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【勇猛】悪源太義平V【果敢】
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0001日本@名無史さん
2013/10/10(木) 12:29:24.94
スレ落ちしたので立てました。

源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故に官位叙任も叶わず(本人が求めていたかどうか?)
嫡男として遇されないにも関わらず父義朝に孝行を励み六波羅清盛暗殺に執念を燃やした若武者を
多いに語って下さい。

なお「『義平』は武士起源論成立論を語る上での記号としてで」をルールとしましょう。

さらに中世宗教史、中世通運流通貨幣経済史も可とします。
0002日本@名無史さん
2013/10/10(木) 15:13:16.22
>>1
スレ立て乙
0003日本@名無史さん
2013/10/10(木) 16:22:21.83
前スレの結末はどうだったの?
昨日夜、見たときは980番代だったと思うけど知ってる人が居たら教えてください。
せっかくの良スレだったので残念です。
0004日本@名無史さん
2013/10/10(木) 23:14:22.16
武家源氏と切っても切れない八幡信仰の謎について

総本社宇佐八幡宮では祭神が応神天皇と神功皇后と比売神の八幡三神とされているが
元々は国造宇佐氏も氏神だったとされる。
しかし八幡神の出自について豊前国風土記や宇佐託宣集には渡来してきた神と記されている。

聖武朝の鎮護国家仏教により八幡大菩薩の神号が贈られ本地垂迹思想により阿弥陀仏が八幡神の本地仏とされたように
神仏習合の象徴のようになってしまい実像が見えなくなっていく。

本来の八幡神はいったい何だろう?
0005日本@名無史さん
2013/10/10(木) 23:24:17.21
>>4
八幡の神←やはたのかみ←八つ(たくさんの)波の神。つまり海の神でしょう
0006日本@名無史さん
2013/10/10(木) 23:49:05.61
たしか満仲の伝承にも八幡神のお告げが出てきて矢を射て落ちた場所に八幡神社を勧進したんだっけ?
0007日本@名無史さん
2013/10/11(金) 00:05:21.11
八幡神が降り立った場所は九州北部の春香という所らしいね。
宇佐にはそこから遷宮されたらしい。
0008日本@名無史さん
2013/10/11(金) 07:55:26.18
八幡(数多くの旗)と言えばチベット仏教を連想する。

数多くの旗を神の依り代とするチベット仏教ははるか北方のモンゴル高原から移入されたと言われている。
この風習がモンゴル高原から満州族に伝播し新羅を経由して本来の倭人(海人族)の手を経由して日本に渡来したんじゃないかな。

八幡神は鍛冶の神ともされている。
八幡信仰には製鉄鍛冶の職能集団が関わっていたことは九州北部の伝承や遺跡発掘で明らかになっている。
さらには八幡信仰の源流を辿れば中央アジアの突厥の製鉄鍛冶職能集団にまで行き着くのではないだろうか?
0009日本@名無史さん
2013/10/12(土) 15:49:44.67
源氏の白旗
0010日本@名無史さん
2013/10/13(日) 13:12:30.51
源氏は新羅系、平氏は百済系
0011日本@名無史さん
2013/10/13(日) 14:12:17.02
昔の源平合戦の映画や大河ドラマで
源氏の白旗には黒墨で笹竜胆が描かれていたんだが
義朝や頼朝が笹竜胆の紋章を使用したという史料は無いんだけどね。
0013日本@名無史さん
2013/10/13(日) 16:15:27.27
>>11
それどころか奥州征伐の際、佐竹氏が無紋の白旗を引っ提げてきたら
頼朝が「お前のところの白旗が無紋なのはけしからん。
今後は自分ちの紋を旗にいれろ
と言った。
これから嫡流を主張したい頼朝は無紋で
家紋入り白旗は庶流ということにしたかったらしい。
0014日本@名無史さん
2013/10/13(日) 17:18:45.44
>>11笹竜胆は村上源氏の家紋だったと思うんだが。
(自信ないので詳しい人ヨロ)
0015日本@名無史さん
2013/10/13(日) 19:54:41.86
>>14
信濃の村上氏じゃなかったかな。

笹竜胆=源氏というのは江戸時代に作られたイメージみたいだね。
0016日本@名無史さん
2013/10/13(日) 19:59:44.78
多田の満仲流嫡流は源氏将軍三代が滅んだ後まで名字を名乗らず本姓の「源」を名乗っていたみたいだね。
0019日本@名無史さん
2013/10/14(月) 13:33:20.53
為義って博打か借金のカタで源氏重代の太刀を熊野別当に取られたんだよね。
0020日本@名無史さん
2013/10/14(月) 13:40:41.11
>>19
初耳なんだけどその話。
「平家物語」かなんかにあったっけ?
0021日本@名無史さん
2013/10/14(月) 15:35:10.30
その太刀を義経が熊野別当湛増から返してもらった。
0022日本@名無史さん
2013/10/14(月) 18:19:21.55
>源氏重代の太刀

って、何本もあるのか?
0023日本@名無史さん
2013/10/14(月) 19:08:49.17
その都度名前を変えてるから分からないけど

満仲が特注した太刀は髭切丸・膝丸があるね。
当時の刀匠は筑前の出自と言われているね。
0025日本@名無史さん
2013/10/14(月) 19:48:48.56
おたふく
0026日本@名無史さん
2013/10/14(月) 19:58:47.97
>>24
君の言うソースって現存する一次史料のことなのか?
もしそうであれば刀銘どころか刀匠を特定することは永遠の謎になる。

伝承から現存一次史料との照合を勘案する緻密な作業が必要であることは承知しているが。
0027日本@名無史さん
2013/10/14(月) 20:36:12.71
>>26
そこまでは要求しとらんです。
伝承は伝承で楽しみたいんでね。
ただ伝承か歴史学の認証付きかの区分をしたうえで書いて欲しいと思うし
伝承は伝承のソースがあると思うんで、どの伝承(熊野とかどっかの神社とか)くらいは教えてくれると
読んでて嬉しい。
0028日本@名無史さん
2013/10/14(月) 21:24:33.69
ありがとう
再検討するね。
0029日本@名無史さん
2013/10/14(月) 21:41:27.83
去年のドラマで、義朝が、
源家重代の太刀の名を、
『友切り』から「髭切り」に変更したとか言ってたな。

為義が熊野にとられた太刀は別の太刀だろう。
0030日本@名無史さん
2013/10/14(月) 21:57:44.25
『吾妻鏡』によると
義朝愛用の太刀「吠丸」が後白河法皇に献上された
とあるね。
0031日本@名無史さん
2013/10/14(月) 22:09:46.51
髯切が後代斯波高経の手に渡るまでの経緯は何となく理解できなくもないが、
それが最上家に渡った理由がわからんな。
将軍家の宝剣として寺に奉納されていたものを、新田義貞が鎌倉を攻め滅ぼしたドククサにパクり
さらにその新田を滅ぼした斯波高経の手に渡る。

その後噂を耳にした尊氏から求められても渡さなかった物をなんで庶流の最上に渡すのか。
しかも庶流と言っても最上は高経以降の斯波武衛家の流れではなく甥の系統。
普通に考えれば最上家に渡ったものは偽物だって思えるよな。
尊氏がうっとおしいから、遠い出羽の地にいる甥っ子にあげちゃいましたって言い訳作るために。
0032日本@名無史さん
2013/10/15(火) 10:48:20.90
養寿寺(西尾市平坂町上矢田)蔵の吉良氏系図によれば、
兄・吉良満氏には友切丸、弟・国氏には髭切丸の両剣を
それぞれに授けたと記す。
なお、国氏・満氏兄弟はこの友切・髭切に宿る神霊を畏れ、
両剣を御剣八幡宮(西尾市西尾城趾内)に納めて崇敬したと伝える。

これはどうなるの?
0033日本@名無史さん
2013/10/15(火) 11:36:32.92
頼光の太刀がどうして河内源氏に伝わったのか不思議だね。
0034日本@名無史さん
2013/10/15(火) 11:40:40.89
>>32
捏造だろう。
髭切り・友切りは、同じ太刀の変名だし。
源氏の宝刀が、なんで吉良氏などに伝わるのか。
0035日本@名無史さん
2013/10/15(火) 21:14:06.13
髭切って複数振りつくられたんじゃね?
0037日本@名無史さん
2013/10/16(水) 01:59:50.92
>>35
後三年の役の際に、義家が東北の刀鍛冶の名人に作らせた太刀で、
毛深い蝦夷の首を斬ったら、髭までバッサリと斬れたので、
『髭切』と名づけた・・・・。
という話だから、当然一本しかないはずだ。
0038日本@名無史さん
2013/10/16(水) 09:09:41.90
伝説の方が複数あるんだろう。
でどの伝説がホンモノかわからなくなってるんじゃない?
0039日本@名無史さん
2013/10/16(水) 10:09:28.41
源氏八領にしても盾無がなんで武田氏なんかに伝わったのか不思議だ。
0040日本@名無史さん
2013/10/16(水) 10:13:09.31
清和源氏なんて全てが嘘で塗り固められた氏族だよ。

血統といい、系図といい、伝承といい、宝物といい
0041日本@名無史さん
2013/10/16(水) 14:48:30.64
武士は公家に比べると下克上が容易だから。
成り上がりが箔を付けるために家系を捏造するのはよくある話
清和源氏は武家の頂点の一角で歴史も長いので、怪しげな系図や伝承が多くまぎれこんでるだけ
0042日本@名無史さん
2013/10/16(水) 17:23:47.06
>清和源氏は武家の頂点の一角で歴史も長いので、怪しげな系図や伝承が多くまぎれこんでるだけ

それが全てだろ?
阿蘇氏や諏訪氏などの社家とは月とスッポン
0043日本@名無史さん
2013/10/16(水) 17:33:15.28
清和源氏は経基、満仲の年齢からして怪しい
0044日本@名無史さん
2013/10/17(木) 06:56:24.74
日本は応仁の乱以前と以後ではまるで別の国のようだ。

軍事貴族が武家であることの必須条件であり貴種であるが故に日本全国どこでも神輿に担いでくれる在地勢力がいた。
その典型が治承寿永の乱であり南北朝の動乱であった。

しかし結城合戦を嚆矢(今川軍の寄子寄親制)として応仁の乱を境に武士階級に地侍層さらに賤民までもが入り込み
本来の武家はその家臣団にそれら新興勢力を内包せざるを得なくなり、やがて下剋上を誘発することになる。
武家について言えば、内訌、乗っ取りによって貴種性、系譜は怪しいものとなる。
0045日本@名無史さん
2013/10/17(木) 19:43:17.63
為朝は伊豆大島に流されたんだよね。

今回の台風26号の被害に遭われたた方、お亡くなりになった方のご冥福とお見舞いを心より申し上げます。

ところで為朝と義平は面識があったのだろうか?
伊豆と相模では地理的にも近いし当人達の年齢も近い。
0046日本@名無史さん
2013/10/17(木) 20:03:45.02
>>日本は応仁の乱以前と以後ではまるで別の国のようだ

なるほど、源平貴種はおろか皇室、摂関家までも衰微した下克上の時代だからな。
ただ、国人・地侍層というのは、もともとは平安末期〜鎌倉初期に支配権を掌握した源平貴種や板東平氏、
南北朝期に支配権を掌握した足利源氏の一門に対して、零落、没落していた古代豪族、中央貴族の末裔層、
あるいは無数に枝分かれした藤原氏、源氏、平氏系の末端地方武士の「下克上」にすぎなかった面もあるのではないだろうか。
北条早雲は伊勢平氏系の室町幕府役人の系譜、斎藤道三は藤原氏系の北面武士の系譜だしな。

本格的な「下克上」というのは、やはり先進地帯の近畿や尾張で松永氏、織田氏、羽柴氏などといった本当に氏素性の定かでない
成り上がり勢力ぐらいで、大体の地方では結局、古代・中世以来の家系の間での権力移動にすぎなかった面もありそうだ。
0047日本@名無史さん
2013/10/17(木) 20:33:32.73
>>46
確かに貴殿のお説のように国人・地侍層は軍事貴族及び零落した中央貴族の庶流末流が在地の古代氏族に入婿して在地勢力となったと思われる。

私が書いたように今川氏を始め戦国大名化した東海地方の下剋上が顕著であると思うが
関東においては応仁の乱以降全国に先駆けて本来の武家が壊滅してるんだよね。

西国九州においても怪しげな源氏を名乗る連中が戦国大名化していることも忘れてはならないと思う。
0048日本@名無史さん
2013/10/17(木) 20:39:47.27
補足
今川氏の家臣団ね。
0049日本@名無史さん
2013/10/17(木) 22:16:26.87
鎌倉の御家人は坂東八平氏の流れを組む関東の武士が多かったが、それらも結構仮冒説が多いよ。
三浦氏や、大庭・梶原・長尾等多くの庶流を生んだ鎌倉氏のような有力豪族ですらそうなんだから。
0050日本@名無史さん
2013/10/18(金) 08:59:41.97
まぁ鎌倉時代の初めから武家の族滅は結構あったし
0051日本@名無史さん
2013/10/18(金) 12:30:10.94
九州の豊後西部の山間部には梶原景時末裔を称する梶原姓が結構いるよ。
景時一行は駿河国で打ち取られてるのにどうやって九州まで落ち延びたのだろう?

「吾妻鏡」によれば景時は上洛して九州の軍兵を集め、武田有義を将軍に立てて反乱を企てたとされてることから
九州になんらかの軍事基盤を持っていたことは確かであろうが庶流か家人が景時末裔を称したのだと思う。

同様に没落した源平諸家は化冒僭称に使われやすい。
三河松平郷に流れ着いた時宗の遊行僧は新田氏末裔を僭称したしね。
0052日本@名無史さん
2013/10/18(金) 12:33:43.34
ごめん
×化冒→○仮冒
0054日本@名無史さん
2013/10/18(金) 13:40:44.85
>>51
梶原一族はそのほとんどが景時とともに滅んだけど、生き残りもいて
たとえば景茂の子・景俊は足利義氏の被官になっている
また、鎮西奉行の武藤資頼の妻は景時の娘だから、その縁を頼って九州へ渡った一族もいたのかもしれない
0055日本@名無史さん
2013/10/18(金) 15:12:56.53
まあ
族滅なんてそう簡単に出来るものじゃないって。
0056日本@名無史さん
2013/10/18(金) 15:26:40.94
>>54
その梶原一族を打ち取った武士の一人は吉川氏の祖、吉香友兼なんだけど
藤原南家工藤氏流なんだよね。
あの承平・天慶の乱でヘタレっぷり満点の常陸介藤原維幾の末裔なんだな。

300年近く掛けてたくましくなったもんだね。
0057日本@名無史さん
2013/10/18(金) 15:46:28.20
>>56
なんとも感慨深いね

承平・天慶の乱といえば、同じくヘタレっぷりを晒した源経基の末裔があんな戦闘民族になるなんてなぁ
0058日本@名無史さん
2013/10/18(金) 15:57:32.66
同じく承平・天慶の乱で
将門から逃げ回ってた印象強い平貞盛も
子孫から有力武家バンバン輩出してるな
0059日本@名無史さん
2013/10/18(金) 17:05:22.70
逆に
坂上田村麻呂の子孫は頭脳労働者である文官になっている。

武士って中下級貴族に筋肉馬鹿の血がどこかで注入されて誕生したような気がするね。
0060日本@名無史さん
2013/10/18(金) 17:36:37.94
まあ、文官だって先祖は軍事力でのしあがったわけで
0061日本@名無史さん
2013/10/18(金) 18:57:07.77
>>59
現代でも弱っちい男はハンサムウーマンに惹かれるからね。
その結果、豪傑が誕生したんだろうね。
0062日本@名無史さん
2013/10/18(金) 19:03:28.53
>>58
鎮圧勲功者としては秀郷流が第一とされてたのに時代を経るごとに子孫はショボくなってるね。
0063日本@名無史さん
2013/10/18(金) 19:17:08.43
>>62
源平・南北朝時代は存在感バリバリだっだんだけどな>秀郷流
戦国時代になると関東の秀郷流の多くは貞盛末裔の後北条相手に没落余儀なくされた
0064日本@名無史さん
2013/10/18(金) 19:46:33.17
秀郷流も仮冒が多い・・・って言うか秀郷自身が出自を仮冒してるって言われてるしな。
0065日本@名無史さん
2013/10/18(金) 20:01:09.29
>>63
確かに関東においては応仁の乱後も命脈を保ってたのは小山氏下河辺氏結城氏などがいるけど
九州の少弐氏大友氏系は秀郷流らしいね。
近世大名の鍋島家は眉唾ものだと思うよ。
0066日本@名無史さん
2013/10/18(金) 20:15:35.42
そう考えると
明治維新の西国雄四藩って本来の武家じゃないんだよ。

薩摩島津家→惟宗氏
長州毛利家→大江氏
肥前鍋島家→少弐氏末裔を仮冒
土佐山内家→出自不明
0067日本@名無史さん
2013/10/18(金) 20:19:39.32
長谷川平蔵は藤姓秀郷流
0068日本@名無史さん
2013/10/18(金) 20:22:57.81
>>66
系譜上はどの家も関東なんだな
島津も片方のルーツは比企だから
0069日本@名無史さん
2013/10/18(金) 20:28:33.48
長谷川平蔵って布衣だっけ?

旗本も布衣じゃなければショボい。
布衣は六位相当だけど大夫じゃなきゃ秀郷流の面目は無いね。
0070日本@名無史さん
2013/10/18(金) 20:31:08.41
出自不明の土佐山内ってある意味凄いね。
0071日本@名無史さん
2013/10/18(金) 20:43:52.85
>>68
出自がまともなのは毛利家だけでしょ
0072日本@名無史さん
2013/10/18(金) 21:35:49.38
土佐山内氏も一応山内首藤氏の末裔秀郷流を先祖に求めてなかった?

鍋島家は一見冒涜くさいけど
鍋島町の観音寺にある過去帳によると
鍋島経直の娘が少弐教頼に嫁いだのが確認できるらしい
0073日本@名無史さん
2013/10/18(金) 21:35:52.87
幕末でこそ雄藩扱いだが、そもそも大した功績も無いのにド田舎とは言え土佐一国の大名になれた山内家って凄い。
薩長土肥の中で初代藩主が断トツでショボい土佐山内。
長宗我部家が可哀想だ。
0074日本@名無史さん
2013/10/18(金) 21:38:29.72
長宗我部の仮冒も相当だよな
ある意味大物
0075日本@名無史さん
2013/10/18(金) 21:43:12.69
>>72
その仮冒のせいで読み方でもめる山内家
「やまうち」でいいんだっけ?
0076日本@名無史さん
2013/10/18(金) 21:48:52.39
そもそもなんで武家は源氏だの平氏だの仮冒する必要があったんだ?
秀吉みたいに新しく姓を作るなり適当な公家に養子入りすればいいのに
0077日本@名無史さん
2013/10/18(金) 21:53:06.66
秀吉は下賎の身から一代で天下人になったから、仮冒するにしても白々しすぎて無理があるからな。
0078日本@名無史さん
2013/10/18(金) 23:09:26.91
近世大名で意外と出自がまともなのは松前蛎崎家だったりしてな。
0080日本@名無史さん
2013/10/19(土) 05:02:31.54
>>78>>79
河内源氏義光流若狭武田家の若様が蝦夷に渡って網元の総元締めになったんだよ。
0081日本@名無史さん
2013/10/19(土) 05:16:43.20
漁師が源氏を名乗るのはまだかわいい方で
海賊までもが源氏かいな?

摂津渡辺党→まあ許せる。

村上水軍(河野、来島など)→ホンマかいな?

肥前松浦党→ギャグのレベル。
0082日本@名無史さん
2013/10/19(土) 08:48:56.06
>>81
河野は越智宿禰とも桓武平氏良文流河越氏系ともいわれるが出自不明だね。

松浦党についてだけど
990年源頼光が肥前守として渡辺綱を伴い任地に赴き綱の現地での落とし胤の孫が松浦久とされてるけど
頼光は都の貴族として遥任の可能性が高く、さらに最新の研究では渡辺綱は家人ではなく同盟者であり頼光四天王は虚構とされている。
松浦久なる人物が従五位検非違使であったならば庶孫でありながら綱の官位を超えていることとなり不自然である。
松浦氏や蒲池氏は偽源氏といわれても仕方ない。
0083日本@名無史さん
2013/10/19(土) 12:03:42.93
武家の由緒書きで最高に笑えるのはどこの家だろう?

ちなみに豊臣秀吉が摂関家の猶子として提出したのは
母親は萩中納言の娘(更衣)で分けあって尾張中村で秀吉を出産した(皇胤をほのめかす)というものだったらしいね。

これを超える爆笑由緒書きはあるのかな?
0084日本@名無史さん
2013/10/19(土) 12:20:12.04
秀吉のは流石にムリあるが

那須とか宇都宮とか
鎌倉時代から続いてる名家ですら
都の貴族の落とし種にルーツ求めたりしてるんだよな
0085日本@名無史さん
2013/10/19(土) 13:00:43.73
加賀前田家も結構笑えるね。

初代利家は菅原氏末裔を称しているのに
父親の尾張荒子前田利昌は藤原北家利仁流斉藤氏庶流を称していた。
その利昌は父親さえ不明だという。

中世の荒子は伊勢湾の最奥部に当たり河口部の水運の利便性が指摘されている。
利昌は水運業者(海賊衆)であり、主筋の尾張前田家の系譜を仮冒したのであろう。
0086日本@名無史さん
2013/10/19(土) 13:17:59.63
宇都宮氏の祖先とされる藤原道兼−道隆−兼房は代々粗暴な人だったらしく、雅なのに獰猛な宇都宮氏に通じるところがあるような…
仮冒だとするならけっこう良いチョイスw
0087日本@名無史さん
2013/10/19(土) 14:42:56.99
周防大内氏なんて百済聖明王の第三子琳聖太子後裔と称し
本姓である多々良は琳聖太子の上陸地の地名にちなんでいるとか。

しかし大内氏がこの由緒を突如言い出すのは14世紀からだとか。
まあ言い出しっぺは李氏朝鮮と独自貿易を始めた大内義弘あたりだろうけどね。
0088日本@名無史さん
2013/10/19(土) 15:14:07.96
賀茂氏の先祖なんて八咫烏だよ(笑)

『新撰姓氏録』では、八咫烏は高皇産霊尊の曾孫である賀茂建角身命の化身であり
その後賀茂県主の祖となったとしている。
0089日本@名無史さん
2013/10/19(土) 15:44:37.42
池田光政の「家系図は只今作成中であります」は清々しい開き直りだな。
0090日本@名無史さん
2013/10/19(土) 16:11:56.97
>>88
それをいったら天皇家の先祖は太陽と鰐(サメ)なわけだが。
0091日本@名無史さん
2013/10/19(土) 16:54:59.36
相模公
0093日本@名無史さん
2013/10/19(土) 17:53:00.36
義平の後裔を称する家ってあるのかな?

ちなみに琉球王朝は公式に源為朝後裔を称してるけど。
0094日本@名無史さん
2013/10/19(土) 20:05:03.45
>>93
北陸の方だったかの青葉の笛伝説では義平の娘がいた
とかあった気がする。

正妻の新田娘との間には子が無かったようだね。
0095日本@名無史さん
2013/10/20(日) 17:55:51.46
義平伝説が関東以外の地域(美濃、飛騨、北陸)に残ってるのは何でだろう?

大蔵合戦以降、平治の乱まで各地を活発に動き廻っていたのかな?
義朝の長男として在地武士の糾合担当だったのかもしれないね。
0096日本@名無史さん
2013/10/20(日) 20:53:25.02
>>95
その伝説が本物かどうかはわからないが
伝説が伝わるにはつたわるだけの需要があったからだと思う。
為朝伝説にしても頼朝落胤を言い始めた島津に対する対抗措置だった
という説もあるみたいだし。
0097日本@名無史さん
2013/10/20(日) 21:00:04.27
伝説といえば飛騨地方に
将軍時代の頼家が上洛の途中にやってきたという伝説がある。
頼家は将軍時代上洛はしていないのにね。
0098日本@名無史さん
2013/10/20(日) 22:54:56.42
>>96
北陸の青葉の笛伝説は源義仲の進撃路と関係あるかもね。

平家の大軍を破り北陸方面から上洛した義仲軍の略奪が酷かったらしいから
その途上の被害を受けた地域に義仲の天敵の義平伝説が生まれたのかな?
0099日本@名無史さん
2013/10/24(木) 20:28:29.39
平氏が百済系というのは、桓武平氏=百済系桓武天皇の末裔だからわからないこともないが、
源氏が新羅系というのは、新羅三郎義光の名乗り以外に何か根拠があるのだろうか?
0100日本@名無史さん
2013/10/24(木) 20:34:51.17
>>99
八幡信仰を調べてみるといいよ
0101日本@名無史さん
2013/10/24(木) 20:53:22.48
スレ違いだったらごめん。
大河ドラマ等の時代劇映像作品では平安時代後期〜末期の武士は
その人物の官位官職にかかわらず、どんなときにも、どこへ行くにも直垂を着ているけど、
当時の武士の普段着は水干じゃね?

義平の衣服
暴れるとき 直垂
普段着 水干
よそゆき 布衣

義朝
暴れるとき 直垂
普段着 水干
よそゆき 狩衣
五位武官の束帯

朝長
普段着 水干
よそゆき 狩衣
五位文官の束帯

頼朝(少年期)
普段着 水干
よそゆき 狩衣
六位蔵人の束帯

朝長と頼朝は暴れが想像できない(笑)
0102日本@名無史さん
2013/10/24(木) 23:10:08.30
>>101
『吾妻鏡』によると頼朝が以仁王の令旨を受けた時
命旨を受ける前に水干に着替えたとある。
だから、水干は普段着でも少し格式がある恰好なんじゃないだろうか?
元々水干も直垂も作業着だけどね。
ちなみに「草燃える」では
頼朝は流人時代〜鎌倉入り初期は直垂を着ていることもあったけど
基本的に袴上括り(膝下でひもを結ぶ=半ズボン姿)の水干の事が多かった。
晩年は狩衣が多かったように記憶している。
義時も偉くなったら直垂じゃなくなっていたような気がする。
0103101
2013/10/26(土) 02:17:22.66
>>102
レスありがとうございます。
1180年代の東国では水干は少し格式のある格好になっていたのかも知れませんね。
私は頼朝は伊豆で水干を着て写経していたと思っていたのですよ。
(その水干は母方の実家が支給したもの)
赦されて京に戻る日を夢見ながら。
少年頼朝よりもずっと重要人物だった藤原師長や大炊御門経宗も帰京したのですから。

「炎立つ」で義家が直垂を着ていましたが、あの時代なら水干じゃないのかと思いました。
その後も十二世紀の京武者は水干を着ているのでは。
下級武士は「義経」の喜三太の格好。(町人仕様の水干)

去年の大河ドラマでは武士はとにかく直垂、
家盛が頼長亭を訪問するときも直垂を着てました。
頼長は作法とか格式とかうるさそうなのに。
直垂プレイ?
重盛は婚礼にも直垂姿でした。
清盛は国司赴任の際は狩衣ではなく、オリジナルデザインのチャンチャンコを着てましたね。
0104日本@名無史さん
2013/10/26(土) 03:50:04.30
>>99
いや、清和天皇自身が桓武天皇の玄孫

桓武-嵯峨-仁明-文徳-清和
0105日本@名無史さん
2013/10/26(土) 15:33:22.25
>>99

新羅三郎義光の由来は、新羅出身だからではなく、

新羅神社で元服したから。
0106日本@名無史さん
2013/10/26(土) 15:46:45.66
八万賀茂新羅という、数ある神社の中でも新羅臭のする神社をチョイスした理由とは
0107日本@名無史さん
2013/10/26(土) 15:58:07.27
>>106
とくに理由なんてないし。
そもそも、新羅臭さするのは新羅神社だけで、
八幡も賀茂も新羅と関係なし。
新羅神社だって、あの外国の新羅とは微妙に違うから。
0108日本@名無史さん
2013/10/26(土) 16:03:06.67
>>107
八幡を祭ってたのは大陸に近い宇佐で、
最初は新羅系の辛島氏の神じゃなかったかなと。
賀茂氏は秦氏と深いかかわりがあり、
賀茂神社と秦氏の稲荷大社の伝承がほぼ一緒。
0109日本@名無史さん
2013/10/26(土) 17:05:20.11
やっぱり源氏は新羅系なのか。
0110日本@名無史さん
2013/10/26(土) 18:07:52.88
>>108
辛島氏、賀茂氏、秦氏は源氏と関係ないし。
八幡・賀茂・新羅(しらぎなくしんら)神社は、
当時の頼義の勢力圏内にあったから使ったまでだろう。
0111日本@名無史さん
2013/10/26(土) 19:09:01.25
>>110
なんで必死になるの?
0112日本@名無史さん
2013/10/26(土) 19:18:51.18
>>110
知識が浅いね。

宇佐八幡宮は八幡神系の大神氏と比売神系の宇佐氏・辛島氏が共存してたんだよ。
大神氏は明らかに半島系は学界の常識だけどね。
0113日本@名無史さん
2013/10/26(土) 20:35:05.19
今更だが、
辛島=韓島
0114日本@名無史さん
2013/10/26(土) 21:19:44.70
スレ違いになるかも知れないが話題になってるから質問させて貰う。
新羅明神は園城寺の中に祀られているよね。
源氏は寺社の中では八幡と園城寺とつながりが深く
鎌倉幕府も寺社の争いの場合八幡と園城寺の肩を持ちがちなんだけど
新羅明神が園城寺に祀られていることと何か関係あるかな?
0115日本@名無史さん
2013/10/26(土) 21:39:11.26
>>114
それは瀧浪貞子氏「奈良朝の政変と道鏡」(吉川弘文館)を読むといいよ。
八幡宮特有の神仏習合が説明されてるよ。
0116日本@名無史さん
2013/10/26(土) 21:59:12.78
園城寺に新羅明神が祭られていることについては意味はないようだな。
たまたま円珍が唐で新羅人に世話になっただけらしいし。
(山東省に新羅人の居留地があった)
0118日本@名無史さん
2013/10/28(月) 18:27:23.04
>>116
>園城寺に新羅明神が祭られている

ああ、それでか、、
河内源太が父・義忠の仇・義光を討ち果たしたとき、
常陸にいるはずの義光が園城寺に来ていたのは。
0119日本@名無史さん
2013/10/28(月) 22:50:10.35
そういや園城寺の前身の大友寺を作ったのは、
渡来人の大友氏だった。
円珍はこのこともいくらかは意識してた?
0120日本@名無史さん
2013/10/29(火) 08:06:04.83
三井寺(園城寺)の公式ホームページに
「三井寺と新羅源氏」という項目があってビックリしたよ。

貼っとくね
>源氏と三井寺との間には深い関わりがありました。源頼義は前九年の役(1051年)出陣の際に、三井寺と新羅明神に参拝し武功を誓い、その三男義光は新羅明神で元服し新羅三郎と称されました。
>頼義は前九年の役を平定した後、子息の快誉を三井寺の僧侶とし、三井寺別院の尾蔵寺境内に祠を建て、石清水八幡宮を勧請して三井寺の鎮守としました。これが鴿尾(はとのお)八幡宮(新八幡宮)です。
>現在は尾蔵寺、鴿尾八幡宮ともに廃寺となり、大津市立の長等公園となっています。
>これ以後も、義光が子息の覚義を出家させ、三井寺北院に金光院を創建するなど、源氏から三井寺に多くの僧が入り、その関係は深まっていきました。
0121日本@名無史さん
2013/10/29(火) 10:04:51.02
>>120
関係深いなー
0122日本@名無史さん
2013/10/29(火) 10:48:10.69
八幡宮の祭神のひとつである神功皇后の神名は辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおめのみこと)であり
「辛国」とは新羅の統治下にあった「加羅国」のことであり、息長氏の巫女(シャーマン)であることを示している。
古事記によると息長氏は新羅王族の末裔とされている。

