必要があったのか? >>3 いや、賀茂次郎のみ説明できますか? そもそも源氏の氏神八幡神は半島由来の神だし。 二つ巴の紋がもろじゃないですか。 新羅三郎も夢のお告げといってます。なぜ夢で新羅となるのか・・・ >>4 いえ、自らを秦氏続の末裔としょうし、朝廷の古代の侍である渡来系秦氏族惟宗氏を、 姓として代々名乗るほど。 新羅三郎もまさにこれに近いものと考えられます。 通常なんらかしかの出自に関わるものでなければつけないと思われます。 たとえば、日本には騎馬による集団戦法はそれまで存在しません。 突如として源氏集団が平安後期に使い始めた戦法です。 刀の湾曲にしてもこれらすべて北方系にまるで瓜二つです。 例えば、ある大学教授の論文を引用しますが、 古代中華帝国が北方民族にあれだけ幾度にも滅ぼされた要因は騎馬にあるとしています。 北方の騎馬は足が速く、当時たいした鞍も存在しない中、 手綱さばきしながら乗りこなし、さらには武具を使いこなすということは当時北方系にしかできなかった。 中華帝国の軍団が結局北方騎馬民族以上に騎馬集団戦術をマスターできなかった要因とも語ってました。 確かに北方騎馬民族は生まれたころから馬を操り放牧民族として生きています。 代々の操馬技術の伝承は神敵領域だったでしょう。 なんせ古代中華帝国が、化け物みたいな長さの万里の長城作るくらい恐れていたわけですからね。 義経がモンゴル逃亡説などもまんざら日のないところに噂は立たぬと思うんですよね。 彼ら源氏はなぜ、日本に集団騎馬戦術の土壌も何もない中、突然に習得し、また使いこなせたのか。 渡来系が関与していると思わざるを得ないんですよ源氏にいたっては。 そもそもが臣籍降下による賜姓源氏の出自が怪しすぎる。 あれだけ大量に存在したわけで、朝廷も管理ができてたわけじゃない。 そもそもが天皇の血といっても、相手が白拍子などが非常に多く、そもそもが出自不詳が多いということ。 要は渡来系が非常に名乗りやすいものでもあった事実。 ま、八幡、加茂、新羅というのは、父・頼義が神人ほかそれぞれの神社勢力を味方につけさそたくて、子息たちをそれぞれそこで元服させたってことなんだろ。 渡来系の影響に関しては、頼信が本拠地とした河内国がそれまでどんな経過を辿った土地かを見れば一目瞭然なわけで。 まあ騎馬民族云々はともかく、 秦氏の匂いは二代満仲の頃からついて回るが。 二代満仲が父で源氏初代の経基より年上になっている系図を、その後天下人を何人も出している最高権力者の源氏が訂正もさせずに採用し続けている点、 英彦山が承平・天慶の乱における満仲伝承を有する点などをみても、 二代目以降の源氏に限りなく怪しさが漂うのは事実だが。 軍事貴族はみな渡来人由来。 ・藤原利仁:秦氏の代表的な根拠地の1つ越前国がその根拠地。事実利仁自身、母と妻が秦氏。 桓武平氏:言わずと知れた高野新笠(和史氏)が母系。また秦氏の本拠地山城国に平安遷都決行。 ・藤原秀郷:秀郷が創建した由緒を持つ神社がことごとく稲荷社(同社は秦氏の氏神社)。また同族・利仁からの下野国における権益地盤継承の高い可能性。事実、のちには互いに重層した姻戚関係を築く。 ・橘遠保:橘氏前身の縣犬養氏の本拠地は河内国古市郡。同地は同時に王仁吉師や百済王氏の本拠地である。 ・大蔵春実:前身は言わずと知れた渡来氏族東漢氏。 こうやって見てくると、 軍事貴族で渡来人由来が不明なのは嵯峨・仁明系源氏ぐらい。 >>8 >>9 すごい勉強になりました。ありがとうございます。 もっといろいろ教えてください。 あと伊勢三郎など、渡来系疑惑のある人物もいますよね?! 詳しい方お願いします。 >>6 >たとえば、日本には騎馬による集団戦法はそれまで存在しません。 平家の歴史を追うしか方法はありませぬ エルサレムも含めて歴史を遡ってくださいw あの、なんたら太平記にのってる 「高麗人数百をひきいてかの国よりどうのこうののお末」 ってなんの説なのよ? 日野俊基が足利尊氏にしゃべってるけどさ。 たとえば頼朝。 源氏が操り人形にすぎなかったと証明できる人物。 そもそも頼朝をかつぎあげたのは北条得宗家 自称平氏一門の彼らが頼朝を担ぎあげ、平氏一族を打ち滅ぼした。 そして用がすんだら、義経義仲兄弟も消し、そして頼朝の子たちも全員暗殺された。 その後は北条得宗家の実効支配でしょ 得宗家の野望に使われた程度の存在。その大義名分に使われた程度。 要は源家という家名だけが独り歩きしているだけで、 そこに鎮座する人間など誰でもいいわけで。 義経があれだけ戦上手なのは、源氏の姓を名乗った渡来系(北方民族系)という可能性は十分ありますよ。 だからモンゴル帰化説もあるし。 だから最後は全員根絶やしに消されてる。出自がばれるのを恐れて。 かなり信憑性あると思うのですが・・・ >>1 嵯峨源氏 - 泰氏 仁明源氏 - 高麗氏 文徳源氏 - 漢系三善氏 清和源氏 - 百済系三善氏 陽成源氏 - 百済系三善氏 光孝源氏 - 百済氏 宇多源氏 - 坂上氏 醍醐源氏 - 調宿禰 村上源氏 - 文宿禰 冷泉源氏 - 百済王氏 花山源氏 - 文宿禰 三条源氏 - 無姓 後三条源氏 - 栄山忌寸 後白河源氏 - 長国忌寸 順徳源氏 - 秦氏 後嵯峨源氏 - 大崗忌寸 後深草源氏 - 山代忌寸 亀山源氏 - 清宗宿禰 後二条源氏 - 浄村宿禰 後醍醐源氏 - 清海宿禰 正親町源氏 - 木津忌寸 >>6 >たとえば、日本には騎馬による集団戦法はそれまで存在しません。 では、ニニギは馬乗りが得意と聞きますが、論点の相違になりますね >>15 コリアンは黙れ 逆なんじゃないの? 古代新羅の王族には明確に日本人がいた。歴史書にも書いている。 その子孫たちが新羅神社を作ったんじゃないのか? >>13 平家の直系は、筑波山周辺に定住していた 関西方面に住んでいたのは、役目を終えた一部の分家と考えれば事が足りる 住めば都だし、筑波山に帰る気がなかった一部 >>19 安倍晴明(源氏)は、ニニギの転生体 VS 平家はニニギの末裔 果たして、どちらに権威があったのか >.18>>19 >>20 難しいので、もう少し分かりやすく教えてください。 平氏について、群書類従や大乗院の記述に、 「異国人が京都の一角にいて貿易を行っているが、ことごとく平の姓を名乗っている」 と書かれてるんですよね。 また上宮聖徳法王帝説に、聖徳太子の母の名を穴穂部間人といい、 間人とは当時ペルシャなどのアーリア系を指すものだそうですよ。 で、源氏は平より諸族といいますか、グループが多く、多岐にわたるのに、 庶流や傍流などと称するものがあれほどいて、 なぜ渡来系がいないといえるのか? 源姓は渡来人にとって都合のいい呼び名として用いられててもおかしくないはず。 実際源氏、特に清和系の長者は肉親だらけで殺戮の嵐。 これは渡来系などの仮冒がおおく含まれていたと考えるほうが自然ではないのでしょうか? >>22 の続きですが、義経の鞍馬伝説では天狗に兵法を教わったとされてる。 その後モンゴル逃亡説。 なぜ生まれてから死ぬまで、そこまで天狗や大陸などの渡来系の関わりを肯定するような、 物語ばかりまとわり着くのでしょうか? 挙句は義経のあの戦い方。いくら義仲や為朝など、武勇で有名なものはいますが、 あのような騎馬戦術や、壇ノ浦での梶漕ぎまで平気で射抜くという野蛮さは、 渡来系としか思えない。 そもそも、島津じたい、惟宗のくせに、頼朝の隠し子を自称して清和源氏を自称したりなど もう日本人だって何でもありになってるのにね。 源氏に多くの渡来系が仮冒してたという可能性がものすごいと思うんですよね。 単純に多田新発意とその子頼光が、摂津多田あたりで「武装地元ボス」化 した結果ちゃうかなあ。 気になるのが多田神社近くに東光寺があり、 猪名川下流の地名が「きのへ」⇒原地名「きぬのべ」で その東側に「佐伯山」と言う、謎の坑道の残る山が あることだが…… 関東は、高麗人。 東北越、中国地方は、新羅人。 東海は、河北人。 大阪は、百済人。 倭人は、居ませんよ。 >>27 関西人の祖神は、新羅渡来王子の天日矛命ですよ。 その裔で有名な神功皇后もねっ 大和・新羅・台湾のベースは倭人です。 新羅建国は、倭人の昔氏で そこに、秦国から逃げて来た秦人が同居し、神功皇后の三韓征伐で大和の属国化で、新羅秦氏が渡来した次第。 