新田と足利4
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都合のいい解釈や伝承、寺伝の話はご遠慮下さい
都合のいい解釈や伝承の例
・矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しい
・足利荘や梁田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘を離れて多胡郡矢田郷に拠点を移した
寺伝の例
・偽書で有名な滝山寺縁起
過去ログ
新田と足利3
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1284627067/ 新田は「あらた」だった。つまり、新羅田だ。八幡太郎義家の子孫というのは誤りで、実は、新羅三郎義光の流れをくむ。
新田氏は、渡来系の武将で、百済系から新羅系への政権交代の象徴と言える。
新羅による朝鮮半島統一、じつは、唐(漢民族)に取る朝鮮半島支配、これが日本の武士社会を形成する契機だったわけで、東アジア情勢の変化は、日本に大きな影響を及ぼした。
新田郡に隣接する世羅田、平家の出身地 多羅、この「羅」こそ、日本の武士社会の謎を解く鍵なのだ。 イスラム教のアラーの神とは唯一の神、つまり a ra(阿羅)と言う意味だ。
イスラム教が成立するより前から信仰されていた神の名こそ「羅」なのだ。
同様に、多神教も存在していた。それが、多羅。
日本のよう八百万の神を信仰する宗教は多羅なのだ。
古代宗教の対立を理解できないと、日本の古代史はみえてこない。 イスラム教創始ころに中央アジアを支配してたのってなんて国だっけ? >>81支配と言えばサーサン朝ペルシアということになるが、
キーとなるのは、ゾロアスター教の中心国バクトリアだ。
バクトリアは、ペルシア人が侵入し先住民であるサカ族などを支配することになる。
その子孫はやがて月氏と呼ばれるようになり、日本にも渡来し大きな影響を与える。 足利尊氏の出身地は鎌倉でしたっけ?栃木でしたっけ?
場合によっては足利氏による鎌倉幕府や栃木中心の足利幕府なんて可能性はあった? たぶん鎌倉じゃね?
尊氏は栃木にも、(尊氏の本領が有るわけではないから当然とは言え)群馬にも行ったことはないはず
領地の分布としては、三河とか尾張美濃、それに丹波とかも大きかったっぽいよな。
後醍醐帝が早期に諦めて吉野に行かず京都で隠居してた場合には、幕府を京都じゃなく鎌倉に置いてたかもしれんという気がする 尊氏以前に、足利氏系は三河に縁が在るけれど、
新田氏系は三河とは関連は無かったのかな?
後に家康が、新田氏系を持ち出して来るのもその辺に根拠が在ったのではとも? 南北朝期に新田系の大島氏が三河守護になったぐらいかな?
>新田氏系は三河とは関連 義氏が祖母の家系の権益を継承する形で三河守護になって直々に三河に乗り込んで来たが
同時期に源氏の栄職である陸奥守を拝命して急遽関東に戻った
その時に数年間、守護代を娘婿にやらせたそうだが、それが世良田頼氏 南北朝時代って謎が多いよな。
日本の正史が書き換えされた可能性すら考えるもんな 南北朝時代といえば豊前での活動の記録が残っている足利統氏って何者だろうか
九州での活動なら一色氏か仁木氏あたりかなあ? 新田の方が兄系なのに足利が清和源氏の嫡流なのなんで?
鎌倉時代、新田は門葉にも入れてもらえなかったって当時よっぽど力が無かったん? >>93
一般的には母が側室で庶流(庶長子)だった事になっている
実際には
新田本家が頼朝の下に付くのをごねたのと、
足利義兼が頼朝と母(熱田大宮司)・妻(北条)も一族、子孫も北条と度々姻戚
その上で室町幕府だから後付けで庶流イメージが植え付けられたら >>93
鎌倉時代初期までは、最も出世してる者を嫡流扱いするような流動性があったからな
頼朝ら鎌倉幕府に睨まれて凋落した新田と幕府に功績を立てて出世した足利で差がつくのが当然
ほかの氏族でも鎌倉時代初期頃までは嫡庶の入れ替わりが頻繁だぞ >>93
新田流の山名と里見も宗家を離れて頼朝に懐柔された >>95
逆に鎌倉期に功を立てたら後の子孫が得をする訳だな >>98
それも微妙なんだな
政争に巻き込まれて北条の粛清を受けた功臣家は少なくない
梶原は別としても比企、和田・三浦宗家・安達
むしろ鎌倉党でも長尾みたいに没落後に大人しくしてたのが日の目を見る事もある 吉良家分家の荒川家の荒川定安−定昭−定由−定長−定政の子孫とかどうなったの? >>97 でも、義貞の鎌倉討伐の時に、里見は越後新田党をまとめて従軍。山名は、
尊氏に従い京都に。 >>48_52 臣籍降下だけじゃなく。藤原氏も生存競争は過酷。藤原4兄弟の京家の
麻呂の系統は終始振るわず。北家でも秀郷の親父の村雄は房前5代の孫であるのに
下野国の下級官人に落ちぶれている。 >>107
一代(一世)に二人づつ子供を残せたとしても五代で32人
下級とみるか、実利を得る土着化とみるか >>108 秀郷の 祖父豊沢 父村雄ともに中央での栄達を望まなかったとありますね。
藤原忠平の家人になり、中央での栄達を願った 平将門 貞盛 とは別路線を
歩んだんですね。
http://blogs.yahoo.co.jp/kenichiuematsu/5204696.html 河内源氏の本来の嫡流は、源義忠の後胤。
義家の正室の産んだ子供で最年長は義忠。 >>110
そこで問題になるのは
正室って何?
当時と後世での文化とか価値観などの違い 妻問婚の時代に正室云々は不毛な論争だろう
父親の通称を継承しているかどうかだな >>113
嫡流って考え方も微妙だよね(`・ω・´)
正室が複数ってところかな
女系とか、取り巻く女性の重要性は殊の外強かったんだろうね >>112
義朝の下野守任官までの最後の
河内源氏の受領任官がそれなのかな? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ヨスガノソラ 田舎生活53日目 [無断転載禁止]©2ch.net
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/ranimeh/1477215269/
新田
スバリストの聖地
足利
足利義兼の眠る樺崎寺がエロゲーの聖地 義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼、全成、円成、義経 余談だが、俺が早くに買って推奨した袖珍本、
『応仁の乱』と『観応の擾乱』が二冊とも
そろってベスト・セラーになったゼッ!
いづれも、中公新書だから、実質的には野球新聞でしかない
読売新聞社の儲けになるんだけど、俺はあんな低俗新聞社の回し者なんかぢやあ
断じて無えのサッ!!!!!
分かったナッ!
! 鹿鳴館時代、井上馨が、元芸者の妻の実家の新田岩松を叙爵させた。
おまけに、桐生に遷都すら目論んでた。 近所からの苦情で「除夜の鐘」を自粛する寺も…「伝統文化」と「人権」が衝突
https://www.bengo4.com/internet/n_7152/
除夜の鐘をうるせー
↓
除夜の鐘やめた住職の足利正尊さん
お寺の門には足利の家紋が… 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
DDCG5 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
GM2 刀剣乱舞で有名になった 山姥切国広を造らせた足利城主 長尾顯長は、
群馬の戦国大名、太田金山城主 由良成繁の息子。 『刀剣乱舞』が紅白出たり、映画化公開されたりで、ブームになるから。
山姥切国広、由良長尾、太田足利、って事で。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています