最も優秀な執権北条氏は?
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政治的に優秀な執権北条家の中で最も優秀な人を考察してみてくれ
代 氏名 肖像 官位 在職 期間 享年 出身家
1 ほうじょう ときまさ
北条時政
従五位下
遠江守 建仁3年(1203年)9月
- 元久2年(1205年)閏7月 1年 11か月 78 北条氏
2 ほうじょう よしとき
北条義時
従四位下
右京権大夫 元久2年(1205年)閏7月[1]
- 貞応3年(1224年)6月13日 18年 11か月 62 得宗家
3 ほうじょう やすとき
北条泰時
正四位下
左京権大夫 貞応3年(1224年)6月
- 仁治3年(1242年)6月15日 18年 60 得宗家
4 ほうじょう つねとき
北条経時
正五位下
武蔵守 仁治3年(1242年)6月15日
- 寛元4年(1246年)3月23日 3年 9か月 23 得宗家
5 ほうじょう ときより
北条時頼
正五位下
相模守 寛元4年(1246年)3月23日
- 康元元年(1256年)11月22日 10年 8か月 37 得宗家 得宗では貞時かなと思う。
義時は陰謀家と言われるが実際は慎重で巻き込まれタイプ
泰時は武断的側面もあるが「切れる」というタイプではない
経時は若すぎて分からない
時頼は若い時分の大病後にあまり仕事してない
時宗は時頼より精力的だがチョンボも多い印象
得宗以外だと政村だが、彼は調整役としての有能さ
金沢貞顕以下はいかにせん政治力や意思に欠ける それぞれタイプが違う優秀さだから、どこに注目するかだな
オレ的には得宗でいうと
一番頭がいい:時頼
一番人柄がいい:泰時
一番戦略家:義時
一番気が強い:貞時
一番度胸がいい:時政
一番強力:時宗
一番かわいそう:経時
一番バカ:高時 高時って今の日本みたいだな
お人好しで平和主義者で気が弱くて大人しい 一族内なら朝時みたいなパワーのある男がいるが、得宗はわりと手堅い人が多いな 経時以降の脅威的な若死に率
執権の座は寿命を縮めるのだろうか 高時は教養的にはかなり高いものがあった
ただ決定的な不幸は後醍醐という稀有な化け物がいたことだな
あれがせいぜい後鳥羽なら最初の流罪であきらめてるわ >10
毒殺が多かったからじゃね
結構毒殺説のある執権は多い 毒殺容疑は執権北条氏が陰謀好きとかいう刷り込みで語ってるだけ
根拠は何もない 連署も初代時房や2代目重時は存在感あったのにそれ以降影が薄いな
執権もそうなるけど得宗に権力集中させてしまったから仕方がないか 時房、重時、政村。誰が一番有能かと言われても難しいな
得宗との補完関係的に言えば時房がベストだったかも知れないが 貞時にとって師時は盟友というかほとんど兄弟のようなものだな
従兄弟の師時は正室の兄弟であり娘婿でもある
貞時は一人っ子だから頼りになる血縁者が必要だったんだろう 得宗家が短命なのは結核が原因とも言われているが真相は不明だ 結核は他人に移るから一度流行ると
得宗だけでなく周囲も一斉に死ぬだろ 大仏の宣時・宗宣父子は霜月騒動・嘉元の乱の討手側への関与疑惑が指摘されてるのだな みんな自分のお気に入りの時さんがいるからな
このスレは伸びるw 叛乱分子を次々に誅殺する実力主義と権謀術に長け
尚且つ名君が多いイメージ 北条時政て執権(実質的な王朝)の始祖なのに
影薄いというか評価低いよな
唐の高祖李淵みたい >宣時・宗宣父子は霜月騒動・嘉元の乱の討手
ソース希望 時政の門葉将軍(平賀将軍)というアイデア自体は面白かった
でも北条氏は資格がなく将軍にはなれないから執権政治の克服は無理か 北条時政はもともと突出した力を持つ人物ではなく
源頼朝が後を託したのは有力御家人である比企能員や
梶原景時
比企も梶原も誅殺されたが時政の意思が一方的に反映
されたわけではない
牧氏事件で義時と対立して以来、死後も謀反人として一門から
否定されることに 非名門で比企や三浦など匹敵し得る有力御家人に囲まれていたのに
確りと渡り歩いて地位を確固たるものにしたのが凄い しかしひどい官位だな…
これで130年とにかく日本の政治史を切り回したほうが奇跡だ
この官位を何とかしない限りいずれ滅んだんだろうな 時政って吾妻鏡にも記されていない空白期間があって