神話のスサノオウやアメノウズメも新羅渡来 jawpの記事も大半が低能生体botによる水増し 町名、学校、旧自治体、ショッピングセンター、警察署、裁判所、 役所(自治体記事とは別に、また庁舎自体が歴史的・文化的価値を持っているわけでもないのに 部署一覧だけ書いた[[○○市役所]]を乱造するバカがいる)歴史的・文化的価値を持っているわけでもないのに 漫画・アニメ・CDなどの単独記事、芸能人などが歴史的・文化的価値を持っているわけでもないのに jawpの記事も大半が低能生体botによる水増し 町名、学校、旧自治体、ショッピングセンター、警察署、裁判所、 役所(自治体記事とは別に、また庁舎自体が歴史的・文化的価値を持っているわけでもないのに 部署一覧だけ書いた[[○○市役所]]を乱造するバカがいる)歴史的・文化的価値を持っているわけでもないのに 漫画・アニメ・CDなどの単独記事、芸能人などが歴史的・文化的価値を持っているわけでもないのに jawpの記事も大半が低能生体botによる水増し 町名、学校、旧自治体、ショッピングセンター、警察署、裁判所、 役所(自治体記事とは別に、また庁舎自体が歴史的・文化的価値を持っているわけでもないのに 部署一覧だけ書いた[[○○市役所]]を乱造するバカがいる)歴史的・文化的価値を持っているわけでもないのに 漫画・アニメ・CDなどの単独記事、芸能人などが歴史的・文化的価値を持っているわけでもないのに jawpの記事も大半が低能生体botによる水増し 町名、学校、旧自治体、ショッピングセンター、警察署、裁判所、 役所(自治体記事とは別に、また庁舎自体が歴史的・文化的価値を持っているわけでもないのに 部署一覧だけ書いた[[○○市役所]]を乱造するバカがいる)歴史的・文化的価値を持っているわけでもないのに 漫画・アニメ・CDなどの単独記事、芸能人などが歴史的・文化的価値を持っているわけでもないのに >>9 >軍事貴族はみな渡来人由来・・・・・・・・・・ 桓武生母が渡来系だから桓武平氏が渡来人由来とすると、桓武以降の皇胤は 皆々渡来人由来となってしまうが? 渡来人由来近隣に渡来系氏族が居住だけで、縣犬養氏も渡来人由来決めつけは 何故なの? 渡来人由来に一括したいが為に、強引過ぎやしないか? >>7 そういや九州の大蔵氏の者が 「源光」という源氏を名乗り、朝廷に認めてもらおうとしたけど 露見した事件があった。 一応皇族にワイロを払ってお墨付きを得ていたが、 名前がその直前まで実在していた源氏と同じであり、 そこからばれたらしい。 >>3 賀茂氏も秦氏と非常に関係が深いってよ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E6%B0%8F そもそも賀茂神社の伝承と稲荷大社(秦公伊呂具)の伝承って ほとんど同じじゃなかったっけ。 同族とは言わないにせよ、幾重にも婚姻関係を結んでいそうだな。 そもそも満仲の「多田」ってどういう経緯で獲得したんだ >>35 10世紀の畿内摂津国に当時の土木技術で開墾できる土地があったはずもなく、 多田庄の支配者家に婿入りし継承したと考えるのが妥当でしょう。 >>36 >当時の土木技術で開墾できる土地があったはずもなく このフレーズ、北条氏スレにも書き込んでたな。 ペルシャやトルコの騎馬民かな 新羅には倭人や秦人がいたみたいだな 渡来系疑惑とか言うと天皇藤原はじめほとんどの勢力が渡来系もしくは渡来系となんらかの関わりを持った勢力になる。 日本列島固有の民は縄文人だから。 百済の民族系統は扶余で北方ツングース国家だったんだろ 北方民族に乗馬の習慣はないから、源氏は中央アジアのステップロードやシルクロード経由で辿りついたんだろう。 正倉院にはペルシャ由来の輸入品が納められている。平家がアーリア人というのも頷ける話だ。 藤原氏が文芸貴族なのに対して 源氏は軍事貴族だったみたいだから記録には書かれることはあっても 自伝の編纂みたいな事はあまりやってないみたいだな。 だから目の敵にされ、やれ渡来系だの悪く書かれる事がある。 白村江の戦いがあったからだろうけどね。 新羅は倭人が建国した国だったからな、もともと。 それをワイ族に乗っ取られたので、大和朝廷は軍事介入する羽目に。 民主党政権になった時、あきらかに新羅より百済側を持ち上げる流れがあったが、今の天皇さんの爺味とか爺意。 歴史の教科書には藤原氏優位に書いてあるはずだ。大和朝廷と藤原氏の関係はよくはっきりしていないところがある。 トンデモではないだろ。源氏の武将は戦国時代に多くいたじゃないか。 賀茂氏と秦氏は一族の中で姻戚関係結んだのがいただけで、 父系でみたら、全く違うぞ。 秦氏は渡来系だったので、賀茂氏に限らず、様々な大和朝廷の有力貴族と 婚姻関係を結ぶことによって、渡来系で数少ない成功者になった。 新撰姓氏録では、秦氏は諸蕃とされていて、つまり渡来系であるが 賀茂氏は天神と地祇の二系統があり、つまり、日本土着の貴族だ。 賀茂氏は、大きく二つの系譜があって 元祖の賀茂氏は、カミムスビ系の賀茂氏であり、天神(ヤマト朝廷の譜代)とされ、 もう一つは、大田田根子の後胤で、 そのカミムスビ系の賀茂氏の一族に婿入りして賀茂氏であり、 これが地祇(ヤマト朝廷から見たら外様)とされている。 前者の賀茂氏は、神官の家として、賀茂神社で有名。 一方、後者の賀茂氏は、陰陽道の名家として有名。 平安末期の清和源氏の賀茂次郎義綱は、その賀茂神社で元服しただけ。 後世の源氏の白、平氏の赤というイメージも、 新羅の白、百済の赤から連想したのかも >>45 もう、そういうトンデモ説はうんざりなんだよ。 まじで、そういうバカ説をまき散らすやつは発禁処分にしてもよいぐらい。 それと同時に、もっと、このあたりの歴史を学校でしっかり教えないとな。 日本書紀は、出自に関しては、必ずしも、藤原氏にとって有利な記述になってない。 日本書紀や古事記、新撰姓氏録を見たら分かるけど、 藤原氏の前身の中臣氏は、ツハヤムスビ系の貴族とされており、 この系統の貴族は、中臣鎌足が登場するまでは、のきなみ、中流貴族までしか 出世していない。 平氏は百済ではないんじゃないか? 平氏は百済渡来なのか? >>51 まじでじゃないんだよ。歴史の教科書に物部なんて出てこないだろ。 >>51 日本社会は藤氏優位に出来ている証拠は握っているが、ここではあえて書かないことにする。 ヤマト朝廷の天神(譜代)の貴族では、最高の名門はタカミムスビ系で、 その次がカミムスビ系とされる。 タカミムスビ系は、その起源は、高野山の麓にあり 大伴氏、元祖の葛城氏、元祖の忌部氏なども、その一族である。 ヤマト朝廷の王家の初代の天忍穂耳命の妃は このタカミムスビ系の女性であり、 この一族は、大和朝廷の初期の外戚一族として勢力を誇っていた。 足利幕府における上杉氏に近い存在ともいえる。 この一族は、天野山の麓の貴族だった大和朝廷王家の祖先と 婚姻関係で結ぶことにとって、 高野と天野の合一、高天王朝を創始するにいたった。 一方、カミムスビ系で有名なのは、元祖の賀茂氏だ。 しかしながら、中臣氏、藤原氏、卜部氏などの系譜である ツハヤムスビ系は、藤原氏の台頭まで、中級貴族までしかなかった。 記紀を見ても地味で殆ど活躍していない。 そんなわけだから、記紀の内容は、出自に関しては 意外にも、藤原氏にとって有利ではない。 唯一の有利な解釈は、大化の改新についての記述であり、 これは、本来は、蘇我氏が改革派であり、中臣氏や天皇家は守旧派で、 中臣氏らが、蘇我氏を葬り去ったのだが、 のちに大化の改新で改革派の蘇我氏の政策が見直されたために、 中臣氏や天皇家が蘇我氏を誅殺したのは間違いだったことになったために、 そのために、蘇我氏のことを必要以上に悪く書く必要に迫られたためである。 藤氏を減らさないことには日本は甦らないのだ。 わかるかな。 スレの話題とは離れるが 古代の王家は婚姻関係において、合従連衡していた。 高野と天野の合一(天忍穂耳と栲幡千千姫の婚姻)で、 高天王朝が誕生し この王朝は、また婚姻関係で、 出雲との合一(天火明と天道日女の婚姻)することによって 全国規模の王朝になった。 また、男系主義であり、父方の家系を出自を明確に分けていた。 たとえば、賀茂氏、忌部氏、葛城氏にも複数の系譜であり これらは、婿養子との関係であり、そういう系譜ができたのだが 婿養子に入った一族とは、その婿養子先とは明確に区別されていた。 賀茂氏でも、カミムスビ系の賀茂氏、そこに婿養子にはいった三輪系の賀茂氏を 明確に別系統とわけていた。 