推測ではあるが八幡宮には新羅の「花郎」の末裔も居たに違いない。
賀茂神社(新羅系)の神事である馳射は騎馬戦闘技術である。
武門清和源氏の武力の中核は八幡宮・賀茂神社のこれら花郎の末裔達に担われていたとも考えられる。
0123日本@名無史さん
2013/10/29(火) 13:13:52.09
武士の戦闘技術が俘囚起源であるという説(下向井説)は最近の学界ではどうなの?
0124日本@名無史さん
2013/10/29(火) 14:09:58.10
まあでも隠れ悪人は藤原(中臣)鎌足でしょ。
蘇我入鹿暗殺後、蘇我は一気に失脚した。
0125日本@名無史さん
2013/10/29(火) 17:13:28.73
武士の戦闘技術については

ここ数年の川尻秋生氏、特に近藤好和氏の前段階の律令制軍団騎兵からの連続性や
賀茂神社神事の馳射に代表される6世紀以前の古代軍事氏族の研究による厳しい指摘で

あと日本刀の成立についても冶金工学の専門家や刀匠からの指摘で鎬造の構造的技法的指摘により
独特の反りが発生したと指摘されてるし、近藤好和氏の正倉院御物の検証からも
下向井氏自身も説を修正してるんじゃないかな。
0126日本@名無史さん
2013/10/29(火) 19:27:01.72
>>125
将門や満仲には「犬養」、
秀郷には「鳥取」という氏族が関係している。
0127日本@名無史さん
2013/10/29(火) 23:08:04.73
>>120
そういえば近江源氏の山本義経も義光の子孫だよね。
山本義経は治承寿永の乱の時園城寺と提携していたりするよね。
同じく山本義経は義光子孫の武田信義と一時期連絡をとって共同行動を
取ろうとしていたみたいだし(玉葉より)
0128日本@名無史さん
2013/10/30(水) 08:49:30.23
俘囚≒蝦夷じゃないと思う。

俘囚は中央で失脚した古代軍事氏族の物部氏や大伴氏の末裔が主体だと思うよ。
0129日本@名無史さん
2013/10/30(水) 08:55:45.90
敗れた物部守屋一族への弾圧は苛烈を極めたみたいだね。

勝者の蘇我馬子ー聖徳太子ラインは百済系で相当腹黒かったみたいだね。
0130日本@名無史さん
2013/10/30(水) 09:04:45.46
大化の改新は百済系同士の内紛であって壬申の乱が本当の革命だよ。
0131日本@名無史さん
2013/10/30(水) 16:23:53.82
はるか昔に大和朝廷に軍事的に敗北した側の戦闘技術が新興武士の戦闘技術の起源だなんて理解しがたい説だな。

>>俘囚は中央で失脚した古代軍事氏族の物部氏や大伴氏の末裔が主体だと思うよ。

こう考えれば、中央貴族が失った往古の勇猛さと戦闘技術が逆輸入されたものとなる。
だけど、大和朝廷側の末裔に「俘囚」という言葉が使われたとすると変ではないのかな。
0132日本@名無史さん
2013/10/30(水) 17:18:33.99
>>131
聖徳太子側から反逆者(大逆罪)の烙印を押された敗者は未来永劫罪は許されないから
蝦夷の領域で生き延びるしか方法は無く、製鉄や騎射などの軍事技術と共に移入したんだと思うよ。
0133日本@名無史さん
2013/10/30(水) 17:58:56.11
「夷種衆多、逓相合従、賊徒数万、窮寇死戦、一以当百、難与争鋒」
夷(えびす)の種(ともがら)は衆多くして、逓(たがい)に相合従す。賊徒数万、窮寇死戦せば、一もて百に当りて、与(とも)に鋒(ほこのさき)を争ひがたし。
(『藤原保則伝』古代政治社会思想)
0134日本@名無史さん
2013/10/30(水) 18:09:14.93
物部氏の戦闘技術w
全て妄想の範囲内です。
0135日本@名無史さん
2013/10/30(水) 18:48:13.21
>>134
またお前が湧いてきたんかw
0136日本@名無史さん
2013/10/30(水) 18:56:27.22
まあ武士の戦闘技術のルーツは色々求められるけど
主流は畿内を発祥とする八幡宮、賀茂神社系だろうね。

神社の「神人」というと現代感覚では神主なんかをイメージするけど
実態はチンピラ・ヤクザなんだよね。
0137日本@名無史さん
2013/10/30(水) 19:06:46.65
>>134
だけど怖いよね。

21世紀の現代でも聖徳太子や藤原氏を批判すると
直ちに、押さえ込もうとする勢力が現れるからね。

なんでだろ?
0138日本@名無史さん
2013/10/30(水) 19:15:22.15
『続日本後紀』(承和4年2月)
弓馬戦闘。夷リョウ生習。平民之十不能敵其一。
0139日本@名無史さん
2013/10/30(水) 19:34:49.70
>>138
一次史料の部分的抜粋を張って何が言いたいんですか?
0140日本@名無史さん
2013/10/30(水) 19:37:25.44
藤原氏の政治手法とは自家の繁栄。競合という意識はないんだとおもうよ。
悪徳と言うか常に円を張って隙を狙ってるといったところか。
0141日本@名無史さん
2013/10/30(水) 20:00:29.77
源実朝は藤原摂関家と関係の深い三浦氏に消されたけどね。
0142日本@名無史さん
2013/10/30(水) 20:39:39.54
>>140
藤原氏縁者の人ですか?
0143日本@名無史さん
2013/10/30(水) 20:47:47.55
>>140
藤原氏は天皇家を滅ぼさず共存を図ったじゃんw
鎌倉幕府には摂家将軍を差し出し
室町幕府には御台所を差し出し
江戸幕府にも御台所を差し出した
現在も宮家の女王が嫁いだりしてる
0144日本@名無史さん
2013/10/30(水) 22:54:16.92
>>143 そういうとこが

>>140 の言ってる性悪ってことだよ

とにかく聖徳太子や藤原氏に批判めいたこと言うと速攻、変なのが湧いて来るんだなw
0146日本@名無史さん
2013/10/31(木) 08:38:22.72
推古天皇=持統天皇

聖徳太子=藤原不比等

このように故事に擬えて権力の正統性を図ったのは光明皇后一味だよ。
0147日本@名無史さん
2013/10/31(木) 08:54:19.74
中世以降の藤原氏の犯罪

源実朝暗殺
足利義満暗殺
織田信長暗殺
孝明天皇暗殺(主犯は三条実美)
第二次世界大戦参戦(近衛文麿)
細川連立政権崩壊(自民党政権の復活)
自民党清和会の独裁←今ここ
0148日本@名無史さん
2013/10/31(木) 18:09:21.24
武士の成立過程で重要な武器として「太刀」がある。

1966年に石井昌国が提唱して以降、蕨手刀から毛抜型太刀への変遷に着目し太刀の源流を
蕨手刀に求める説が主流となり、1995年には下向井龍彦が同様の立場から俘囚の積極的関与によって
武士成立の重要な要素と考える説を提唱していた。

しかしながら近年の研究により石井説の再検討が指摘されているのだ。
蕨手刀の年代出土例が関東以西ほど古く関東、東北南部、東北北部、北海道と順を追って新しくなるという。

しかも太刀の構造上の問題を忘れてはならない。
太刀は茎式鎬造で蕨手刀は共鉄式平造である。
蕨手刀の進化型は毛抜型太刀(俘囚刀、衛府太刀)であることには異論はないが武士の太刀とは決定的に構造が異なるのである。
毛抜型太刀と太刀は構造上、系統が異なることは否めない。

実は正倉院御物には茎式鎬造の大刀がある。
基本的には直刀であるが茎を差し込む柄の角度により腰反りの効果を得ている。

武士の成立過程において前段階の律令制軍事戦闘技術の連続性は重要な要素であるといえよう。
0149日本@名無史さん
2013/10/31(木) 19:09:28.22
蕨手刀は北関東、信州あたりで生まれ北日本に伝播し東北の地で進化した。
0150日本@名無史さん
2013/10/31(木) 20:25:42.03
残念ながら
その進化した毛抜型蕨手刀と武士の太刀に連続性は無い。
0151日本@名無史さん
2013/10/31(木) 21:10:39.21
>>150 の補足であるが冶金工学的にも作刀工程にも両者には技術的断絶がある。

先ず冶金工学的側面において太刀は鋼を鍛えることによって脱炭し炭素含有量を1%程度の剛性の最適化を実現した。

昨刀技法面において太刀は鎬造を用い臍を切ることによって驚異的な軽量化を実現し剛性は損なっていないのだ。
二尺未満の毛抜型蕨手刀が三尺近い当時の太刀(江戸時代の打刀よりはるかに長尺である)と同寸の物を作ったならば
とても日本人の体格では取回せない代物になるであろうことは想像に難くない。

さらに拵においても太刀は刀身を柄に完全固定せず茎を一つ目釘により遊びを設けショックアブソーバーの役割をもたせている。
これは蕨手刀の共鉄造とも一j線を画し、機能面においても毛抜型蕨手刀よりも打撃時の衝撃を吸収することに成功している。
0152日本@名無史さん
2013/10/31(木) 21:17:47.58
昨刀→作刀
0153日本@名無史さん
2013/10/31(木) 22:13:05.02
>>144
摂家将軍も足利家・徳川家に御台所を出したことも
藤原氏が画策したことではなくて全部向こうから請われたことじゃないね?
藤原氏が性悪でなかったら、婚姻を請われても全部断らないといけないわけか。
変な奴だ。
0154日本@名無史さん
2013/10/31(木) 22:28:38.20
>>153
藤原氏側がそう仕向けたんだよ。
ぶぶ茶漬でも食って帰ってくれ。
0155日本@名無史さん
2013/10/31(木) 22:42:16.71
藤原北家の末裔って今でも糖尿多いのかなあ
0156日本@名無史さん
2013/10/31(木) 22:43:23.80
変なのが湧いてきたんで無視して
武士論の実証科学的議論をしようよ。
0157日本@名無史さん
2013/10/31(木) 22:47:27.81
俘囚の影響はあっただろうけど限定的だな
0159日本@名無史さん
2013/11/02(土) 20:53:18.13
>>158
具体的に反論してくれたまへ
0160日本@名無史さん
2013/11/03(日) 14:07:10.41
>>158
論拠無しの単なる荒らしか。
0161日本@名無史さん
2013/11/03(日) 22:14:12.03
>>158
花郎がどうとかわけわからん事言ってるし
朝鮮ドラマの見すぎなんだろうな
0162日本@名無史さん
2013/11/04(月) 09:07:49.40
新羅の「花郎」は弥勒信仰そのものである。

八幡宮は神仏習合を基本とし神宮寺(弥勒寺)と併設されていることが最大の特徴である。
総本社宇佐八幡宮の弥勒寺は辛島氏によって建立され別当職を代々受け継いでいる。

八幡信仰は「香春」の神が源流とされ、辛島氏の故地は新羅領域の加羅国であり、弥勒信仰と共に
辛島氏は九州北部香春の地に移住して来た製鉄技術を持つ新羅系渡来氏族である。
0163日本@名無史さん
2013/11/04(月) 19:15:35.74
満仲が作らせたと伝えられる源氏重代の太刀「髭丸」は伝承によると筑前の刀匠の作刀とされている。

筑紫の鍛冶集団は香春の製鉄民をルーツとしていることから天慶の乱鎮圧に父経基に従い西国に出陣した満仲が
彼ら香春の鍛冶集団と何らかの接触を持ち吸収したことは十分考えられる。
0164日本@名無史さん
2013/11/04(月) 19:20:48.43
訂正
香春の鍛冶集団→香春の製鉄民
0165日本@名無史さん
2013/11/05(火) 17:56:47.02
大陸朝鮮と日本の間で決定的に違うのは弓と鐙
朝鮮は日本のような長弓でも武蔵鐙でもなく大陸の猿真似、没個性
朝鮮との連続性はないといえる
0166日本@名無史さん
2013/11/05(火) 19:37:26.99
>>165
よく勉強してるが浅学だね。

君の言う武蔵鐙とやらはスリッパ型でその成立は12世紀なんだね
古代末期、武士の萌芽期においては環状鐙であり律令軍制と共通なんだよね。

長弓についてだけど
元寇でのモンゴル軍(高麗軍)も複合弓の短弓も長弓も使用してるけど何か?
0167日本@名無史さん
2013/11/05(火) 19:53:15.19
>>165
後学の為に教えといてやるけど

日本の長弓の特異性はその使用方法にあるんだよ。
馬上での長弓の使用は日本独自であり、その秘密はグリップの位置にあるんだよね。
弓の下半分の握り拳二つ分下部をグリップすることによって馬上での取回しを容易にすると同時に
弦の強張力効果と矢の弾道降下を防ぐことに成功してるんだよね。
0168日本@名無史さん
2013/11/12(火) 17:12:59.35
大陸は騎馬兵が弓を放つので短いけど
日本は基本、歩兵が主力なので、弓が長い。
0169日本@名無史さん
2013/11/12(火) 17:28:54.25
日本弓について
「重藤の弓」が有名だけど複合弓の普及は実は鎌倉期以降であり
治承・寿永の乱当時は古代以来の丸木弓が普通に使用されていたんだよね。
0170日本@名無史さん
2013/11/12(火) 19:10:16.74
那須与一の弓は丸木弓?複合弓?
0171日本@名無史さん
2013/11/15(金) 18:07:29.64
那須与一の弓は複合弓だった可能性はあるね。
ソースは失念したけど一部文献によると、丸木弓の外側(射手から見て)に燻した真竹を
膠で張り合わせて漆で塗り固めたものだったらしいね。
0172日本@名無史さん
2013/11/24(日) 14:11:51.58
源氏が新羅系とよく言われるのは、血統的に新羅人の子孫という意味ではなく、
新羅のスピリットを継承しているって意味なの?
0173日本@名無史さん
2013/11/27(水) 18:00:56.93
YES
ファランの精神の継承者だな。
0175日本@名無史さん
2013/11/28(木) 18:01:52.46
清和源氏だけは新羅系だろ?
0176日本@名無史さん
2013/11/28(木) 21:15:34.15
またアフォなデマを
0177日本@名無史さん
2013/11/28(木) 22:31:56.28
他の源氏は皇孫裔だけどな
0179日本@名無史さん
2013/11/30(土) 06:58:24.16
だから平氏は百済系
0180日本@名無史さん
2013/11/30(土) 08:38:34.11
あっ!
0181日本@名無史さん
2013/12/01(日) 01:10:29.52
下河辺龍彦は歴史学は科学だと言い切っている。

各史料の比較、推論、「史料批判」によって歴史の真実が見えてくる。

即ち、武門源氏=清和源氏の根拠は余りにも脆弱だ。
0182日本@名無史さん
2013/12/01(日) 18:26:45.56
そうだね。
武門源氏が清和源氏であるとの同時代史料では「大鏡」のみであり
後代の史料は全てこれに倣っているだけ。
0183日本@名無史さん
2013/12/02(月) 08:50:30.50
>>178
皇族の母系はたえず変わるだろうw?
一代ごとに生母は変わるんだからw
0184日本@名無史さん
2013/12/02(月) 19:49:38.06
>>183
その殆んどが渡来系。

