日本書紀の雄略天皇6年(462)に「呉国遣使貢献」とある。
462年は宋の世祖が「倭王世子興を安東将軍倭国王とせよ」と命じた年と一致する。
当然倭国に冊封使が送られたはずだが、世子興は安康でも雄略でもない。
倭国はヤマトとは別の国と考えられ、宋使は交易目的で足を伸ばしただけだろう。

464〜466年の遣使は倭国の使節団にヤマトが参加したものと見られるが、
ヤマトにお裾分けされた鵞鳥が筑紫で犬に食われたため、倭国との関係は悪化した。

468〜470年の遣使はヤマト初の独自外交と考えられる。その国書は恐らく
「天下を治める大王、書を日呉れる国の王に致す。つつがなきや」
宋の明帝は「蛮夷の書、無礼なる者有り」と言ったが、調査のため使者を派遣した。
この使者を接待した根使主は、昔の悪事発覚で激怒した雄略に殺されてしまった。

稲荷山鉄剣銘文、辛亥=471年の「治天下」ワカタケル大王は日本書紀とはよく合うが、
宋書の武王とは矛盾する。武王の即位は477年、早くても475年頃だろうし、
天下を治めると称したワカタケルが数年後に宋に臣従したとは考えにくい。