忌部氏なんかも、本流はタカミムスビ系だが、 阿波忌部氏は、カミムスビ系であり、タカミムスビ系の忌部氏に婿養子にはいった一族で 両者は別系統ということで、明確に区別されていた。 >>49 ルーツはもちろん違うのは分かるが、 秦氏や新羅の影響は半端じゃなさそう >>40 >藤原氏が文芸貴族なのに対して >源氏は軍事貴族だったみたいだから・・・・・・・・・・・・・・・・ 文芸貴族?管見にして初見なんだが、文筆作品をものする貴族? 藤原氏の公卿や女官が日記類を残したことを指しているのか? 自伝を残した藤原氏なんぞおったかな? また臣籍降下した十六源氏>>15 殆んどは非軍事貴族であって、清和源氏・ 宇多源氏等ほんの一部が、武士化しただけなんだが。 渡来系だと書かれるのは、悪く汚名という言いようも偏見ではないかね? 田村麻呂は、悪く言われておるかね? あと、秀郷、桓武平氏ともに「犬養氏」との縁が深い。 満仲の縁者にも橘氏がおり、 これは三千代とは関係無い、 別の犬養氏じゃないかなと、 >>60 ??? 日本書紀の編纂は藤原氏がやってたんだろ? >>1 答え @身分が色々になったり、誇大になるのは【源氏及び平家は、低姓身分者】であり、【身分栄誉語り】が多かったから A見れば一発でわかると思うが、源家は家でもなく非管轄低姓身分で、例えば新田などのように、領地、知行、身分、管轄などを持っていないため 名前が源のままであり、それは低姓身分制を表す 上位身分 新田←ただの地頭 下位身分 源氏 上位身分 渋谷、上総、三浦など 下位身分 平氏 当時の源平姓はもう11世紀以後は如実に下位身分をさしたもの。 Bそして実態の社会階級は ・非領土管轄者 ・傭兵ギャング の集まりであり、戦国の浪人傭兵同様の低姓で、新田程度の末端の地頭職、知行ですらなかったため、実態はこじきスレスレ傭兵であった。 そしてこじきが【身分語り】をしてたのが実態 Cそしてこじきと傭兵ギャング→身分語りときて→後九年で反乱、強盗、虐殺を働いて、社会的についとうされた、これは十分な資料と記録で残ってる。 Dその後、佐々木や児玉党集落(坂東武士領地)に侵入、乗っ取りを働いて、【悪、悪源氏】といわれた。いわゆる棟梁生んたらとか、源氏がいろんなとこにいたりすんのわ、【殆ど侵入強盗】によるもので、これも十分記録に残ってる。 Dその後、佐々木や児玉党集落(坂東武士領地)に侵入、乗っ取りを働いて、【悪、悪源氏】といわれた。いわゆる棟梁生んたらとか、源氏がいろんなとこにいたりすんのわ、【殆ど侵入強盗】によるもので、これも十分記録に残ってる。 そもそも平氏の反乱も侵入強盗に近いが、完全に、源氏の侵入強盗 が先にあってリスペクト受けたフシがある。 E常に源氏は身分語りが多いが ・てんけいの戦いにおける傭兵身分→この時点でも寓話における、源身分があるが、記録上の地位はない ・11世紀の官僚支配者→下級官僚の徴税員であり、仕事もろくにできなければ、地位的身分など書いてなく【バイト】のような身分 ・後九年の反乱と強盗→大和官僚から追放 低姓身分ですら損失した強盗 ・以降坂東武士に寄生、傭兵というより大和ー坂東ねごしえーたーとしての食客身分に雇われる。 ・雇われたのに、一族で大侵入強盗 ・平治の乱でリスペクトとなる このように義朝まで完全に低姓身分で、当時と後期の改ざんで高い身分に倒置されてるが、記録と状況で下級身分で、 身分語りしてた低姓身分とわかる それこそ以降のよりともなんかもっと酷く @じょうふ、食客、ニート、ネゴしえーたー身分 A上総暗殺で坂東武士権力にクーデター Bニートが暗殺されても権力を取れないので、イニシアチブをはっきできない C権力に、うるさいので形成、似非身分の将軍のちいをもらう D暗殺←当時のきろくでわ暗殺 枕創始の寓話の中だけで転落死となってるが日本史で転落死者は少なく、転落死=あんさつしを指すのであんさつ E勢力一門追討 となってよりともクーデターも失敗後の末裔も死亡で暗殺 源寓話って殆ど、源氏と徳川の改ざん神話で、実態はようは大和リストラ身分から山賊にまでなった落ちぶれ記 源氏は武家だからな。平家と同様落ちぶれた者もいれば成り上がった者もいるだろう。 藤原のほうが暗殺や乗っ取り、改竄の手口は汚いがな。まあ源氏は武家である以上その特性は否めない。 ごろつきも多かったに違いない。だから戦国時代に至ったんだろう。 実際に新羅系だとしても、 頼義の時代にまでそんな意識が残ってるかは疑問 とりあえず、徳川は、源氏ではなく、ただの愛知の豪農 これが真実 嵯峨源氏 - 泰氏 仁明源氏 - 高麗氏 文徳源氏 - 漢系三善氏 清和源氏 - 百済系三善氏 陽成源氏 - 百済系三善氏 光孝源氏 - 百済氏 宇多源氏 - 坂上氏 醍醐源氏 - 調宿禰 村上源氏 - 文宿禰 冷泉源氏 - 百済王氏 花山源氏 - 文宿禰 三条源氏 - 無姓 後三条源氏 - 栄山忌寸 後白河源氏 - 長国忌寸 順徳源氏 - 秦氏 後嵯峨源氏 - 大崗忌寸 後深草源氏 - 山代忌寸 亀山源氏 - 清宗宿禰 後二条源氏 - 浄村宿禰 後醍醐源氏 - 清海宿禰 正親町源氏 - 木津忌寸 半島とか言うと藤原だって半島か怪しい。 平氏だって秦の流れは汲んでいるだろう。 司馬遼太郎 本名(福田定一) が 源氏は突厥系騎馬民族だと言っていたらしいが、あながち間違いじゃない。 >>71 いいえ 真の出自は、南朝足利冬直が実施した最初の倭寇の大河内氏だから、出自を伏せただけですから・・。 >>70 頼義流清和源氏が、新羅系だと一体誰が主張していると? 頼義父頼信の母は、南家藤原保昌の妹だから、父満仲が通説通り 経基王の子なら新羅系ではありえないぞ。 >>82 皇孫六孫王こと源経基が新羅系というのは、経基母が新羅系渡来人だと? 経基母は、何氏の女なの? ウクライナのステップにいたスキタイだろ。新羅は高句麗や百済の扶余族ではないはず。 >>87 荘園制度前の母系崇拝で資金提供を高野氏の百済人から受けて成り立ってた家柄なのだろう。 家の従兄の平田氏がその時代の兵氏公家ルーツ。 家は、源氏初代長者の源融の家柄・・。 >>88 の訂正。 >家の従兄の平田氏がその時代の兵氏公家ルーツ。 家の従兄の平田氏がその時代の平氏公家ルーツ。 高棟王流末代 小笠原氏末代の家の母方繋がりの従兄だわぁ・・ 源氏って21もあるじゃんか。どれかに絞れよ。話が混乱する。 名前から来るイメージと逆さまで武を好むのは平家、源家は 文治を重んじるのではないか? 宮廷舞台の源氏物語と軍記である平家物語の違いに重ねて考える 見方もある。 源家鎌倉三代目の実朝も一所懸命に歌読みして歌名を挙げたけど 平家北条の手先に首討たれちまったろ。 実朝も文治をやりたかった。 >>86 >>90 これが真実 嵯峨源氏 - 泰氏 仁明源氏 - 高麗氏 文徳源氏 - 漢系三善氏 清和源氏 - 百済系三善氏 陽成源氏 - 百済系三善氏 光孝源氏 - 百済氏 宇多源氏 - 坂上氏 醍醐源氏 - 調宿禰 村上源氏 - 文宿禰 冷泉源氏 - 百済王氏 花山源氏 - 文宿禰 三条源氏 - 清川忌寸 後三条源氏 - 栄山忌寸 後白河源氏 - 長国忌寸 順徳源氏 - 秦氏 後嵯峨源氏 - 大崗忌寸 後深草源氏 - 山代忌寸 亀山源氏 - 清宗宿禰 後二条源氏 - 浄村宿禰 後醍醐源氏 - 清海宿禰 正親町源氏 - 木津忌寸 自分から進んで渡来系を自負してた人物は朝廷には少ないな。 うちは母方が源氏系で、家紋が16菊に一なんだけど、おんなじ人いるかな。 名前は、地元茨城県で数が多い、弓野家。 奥州征伐の時に、帰りに茨城県の里美街道というところから、 地元に住み着いたらしい。 で、そのお婆さんの方の家系が、菊池っていうんだけど、 うぃきったら、菊池というのは肥前の方の発祥らしい。 わざわざ遠く離れた田舎まで来たんだなあ。 菊って言うから皇室かと思っていたんだが、 菊池っていう地名から名をとったらしい。 で、母が言うには、菊池の方が菊地より格上なんだそうだ。 皇族系の落胤(落とし種)とかが生活保護廃止!とかナマポがどうの!とか 小生意気にやらかしていたかどうか!?を国民レベルで調査しないとイカンぞ。 もしそういう悪事をやっていたならば大問題だ。 天皇皇族制は完全廃止しないといけない。江戸時代じゃないんだから(怒) 源満仲の出自は 陽成帝の母后藤原高子が不義密通し東光寺座主善祐の児を妊り、寛平8年(896年)9月に 廃后されている。 