息長氏、百済王。
0185日本@名無史さん
2013/12/03(火) 22:54:33.68
源氏は新羅系、平氏は百済系
0187日本@名無史さん
2013/12/04(水) 18:25:58.10
>>186
日本史の常識だろ?
0189日本@名無史さん
2013/12/04(水) 20:59:50.73
チョン・ダヨン
0190日本@名無史さん
2013/12/05(木) 01:24:40.42
なんでも半島由来にしないと気がすまない例の病気
0192日本@名無史さん
2013/12/09(月) 16:06:52.79
源満仲の出自は

陽成帝の母后藤原高子が不義密通し東光寺座主善祐の児を妊り、寛平8年(896年)9月に
廃后されている。

陽成上皇は退位後、頻繁に摂津国で下人を引き連れ狩猟を行い乱暴狼藉を働いたとされている。
摂津国多田院の近くには東光寺の末寺が存在する。

以上の事柄より
満仲兄弟の実の父親は陽成上皇の異父弟であり
満仲兄弟は陽成上皇の取り巻きとして狩猟に供奉し乱暴・狼藉時には暴力装置として機能していたと思われる。
また、経基との関係は
満仲兄弟の叔父である陽成上皇が兄弟を同族の経基の養子とさせ皇孫裔に潜り込ませたのである。

満仲兄弟の実の祖父東光寺座主善祐は秦氏の出自である。
0194日本@名無史さん
2013/12/09(月) 17:38:43.31
>>193
またお前か
0195日本@名無史さん
2013/12/09(月) 20:19:05.99
武家源氏は清和源氏ではなく
清和の后藤原高子の不義の子孫なんだな。

満仲が藤原摂関家に接近して四位まで位階を進めることが出来た説明がつく。

その秘密を知った頼信はコンプレックスから息子に「義」の諱を与え頼義とし
河内源氏は代々「義」を通字としたんだな。
0196日本@名無史さん
2013/12/10(火) 00:29:47.05
>>195
藤原高子は清和天皇の死後、僧と密通して皇太后を剥奪されたというだけで

別に陽成天皇は不義の子ではないだろ
0197日本@名無史さん
2013/12/10(火) 04:58:16.34
>>196
ちゃんと嫁。

東光寺座主善祐と密通して生まれた子供が陽成上皇の異父同母弟であり
その異父同母弟が満仲兄弟達の実父だということ。


この事実から
満仲と摂関家との関係(母系では藤原基経の曾孫であり皇太后高子の孫)が解明出来るし
父とされる源経基(天慶の乱勲功者)を遥かに凌いで位階を進めた理由が分かる。

さらに
「頼信の告文」の謎も説明出来る。
それは 源家の秘密を知ってしまった頼信の苦悩(本当の祖父が陽成上皇の異父同母弟であったことへの)であり
信仰している八幡神に対しての申し開き(陽成帝の末とすることでの賜姓源氏の正当性の主張)である。
0198日本@名無史さん
2013/12/10(火) 05:59:04.87
陽成源氏説は、世代数からみて、どう見ても無理がある。
0199日本@名無史さん
2013/12/10(火) 08:28:48.06
>>198
論拠が脆弱だぞ
0201日本@名無史さん
2013/12/14(土) 06:54:40.00
>>192
>以上の事柄より・・・・・・・・・・・・・
その異父同母弟が満仲兄弟達の実父>>197と言えるのかねえ?
その異父弟という善祐の子にして満仲の実父自身については、史書には
どう記録されているのかね?
0202日本@名無史さん
2013/12/14(土) 09:53:25.31
>>197
高子と善祐の間に子はいないんだが。

だいたい高子が僧善祐と密通して皇太后を剥奪されたとき
高子は55歳だぞ?

高子が皇太后となった元慶6年(882年)には密通はまだなかったのだし
皇太后になったときにすでに高子40歳。
皇太后剥奪が寛平8年(896年)でこの前後に満仲父が生まれたとして
高子は50代半ばで出産か?
0203日本@名無史さん
2013/12/14(土) 12:04:31.37
>>202
>高子は55歳だぞ?

?が付いているから疑問文と判断できるが、
高子の年齢は55歳なのかを聞いているのか、意味不明。


>高子は50代半ばで出産か?

疑問文として意味が通じる。
0204日本@名無史さん
2013/12/14(土) 18:08:40.63
>>203
高子が僧善祐と密通して皇太后を剥奪されたとき高子は55歳←これは史実

?を付けたのは55歳で出産したと本気で思っているのか、という疑問符。
高子が没したときの年齢、皇太后を剥奪された年は確定している。
0205日本@名無史さん
2013/12/15(日) 05:58:11.68
清和源氏説:清和天皇−貞純親王−源経基−源満仲
陽成源氏説:清和天皇−陽成天皇−元平親王−源経基−源満仲  

これを比較してみろ。
世代数でみても、陽成源氏説は無理がありすぎるんだよ。
清和源氏説でみても、満仲って経基が10代の時に生まれたような子どもなのに、
経基よりもちょい上の元平親王の孫が満仲だなんて
世代数からみても、無理有りすぎ。
0206日本@名無史さん
2013/12/15(日) 06:12:09.35
皇別氏族って、いついつに臣籍降下したかによって
その後の昇進などに影響する。
源経基は、清和天皇の第6皇子の子供だから、立場が微妙なんだよ。
0207日本@名無史さん
2013/12/17(火) 17:05:45.80
少しでも歴史の隙間があるとウリジナルはそこに入り込んでくるのである
0208日本@名無史さん
2013/12/17(火) 17:58:36.39
>>東光寺座主善祐と密通して生まれた子供が陽成上皇の異父同母弟であり
その異父同母弟が満仲兄弟達の実父だということ。

wikiだとこの一文だけでも[要出典]の嵐だな
0209日本@名無史さん
2013/12/19(木) 16:08:26.46
>>197
この事実から〜と書いているが、その中で事実は密通があったということだけではないの?
0210日本@名無史さん
2013/12/21(土) 11:05:44.10
在原業平と高子の不義の子も清和帝皇子とされているからね。

清和帝は16歳から26歳までの10年足らずで30人近い皇子皇女を作っているし

清和・陽成朝から光仁・宇多朝に皇統が移動して清和・陽成皇胤の地位の低迷は仕方ない。
0211日本@名無史さん
2013/12/21(土) 11:11:36.06
訂正
光仁→光孝
0212日本@名無史さん
2013/12/22(日) 18:33:15.93
当時、母系の後ろ盾が無ければ皇孫と言えども従五位下の叙爵もままならなかった。
0213日本@名無史さん
2013/12/22(日) 18:55:31.42
同じ源氏と言えどもを八幡太郎は卑しさや
0214日本@名無史さん
2013/12/22(日) 19:00:42.09
>>192
やっぱりそうだったんだな。
納得したよ。
0215日本@名無史さん
2013/12/22(日) 19:52:43.03
>>210
藤原高子は貞観8年に清和天皇に入内し、同年12月に女御宣下を受けている。
高子には陽成天皇、貞保親王、敦子内親王の3人の子がいるが、
このうち最も年長の陽成天皇は貞観10年12月16日の誕生、
貞保親王は貞観12年の誕生でいずれも入内後の誕生。
敦子内親王は生年不詳だが、内親王宣下を受けたのが貞観15年であり、
陽成天皇、貞穂親王の妹とされる。

高子が産んだ不義の子って誰?
0216日本@名無史さん
2013/12/23(月) 11:44:24.85
2週間もかけて勉強したんだね
涙拭けよ
0218日本@名無史さん
2013/12/31(火) 01:05:29.76
小学校低学年の頃、「悪源太義平」のことを「亜源太義平」と認識していた。
当時通っていた書道教室で「飛んでゆく雲」を読んだのが義平との初めての出会いだった。

義平が清盛の暗殺に成功していたら、大輪泊は誰が築くの?
音戸の瀬戸の掘削工事は?
武勇に優れた義平といえど、清盛のように百年先を見通す英傑ではなかったのでは。
それより先に報復として頼朝が殺害され、さらに常盤と三人の子供たちが路頭に迷う可能性があるかも知れませんね。
0219日本@名無史さん
2013/12/31(火) 10:03:07.85
その場合、池殿と後の小松殿が分裂して
帝と院も分裂状態で摂関家最後の巻き返しのチャンスだったかもな
0220日本@名無史さん
2013/12/31(火) 18:19:46.35
>>218
百年先の日本を考えるより自分の親の敵を殺す方が先だろうw
0221日本@名無史さん
2014/01/01(水) 01:52:57.22
そして河内源氏は身内同士の凄惨な殺し合いを続けてゆく。

「新平家物語」などの文学作品の影響で義平は清童だと信じていた頃がありました。
史実では妻を娶っていたのに。妻が幼くて子が生まれなかったのかも知れませんね。
新田氏以外の名も無い女性が義平の子を産んでいたとしたら、その子は歴史の表舞台に登場することはなく、
ひっそりと生涯を終えていたのではないでしょうか。特に女児の場合は。

「飛んでゆく雲」に登場する義平の子は源氏dqnの血を引くとは思えない、心優しい美男子でしたね。

悪源太義平は今後映像化されることはないのかな?
例の大河ドラマの不人気低視聴率から、中世もの=見たい人が少ない、の世論が形成されたからなあ。
0222日本@名無史さん
2014/01/01(水) 11:52:45.21
>>221
歴史ファンとしては
大河ドラマ「平清盛」は結構見応えあったよ。

特に頼朝以前の為義・義朝親子の描写なんかね。
0223日本@名無史さん
2014/01/01(水) 12:04:57.59
ヘロヘロ矢のゴミドラマ
悪源太役に優男を起用した時点で駄目だ
0224日本@名無史さん
2014/01/01(水) 15:52:47.23
今の大河は若いのは優男ばっかりだから
0225日本@名無史さん
2014/01/01(水) 18:14:16.51
あの悪源太の中の人は父親役の中の人より年上。
平治物語の虚構だけど橘と桜の場面は見たかったなあ。
0226日本@名無史さん
2014/01/01(水) 20:12:06.75
中の人達が乗馬が苦手だったのかな。
内裏攻めの総大将重盛が徒歩なのがトホホだった。

「新平家物語」の平治の乱はスタジオセットながら重盛は騎馬で攻め込んでいた。
搦め手の池殿も八丁の次郎に追いかけられていた。
0227日本@名無史さん
2014/01/03(金) 18:47:44.78
そうであれば為朝役の橋本さんはベストキャスチングだね。
0228日本@名無史さん
2014/01/03(金) 18:56:27.61
為朝というと義平と為朝を勘違いする人は多い。
0229日本@名無史さん
2014/01/03(金) 19:15:19.43
為朝と義平は二歳け違いだっけ?
0230日本@名無史さん
2014/01/03(金) 20:16:42.23
そんくらいだね。
ともに負け戦の中で孤軍奮闘だから間違う人多いだろうなあ。
ある歴史愛好家のBBSでも「悪」という文字の話題から、
「悪源太という弓の名手が保元の戦いで」と知ったかかましたおっさんいたからワロタ
0232日本@名無史さん
2014/02/27(木) 07:38:34.57
義綱が為義に討伐された理由ってなんだったんだ?
義忠暗殺の罪を被せられたにしては配流から20年以上経ってから
討伐するのはおかしいだろう。
0233日本@名無史さん
2014/02/27(木) 19:03:16.24
>>232
義忠暗殺事件が1109年だっけ?
義綱捕縛−配流が1110年くらい?
河内経国が父の仇・義光を討ったのが1124年
為義が義綱を討伐したのが1132年

為義の頭おかしいとしか言いようがない
0235日本@名無史さん
2014/02/28(金) 21:03:34.62
義光は義忠暗殺の真犯人だと発覚して常陸に逃れたとされてるけど、
もしそうなら義綱の冤罪は晴れていたはずだし
冤罪が晴れていなかったなら義綱討伐時に義光は既に死んでいて常陸に逃れるも何もない
0236日本@名無史さん
2014/03/01(土) 01:26:48.51
>>235
義光は真犯人だと発覚して常陸へ逃亡。
その時点で義綱は冤罪は晴れてたが、佐渡に配流のまま。
十五年後、義忠の長男の経国が園城寺で義光を殺害。
さらに八年後、為義が佐渡まで押しかけて行って義綱を殺害。

義綱あわれ。為義の頭おかしい。
あるいは、平忠盛に出世で差をつけられた鬱憤晴らしか?
0237日本@名無史さん
2014/03/01(土) 11:39:17.25
為義は義綱も競争相手だったからではないの?
0238日本@名無史さん
2014/03/01(土) 11:41:39.21
その当時の河内源氏の棟梁って
やはり源義忠とその子息のほうだろうね。
義親のほうは、庶子って感じだと思う。
お互い生前中から、義忠のほうが官位も上だし。

為義は本当に義親の子供なのか??
0239日本@名無史さん
2014/03/01(土) 13:30:08.29
>>238
義親か義忠か、それぞれの母親の身分がどうだったかが重要だが。
義忠が河内の守、義親が対馬の守で、義忠のほうが上位。
しかし、これは朝廷が義忠のほうを優遇したからとも言える。
人望は義親のほうが上じゃないか。死後偽者が続出するほどに。

結局、義家の生前に義親は乱を起こして死んだのだから、
嫡男は義忠で決定。
その長男の経国も河内源太と呼ばれて将来の後継者と見込まれていた。
しかし、義忠の死亡時、10歳に満たない幼さだったので、
為義にその座を奪われた。
0240日本@名無史さん
2014/03/02(日) 14:10:00.51
鎌倉悪源太義平は勇猛果敢であった
0241日本@名無史さん
2014/03/04(火) 21:03:02.09
為義って、本当に義親の子供なのかな?
一部の説で言うように、義家の五男じゃないの?
0242日本@名無史さん
2014/03/06(木) 14:48:44.61
>>241
為義は、義親の4男で、他の兄弟と母親が違うので、
義家に養育されてたって説があるな。
義忠の跡をこいつが継いだのに関係あるのかも。

義忠が死んだとき、彼の長男・経国は9歳くらい。
源氏の棟梁としては頼りないってことで、
義家のもとの嫡男の義親の子供にお鉢が回って、
長男・義信にいくかと思ったら、なぜか為義に。

当時、為義は14歳、六条の源氏屋敷に住んでいて、
義信は京都にいなかったという説がある。真偽は知らない。
義信は20歳を超えてるし、源氏棟梁として遜色ない。
京都にいなかったら、呼び寄せればいいだけ。

そうしなかったのは、頭の悪い為義に跡を継がせて、
自分はこれを傀儡として、源氏の実験を握ろう。
そう考えた義光が為義を擁立したのであろう。
その後、義忠暗殺の黒幕であることがばれて、義光は常陸へ逃亡。
0243日本@名無史さん
2014/03/06(木) 16:53:48.76
俺は生年月日から言って為義は義家の子供だというほうがしっくりくる。
もし、為義が義親の子供で四男だとしたら
義親って、義忠や義国とは、だいぶん、年が離れていることになるな。
0244日本@名無史さん
2014/03/06(木) 20:06:12.07
>>243
義忠が死んだとき26歳
弟の義国は18歳
兄の義親は生年不詳だが、長男義信は20歳くらい
てことは、義親は生きてれば、35−40くらい(推測)
たしかに、義家の次男義親と3男義忠の年齢差は9歳以上と離れてることになるが、
4男義国との年齢差も8歳と離れている。
当時は、乳幼児死亡率が高いし、大人になる前に死んだ子は省略されているのだろう。
為義は14歳。義国の弟でも、義信の弟でも可能性はある。
0246日本@名無史さん
2014/03/07(金) 09:11:21.76
>>244
なんで、為義は祖父の義家のもとで
養育されなきゃいけなかったのか?って話。
長兄とされる義信らは正室の子供で、義親の乱のときに
義信の外戚も一緒に失脚しているというのも影響しているかもしれんけど。

あとね、義親の長男の義信の長男に源義実(延朗)ってのがいるが、
この人が為義の長男の源義朝よりも7歳下なんだよね。
ということは、源義信の長男の義実は、義信が40歳の時の子供ってなるね。
0247日本@名無史さん
2014/03/09(日) 01:36:53.96
>>246
為義が義家に養育されたのか、真偽はわからんね。

義朝は、為義の長男だけど、27歳のときの子で、
為義は14歳のときから、源氏棟梁で女はやりまくりだっただろうのに、
長男が産まれたのが遅いのが不自然とか思うけど、
当時は乳幼児死亡率が高く、成人する前に死んだ子は省略だろうし、
女子は、有名な男と結婚しない限り省略だし、
妻訪い婚だと、妻を自分の屋敷内に確保してるわけじゃないから、
産まれた子も、妻の男たちの中で、
その時点で最も将来性あると判断された男の子とされるのかもしれないし

だから、子供の年齢比べたって、義家の子か義親の子かなんてわからない。
0248日本@名無史さん
2014/03/09(日) 19:31:26.68
義朝って本当に為義の長男だったのかな?
さすがに義賢、頼賢、為朝、行家よりは年上だと思うけど
義朝の前に思いっきり身分の低い女が生んだのとか育たなかったのとか、為義の婚姻路線の変更で離縁→子供とも縁切り
なんてのもあったのかな?
なんて考えてみる。
0249日本@名無史さん
2014/03/10(月) 07:08:21.70
>>248
年齢的には長男の可能性は低い。
恐らく、夭折した上の男子がいると思われる。

但し、為義自体が義朝の系譜を除き保元で三族皆殺しになっているため(義広、行家、
義仲は行方をくらますことに成功したが、本来なら処刑だった)、資料は残らずかなり
謎な点が多いのも事実。
0251日本@名無史さん
2014/03/11(火) 17:35:04.01
義家自体が、頼義が50歳超えた時の長男だよな。
その義家の嫡子である三男の義忠も
義家が40代の時の子ども。
0252日本@名無史さん
2014/03/11(火) 22:02:36.30
>>248
長男だろうけど為義は後継者として義賢を考えていたフシがある。
だとすれば義朝は正室の子ではないということも考えられる。
0253日本@名無史さん
2014/03/12(水) 08:29:41.32
生母の出自は
義朝も義賢も大差ない。
0254日本@名無史さん
2014/03/12(水) 12:56:17.74
>>252
>>253
義朝の母の父は、白河院の近臣の藤原忠清。権勢に繋がる
義賢の母の父は、六条の大夫の名前は忘れた

忠清の生前は、義朝が為義の嫡男だった。
しかし忠清が死んだので、為義は義朝を東国へ下向させた。
祖父の後ろ楯がなけりゃ出世の見込みがない。
嫡男が出世するかどうかは、家の繁栄に直結する。
東国下向の時点で義朝は廃嫡。10歳くらいだったらしい。

のちに義朝が、東国で在地の武士団を従え、さらに鳥羽院に取り入って、
父を出世で見返すようになるのは為義の誤算だった。
0255日本@名無史さん
2014/03/12(水) 17:57:45.90
義朝ってやり手だったんだな。
為義もやり手だった。
二人とも嫡男だったわけではないのに、結果的に
源氏の正嫡として後世に認識されるまでになった。
結果、頼朝に引き継がれる。

そういう風に考えたら、義平も生き残っていたら、分からなかったな。
0256日本@名無史さん
2014/03/12(水) 21:04:37.32
鎌倉悪源太が生き延びていたら…
木曽義仲を討ち、平家を討ち、鎌倉に幕府を築いてただろうね
0257日本@名無史さん
2014/03/12(水) 21:11:18.09
悪源太は猪武者だから戦闘には強いが政治力はないよ。
0258日本@名無史さん
2014/03/12(水) 22:19:23.49
戦いに勝てば即座に領土も簡単に手中と考えるのは、ノブヤボなどゲームで培われた考えだろう。
戦には強くても武家の頂点に立つ力がなかった義経がどんな末路を辿ったか、それすらも知らないとは……
0259日本@名無史さん
2014/03/12(水) 23:10:56.07
義平は政治力ありまくりだろう?
というか、三浦氏をはじめ、坂東武者の覚えめでたい。

頼朝は、生母が熱田神宮大宮司家で、京都の関係から、
義朝の正嫡ぽかったけど。

むしろ、経歴が為義や義朝に近いのは、義平だと思うけどな。

この当時って、嫡子のほうが京都で出世を目指して公家化するけど
庶子のほうは京都での出世を目指さず、関東で土木を従事し
大武士団を運営するってかんじ。

清和源氏全体でも、より嫡流に近い頼光の長子系は、公家になっているし、
桓武平氏のほうでも、嫡子系のほうほど、公家化している。
0260日本@名無史さん
2014/03/12(水) 23:18:13.89
桓武平氏の嫡流である高棟王流は京都で中級公家だったし
武家として成長した桓武平氏高望王流のほうでも
嫡子系のほうは、どんどん公家化、平貞盛の嫡孫の平維時の嫡男の
平中方は京都の出世を目指し、そうではない弟の平直方のほうが
鎌倉で武士団を運営していた。
が、その直方の子孫たちも、殆ど在庁官人として、小規模の武士団だった。
嫡流ほど京都での出世をめざし、田舎で開発領主なんて、やりたがらない。

結局、桓武平氏の中でも一番大規模な武士団を運営していたのは
京都での出世を諦めていた末流の平良文の後胤たち。
あと、平貞盛の四男の平維衡の後胤である伊勢平氏。
0261日本@名無史さん
2014/03/12(水) 23:18:30.62
直接の戦いには強いけど、源頼政をこのんで敵に回してしまってる時点で思慮は足りないよ。
関東の荒武者を統率するのと、京都を中心に日本を制圧するのではモノが違う。
というか、頼朝以前に「幕府」という概念がないのに、義平にどうやってその考えが思いつくと言うのか。
もしそこそこの政治力があっても、平将門同様に関東独立を唱えて箱根以東を支配するのがせいぜい。
0262日本@名無史さん
2014/03/13(木) 08:09:27.93
頼朝にも幕府という概念
ないと思うけどね。
幕府という概念が強くなったのは、江戸幕府から。
0263日本@名無史さん
2014/03/16(日) 22:43:52.17
.
河内源氏と言う称呼は、何とかならないモンかね?

義朝五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、もうほとんど河内と関係ない。
特に頼朝-頼家-実朝の三代は、河内に行った事も無いんじゃないのか?

義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、むしろ 『鎌倉源氏』 と称するべきだと思う。
0264日本@名無史さん
2014/03/16(日) 22:53:13.86
河内のことはともかく、その系図を「五代」とは言わん。
特に義平は家督を継いだわけでも何でもない。

義朝
├────┐
頼朝   義平
├────┐
頼家   実朝
0265日本@名無史さん
2014/03/16(日) 22:54:46.01
年齢を考えるとこう書くべきだった失礼。

義朝
├────┐
頼朝   義平
├────┐
実朝   頼家
0266日本@名無史さん
2014/03/17(月) 00:49:41.32
 ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´J`) ∧_∧
/文室 \ 鎌倉 \ 上総 \ 三浦 (    ) パンツ脱いで待ってる 
| 忠光 .| |悪源太| | 曹司 | | 胤義 /     ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄   ̄  ̄ ̄  ̄  ̄ / .|   | | 藤原信頼
||\..∧_∧             (⌒\|__./ ./
||.  (    )             ~\_____ノ|  ∧_∧
  /    ヽ骨は拾ってやるよ  .     \|  (    ) 
  |     ヽ                   \/     ヽ. 負けたら絶交な
  |    |ヽ、二⌒)               / .|後鳥羽| |
  .|    ヽ \∧_∧           (⌒\|__. / /
  藤原隆家
0267日本@名無史さん
2014/03/17(月) 06:21:09.20
鎌倉幕府というか
東国での開発領主の権益の自立という概念は、平将門にあったし、
やや弱いが、その次に、それらしき概念があったのは、源義家だろう。
だから、源義平も生きのこっていたら、
鎌倉幕府的な機構を統率していただろう。
0268日本@名無史さん
2014/03/17(月) 06:26:50.31
河内源氏の歴代当主はこうだろう?

源頼信
源頼義
源義家
源義忠
源義高

この系統は、河内にずっと所領があったし
また、鎌倉時代以降も姓で源を苗字としても
名乗り続けた。
0269日本@名無史さん
2014/03/17(月) 14:08:30.12
>>264
>「五代」とは言わん

義朝の血統なんですけど。

>>267
和田義盛が、石橋山の合戦に負けて船で
逃げている最中に源頼朝に侍所に任じる様に頼むシーンがある。

既に頼朝が、対平家の軍事蜂起を始める段階で、
関東武士に行政機構の構想があったのだろう。
0270日本@名無史さん
2014/03/17(月) 14:30:23.57
>>259
>覚えめでたい

と言うか、三浦氏は、義平の外戚ですヤン。

義平の子供の頃は、三浦氏の館に住んでたんじゃないですか?
0271日本@名無史さん
2014/03/17(月) 15:01:08.14
義平が当主ならば、三浦氏が鎌倉殿の
実権を握っていたかもな。
0272日本@名無史さん
2014/03/17(月) 21:17:56.50
>>269
頼朝、頼家、実朝は義平の血統ではありませんよ。
頼家−実朝は「征夷大将軍」を継いだことで2代3代という数え方をされるが、
義平は事実上当主になったことはないから義朝−義平−頼朝という継承はない。
まして義平から地盤を継いだわけでもなく官位の継承もないので、「五代」の考え方は無理があるね。
0273日本@名無史さん
2014/03/21(金) 01:29:35.64
>>271
義平が将軍だったら、三浦氏や新田氏が、執権でしょうね。

三浦氏は、やらたに北条氏に楯突いていますが、そういう思いがあったのかも。

>>272
義朝の血統なんですけど。

しかも、義朝や義平の家臣が、頼朝の蜂起に参加しているんですけど。
0274日本@名無史さん
2014/03/21(金) 08:37:54.60
だから頼朝は義朝の血統だが義平の血統ではない、といってる。

家臣がどうたらいうんだったら、頼朝の家臣がその後頼家に背いているから相続していないと言う考えでよろしいか。
0275日本@名無史さん
2014/03/21(金) 09:55:06.02
>>273
義朝や義平の家臣で、平治の乱で源氏側の主力だった者たちの多くは石橋山で頼朝と戦っているんだが?
0276日本@名無史さん
2014/03/21(金) 13:09:26.07
家臣の話をしたら、頼信−頼義−義家−義朝まで数えないとダメだし。
0277日本@名無史さん
2014/03/21(金) 13:50:08.32
>>274
義朝の血統なんですけど。

>>275
だから、敵味方両方居るし、
敵側にたった武士も、その後に大部分が頼朝に帰参している。

それに三浦とか房総平氏は、当初から頼朝側でしょう。

>>276
義家は、鎌倉の源氏館を放棄している。その時点で一回切れている。
それを義朝が、再建して、相模平氏や房総平氏との主従関係を作った感じ。
0278日本@名無史さん
2014/03/21(金) 15:51:02.80
>>277
こいつ日本語わからない馬鹿だな。
頼朝は義朝の血統だが義平の血統ではない、ということもわかってないのか。
それに義平が一度として家督を継いだこともないことも無視しているし。
というか自分の間違いを認めたくないあまり話をループさせてるだけだな。
0279日本@名無史さん
2014/03/21(金) 16:55:24.34
あ、どうしても五代を主張するなら、義平が家督を継いでいたことを示すソース、
義平から頼朝に当主が譲渡された事実を示すソースを提示してくれ。
ま〜軍記物を読んだ程度の知識しかなさそうなお前には無理だな。
0280日本@名無史さん
2014/03/21(金) 19:10:14.30
義平は、鎌倉の源氏館の主じゃなかったのか?
東国の武士団を統率して、大蔵合戦をやったのじゃないのか?
0281日本@名無史さん
2014/03/21(金) 19:29:44.23
2chって、なんでいちいちケンカ腰にならないと物が言えない連中が多いんだろう?
0282日本@名無史さん
2014/03/21(金) 20:53:50.20
>>280
家督を継いでない
頼朝に家督を譲ってない
頼朝は義平の血統ではない

はい論破
0283日本@名無史さん
2014/03/21(金) 23:10:03.91
>>282
義朝も、頼朝には家督を譲ってない。
義平には、鎌倉の源氏館と、東国武士団の統率権を譲っていた。

義朝が、家督を誰に継がせるつもりだったか不明だが、
家督は、外観的・実質的には、
義朝→義平→頼朝、の順で移動した。
0284日本@名無史さん
2014/03/22(土) 04:16:17.79

義朝流五代は、河内とは無関係なんだ。

やはり称呼は 『鎌倉源氏』 が妥当だと思う。
0285日本@名無史さん
2014/03/22(土) 04:25:31.62
>義平には、鎌倉の源氏館と、東国武士団の統率権を譲っていた。

大蔵合戦に動員した兵力もこれだろう。
0286日本@名無史さん
2014/03/22(土) 07:03:41.40
280
ただの鎌倉を拠点にした源氏の一人だけみたいって感じだがな
鎌倉平氏の鎌倉氏に女婿に入ったからそういう目で見られるが
棟梁だのは頼朝のときにできたんだろ
江戸時代の影響がでかい
0287日本@名無史さん
2014/03/22(土) 07:09:32.82
そもそも、源義朝も
河内源氏の棟梁ではなかった。
有力な一人だというぐらい。
0288日本@名無史さん
2014/03/22(土) 07:40:30.51
つか関東の源氏の下についたのほとんど平氏のやつらだし
源氏同士はむしろ敵対しあい殺しあってる
義平殺したの叔父の義賢側だし義国と義光なんてはっきり
敵同士だし
0289日本@名無史さん
2014/03/22(土) 08:33:56.08
つか平氏関係の方が根付いたの先だろうがイマイチ起源が分からん
0290日本@名無史さん
2014/03/22(土) 10:32:30.08
伊勢平氏っていうか、平正盛の後胤である六波羅流は、
武家平氏の中でも例外中の例外の勢力。
伊勢平氏は、武家平氏の中でも庶流だし、
その伊勢平氏の中でも庶流なのが、六波羅流。

武家平氏の大半が、河内源氏の傘下にあって
六波羅流も、最初のうちは、河内源氏の傘下にあった。
平正盛は娘を、河内源氏の嫡男の源義忠に嫁がせていたし
平忠盛の忠の字は、源義忠から貰ったもの。
0291日本@名無史さん
2014/03/23(日) 10:58:46.34
>>287
義朝は、幼少期に房総に来ており、
上総曹司と言われていた位で、もうほとんど河内とは関係無い。


そもそも義朝流五代は、河内とは無関係なんだ。

やはり称呼は 『鎌倉源氏』 が妥当だと思う。
0292日本@名無史さん
2014/03/23(日) 13:00:05.32
源為義も河内の所領なかっただろう?
河内の所領があったのは、源義家の三男で嫡男だった源義忠の後胤たちで
この系統は、源義忠の次男の源義高が継承したが
鎌倉時代でも、苗字を名乗らず姓の源を名乗り続けた。
よって、源頼信を初代とする河内源氏は、この系統が嫡流だとみたほうが良い。
0294日本@名無史さん
2014/03/23(日) 15:15:09.26
源為義は、河内源氏でも在京源氏でも何でも良いよ。

