源満仲の出自は

陽成帝の母后藤原高子が不義密通し東光寺座主善祐の児を妊り、寛平8年(896年)9月に
廃后されている。

陽成上皇は退位後、頻繁に摂津国で下人を引き連れ狩猟を行い乱暴狼藉を働いたとされている。
摂津国多田院の近くには東光寺の末寺が存在する。

以上の事柄より
満仲兄弟の実の父親は陽成上皇の異父弟であり
満仲兄弟は陽成上皇の取り巻きとして狩猟に供奉し乱暴・狼藉時には暴力装置として機能していたと思われる。
また、経基との関係は
満仲兄弟の叔父である陽成上皇が兄弟を同族の経基の養子とさせ皇孫裔に潜り込ませたのである。

満仲兄弟の実の祖父東光寺座主善祐は秦氏の出自である。