陽成上皇は退位後、頻繁に摂津国で下人を引き連れ狩猟を行い乱暴狼藉を働いたとされている。 摂津国多田院の近くには東光寺の末寺が存在する。 以上の事柄より 満仲兄弟の実の父親は陽成上皇の異父弟であり 満仲兄弟は陽成上皇の取り巻きとして狩猟に供奉し乱暴・狼藉時には暴力装置として機能していたと思われる。 また、経基との関係は 満仲兄弟の叔父である陽成上皇が兄弟を同族の経基の養子とさせ皇孫裔に潜り込ませたのである。 満仲兄弟の実の祖父東光寺座主善祐は秦氏の出自である。 >>98 藤原高子は善祐の子を妊娠してないよ 高子が不義密通の罪で皇太后を剥奪された寛平8年(896年)、 高子は55歳だ。 秦氏押しの人は自分の考えた物語を事実だと思い込んでしまっておるまいか 清和源氏って胡散臭いって思ってたけど やっぱりそういうことだったんだな。 源経基が武蔵介に任官した時、源賜姓されてなかったので泰氏確定。 なので源満仲の出自は泰氏。 清和源氏=泰氏 Q 清和源氏の出自は泰氏だということを知っていますか? ・知っていた ・今知った >>104 ん?じゃあ俺源氏の血をひいてるから秦氏なん? 皇族と源氏と平氏の末裔の男系遺伝しを調べたらはっきりするね >>86 >>90 >>105-106 これが真実 嵯峨源氏 - 泰氏 仁明源氏 - 高麗氏 文徳源氏 - 漢系三善氏 清和源氏 - 百済系三善氏 陽成源氏 - 百済系三善氏 光孝源氏 - 百済氏 宇多源氏 - 坂上氏 醍醐源氏 - 調宿禰 村上源氏 - 文宿禰 冷泉源氏 - 百済王氏 花山源氏 - 文宿禰 三条源氏 - 清川忌寸 後三条源氏 - 栄山忌寸 後白河源氏 - 長国忌寸 順徳源氏 - 秦氏 後嵯峨源氏 - 大崗忌寸 後深草源氏 - 山代忌寸 亀山源氏 - 清宗宿禰 後二条源氏 - 浄村宿禰 後醍醐源氏 - 清海宿禰 正親町源氏 - 木津忌寸 八幡太郎義家 新羅三郎義光 鎌倉悪源太義家 木曽義仲 新田義貞 >>98 >陽成上皇が兄弟を同族の経基の養子とさせ皇孫裔に潜り込ませた・・・・・・ 養子にするとどういう利点があったの?自らのでなく元平親王の 子経基の養子としたのは、何故なの? >満仲兄弟は陽成上皇の取り巻きとして狩猟に供奉し・・・・・・・・・・ 己が后だった藤原高子の不義の子の子を、陽成が取り巻きに加えるのは、 何故なの? >>68 そうなんだよ。 だから源氏層のゴロツキには渡来系チンピラが流入していた節が有るわけですよね >>74 平氏は高角率でトルキー秦氏系は間違いない 群書類集や大乗寺院周伝記にも 六波羅周に、鼻が高く目の窪んだ異国人が皆平姓を名乗っていたとかいてある n >>95 だが武士には多いよね。ドイツも頭悪くて滅亡してるの多いけど 源氏・平氏は渡来系氏族 嵯峨源氏 - 泰氏 仁明源氏 - 高麗氏 文徳源氏 - 漢系三善氏 清和源氏 - 百済系三善氏 陽成源氏 - 百済系三善氏 光孝源氏 - 百済氏 宇多源氏 - 坂上氏 醍醐源氏 - 調宿禰 村上源氏 - 文宿禰 冷泉源氏 - 百済王氏 花山源氏 - 文宿禰 三条源氏 - 清川忌寸 後三条源氏 - 栄山忌寸 後白河源氏 - 長国忌寸 順徳源氏 - 秦氏 後嵯峨源氏 - 大崗忌寸 後深草源氏 - 山代忌寸 亀山源氏 - 清宗宿禰 後二条源氏 - 浄村宿禰 後醍醐源氏 - 清海宿禰 正親町源氏 - 木津忌寸 桓武平氏 - 泰氏 仁明平氏 - 交野忌寸 文徳平氏 - 鳥井宿禰 光孝平氏 - 中科宿禰 >>106 べつの板でY-DNAでは源氏はD2の可能性が高いというのを見た 源氏は縄文系の末裔ということになる >>121 やっぱ浮囚系も多数源氏を自称してたんだろうな 大陸にも雲南の羌族D1系統みたいな旧モンゴロイドがいて 太公望や始皇帝や徐福なんかもそうだったらしいけどな チベットにはD3系統の旧モンゴロイドもいるとか 顔立ち的に縄文系D2と見せかけて羌族系D3な奴もいるんじゃないの 徐福=神武天皇説もあるくらいだし 秦王朝の生き残りの客家ってのが中国にはいるけど 孫文なんかは二重瞼で旧モンゴロイド顔 李鵬は混血が酷くて新モンゴロイド丸出しな顔になってるけど・・・ 秦氏はD1系統じゃないの 秦王朝の生き残りだけに 徐福が行った場所だから日本に来たんだろ 客家の人間 孫文 ttp://www.pahoo.org/culture/numbers/year/img1911-03.jpg 李登輝 ttp://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/i/img/09_img01.jpg ケ小平 ttp://cache5.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/22973001080.jpg 李鵬 ttp://livedoor.blogimg.jp/is709-toanews/imgs/c/b/cb9fc96f.png 李鵬はユダヤ人イルミナティの悪魔の13血流の李家らしくてロックフェラーやロスチャイルドと同じくらいヤバいらしい ダビデの聖なる血流とかいうのが親玉っぽいけど マグダラのマリアが何気にダビデ王の子孫だったりするイエスの子供のカール大帝を生んでダビデの聖なる血流のメロヴィング家になったらしい。 ブッシュ大統領がそうだとか・・・ マリアって黒人らしいし、イエスもコーカソイドだけど中東系で白人じゃないし、その場合、カール大帝は白人ではなく有色人種って事になるけど、 よく古代なんて時代に白人国家の皇帝になれたな。 ダビデ王のエフライム族はアッシリアに古代イスラエル王国が滅ぼされた時に抑留されてどこかに消えたらしい。スキタイに混じって東の方に逃げて行ったという伝説もキルギスあたりにはあるけど エチオピアの王家はダビデの息子のソロモンと黒人のシバの女王の子供の血筋だったっぽい エチオピア王 ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/dc/Mittelholzer-haileselassie.jpg イスラエルのアミシャブって機関の調査によれば、チベット人の一部と雲南省の羌族の一部は遺伝子調査の結果イスラエルの失われた十氏族だったらしい。 日本はアミシャブの調査を拒否してて不明。 縄文人はD2ではなくD1bだったことが明らかに 2014年6月2日 v.9.70のY-DNAツリーが揃いました。今回は前回のY-DNA「C」の全面見直しに続き、 我が縄文系最大のハプロタイプのY-DNA「D」の全面見直しが実施されました。残るはY-DNA「O」のみとなりました。 Y-DNA「D」はこれまで「D1」,「D2」と「D3」に分類されていましたが、全て「D1」に統合されました。この結果我らが」 「D2」は「D1b」になり、羌族・チベット系の「D1a」とY遺伝子的にこれまでより近い関係に位置付けされました。 これで文化や風俗、言語などますます羌族やチベット族との親近性が問われることになります。当ガラパゴス史観の主張である 中国古代神話とイザナギ神話の同根性やかぐや姫民話のチベット民話との同根性など信憑性が高まってきました。 日本人は極東海中の隔離された特異な集団では決してなく、アジア周辺に同根の遺伝子を持ったアジア最古の古代遺伝子 Y-DNA「D」と「C」を基盤に持つ古代的集団であり、新興遺伝子のY-DNA「O」の先進性を併せ持つ先進的集団でもあり、 古代性と先進性の2面性を併せ持つ先進国では極めて珍しい民族性を発揮する集団なのです。 D系統が先住民でO系統が後から来たってのも眉唾物だな・・ 母系遺伝子は新モンゴロイド系ばかりなのに男系遺伝子だけ半分、旧モンゴロイドだし 旧モンゴロイドが先住民なら母系遺伝子も旧モンゴロイド系になるはずなのにおかしいんだよな だいたい旧モンゴロイドといえば雲南とかチベットにいる西方系民族だし 本当は新モンゴロイドのいる日本列島に後から徐福とかの旧モンゴロイドがやってきて民族浄化しまくったのかもしれない だいたい古事記の日本神話で神武天皇が西から船でやってきて日本を制圧したって書いてあるじゃん。 最初に大阪に上陸したけど反撃にあって先に九州を攻めたとか書いてあるし マジレスすると皇室は男系遺伝子調べたらD系統だった。ついでに徳川も・・・ >>8 清和源氏系は、皇孫仮冒か? 