為義は、関東にも鎌倉にも関係無いし。

でも、義朝流五代は、『鎌倉源氏』 だと思う。
0295日本@名無史さん
2014/03/23(日) 17:23:33.17
つか義平殺したの義賢(義仲の父)だろ
0296日本@名無史さん
2014/03/23(日) 17:28:01.07
源氏っていっても義朝派、義重派、義賢派、あと甲斐の義光派に分かれてるからな
0297日本@名無史さん
2014/03/23(日) 17:56:37.42
為義よりも、
庶兄の義信(義親の長男)や、従兄弟の義高(義忠の次男)のほうが
官位は上だっただろう?
0298日本@名無史さん
2014/03/23(日) 18:33:36.24
官位の基準はなんだろうね?
0299日本@名無史さん
2014/03/23(日) 18:35:22.79
つか官位で計るんだったら武家にならなかった公家で居続けたその他の源氏の方が上だわ
0300日本@名無史さん
2014/03/23(日) 20:47:36.93
>>297
その連中に子孫はいないの?
0301日本@名無史さん
2014/03/24(月) 09:35:36.94
清和源氏も桓武平氏も本来の嫡流は
都での出世を目指したために武士団としては大成せずに
中級公家として存続していた。
0302日本@名無史さん
2014/03/24(月) 09:44:20.32
>>300
源義忠の次男で嫡流を継承した源義高の子孫は
数代つづいたらしい。
河内守になっているので、河内源氏嫡流はこの系統だろうね。

清和源氏義忠流
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01016.htm
0303日本@名無史さん
2014/03/24(月) 10:08:19.74
301
大和源氏に河内源氏として初期に畿内方面に定着してる
まあ東国の方は頼信以降の系統がほとんど
あとは平姓諸氏と藤姓諸氏、この辺は荘園関係だろう
0304日本@名無史さん
2014/03/24(月) 11:54:40.32
義忠の次男・義高が河内の領地を相続したのは平家の後ろ楯があったのだろうな。

義忠の暗殺後、為義に屋敷を追い出された子供たちは、
長男は藤原経実に、次男以下は平忠盛に引き取られて養育される。
長男は経実の娘と結婚し、元服後の名は源経義
23・4歳のとき、園城寺において、父の仇・義光を殺害。
義光と対立関係だった下野の義国のもとへ逃げ、名を河内経国と変える。
源義朝が南関東で勢力を伸ばしてきたとき、義国との紛争を調停、
その後、義朝に臣従するが、
平治のとき挙兵を反対したが、義朝が聞かなかったため義絶して隠棲する。
なかなか面白い人生。
0305日本@名無史さん
2014/03/24(月) 12:16:34.89
だから平家ってなんだらほい?
坂東平氏と伊勢の平家は別って説があるんだってな
藤原といえば足利荘は元は藤姓足利氏の所領やね
0306日本@名無史さん
2014/03/24(月) 12:31:22.62
まあそんなこといったら北条氏もよく分からないけど
0307日本@名無史さん
2014/03/24(月) 16:29:43.63
>>305
元々は同じだけど、分岐が早い段階だろう?系図でみたら分かる。

初代の高望の子供の代で伊勢平氏と坂東八平氏は分かれていて、
しかも、その代から抗争を繰り返している。

伊勢平氏や北条氏は、高望の長男の正室の子供である国香の子孫、
坂東平氏は、高望の五男で側室の子供である良文の子孫。

その時代から、武家平氏は一族で抗争を繰り返していて
中でも、高望の長男の国香と次男の良兼と、高望の三男の良将の間は険悪だった。

三男の良将はやり手だったみたいで、
同母兄でもあった国香や良兼を官位で追い抜いたりしていて
両者は対立関係にあった。

この抗争は、国香の嫡男の貞盛と、良将の嫡男の将門との
抗争へと受け継がれる。

坂東八平氏の初代の良文の嫡男は忠頼は、将門の娘を嫁にもらっていたと思われ
良文の子孫は、将門の意思を受ついだ一族ともいえる。
0308日本@名無史さん
2014/03/24(月) 19:14:20.75
常陸の大掾氏が坂東八平氏からハブられてるのは
国香の子孫だからか。
0309日本@名無史さん
2014/03/24(月) 19:38:22.86
北条は仮冒の自称平氏で、ただの土豪だろ。
0310日本@名無史さん
2014/03/24(月) 23:05:02.28
北条氏はほぼ平直方系で間違いないよ。
平貞盛系は、常陸の大掾氏は別として
北条氏にしても伊勢平氏にしても、京都での活躍を重きを置いていた氏族が多くて
系図も確かだよ。

疑わしいのは、秩父氏ら平良文系の平将常の後胤。
平将常の生年月日とか活躍年代に相当無理があるから。
平将門の部下だった多治経明の後胤では?という説もある。

確かに平良文系を名乗る坂東平氏には疑わしいのが多い。
平忠常の後胤である千葉氏などは、おそらく正しいと思うけど。
0311日本@名無史さん
2014/03/24(月) 23:12:44.37
坂東八平氏は主に秩父氏、上総氏、千葉氏や、
これらの諸氏から派生した氏族などが入るが、
数え方はその時々の各氏族の勢力により様々である。
良文を祖とする坂東八平氏の中でも、
秩父氏をはじめとする忠頼の子将恒を祖とする氏族は秩父平氏と呼ばれ、
忠常を祖とする上総氏や千葉氏の流れは房総平氏と呼ばれる。
なお、『尊卑分脈』は三浦氏・鎌倉氏・長尾氏・大庭氏・梶原氏等の祖を、
良文ではなく良茂の子良正としている。

良文の兄とされる国香や良兼を祖とする本来の桓武平氏の一族は、
親王任国制度の下で、親王の代わりに実務を取り仕切る、
親王の血族・下級貴族として土着した。
特に北条氏・大掾氏・伊佐氏・鹿島氏(広義的には城氏・関氏・伊勢氏も含む)などは
有力在庁官人であり、同時に軍事貴族でもあった。
そのため、良文を祖とする坂東八平氏などの一般の武士団とは別格であった。
0312日本@名無史さん
2014/03/30(日) 01:33:01.95
.
河内源氏と言う称呼は、何とかならないモンかね?

義朝五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、もうほとんど河内と関係ない。
特に頼朝-頼家-実朝の三代は、河内に行った事も無いんじゃないのか?

義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、むしろ 『鎌倉源氏』 と称するべきだと思う。
0313日本@名無史さん
2014/03/31(月) 05:22:22.65
>>283
義朝と義平時代の鎌倉の源氏館には、
侍所みたいな機能は、既にあったのかね?
0314日本@名無史さん
2014/04/04(金) 08:20:18.13
鎌倉義朝、鎌倉義平とか鎌倉氏を称してなかったの?
0316日本@名無史さん
2014/04/04(金) 14:37:32.38
時は平治、花の都は平安城、我等は平氏也!
平の字が三つ揃って我等が勝利、誰が疑わん事有るべきか!
いざ、参る!
0317日本@名無史さん
2014/04/04(金) 17:16:27.43
暫で有名な鎌倉権五郎の家は、源氏に追い出されたの?
0318日本@名無史さん
2014/04/07(月) 18:08:15.04
北条氏が後半、安達氏を重視したのは
安達氏の家系が中途半端だったから。
0319日本@名無史さん
2014/04/07(月) 20:09:11.93
ウィキペディア編集者ジャムリンによる自演が酷すぎる件
以下が問題の爆笑自演投稿

日本史板住人がWikipediaを弄るスレ PART20
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1372047431/l50

569 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:39:28.23
ジャムリンって何者なんだ?
そんな悪い奴なのか?

570 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:54:41.47
>>569
ジャムリンは偉大な天才歴史学者です。
イケメンで長身、髪はフサフサの美形青年です。
フェラーリ・ベンツに乗って美女に大人気、誰もが羨む男の鏡、神の化身のような大英雄です。
0320日本@名無史さん
2014/04/10(木) 18:51:59.81
鎌倉頼朝
0321日本@名無史さん
2014/04/11(金) 18:02:56.71
伊豆頼朝
0322日本@名無史さん
2014/04/11(金) 18:04:38.98
河内源氏は畿内と関東と中部と東北と複数に拠点を持っていた。
0323日本@名無史さん
2014/04/19(土) 16:08:35.58
相模公
0324日本@名無史さん
2014/04/19(土) 18:52:29.50
直方は誰から鎌倉をもらったんだ?
鎌倉氏?
丸子氏?
0325日本@名無史さん
2014/04/24(木) 22:39:52.57
やはりどうやった平直方が鎌倉を手に入れたのかは分からないままか。
0326日本@名無史さん
2014/04/24(木) 23:05:39.02
桓武平氏の総領として
同族の鎮圧をさせられていた平直方。
0327日本@名無史さん
2014/05/02(金) 16:03:02.28
相模公=平直方?
0328日本@名無史さん
2014/05/03(土) 02:20:48.21
直方も鎌倉氏と同様に丸子公景らの一族の子孫かも
"景"の字は受け継いではないが。
0329日本@名無史さん
2014/05/31(土) 22:00:40.35
為義、義朝は子沢山なのに頼朝だけ子供が少なくないか?
0330日本@名無史さん
2014/06/01(日) 07:20:58.08
>>329
頼朝の子(男子のみ)
島津忠久、結城朝光、(夭折)、l大友能直、千鶴丸、頼家、貞暁、実朝

決して少なくないけどね。
0331日本@名無史さん
2014/06/01(日) 07:22:28.71
なお、結城朝光は実朝の死後、後継の将軍候補にも上がっている。
朝光が拒否したので、仕方なく九条家から将軍を迎えた。
0332日本@名無史さん
2014/06/11(水) 03:20:33.53
>>330
千鶴丸以降は知ってるが、それ以前のはいつ作ったんだろうか?
0333日本@名無史さん
2014/06/18(水) 11:46:54.10
島津忠久、結城朝光、(夭折)、l大友能直は実子じゃないだろ。
みな有力御家人で、よりと元のつながりの深さを誇示するために
そう主張していただけ。
0334日本@名無史さん
2014/06/18(水) 18:37:01.42
家康も源氏の末裔を自称してるけどわざわざ頼朝の子ってことにしなくてもいいのに
0335日本@名無史さん
2014/06/18(水) 18:50:38.29
331
嘘つくな!
0336日本@名無史さん
2014/06/18(水) 19:30:15.82
武士成立論において
中世の定義は「イエ」の制度の確立以外に暴力(武力)の中央から地方への拡散は看過すべきではない。

「京武者」や「検非違使」「預所」は分かり易いが、「台記」にもある「厩舎人」とは?
答えは当然、「武者」のことである。
0337日本@名無史さん
2014/06/21(土) 17:20:03.43
>>330-333
ご落胤を主張するとっかかりだけはある>島津と結城
島津忠久 母が頼朝の乳母子丹後内侍 しかし、生まれたのは1160年代以前(島津伝承は1179年)。1170年代半ばには官職つきで記録に名前が載っている。
管理していた島津荘は近衛の荘園で父と推定されている惟宗氏が島津家人であるため父は惟宗一族というのが正しいと言える。
結城朝光 母は頼朝乳母寒川尼。ただし、生誕時(1167年)頼朝は流刑中なので寒川尼が頼朝に接触するのは難しかったと思われる。

丹後内侍、寒川尼とも頼朝の乳母やその一族なので、頼朝と性的接触があった可能性はある。(当時初体験の相手が乳母だったこともあったらしいので)
だが上記の通り落胤の可能性は低く、例え落胤だったとしても公的な父はそれぞれ惟宗氏、小山政光である事実は消せないので島津忠久も結城朝光が頼朝の子の権利を主張することはできない。
0338日本@名無史さん
2014/07/05(土) 17:47:03.17
>>239>>287
義朝が、房総半島に送られたのは、まだ赤子の頃と言われており、
もはやこの段階で、義朝流は、河内源氏から枝分かれして『鎌倉源氏』
になったとみなして良いと思う。
0339日本@名無史さん
2014/07/05(土) 17:50:58.86
なにいってんだこの馬鹿
0340日本@名無史さん
2014/07/05(土) 20:47:56.10
.
確かに、義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、

河内源氏よりも、むしろ 『鎌倉源氏』 と称するべきだね!
0341日本@名無史さん
2014/07/05(土) 20:51:26.36
な!こいつら喧嘩売ってるとしか思えないだろ
0342日本@名無史さん
2014/07/06(日) 01:27:24.06
>>116
ゴメン、円珍より前から
佐伯氏(空海も)には秦氏や新羅との関係深い
0344日本@名無史さん
2014/08/15(金) 23:51:35.09
わざわざ頼朝の子孫を名乗る武家がこんなにいるって
鎌倉殿の権威は相当なもんだな
0345日本@名無史さん
2014/09/19(金) 15:25:23.13
永井晋の 鎌倉源氏三代記 を読んでいるが、

河内源氏から 鎌倉源氏 を独立させたのが良いとしても、

三代に限定するのがどうかと思う。

義朝からなら5代だし、頼義と義家を入れれば7代だし、
三代(頼朝-頼家-実朝)だけとは、少し限定のし過ぎだと思う。
0346日本@名無史さん
2014/10/04(土) 13:44:02.28
大河ドラマでブサイクで品のない奴が演じえてて萎えた。イメージとしては山田涼介なんだが。まあムリだよな予算的に
0347日本@名無史さん
2014/10/06(月) 10:03:40.08
>>346
あの大河では朝長演じた人の方が粗野で萎えたな。
波岡一喜はブサイクとは思わないし、義平のイメージからそんなに外れた感じでもなかった気がする。
ちょっと田舎のヤンキーに見えるとこもあったけどw
0348日本@名無史さん
2014/10/07(火) 12:27:39.59
>>347
義平は、
平治の乱のとき、傍観していた頼政を裏切り者と攻める(わざわざ敵に廻す)。
父義朝の死を聞くと、単身、京に戻って清盛暗殺をたくらむ。
(東国へ帰れば勢力を挽回できた可能性があるのに)
このような行動を見ると、ヤンキーとして描かれても仕方がない。
0349日本@名無史さん
2014/10/10(金) 22:11:13.06
>>348
>父義朝の死を聞くと、単身、京に戻って清盛暗殺をたくらむ。

義朝死んでたら、庶子の義平だけが東国帰っても再起は無理だろう。平家に寝返った坂東武者に捕まって殺されるだけ。
元々義朝と別れて飛騨で再起計ってそこそこ兵集めたけど、義朝の死が伝わった途端皆逃げ散ったというし、
清盛暗殺も再起が絶望的になったからこその行動だろう。
0350日本@名無史さん
2014/10/12(日) 08:07:03.28
>>349
確かに、関東で頼朝の挙兵に応じた武士たちは、清盛が自分の一家だけに
栄華を与えた反発によるもので、清盛栄華以前に積極的に匿った可能性は低い。

とは言え、保元乱でお尋ね者となって24年間潜伏した源義広の例もあるし、
当時の治安レベルでは皆無とまでは言えない。
0351日本@名無史さん
2014/10/12(日) 12:48:25.79
>>349
少なくとも、母の実家の三浦一族は義平を匿うだろうし、
大庭など、義家以来の源氏に忠誠心を持ってる武家もいるし、
上総は、源氏をかついで東国の自立を志向していたといわれてるし、
赤ん坊の義仲を育てた(名前は度忘れしたが)武士もいるから、
当時の武士の忠誠心も軽視できない。
たった一人で清盛暗殺をたくらむより、東国で再起を期すほうが、
「武家の棟梁」の息子に相応しい生き方。義平は判断を誤った。
0352日本@名無史さん
2014/10/12(日) 22:13:50.20
源氏系のお尋ね者を匿うのは(結果的に)見逃されているよね。

