叙爵内規が公表されたものでないということが、なんの論拠になると
考えているのか理解できないが、
公爵:一条、岩倉、九条、近衛、三条、島津2家、鷹司、徳川(宗家)、二条、毛利
侯爵:大炊御門、花山院、菊亭、久我、西園寺、醍醐、徳大寺、中山、広幡
   徳川(旧三家)、浅野、前田等々
という顔ぶれを見れば、少なくとも当時の人間には「家柄での公爵が摂家と
徳川宗家、侯爵が清華と大大名」だということは明白だった。嵯峨実愛が日記に
記しているとおりにね。後、
>足利家督その人でなく家督継承予定者が就くこと
は明白な誤解ですよ。家督を譲り隠居、出家したまま権力をふるうのは、天皇家の
「治天」や摂家の「大殿」等々、当時の通例。古くは藤原道長生前の摂政・関白頼通
という例もあるが、まさか摂関も「家督継承予定者が就くことさえも珍しくなかった。」
とは言わんでしょうな。
それと、
> ちなみに「将軍家」という語は家格の名称としてでなく、将軍職にあるその人を指称する表現として使われる方が圧倒的に多い。
と拘っておきながら、すぐ続けて「室町殿」を「新しい歴史用語としての用法」で使うのは
いかがなものでしょうな。まあ、そんな意識はないんでしょうが。