286 :日本@名無史さん:2014/07/31(木) 12:58:15.74 ただ源氏の初期の勢力扶植は大和、摂津、河内だね 武家源氏でこの系統だけが突出した謎も・・・・・・・・・・・・・ 継体天皇 13 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1384518434/286 D系って過去に大陸では大量に虐殺されて 今はチベットもその対象にされてるし 日本以外は完全に未来はないな >>130 それだと畿内や東海が旧の遺伝子だらけになって 東北や九州が新でないとおかしくないか >>130 >旧モンゴロイドといえば雲南とかチベットにいる西方系民族・・・・・・・・・ 中国大陸の揚子江や黄河流域の大族呉・越・漢族を忘れておるぞな。 藤原経清を鋸引きしたのは源頼義だぜ 源氏は残忍だよな 基本的に源氏はDQN 単に増えただけ あそこの勢力(精力)だけは一丁前 藤原氏は知性・教養・気品あふれ・他者をおもいやる・弱者を助ける精神の子孫が反映した 藤原氏が他者を陥れたと言う人物は一人も出てない これが格の低い源氏と高貴な藤原氏の格の違い ただ、源氏が野蛮な証拠こそ、仮冒たる由縁じゃないのか? ただ、源氏が野蛮な証拠こそ、仮冒たる由縁じゃないのか? >>132 あと、武家源氏は宇多源氏の佐々木ぐらいか?僭称だろうけど、今年大河 の黒田とかも一族。 八幡、賀茂、新羅と みんな新羅との縁深いところばっか 源氏・平氏は渡来系氏族 嵯峨源氏 - 泰氏 仁明源氏 - 高麗氏 文徳源氏 - 漢系三善氏 清和源氏 - 百済系三善氏 陽成源氏 - 百済系三善氏 光孝源氏 - 百済氏 宇多源氏 - 坂上氏 醍醐源氏 - 調宿禰 村上源氏 - 文宿禰 冷泉源氏 - 百済王氏 花山源氏 - 文宿禰 三条源氏 - 清川忌寸 後三条源氏 - 栄山忌寸 後白河源氏 - 長国忌寸 順徳源氏 - 秦氏 後嵯峨源氏 - 大崗忌寸 後深草源氏 - 山代忌寸 亀山源氏 - 清宗宿禰 後二条源氏 - 浄村宿禰 後醍醐源氏 - 清海宿禰 正親町源氏 - 木津忌寸 桓武平氏 - 泰氏 仁明平氏 - 交野忌寸 文徳平氏 - 鳥井宿禰 光孝平氏 - 中科宿禰 >>1 >>122 源氏は、出雲先住系(出雲族の南関東・国造家など含む。)の籍入れが多いな・・ 平氏は、土地を行き交う民人・百済渡来人などとの社人との縁重視。 徐福も羌族出身者だからD系統って考えられてるのに 渡来O 先住Dって事にしたがってる奴が意味不明だ 渡来Dも存在するだろうに スサノオの出雲族=縄文人 アマテラスの天孫族=羌族 ツクヨミの民族=大月氏(チベットとスキタイの混成民族) って考えた方が無理はない 全部D系統の旧モンゴロイド系だし チベットにはかぐや姫と似たおとぎ話があるらしいじゃん 数字の数え方もチベット語では 1 チー 2ニ 3 スン 4 シ だし 琉球語のナンクルウナイサが何とかなるさって意味だって日本人には何となくわかるじゃん 羌族は日本語の意味が何となくわかるらしい 遺伝的にみると弥生人ってのはベトナム人や苗族の仲間だけど 日本語が言語的にベトナム語と全然違うのは D系統の旧モンゴロイドが日本では優位で支配的な地位にいたからだと思われる 日本語なんかは羌族語や琉球語やチベット語との比較であきらかに旧モンゴロイド系の言語 清和天皇がルーツの源氏の男系遺伝子も調べたら全部D系統だし 天皇の遺伝子もD系統の旧モンゴロイドだと思われる 大陸には羌族がいるから渡来人でないとは言い切れないけど 古事記の神武天皇なんか日本に上陸して日本を征服したって書いてあるし 隣の国がファビショるからあまり名言されないけど しかし、羌族系の始皇帝や太公望とチベット人や日本人が遺伝的に近いってのは シナがチベットや日本を征服するのを正当化する口実として利用されかねないから全く危険ではないとも言えない かと言って科学的にみると本当っぽいし否定もできない 都合の悪い事は全部嘘扱いなんて思考じゃ隣の国みたいな野蛮人になってしまう その辺はアメリカ人もイギリス人もインド人もイラン人もアーリア人だったらナチスドイツの軍門に下らなきゃいけないのか的な理屈でも主張しとくべき 羌族とか雲南省にわずかにいるだけの人口の1パーセントにも満たない少数民族だしね 中原の地に最初にやってきて夏王朝を作ったのが羌族らしいけど そもそも日本列島は最初は無人島だし 縄文人も含めて全て渡来人 皇室は、第113代 東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔内粘膜の解析により、 縄文人のD1b(D-M64.1)に属するD1b1a2の系統と言われ、明治天皇も東山天皇の男系子孫 に属する。 D1系統は羌族系、D2系統は縄文系、D3系統はチベット系 D1系統はチベット人にも見つかっている 何かを恐れて古代中国にいたD1系統の羌族がD2やD3のいる日本やチベットに逃げてきたって事か 何かの存在が何なのかも気になる やっぱ匈奴とかの北方遊牧民 承平六年五月、一人の高貴な女性が殺害されました 数え年で十六歳の少女でした 早朝の都大路で衣を剥ぎ取られ野犬に喰われた無残な姿で発見されたのでした 幼い甥っ子を可愛がっていた心優しい少女でした 捜査に当たったのは若い検非違使の下級官吏でした 何故かすぐにこの下級官吏は事故だと断定し上奏され沙汰止みとされました 本来であれば王朝国家を揺るがす大事件だったのですが或る勢力によりその真相は隠蔽されたのでした 殺害された高貴な女性の名前は斉子内親王と言い亡き醍醐天皇の皇女で卜定され伊勢斎宮の宣下を受けたばかりでした そしてにわかに後任の伊勢斎宮に卜定されたのは式部卿重明親王の王女で摂政太政大臣藤原忠平の外孫の徽子女王だったのでした 亡くなった斉子内親王の母親源和子の母親は藤原氏ではありませんでした 応和元年、ある富裕な受領の京の邸宅が武装強盗団に襲撃を受けました 単なる物盗りだけではなく恨みによる犯行とも考えられました 程なくして捕えられた強盗の一味が主犯と共犯は醍醐天皇の皇孫親繁王と清和天皇の皇孫源蕃基と供述しました 「頭目は親繁王で奪った財物も全て親繁王の元にある」と 源蕃基は経基君の兄弟で、頭目とされた親繁王は25年前に無残に殺害された斉子内親王が可愛がっていた甥っ子だったのでした そして襲撃を受けた邸宅の主こそ、斉子内親王殺害事件当時、疑惑の若い検非違使の下級官吏であった源満仲だったのでした 承平九年、経基君は誣告の罪で左衛門府に拘禁されてしまいました 空想癖の為せる業と申しましょうか 武蔵介経基君は平将門、興世王、武芝の兵に囲まれたと勘違いし京都に逃げ帰って 「将門謀叛!」と妄想を炸裂させてしまったのでありました しかし相手が悪かった 将門の私君は摂政太政大臣藤原忠平だったのでした 将門は常羽御厩の他、複数の牧を管理運営していて摂関家とは経済的繋がりもあったのでした しかも忠平の嫡男大納言藤原実頼は「道理と謹直」を重んじ、「義理と人情」を掟とする陽成グループとは相容れぬものが有り 事あるごとに陽成グループに辛く当たっていました ある日、左衛門府に拘禁されていた経基君の前に見覚えの有る一人の男が現れました 「経基王さま、お久しゅうございます」 左衛門志縣犬養満仲と名乗るその男は陽成グループのワケあり強面の若い衆の一人でした 陽成ボスの指令で左衛門府の下級官吏に潜り込み経基君のお世話を命じられたのでした 満仲は続けて言いました 「経基王さまをお救いする所存でございます」 そして「それがしの摂津国多田はまつろわぬ者どもの土地でございます」 経基君は「???」 実は満仲は傀儡の集団の頭目でもあったのでした 「配下の者が常陸国で騒ぎを起こす手筈になっております 将門は必ずや喰らいついて来ましょう・・・」 経基君は「な・な・な・何と?」 