落胤伝説が、平安時代に有力だったという主張もあるが、本当にそうだろうか。

公卿補任の註文が、果たしてどこまで遡れるかは分からない。
落胤説のような記事は、たとえ風説としてかなり広まっていても、公式な文書に残したりは普通しない。
崇徳天皇や一休のことが、系図に出たりはしないように。

加納諸平以来、石作皇子=多治比嶋、車持皇子=不比等、ということになってるけど、
他の三人がまんま実在なのに、皇子二人だけ婉曲にした意図が分からない。こじつけくさい。
まるっきり架空ではなさげなら、佚名の皇子か、既知の皇族の異称の失伝と考えるべきではないのか。

公卿補任が先行したなら、多武峰縁起がそれと違う話を造作するのも、よくわからない。
しかも、後世も当時もあまり顧みられなかった孝徳に結びつけてどうするのって感じ。

落胤伝説の成立は、時系列で考えると、
竹取物語、大鏡、多武峰縁起、公卿補任という来歴を想定した方がすっきりする。

まず、竹取物語が、今に伝わらない皇子の名を作品に使う。
院政期以降、緩やかに落ち目の藤原氏に、祖先が落胤という伝説が語られるようになり、大鏡や多武峰縁起が記す。
元が噂なので、事実関係も正確なはずもなく、父、子、母が一定しなかったのだろう。
やがて鎌倉期くらいに、父・天智、子・不比等、生母・車持氏という筋に固まり、落胤の話と車持皇子の話が習合し、
説話として有力になったところで、誰かが公卿補任に書き入れた、とそんな感じだろう。