保元の乱のお尋ね者では、志田義広もそうだが、源行家、源義仲、源仲家、
源義久(源頼賢の息子)も匿われている。

逆に、徹底的に根絶やししたのが清盛で、平忠正の妻子、孫たちはもちろん
のこと、宇都宮業綱に嫁いでいた娘もその子もろとも取り上げ処刑している。
平家弘の血族もその血を完全に根絶やしにしている。
0353日本@名無史さん
2014/10/16(木) 02:26:59.59
>>352
保元のとき、清盛が忠正の一族を徹底的に殺したのは、
為義一族の殺害を命じられた義朝にプレッシャーをかけるためだろう。
0355日本@名無史さん
2015/01/06(火) 21:34:24.08
>>352
そんな清盛が、どうして、頼朝を助命して、義朝のもとの勢力圏に流したんだろうか?
0356日本@名無史さん
2015/03/15(日) 20:51:36.05
保元の乱で何で為朝だけ助命されたんだ?
0358日本@名無史さん
2015/03/19(木) 18:57:01.81
相模公→相模ハム
0359日本@名無史さん
2015/03/19(木) 23:28:25.35
>>356
殺しつくして、殺し飽きたから。

保元の乱の敗北側への処罰は、凄惨を極めた。

崇徳上皇:自身は相模に配流。妻子は上皇の目の前で焼き殺される。
藤原頼長:首謀者として車裂きの刑+妻子皆殺し。
藤原忠実:鋸引きの刑。
平頼盛、池禅尼の系譜:死んだ家盛の妻子も含み、皆殺し。
平忠正:自身、妻子皆殺し
平家弘:三族皆殺し
源為義:義朝の系譜を除き、妻子、孫に至るまで皆殺し
その他、上皇方の公家、武家:悉く三族皆殺し

処刑者は数万を数えた。平氏が一族で要職を独占したのは、保元の過酷な戦後処理が原因の
著しい人材枯渇も要因の一つ。
0360日本@名無史さん
2015/03/19(木) 23:34:28.70
あと、為朝はつかまったが、新宮行家や志田義広は20年以上潜伏に成功している。
最も、志田義広の妻子はこの時に皆殺しにされているけど。
0361日本@名無史さん
2015/03/20(金) 00:10:00.53
>>356
三族皆殺しが大好きなのはわかったから
嘘をつくのはいいかげんにしとけ
0362日本@名無史さん
2015/04/26(日) 02:29:31.86
平和じゃのー
0363日本@名無史さん
2015/06/03(水) 20:13:49.15
>>351
漏れも、そう思う。

平家サイドの関東武士も当然いるだろうが、
南関東に限れば、かなりの人数で義平を支持する可能性は、まだあると思う。

まず母の実家の三浦氏や上総氏、千葉氏は、
自立の為のシンボルを常に探しており、かばう可能性があるだろう。

極端に言えば、しばらく奥州藤原氏の所に逃げ込んで、
ほとぼりが冷めたら、関東に戻ってきても良いと思う。
0364日本@名無史さん
2015/06/04(木) 07:48:58.62
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0365日本@名無史さん
2015/06/04(木) 07:49:26.67
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0366日本@名無史さん
2015/06/06(土) 04:53:15.57
>>351>>363
もしそうなったとして、問題はそれが新たな源氏の内紛の種になるのではないかという事。
義平が生き延びて東国において彼が再起した場合、伊豆の頼朝との関係はどうなるのか。
いくら頼朝が嫡子でも、長兄である彼が大人しく頼朝に従うとは思えんしな。
かつて父義朝が弟の義賢と関東での勢力争いをしたのと同じ構図になるだけという事も有り得る。

それに義仲もいる。
義仲にとって義平は紛れもない「父義賢の仇」だけに、もし義平が生きていれば
義仲は平家などそっちのけでひたすら義平のみに矛先を向ける可能性は大きい。

範頼や義経も、義平が生きていたら頼朝よりも「同じ庶子の兄」である義平の方に親しみを感じたかもしれない。
あるいは史実にある「頼朝→←義仲」のような単純な構図ではなく源氏が三分裂していた?
そうやって源氏が争っているのを横目に平家は悠々と栄華を貪り続けると。
0367日本@名無史さん
2015/06/06(土) 10:19:32.65
庶兄が嫡流弟に従ったケースというと、この時代にも奥州藤原氏の国衡というのがあるけどな。
0368日本@名無史さん
2015/06/07(日) 00:08:39.15
それだけ為義系が割れていたら
上野国の源義重が黙ってないでしょう?
南関東は源義朝、北関東は源義重が勢力を持っていたわけだから。
とくに、義重は他の源氏一族との間で婚姻関係をもっていたわけだし。
0369日本@名無史さん
2015/06/07(日) 01:17:37.59
そういや義重の娘が義平と婚約していたという話を何かで見た。
その後その娘は頼朝からも求婚されるんだけど。
0370日本@名無史さん
2015/06/07(日) 16:25:06.57
>>366
内紛以前に義平も頼朝も義仲も何もできなかったと思う。
頼朝の挙兵が成功したのは、平氏政権の様々な矛盾が起きて、非親平氏豪族の地位や領地が脅かされたせい。

自分の権益に結び付かない限り東国武士が朝や義平を担ぐことはないから、平治直後義平も頼朝もなんにもできない。
匿うくらいならしたかもしれないけど。
0371日本@名無史さん
2015/06/07(日) 16:37:10.56
>>366
治承の頃の話だと三分裂どころではない。
東国に限れば

反平氏で挙兵
頼朝(南関東)、義仲(信濃・西上野→越後)、甲斐源氏(甲斐、信濃の一部、駿河、遠江、伊豆の一部)

この三者で三すくみ

親平氏
城(越後・会津)
佐竹(常陸)
新田(上野)→途中で静観やがて頼朝に付く
藤姓足利(上野、下野)

城、藤姓足利は非源氏

静観
志田(常陸)1183年 野木宮合戦で頼朝と対立

というように複雑な勢力争いがある。

また、東国以外でも尾張源氏、美濃源氏、近江源氏などが挙兵している。

源氏は頼朝、義仲にのみ二分されていたわけではない。
0372日本@名無史さん
2015/06/07(日) 16:46:42.08
>>369
婚約ではなく正式な婚姻だったと思われる。

吾妻鏡には義平後室ときちんと記載されている。

婚約という説がでたのは
新田義重生年1135年説によるものと思われる。
義重が1135年生まれだとしたらその娘はどんなに早くても平治の頃は十歳未満の子供。
だから婚約だったとされる。

しかし現在では1119年生まれ説の方が有力。
孫の年齢からみてもこちらの方が自然。

1119年生まれならば
義平と結婚させる年頃の娘がいてもおかしくないし、
周辺豪族との対抗の為に義平と婚姻関係を結ぶのに
大蔵合戦頃に結婚成立させるというのも考えられる。
0373日本@名無史さん
2015/06/07(日) 16:52:29.55
>>368
北関東も複雑で
新田、秩父一族、藤姓足利と悶着抱えてたんだよね。
この中で新田が抜きん出いたわけではない。

あと一応、北関東の中には常陸も入るし(常陸には佐竹や常陸平氏がいる)、信濃や甲斐とも無縁ではいられない。
0374日本@名無史さん
2015/06/16(火) 23:17:17.01
義平が関東で生きれいれば、
頼朝が伊豆に流されることはない。おそらく佐渡島あたりへ。

源氏の主導権争いを予想してあえて近くに置くということも考えうるが、
普通は、兄弟力を合わせて平家への謀反を企むのでないかと警戒する。
0375日本@名無史さん
2015/06/17(水) 04:46:28.03
>>374
兄弟を引き離すというのはアリだと思う。
実際頼朝と希義は正反対の方角(伊豆と土佐)になったから。
ただし、「平家への謀反」というのは違う。
平治の乱は源氏対平家との戦いではなく、
信西を倒した勢力の内部分裂によって反信頼になった経宗惟方らが元々中立だった清盛を仲間に引き入れて
その結果に清盛と信頼から離れなかった義朝が戦闘を交えるようになっただけのもの。
義朝の子供たちに対する処置も平家への敵対者としての処置ではなく
朝廷に対する謀反への処罰だから。(警察力行使のみは清盛の担当だけど)
0376日本@名無史さん
2015/06/26(金) 03:29:37.74
>>366
新田は、義平に味方するだろう。
>>368にある様に娘が義平と結婚しているから。

>>373
ただ新田と藤姓足利の抗争は、なかなか決着がつかなくて、
その結果、足利俊綱忠綱親子は、平清盛に接近している。

そういう意味では、新田の勢力は、藤姓足利が
簡単にやっつける事が出来るのものでもなかった。

>>375
>朝廷に対する謀反への処罰だから。(警察力行使のみは清盛の担当だけど)

新田、三浦、上総、千葉、あたりの大武士団が義平をかばうとなると
国衙も手を出しにくいのでは? しかも新田、三浦、上総、千葉などは、
国衙に何らかの職を得ている可能性があるから、官兵としての武氏団が
捜索や逮捕に出動するのは、難しくなる事もあるのでは?
0377日本@名無史さん
2015/06/26(金) 18:28:34.24
>>376
> >>366
> 新田は、義平に味方するだろう。
> >>368にある様に娘が義平と結婚しているから。
>
平治直後に義平に味方するメリットは新田にあるか?婚姻は完全なる味方を意味するものではない。
義朝と鎌田正清を殺害した長田も鎌田の舅

あと、新田は新田荘が領家を清盛縁戚の花山院という関係で治承の頃は平家寄りになってたよ。
0378日本@名無史さん
2015/06/26(金) 18:32:57.15
>>376
> >>373
> ただ新田と藤姓足利の抗争は、なかなか決着がつかなくて、
> その結果、足利俊綱忠綱親子は、平清盛に接近している。
>
> そういう意味では、新田の勢力は、藤姓足利が
> 簡単にやっつける事が出来るのものでもなかった。
だが新田も足利親子に対抗するように平家に接近していた。
藤姓足利が単独で新田と対抗できなかったのと同様に新田も単独では藤姓足利に対抗できなかった。
0379日本@名無史さん
2015/06/26(金) 18:49:50.36
> >>375
> >朝廷に対する謀反への処罰だから。(警察力行使のみは清盛の担当だけど)
>
> 新田、三浦、上総、千葉、あたりの大武士団が義平をかばうとなると
> 国衙も手を出しにくいのでは? しかも新田、三浦、上総、千葉などは、
> 国衙に何らかの職を得ている可能性があるから、官兵としての武氏団が
> 捜索や逮捕に出動するのは、難しくなる事もあるのでは?

まずもって、>>375で言いたかったことは頼朝らの処罰は平家による私刑ではなく、国家による処罰であるということ。
その上で再反乱を防ぐという意味でもし義平が生きていたら伊豆は避けられたかもしれないということ。

で、義平が匿われる可能性は十分にあると思う。
でも長期間となると疑問。
まず、平治の直後千葉氏は「義朝の郎等だったから」という理由で所領争いで敗訴し、それ以降下総の実権を清盛姻戚の千田氏に奪われ続けている。(これが後に頼朝に味方する要因の一つ)
三浦、上総あたりはなんとか切り抜けたが、義朝亡きあとしばらくは生き残りに苦慮した可能性がある。

ちなみに、頼朝以前に地方で反乱を起こしても成功した前歴がなかったことも付け加えておく。
0380日本@名無史さん
2015/06/27(土) 05:09:02.29
>平治直後に義平に味方するメリットは新田にあるか?

新田には限らないが、関東武氏団として、
朝廷や六波羅平氏以外の選択肢が確保できるというメリットがある。

>でも長期間となると疑問。

奥州藤原氏のところにでも逃げ込んで、
しばらくホトボリが冷めるまで匿ってもらうしかなさそうだ。

>頼朝以前に地方で反乱を起こしても成功した前歴がなかったことも付け加えておく。

王朝国家が揺らぎ始めているし、畿内で清盛政権が出来たのも事実。

武氏の力が、次第にの朝廷のパワーを押しのけ始めている。
0381日本@名無史さん
2015/06/27(土) 05:14:52.32
武氏 → 武士
0382日本@名無史さん
2015/06/27(土) 06:26:56.10
>>380
残念ながら当時の東国と都の関係は根強い。
東国武士は都に上って官位を得たり、
荘園関係で都の荘園領主の比護を仰いだり
国衙においては知行国主と協力に結びついたりしている。

義朝が東国で威勢を張ることができた背景には
彼の持つ摂関家や鳥羽法皇との人脈が不可欠だった。
また、東国武士の所領を都の貴族の荘園にする斡旋をすることによって
主従関係を深めていっていた部分もある。
決して源氏の血脈で従えていたわけではない。
義平も父がもつ人脈なしには坂東武士を従えることはできなかった。
(大蔵合戦には武蔵国知行国主信頼の黙認があったものとみられている)

よって平治の乱によって謀反人となり、人脈を失った義平は
東国武士にとっては無価値の存在となっている。
よって

>新田には限らないが、関東武氏団として、
朝廷や六波羅平氏以外の選択肢が確保できるというメリットがある。

という見方は成り立たない。
0383日本@名無史さん
2015/06/27(土) 06:37:34.55
>>382
>
王朝国家が揺らぎ始めているし、畿内で清盛政権が出来たのも事実。

清盛が武士として力を伸ばすことができたのは、朝廷内における地位を高めたことと
朝廷が整備した「動員令」に乗っかることができたからである。
平氏の軍事動員は、私的な郎党の動員よりも
朝廷が国衙に登録されている「武士」を動員する権限を得たものの方が大きい。
つまり、朝廷の組織なしには力を使うことができなかったのが平氏政権である。
東国武士団も、国衙となんらかの関係を持たざるを得ない以上
平氏政権に組み込まれていく。

つまり朝廷の組織なしに平氏政権はあり得なかったことを考えていただきたい。

それと狭義の意味の「平氏政権」が起きたのは治承寿永の乱(源平合戦)勃発の前年の治承三年の政変を待たなければならないのをお忘れなく。
それまでは清盛が二条親政派や後白河上皇やその側近、寺社勢力などと
の間をうまくわたりながら、協調政治を行っていた事実を忘れてはならない。

>>382でも述べたように東国武士と朝廷の関係は意外に深く
王朝国家は決して当時も揺らいでなどいない。
0384日本@名無史さん
2015/06/27(土) 06:45:56.61
ちなみに頼朝が成功できた要因は
治承三年の政変により
東国において親平氏豪族の力が増して非親平氏勢力への圧迫が強まったこと
平氏主導の知行国主の交代によって全国で国衙権力をめぐる争いが激化したこと
後白河方法幽閉という平氏を攻撃する口実ができたこと
当時力を有していた寺社が反平氏に回ったこと
などによる社会的要因があったこと、

義仲、甲斐源氏、北陸勢力、鎮西勢力、畿内、尾張美濃源氏など
全国各地で同時に反平氏の勢力が同時に挙兵して
平氏が各地で戦闘をせざると得なくなり
頼朝軍だけに対してだけ力を割くことができない状況になっていたこと

という今までの反乱と違う様相があったことを見なければならない。

また頼朝には都との人脈や、彼自身が過去有していた官位、
そして頼朝がもつ類まれなき政治力と強運
という特殊事情を有することを忘れてはならない。

都との人脈がなく、治承の頃のような特殊社会状況がない平治直後の
義平が単独で担がれたりしてもとうてい勝利を得られる状況にはない。
0385日本@名無史さん
2015/06/27(土) 09:43:54.06
>義平を担ぐ 