程なくして常陸国で朝廷を震撼させる大事件が起こりました 義侠心溢れる平将門は困窮し助けを求める者に促されるまま常陸国府に兵を率いて直談判に赴き勢い余って国府を占領してしまったのでした 将門は図らずも朝廷に叛旗を翻すこととなったのでありました 経基君の妄想による讒言は現実のものとなり誣告の罪は一転して褒賞へと変わったのでありました 藤原忠文はこの時代には既に低迷していた藤原式家の出身でありました 家祖百川以来の名門ではありましたが祖父春津が馬にうつつをぬかし身代を傾けてしまったのでした 蔭位の制にも与れず朝廷でのキャリアを内舎人からスタートさせた叩き上げでありました 近衛など武官畑を地道に歩み鍛錬し研鑚を重ねお家芸とも言える馬・鷹の名手と言われるまでになりました 天皇を退位させられて20年余り、持て余す暇を狩と武芸に費やしていた陽成上皇がこの男を放って置く筈はありませんでした 宿命かのように陽成ボスに召し出されたのでありました 「尚武の気風天晴れである 朕に近う仕えよ」 忠文は陽成ボスの御給により従五位下に叙爵され弟忠舒も取り立てられ兄弟揃って陽成グループ構成員となったのでありました 「もう後戻り出来ねぇ・・・」 忠文は覚悟を決めました なんだか周囲にはワケありの強面の若者たちが侍るようになっていました そんなある日、怯えたような表情をした経基王と呼ばれる幼子が連れて来られました 経基君は空想が好きな少年でした 空想の中では幼い時に死別した顔も覚えていない父貞純親王に会えるからでした 厳しい陽成グループの虎の穴のような武芸の特訓も身が入らずいつもうわの空でした いつしか空想に耽ることが癖になっていたのでした 陽成ボスは経基君の身の上を不憫に思いながらも心を鬼にして武芸を仕込もうと決めていました それは二軍皇族が臣籍降下した末路を憂いてのことだからでした 陽成グループは醍醐朝摂関家の栄華を横目で見ながらも、弾正尹元平先輩を若頭に戴きしぶとく頑張っていました 武闘派藤原忠文は燃える志を秘めていました 「わが藤原式家を再興するのだ!」 朱雀天皇の御世天慶二年、待ち望んだチャンスが訪れました 陽成グループ長老の源清蔭の後を受け参議に昇った直後に坂東で平将門が謀叛を起こしたのでありました 忠文は征東大将軍に任命されましたが心配な点がありました 「征東軍の幹部が弟忠舒をはじめ陽成グループばかりではないか・・・? あの空想癖の経基君までいる・・・・」 それは摂関家嫡男藤原実頼のワナでした 忠文「将門に負ければ陽成グループは全滅してしまう・・・・・・!」 天慶三年如月 右衛門督征東大将軍藤原忠文は軍勢を率い美濃国に差し掛かっていました 坂東で反乱を起こした平将門を討伐する為でした 忠文は憂鬱でした それは部下の副将軍にあの経基君を付けられたからでした 「いくら弟忠舒が院司を務める陽成ボスからの強力なプッシュとは言え経基君は無いよなw」」 間もなく、それは杞憂に終わりました 将門は藤原秀郷等に討ち取られたとの知らせが届いたのでした 「ああ良かった・・・」 征東軍は京都に帰還しました ところがすぐさま朝廷から今度は征西大将軍として藤原純友を討伐せよとの命令が下ったのでした 拝領した人事表に目を通した瞬間 「あっ経基君がまたもや副将軍だ・・・・」 忠文は奈落の底に突き落とされたような気持でした 陽成グループ恐るべしw ある日、経基君は年上の従兄弟の元平先輩に陽成院御所の裏に呼び出されました 「何があっても俺がお前を守ってやるからな。代わりに院の狩場の多田の面倒をちゃんと見ろよな。」と言い含められました 経基君にとって以前行った多田の印象はあまり良くありませんでした 多田は都の隣の摂津の国なのに全くの異界でした 住民の顔立ちも都人とは違って耳慣れない言葉が聞こえてきました 従者に尋ねると「皮革業の渡来人の末裔や陸奥の国から連れて来られた俘囚ですよ。」と答えが帰ってきました 経基君にはどこかケモノの匂いが漂う馴染めない土地のように思えました 天慶九年小春日和の神無月 暖かい陽だまりの中、筑紫の地で経基君はのびのびしていました 太宰権少弐の仕事はお気楽でした 心強い上司小野好古と有能な部下大蔵春実にオンブにダッコでOKでした そこに急を告げる使者が 「な・な・何?対馬に国籍不明の大きな軍船が襲来したと・・・・・?」 経基君は青ざめ目が泳いでいました 頼もしい上司の太宰大弐小野好古は在京中で不在だったのでした 「ど・ど・ど・どうしよう?春実あとは頼んだ!」 そこにどこかで聞き覚えのある野太い声が 「おう親父さん 元気か?」 経基君「み・み・み・満仲!駆けつけてくれたのか?」 「何の話だ?俺は嫁さん貰ったので報告に来ただけだけど」 満仲は摂関家藤原忠平・師輔父子と昵懇の源俊の娘を妻に迎えたのでした なんともまあ、抜け目のない養子満仲でありました その後、異国船騒ぎは立ち消えとなったものの上司好古を介し満仲の主人忠平にその旨報告して賞され おぼえめでたく経基君は労無く筑前守に任じられたのでありました 孝行息子をくれた陽成グループに感謝したことでしょう 応和元年11月、経基君は死の床にありました 彼は自身の数奇な人生を振り返り「悪くない人生だったな・・」と呟きました 言葉とは裏腹に彼の心の中は複雑な幸福感で満たされていました 二軍皇族陽成グループは彼に対して過酷でもあり温かくもありました 陽成ボスも元平先輩も裏街道を歩む者共通の優しさを持ち合わせていました 「ガラの悪い兄弟を揃って養子にして間違いはなかったんだ。」経基君は自分を納得させるように心の中で繰り返しました 運も彼に味方しました 告げ口したり純友の末端部下を捕えただけで承平天慶の乱鎮圧の勲功にも浴しました 陽成グループが陰でサポートしていたことも知らずに・・・・・ 経基君は図らずも武門源氏の開祖と担がれ仰がれ神にまで祭り上げられました あの世で経基君は「血の繋がりよりも義理だ」との言葉を深く噛みしめたことでしょう 陽成ボス崩御後、陽成グループがどうなったか定かではありません しかし血の掟は脈々と闇の世界で受け継がれました「独り占めは許さない」と まんまと源氏の養子に納まり摂関家権力をバックに莫大な富を蓄えた満仲も例外ではなく謎の襲撃を何度も受けました 経基君の子孫を自称するならず者達は自分勝手な欲望の果てに混沌たる「武者の世」をもたらしました その日、頼信は焦っていました とにかく焦っていました 「俺もヤバイのか?」 見えない闇の勢力が自分にも迫りつつあることを敏感に感じ取っていました 平忠常の乱を平定し大将軍と持て囃され平直方とも提携して坂東に足がかりを築き始めたばかりの時でした 危機を感じていました 「兄者の大和源氏のように没落したくない」 「親父の満仲のように出家して逃れるか?」 「いや頼光兄者のように歌の世界で生きるか?」 「だけど俺には才能は無いけど野望だけはある」 気が付いた時、頼信は誉田神社に駆け込んでいました そして八幡神に縋ろうと筆を執り一心不乱に書き綴りました 応神天皇ーーーー清和天皇ー陽成ボスー元平先輩ー経基君ー満仲親父ーオレ 頼信は八幡神(応神天皇)の前で闇の勢力陽成グループに「義理を果たした」と信じました 願いは届いたのか頼信の子孫だけが武門源氏として繁栄したのでした 釈放の朝、左衛門府の門前には黒塗りの牛車と黒装束の若い衆がズラリと並んで経基君を待っていました 一同一声に 「お勤めご苦労様です!」 経基君は訳も分からないまま陽成院御所に連れて行かれました 陽成ボスに出所の挨拶を済ませたあと元平先輩から一言 「そなたを将門討伐の副将軍に入れておいたから」 経基君は「えっ!???」 朝廷の議定で征東大将軍に陽成グループきっての武闘派藤原忠文が任命されたのでした そして征東軍幹部には陽成グループの面々が名を連ねていました 大納言藤原実頼からしてみれば良い厄介払いであったのでした 出征を前に経基君は陽成ボスから激励のお言葉を頂戴しました 「必ずや武勲を挙げ源氏賜姓の誉とせよ」 経基君は自分の知らないところで臣籍降下が決定していたのです 朝廷財政再建をめざして藤原摂関家を中心に策定された延喜式は皇族のリストラ整理だけでなく下級貴族に対しても過酷なものでした 「臣籍降下したならば王氏爵の保障は無くなり一介の任用国司では生きて行けぬ・・・・」 「何としても武功を挙げ受領に成らなければ・・・」 しかし武芸の無い経基君には土台無理な話でした 天慶三年、藤原純友討伐の山陽道追捕使小野好古の次官だった経基君にチャンスが巡ってきました 経基君に同行していた縣犬養満仲が純友配下の桑原生行を捕えたのでした 満仲は含みを込めて経基君に言いました 「子の武功は即ち親の武功です」 経基君は今度はすぐに理解しました 「うむ!」 