587年に物部守屋が蘇我馬子と争って、馬子に滅ぼされる。
これは天皇家としては危機になりえたんだろうけどな。
天皇の軍事指揮官であり、祭祀的な天皇の機能にもつながる一面をもった、
それ故に仏教にも反対していた物部氏が、自分の目の前で倒されてしまったんだからな。
ほんとうなら、天皇にとっては右手をもぎとられたのも同じだ。
ところが蘇我氏もそのころには天皇家と外戚関係を結んでいる。
聖徳太子でも誰でも、そのころの皇太子はみんな広い意味で蘇我氏一族なんだから、
皇室全体としてはどうということはない。
そのへんが、天皇家のしたたかさの最初の証明だったといえる。