とまでは言ってない。

どこまで庇ってもらえるか?と言う話。

だから

>奥州藤原氏のところにでも逃げ込んで、
>しばらくホトボリが冷めるまで匿ってもらうしかなさそうだ。

と書いた。
0386日本@名無史さん
2015/06/27(土) 10:48:46.08
>>385
匿まうという意味ならそれはありかもね。

ただ>>380
> 新田には限らないが、関東武氏団として、
> 朝廷や六波羅平氏以外の選択肢が確保できるというメリットがある。

と書かれていたから「担ぐ」と解釈してしまった。
0387日本@名無史さん
2015/06/27(土) 13:53:21.09
×類まれなき

○類まれな(る)
○類なき
○比類なき
0388日本@名無史さん
2015/06/27(土) 19:05:40.66
飛騨でジッとしてれば良かった。
0389日本@名無史さん
2015/06/28(日) 02:15:28.82
でも飛騨は義仲のいる木曾にほど近いからな。
そんな所に身を潜めていたらいたで、簡単に発見されて「おのれ、父の仇ーっ!」で一溜りも無いのではw
0390日本@名無史さん
2015/06/28(日) 11:15:04.04
別に飛騨に居た時も、追手が迫ってきた訳でもない。
0391日本@名無史さん
2015/06/28(日) 12:18:25.17
>>389
そのころの義仲は、まだ幼児だから、片手でやっつけれるだろうwww
0392日本@名無史さん
2015/06/28(日) 15:55:37.13
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0393日本@名無史さん
2015/06/28(日) 15:56:13.89
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0394日本@名無史さん
2015/06/30(火) 14:54:10.08
>>383
鹿ケ谷の陰謀につづく治承三年のクーデターで、後白河院政は停止。

しまいには強引に福原に遷都までしてしまう。
(これで中央権門から総スカンを喰らった面もあるけど)

政権についた平氏にやりたい放題に浸食されて、朝廷なんてガタガタですヤン。
0395日本@名無史さん
2015/06/30(火) 21:22:17.65
>>394
その平氏は朝廷の中に食い込むことによって権力を得ていた。
朝廷がなかったら平氏は権力を握れなかったんだよね。
しかも平氏は政権運営のノウハウをもっていなかったから
婚姻等で「親平氏公卿」に政権運営をお願いしていたというのが実情。
(治承三年の政変以降もね)
その親平氏公卿だって平氏都落ちの時はさっさと平氏を見限っていた。

まあ、白河院政期や鳥羽院政期に比べると政権運営がガタガタなのは認めるけど
(院も摂関家も絶対的政権運営力を持つことができなかったから)
成り上がりの平氏が入り込もうとしても入り込みきれなかった頑なさがあるのは事実。
0396日本@名無史さん
2015/07/01(水) 14:15:53.58
平安時代になると、
律令制が、弛緩して、分権的な王朝国家になっている。

桓武天皇が、常備軍を廃止して、地方民兵(兵:つわもの、後の武士団)に
軍事を全面的にアウトソーシングしているのだから、当然そうなる。

この時点で、律令制はグラついているのだから、
朝廷のパワーも昔ほどではない。事実、平将門や藤原純友、
前九年の役や後三年の役など、地方での反乱も散発し始めている。

そしてそれを鎮圧したのも、常備軍ではなくて地方民兵(武士団)。
0397日本@名無史さん
2015/07/01(水) 19:10:07.57
>>396
>律令制が、弛緩して、分権的な王朝国家になっている。
元々この国が強権的な中央集権国家であった時期の方が短い。
鎌倉室町期も分権的だし、江戸時代は将軍の権力が大きかったが原則的には
藩連邦国家という状態。
大化の改新以降の奈良期までの一時期と明治以降中央集権になったくらい。

軍備のアウトソーシングだけ問題にしているが、
この頃地方の政治のありかたもかなりアウトソーシングしていた。

国ー郡ー里という支配制度が崩壊して
国司は在地の有力農民を通して年貢の取り立てや行政を行うというようになり
納税や、行政もアウトソーシングされていた。

ではアウトソーシングが国家の弱体化を示すものであるかといえばそうではない。

飢饉の時期などを除き、きちんと年貢は都に運上されていた。
既定の年貢を納められない国司、国で問題を起こした国司は解任または次期役職の着任拒否になっていた。
つまり、年貢はきちんとおさめられ、当時なりの国務はきちんと行われていたのである。

アウトソーシングされていても、王朝国家は機能していた。

また、荘園制が問題視されているが、
実は鳥羽院政期以前の荘園は規模も数も小さく国家財政を脅かすほどの規模はなかった。
鎌倉時代に入っても、国衙:荘園の比率は7:3だった、
0398日本@名無史さん
2015/07/01(水) 19:36:36.05
>>397
>朝廷のパワーも昔ほどではない。事実、平将門や藤原純友、
前九年の役や後三年の役など、地方での反乱も散発し始めている

一応これらの乱を時系列に並べてみよう

桓武天皇以降

810 薬子の変
    あ 中120年
936-941 承平天慶の乱
    い 中80年
1019 平忠常の乱
    う 中30年
1051-1062 前九年の役
1083-1087 後三年の役
    え 中20年
1108 源義親の反乱
    え 中50年
1156    保元の乱
0399日本@名無史さん
2015/07/01(水) 19:37:02.71
参考 飛鳥奈良
645年 乙巳の変
  か 中30年
672年 壬申の乱
  き 中70年
740年 藤原広嗣の乱
  く 中24年
764年 藤原仲麻呂の乱

律令政治を導入して、中央集権を行い、常備軍があったなら飛鳥奈良時代と
常備軍の無かった平安時代と戦乱が起きる頻度はさほど違わない。
(もちろんすぐ鎮圧されたのも含めると微妙に違うだろうが)

武士の時代になった鎌倉室町期はそれこそ戦乱の連続で上記以上の頻度で戦乱が起きている。

あ の期間を超える大規模戦乱の無い時代は
島原の乱〜戊辰戦争 の230年くらいしかない。

しかも、この期間の無戦乱は世界史の奇跡を呼ばれるものでめったにあるものでもない。
0400日本@名無史さん
2015/07/01(水) 19:41:55.62
>>398訂正
桓武天皇以降  

810 薬子の変
    あ 中120年
936-941 承平天慶の乱
    い 中80年
1028-1030 平忠常の乱
    う 中20年
1051-1062 前九年の役
1083-1087 後三年の役
    え 中20年
1108 源義親の反乱
    え 中50年
1156 保元の乱
0401日本@名無史さん
2015/07/01(水) 19:45:55.26
一つ気を付けてほしいのが
上記の平安時代の合戦で鎮圧に成功できたのは「地方武士団の協力を得られた」
という点が大きいこと。
では、なぜ地方武士団の協力が得られたのか?
弱体化しまくった王朝のはずならば協力が得られないはずである。

前九年の役でさえ、頼義軍の勝利の最大の要因は地元豪族の清原氏の協力を得られたことによるものである。
頼義の私的な郎党の数は実は非常に少ない。
ではなにゆえに頼義が清原氏の協力をとりつけることができえたのか?
清原氏の利害という問題が最大の要因であろうが
頼義が陸奥守であり、都に強い人脈を持つ人物だったという面を見逃すことができないはずである。
0402日本@名無史さん
2015/07/01(水) 19:52:12.18
また、上記の表に書いてはいないが
平安中期の1019年に「刀伊の入寇」という事件が起きている。

これは大陸の民族が九州近辺に攻め寄せた事件であるが、
この攻撃を藤原道長甥の太宰権師藤原隆家指揮の元
地元豪族の協力を得て撃退させることに成功している。

もし王朝国家に何の力もなかったら、豪族たちは太宰権師の指揮に従うであろうか?
武力がアウトソーシングされたからといって無力化されたのではなく
アウトソーシングされた武士団を縛り付ける何かが王朝国家にあったとみるべきではないのか?
0403日本@名無史さん
2015/07/01(水) 21:13:43.71
アウトソーシングといえば江戸時代もかなりのアウトソーシング時代だったよな。
庄屋や名主という人にかなりの権限を与えて
年貢の納入に責任を持たせたり、その地域の住民の面倒を見させていたからね。
役人は必要以上に地域に介入しない。
都市部では大家と店子というように、借家の大家や町の有力者にその住民の管理の権限を与えていた。
戸籍管理は寺社任せ。

アウトソーシングにより
少数の役人で多くの民間人を効率よく支配できるようにできていて
しかも200年の超安定政権を保っていた。

アウトソーシングも使いようということかな。

スレからずれてスマソ。
0404日本@名無史さん
2015/07/01(水) 23:26:51.73
アウトソーシングを引き受ける人材というか階層が
存在したことが大きいのではないだろうか?
0405日本@名無史さん
2015/07/02(木) 09:02:43.15
しかし桓武天皇は、金がないから平安京の建設の一時ストップと
常備軍の廃止を決定しているのだから、やはり朝廷は、弱体化しているのでは?
0406日本@名無史さん
2015/07/02(木) 14:16:43.71
>>405
予算不足はいつの時代にも起こるもの。
安定政権の時代の江戸期もいつも予算不足。

戦争も遷都も恐ろしい大金がかかるもの。
しかも桓武天皇は二回も遷都している。
戦争と遷都両方やって予算不足にならない方がおかしい。
むしろ、戦争の方は挫折したとはいえ、戦争と二回の遷都をさせうる力があったことの方を評価すべきでは?
0407日本@名無史さん
2015/07/02(木) 14:19:37.51
あと常備軍の廃止といっても朝廷が兵隊に給料払っていたわけではない。

兵隊にでること自体が納税だから。
0408日本@名無史さん
2015/07/02(木) 22:13:53.38
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0409日本@名無史さん
2015/07/02(木) 22:14:30.13
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0410日本@名無史さん
2015/11/06(金) 05:59:49.53
鎌倉殿って源義朝が元祖らしいね
学者の間では義朝嫡流が名字を「鎌倉」と称していたとする見解がある
0411日本@名無史さん
2015/12/07(月) 16:42:22.56
鎌倉を本拠地として住みはじめたるは誰ぞ?
0412日本@名無史さん
2015/12/07(月) 19:53:35.52
鎌倉は相模公の居所だったので源氏の本拠地となった。
0413日本@名無史さん
2016/02/04(木) 23:51:14.79
今日は旧暦12月26日
かつての内裏も今は古びた(明治末〜昭和)の住宅密集地
発掘で保元内裏の紫宸殿の白砂が出てきたと聞いたことがある
0414日本@名無史さん
2016/02/08(月) 21:38:37.92
鎌倉源氏の初代は源義朝。
鎌倉源氏は、河内源氏の庶流。
河内源氏の嫡流は、源義忠の次男の源義高の後胤と受け継がれていた。
0415日本@名無史さん
2016/04/01(金) 20:50:12.20
保元年間の3年間に美濃、飛騨、越前に魏平の痕跡があるね
本拠地の鎌倉を離れていた時期が有ったのかな?
それとも鎌倉と京を頻繁に往来して東山道中に拠点を新設しょうとしてたのか?
0416日本@名無史さん
2016/04/01(金) 20:53:37.36
訂正
×魏平
○義平

スマン
0417日本@名無史さん
2016/04/03(日) 08:21:31.40
もし平治の乱が起こらずに1170年を迎えていたら

義平は30歳になっていて武将として心身みなぎる絶頂期だろう
相模、南武蔵の本拠地に加えて新田の婿として北関東にも勢力圏を広げ、秩父氏、畠山氏を傘下に収めて
事実上、鎌倉殿になっていたかもしれない
また、保元年間に東山道中に残る義平の活動の足跡は京都の動静にも気を配っていたことを示すものであり
当時の最大軍事貴族である平清盛を牽制する役割も義朝から与えられていたに違いない
0418日本@名無史さん
2016/04/08(金) 01:11:02.86
頼朝は京都志向で
義平は三浦氏の支援の下、鎌倉殿として関東にいたかもな。
0419日本@名無史さん
2016/04/09(土) 07:30:50.53
義平は義朝が17歳のときに作った子供なので可愛いわが子というより忠実な自分の子分として扱っていたのかもな
0420日本@名無史さん
2016/04/09(土) 07:45:38.57
暴走族(房総族?)上がりとび職の若親分義朝のヤンキーDQN息子義平
0421日本@名無史さん
2016/04/11(月) 23:15:50.55
奥州藤原氏の国衝と泰衝みたいな関係になるんじゃ
0422日本@名無史さん
2016/04/12(火) 20:51:44.33
頼朝のことだから幕府誕生の時に義平がいたら結局粛清しそう
0423日本@名無史さん
2016/04/13(水) 18:06:37.09
頼朝は義兄弟の一条能保や幼の馴染の吉田経房と仲が良かったからたとえ義平に武力で敗れたとしても院庁別当ぐらいに収まっていそう
0424日本@名無史さん
2016/04/14(木) 07:45:25.36
最近の研究によると頼朝は少年時代から院近臣のエリートコースに乗っていた
受領叙任は確定していて平治の乱が無ければ従三位蔵人頭新院別当までは昇進出来た
0425日本@名無史さん
2016/04/14(木) 08:18:50.16
>>424
まだ30歳のセレブ若熟女上西門院に仕える少年経房と頼朝

なんかAVに出て来そうな設定だな

その頃、坂東では兄義平は田舎のヤンキーであった
0426sage
2016/04/20(水) 23:11:37.88
平治の乱が起こらなくても
藤原多子再入内、中宮姝子出家で朝長失業の危機か?
0427日本@名無史さん
2016/04/21(木) 11:34:09.91
>>423
一条能保や吉田経房は関東で幕府を開いた頼朝との縁を買われて
朝廷でも出世したというのがあるからどうかな
院庁別当はさすがに都でも大臣家クラスが任じられるので
頼朝では無理だと思う
0428日本@名無史さん
2016/04/21(木) 16:16:26.36
だけど、なんで頼朝は曲がりなりにもエリートコースに潜り込めたんだろう?
由良の実家だって受領クラスの熱田神宮大宮司家じゃないか
もしかしたら後白河のお稚児さんやってたりしてw
0429日本@名無史さん
2016/04/21(木) 18:19:47.27
>>428
由良の兄弟で嫡男だった範忠が従五位上内匠頭だから
都で出世というよりも熱田大宮司としての収入でやってる感じだろう
由良の姉妹が上西門院女房と待賢門院女房になっていて
その縁で頼朝も上西門院蔵人などになっていたが
女院は生涯未婚で一代限りだからその縁でどこへもぐりこめたかは微妙
0430日本@名無史さん
2016/04/21(木) 21:23:22.06
>>423 壇の浦夜枕合戦記なんてcoverしてやらんかな。
0431日本@名無史さん
2016/04/21(木) 22:22:39.65
悪源太って「平治の乱」の時に六条河原で我が先祖の一族である源頼政のおっちゃんを襲撃したアホだろ?

よくも源三位頼政を襲ったよなぁ・・・アホだw
0432日本@名無史さん
2016/04/22(金) 11:43:02.87
昔の東海道は相模国三浦半島から走水海(浦賀水道)を渡って上総国を通るルートだったんだな
おそらく少年時代の源義朝は浦賀水道を行き来してたんじゃないかな
0433日本@名無史さん
2016/04/22(金) 21:45:00.04
>>431
吉川栄治だっけ? 小説内でそこんとこ露骨に叩いていたね。
0435日本@名無史さん
2016/05/17(火) 02:25:47.43
時代による違いがわかっていないバカ発見
0436日本@名無史さん
2016/05/18(水) 06:07:40.19
為朝の次に最強の武者なんだよ、義平って。
0437日本@名無史さん
2016/05/18(水) 06:28:04.09
>>431 源三位は遠い親戚だが、木曽義仲の親父義賢は叔父だった。
>>436 三番目は義経?
0438日本@名無史さん
2016/05/24(火) 22:00:49.93
>>436
大庭を射損ねた為朝より義平の方が騎兵としては上。
最強は足利忠綱、次いで熊谷直実、畠山重忠のどちらか。
>>437
義経は腕力が弱すぎる。
0440日本@名無史さん
2017/06/10(土) 14:43:33.95
>>1
>なお「『義平』は武士起源論成立論を語る上での記号としてで」をルールとし・・・・・・・・・・・・・・・・
武士起源論??成立論??

前スレは、こちらの方では?
【つはもの】武士の起源と成立について【もののふ】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1292733807/
0442日本@名無史さん
2017/07/26(水) 09:14:12.18
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆
0444日本@名無史さん
2018/01/30(火) 16:48:30.03
日本史より謎な金儲けできる方法とか
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0445日本@名無史さん
2018/07/12(木) 17:19:44.10
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