経基君はなんとか武功を挙げ太宰権少弐を経て念願の受領に就任出来たのでした そして満仲ら三兄弟はまんまと経基君の養子に納まり清和源氏を名乗っていました 経基君の家族は複雑でした 先ず満仲・満季兄弟が養子となりました 満仲の連れ子の満政は経基君の養子として次男に 、満季の連れ子の満頼も経基君の養子に納まりました しかし満季は安和の変の罪滅ぼしか自分の家督を源高明の孫致公に譲りました 経基君の本当の息子は頼光でした そこで満仲は清和源氏乗っ取りを確かなものにする為に策を講じ頼光を自分の養子としました 通貴な経基君の血を受け継ぐ頼光は宮廷官人として栄進し「大内守護」摂津源氏の祖に 血生臭い満仲の血を受け継ぐ満政・頼親・頼信は摂関家権力の走狗として「もののふ」武家清和源氏各流の祖となり武威を振るいました D系統がO系統に征服される流れになってるのにある日突然D系統優位になるって事もあり得ない話ではないな ムガル帝国時代のインドはE系統のセム人種アラブ人が優位でR系統のアーリア人種インド人は被征服民として抑圧される側だったけど ある日突然、R系統のアーリア人種がインドでは優位になった。 アングロサクソンってR系統のアーリア人種がインドを植民地にしたから。 アラブ人はパキスタンやバングラディッシュに押しやられて支配者から一転、不利な立場に 東山天皇の子孫の男系遺伝子が羌族と同じD1系統だし 天孫民族は羌族とかなり近い民族である可能性が高い たぶん縄文人(D2系統)を弥生人(O2系統)が征服してる所にいきなり羌族系の天孫民族(D1系統)がやってきて日本を征服しちゃったんだよ うちは源氏の男系男子らしく江戸時代までは代々朝廷から源姓貰って 戸籍謄本を幕末まで遡ると曾々祖父さんの本姓は源だが 耳垢湿性で軽い腋臭で骨格もゴリラっぽいし縄文系の特長だよ まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 源氏も藤氏も卑怯なだけで、何のロマンもないゴミ。平氏のほうが格上。 幕府や城造りに関わっているのは、ほとんど桓武平氏。 平氏は早々に朝臣氏族として途切れてしまい、 正式な氏族としては残って無い為、全て自称でしかない。 西洞院家「…」 平松家「…」 長谷家「…」 交野家「…」 石井家「…」 あー、そう言えば公家の平氏は朝臣氏族として残ってたな。 自称は武家の平氏ね。 陽成グループの黒歴史を解明して、このスレの使命は終わりました。 ぼく(僕)のかんがえた(考えた)やみ(闇)のれきし(歴史) ドラマスペシャル「陰陽師」を見たけど 俺も式神が欲しい♡ 源博雅が「曾祖父の代から伝わる橘林も笛」と言っていたから 母方は橘氏(縣犬養橘氏)ということだな 母方の身分が低いので臣籍降下させられたのであろう 日本人の20%近くを占めるO3(黄河文明人)ってどの集団なんだろうね 源氏だと考えてる人もいるみたいだけど O3と一口に言っても、さまざまなサブハプログループの寄せ集めだし、 地理的分布もおおむね「西高東低」の傾向が見られるから、繁殖して子孫を残した源氏集団には相応しくないように思う。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。 ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。 ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり うどんやおやきは麦料理だし麦食人と米食人って分類だと日本人は雑食って事になるな。昔っから米も麦も食べる。白人の真似してパンを食べるようになっただけではない。 源泉(みなもとのいずみ) 平安中期の人物。中級貴族、歌人。 嵯峨源氏融流。正四位下参議。 天皇親政派として税制改革に取り組む。 しかし、国衙荘園領からの貢納を領主からの直接徴収に切り替えようとして摂関家に潰される。 世にいう源泉徴収の変である。 現在の税制の一つである「源泉徴収」は彼の事績に由来する。 みんなの査読求む(一部スレチ)。 @邪馬台国は呉と同系統(太白の後裔) A卑弥呼は九州から纒向へ移動→ヤマト王権 B出雲には秦王朝の徐福らが先に基盤 C出雲が大和に服従(配下となる) D新羅から秦王朝系の渡来人(秦氏)が流入 E蘇我氏も秦氏で、大和王権で権力拡大 F聖徳太子(秦氏=新羅系)は蘇我入鹿 G一方、呉の流れを汲む百済からも渡来人 H百済(=呉)系(中大兄皇子、藤原氏)が復権 I新羅系の大『海人』皇子(天武)が復権 そして↓ @百済(=呉)系の平家が台頭 A新羅(秦王朝→秦氏)系の陽成(=清和)源氏復権 (※源氏は『海人』の棟梁) …以降、源平(新羅・百済)交代を繰り返す。 >>128 神話イスラエルがメソポタミアからの分化だとして日本はメソポタミアでの神扱いのオアネス(スクナヒコ) だろうに、見猿言猿聞か猿して十支族ガーとかの検査されてもナー 源氏は二十一の流派がありますよ。 その全てが天皇家から出ております。 例えば、清和源氏ですが、仮に陽成天皇からの流れでも、天皇家から出ていることには変わりがありません。 ttps://www.youtube.com/watch?v=1A4qru2HFt8 >>197 概ね同意するが、付け加えるならDとEの間に D’ 応神(新羅系)が実権を握る D” 継体(百済系)がクーデター …を入れたいところ。 >>1 源氏が武士の棟梁で〜って奴 あれどう見ても歴史的事実とはほど遠くて概ね、玉葉を元13-17世紀間のプロパガンダとプロパガンダ書簡を元にした誤解で 源氏の実態はほど遠いのな。 源氏の時代って前後東北の役の頃だと思うんだけど、その時確かに坂東武士を引率したんだけど、田舎の地頭と下級貴族の源だと明白な主従性という関係性はないし 資科にそれらしき記録はなく、後世の「源氏棟梁説キャンペーン」に基づく誤解らしい 史実上では前の乱で数百人の武士を引率したが大失敗して顰蹙をかい 二回目の役では源氏は傭兵料の支払いと公家に嫌われて没落すんのね ここまで客観的な状況としては、一部の武士を引率するだけで主従の成立性があるとはいえない。 前の役で作戦が失敗して武士団全滅(多数死亡)するんだけど、これでは顰蹙を買う あとの役では「坂東武士を統率して独自の戦力を作る謀略では?」と思われて干されるし、武士に賃金払って破産する時点で主従性はほど遠い傭兵関係だとわかる せいぜい同盟や協力者がいいとこ そもそも源氏と坂東武士の棟梁は階級が1階級しか違わないんだけど、領土や資産的には坂東武士のほうがはるかに巨大で、軍事階級でもない貴族階級の1ランクの違い (従3位と従4位)では明確な上下と主従性などは存在しない。 むしろ形式ランクのたかが一階級、しかも両方従位なのに、上下がつくとかおかしな話でこれで従属がついたらむしろむはん さらに一部資料では千葉氏なんかは源よりも官位がうえであるとか、力が上に解釈できるものがあるけど 客観的な国力、領土とかからして千葉氏が源より上でもおかしくない というか坂東武士やとくに千葉氏からすれば源こそ敵の一族であるため素直に臣従があるわけがない。 信長は鉄砲隊を率いたから渡来系。教科書に書いてある。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。 粗製灰陶で出来ている鬲です。 灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。 秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。 中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。 簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。 三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。 金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。 龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。 瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。 漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。 瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。 帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。 徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。 ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 >>1 騎馬民族なのは北魏のパクリだから 北魏皇帝が同族の禿髪氏に祖先が同源と意味で源を名乗らせたのが初代源氏 百済っちょ系ではないと思うYO. 百済系ならツングース形質が色濃いだろうから。 新羅系はギリシャ系ともローマ系ともペルシャ系とも言われる国だったから、源氏はそっちに近いんじゃないか。 >>211 この説ですね? 401日本@名無史さん2014/08/19(火) 22:08:58.54 >>400 応神のみならず、 継体も出身地からみて新羅系くさい 越前、若狭、近江は新羅系・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 継体天皇 13 http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1384518434/400-401 北魏源氏も日本源氏も源氏は皇帝、天皇、院を守護する皇室親衛隊の制度 摂津源氏なんて平安期以前からの土着が僭称してるのが多いんじゃないかと思う 日本史より謎な金儲けできる方法とか グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』 FVQI8 皇族 皇族が武家化した。 具体的にはコミ・ペルミ語を話す集団。 218 その説を唱えてるやつは馬鹿じゃないかと、。 大和朝廷は太古に武力はアウトソージングしてんのに、 なお河内源氏すら2代目からもはや詳細不明なのに、 全く論外説 とても簡単な稼ぐことができるホームページ 念のためにのせておきます 検索してみよう『立木のボボトイテテレ』 K23 遊牧民の皇帝ハーンと妃のハトゥンを最初につくったのは拓跋氏 天皇の起源道教を国家宗教にしたのは拓跋氏 源氏を最初につくったのは拓跋氏 拓跋(元)帝国マンセー >>103 日本@名無史さん2013/12/23(月) 12:34:16.69 >源経基が武蔵介に任官した時、源賜姓されてなかったので泰氏確定。 >なので源満仲の出自は泰氏。 >清和源氏=泰氏 超亀レスですまんが、何故分かった? 清和源氏が先祖と言われる俺のハプログループは秦氏と同一のもの 私は天皇家が秦氏と同族だと考えている 清和源氏は桓武平氏いなきゃ覇者になれなかった。 義朝、頼朝は関東桓武平氏の支持基盤あってこそ清盛と天下を争えた。 >>231 それは間違いない。 大体、二代満仲なんて母親から不詳だし、出生が親父の経基よりずれてるだろ 二代目でこれだからな それは桓武平氏も同じ 清和源氏で八幡太郎の男系が他の源氏と別格なのは 清盛と同じ理由 >>228 頼朝に組した方が得だと、平家から鞍替えした関東平氏のが多い。頼朝個人を御輿にしてできた鎌倉幕府は平氏御家人の損得勘定が働いて出来た組織。頼朝のカリスマ性を失った頼家、実朝、公暁は平氏御家人に暗殺された。 >>235 ただ、頼朝は兄弟すらほぼ全滅なんだが、 そこにはカリスマ性失っただけの理由だけでは整合性があわない 担ぎ上げられたのは間違いないわけだが、 そもそも頼朝自体が清和源氏直系でもない、偽りの頼朝だったんだろ その得たいの知れぬものをあてがっての傀儡頼朝だからこそなら、これだけ後始末される棟梁一族の生い立ちに説明がつく。 頼朝が重視したのは頼信〜義朝と主従を結んできた平氏系関東武士団との信頼関係。武田や佐竹、弟の義経範頼は敵。義家嫡流の自分以外源氏は認めていない。 >>235 庶子ではあるが政子に将軍にならないかと誘われた 貞暁は生き残った(公暁の師匠) 島津も生き残った https://famousdna.wiki.fc2.com/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93O1b2a1a%E7%B3%BB%E7%B5%B1 平安時代後期の武将で、平泉に中尊寺を開基した奥州藤原氏の祖・藤原清衡(Fujiwara no Kiyohira, 1056-1128)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a1(O-CTS10145, CTS11723)である(注1)。 これは、奥州藤原氏四代のミイラに対する骨格の調査や、子孫複数名から得られたサンプルの解析結果などによる(注2)。藤原清衡の血液型はAB型。 日本人と朝鮮人に高頻度なハプログループ01b2 https://famousdna.wiki.fc2.com/upload_dir/f/famousdna/7fee4634f7cdc782025c165508746982.jpeg 島津はハプロが分かっているので天皇家の素性が分かってしまうため 自称とされている 島津のハプロは秦氏のものと同じ(O2)、頼朝と天皇家も同様と思われる いやいやいやいや、島津は天皇とは一切関係ないが? たんなる惟宗出自の朝鮮貴下人だが。 子宝に恵まれない時は神主に仕込んでもらったりするからねえ お前は見ず知らずの奴に仕込まれたんだろうなw ならばお前の発想が分かるような 気がするんだが... >>247 だろうな 俺は1000年前まで個人名付きの家系図と自分のハプロがあるからな 君は何年前まで遡れる? チョンは源氏(臣籍降下)、賜姓降下の制度ナメすぎ 朝鮮本土になかったから悲しいなw 一番舐めてたのは、当時の奴等だよ 源氏なんて自称だらけやし。 背乗りレベルも複数あるだろうし。 近世でも家康なんて最たるもんだろ 自称は自称。 自称は朝廷より氏姓を賜れないし氏族の特権を享受出来ない。 徳川家は自称であったが吉良家をはじめとする源氏の正当一族らから承認された為、 朝廷より源姓を賜り、源氏長者になり結果的に自称ではなくなった。 戦国最強の薩摩兵を率いた島津は元相模武士。薩摩人の東郷平八郎の先祖は平良文。関東武士最強伝説。 島津は頼朝の落胤と言われているが 頼朝の落胤の貞暁の子孫が実は生き残っている 惟宗忠康の長男、忠広の直系子孫の俺だけど 俺んちの歴史どうなってるの??? 忠広から消えてるんだけど。 やっぱ噂通り、頼朝が消したの??? 源氏はモンゴル系北魏由来の宰相格を出す家柄の氏姓。源氏物語の源氏は大貴族の意味。義経の源氏とチンギスの可汗を最初使ったのは鮮卑様だ。 源義経は、 死なずにモンゴルの参謀になったんだって >>221 >河内源氏すら2代目からもはや詳細不明・・・・・・ 2代目源頼義が詳細不明?陸奥守に着任後、「前9年役」を 起こした古代では有名人のはずだが? タコが言うのよタコが 日本は熊襲の産地で民度が極めて低いって >>15 各行の右辺記事△△氏は何を意味するの? 賜姓初代男子の外戚氏名なの? 〇〇源氏 - △△氏 飛鳥(あすか) 古代朝鮮語:古代朝鮮語(扶余語)の“スカ”(「村」の意)に接頭語アが付いた。 「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」 【東大の最新ゲノム解析】 >奈良県が最もCHB(渡来人)に遺伝的に近い >Our analysis indicated that, of the 47 prefectures in Japan, Nara was genetically closest to CHB. いそじん「宣言解除してアベコロナがまた大爆発や よっしゃ、よっしゃあ」 半島民というより契丹人や女真族、扶余、刀伊などだわな 倭人に馬に乗る風習はない 中国東北部からの移民が東北蝦夷と合体して平泉で騎馬勢力を築き、そこに藤原氏や源氏のはぐれモノが合流して武士勢力になった 源氏の起源 「源」は皇室と祖(源流)を同じくするという意味であり、元々は中国の五胡十六国時代、南涼王の子の禿髪破羌が、南涼滅亡後に北魏に仕えた際、太武帝から禿髪氏と拓跋氏(北魏の帝室の姓)は源が同じであるとして源の姓を与えられ、源賀と名乗ったことに由来する。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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