どういう行動をとっていたのかはっきり分からないらしいね 大した役割を果たしてなかったという見解もあるが、
時政のほうから頼朝と距離を取る状態があったと考えるほうが自然かな >>39
摂家将軍を迎えるものの
三浦泰村は九条頼経に接近して北条をも凌駕する権勢を誇ったとか
北条家が確固たる地位を築けたのは北条時頼が安達景盛の挑発に乗った
三浦泰村を討ち滅ぼしてからか >>42
頼朝の代官として上洛して守護地頭とか頑張ってたのにクビになったのは何故? 時政は石橋山から甲斐に逃げ込んでるしね
頼朝とは内乱期から確執があったのかもしれない(登用された時は手打ち成立的な状況) いったんは頼朝を見限ってるよな
時政に石橋山の時点で甲斐にコネあったのだろうか 伊豆−駿東−甲斐は近い
鎌倉−三浦氏&房総頼みの頼朝と、影響力低下を恐れて甲斐源氏と提携に傾く時政で分党したかもね
亀の前事件で伊豆に引き上げたのも、脅しかもしれんて >>39
その執権自体も最終的に形骸化していくからな
権力がだんだんと下に流れていく 得宗自身が公的には一御家人だから
家令であるはずの御内人が所司に就くと上司に過ぎなくなる矛盾 平頼綱が得宗専制を強化したのは
その家令である自らの正統性を証明し力を誇示する為か
専横はもちろんのこと身分差が軋轢を生んだんだろうね 平頼綱で失敗したのに今度は甥?の長崎円喜の専横を許すとか。
北条氏も少しは御内人に警戒してほしかったな 貞時は自分が傀儡になることと
頼綱に対する御家人たちの不満が得宗家に向くのを恐れて
大地震に乗じて頼綱を殺したけど
晩年は投げやりだったからね 嘉元の乱の前年に高時が30を超えて誕生している
父や祖父と同じリタイア年齢なのに世継ぎは乳児
貞時が焦ってもおかしくはない 北条時宗が長生きしていればかなり情勢は変わっただろうね
短命な人が多い気がする 宗政・宗頼が生きてれば、時宗幼少時の長時や政村の役目を務められたのだが。
両名の子の師時、宗方はともに貞時の側近になったがその宗方も嘉元の乱で討たれる 安達泰盛と平頼綱
外様の代表と御内人という相容れぬ両者だったが
得宗専制を構築したという点では同じ構想を持って
いたんだよな 成し得たことで見れば泰時の功績が一番大きいと思う
天皇でもなく藤原氏でもなく、武士が政を行うというのはそれまでに前例のなかったこと
幕府と朝廷の間で戦まで起こった難しい時期に幕府を固めたんだから、その功績は頼朝にも劣ってないと思うわ
泰時個人の能力は解らんが、京の貴族の中からも泰時を悪く言う人はいなかったようだし… 人物叢書を書いた上横手雅敬は、時頼以降と比較して
「幸運な時代の幸運な執権」という評価に留めてる
泰時は人物評は良いのだけどあんまり能力は評価されてない気味があるなあ 当時の多くの公家は泰時が強引に後嵯峨天皇を立てた件に関しては不満があるようだけどな
幕府北条にとってはどうしても承久の乱の首謀者の順徳天皇の系統には皇統を継がせたくなかったのだろうが 泰時は頼朝から偏諱を貰って頼時と名乗ってたのに
なぜ偏諱を捨てたのか 御成敗式目は初の日本独自の法
道理や公平さを重んじた武家法を敷き後の世も
模範とされた功績は大きい しかし和田合戦勃発の前夜にのんびり飲んでて、駆けつけてきた弟が大活躍するかたわら、
二日酔いに苦しんでたけどね 泰時ってのは面白いキャラだな
クソまじめぽくてつまらんかのような、でもトンデモキャラなような
時連も時房に変えてるから、やはり頼家がらみかもしれん>>61 >>39
今で言うと神奈川県知事とか東京都知事の地位で天下人だったわけだ。
まぁ、今でも経済の中枢の東京都知事は権限大きいし、違和感ないかも。 情報伝達も流通も移動もなにもかも遅い時代だと、中央を抑えてるのはもの凄くでかい >>65
お飾りだけど将軍(≒都知事)がいるから、
副知事が実質的な国のトップやってたという方が近いかも 武蔵は10いくつかある大国のうち1つ 相模は30いくつかある上国のうち1つ
仙台市長と宮城県知事(兼任)くらいだな… 北条氏は将軍になる道が開かれなければ、どうにもならなかったな
時政が門葉の平賀将軍を推進したのが本当なら、慧眼かもね 最初、義時は相模守だったけど、それを時房にゆずって陸奥守に
あの頃って、陸奥守のが鎌倉では上ってな感じ?
泰時は武蔵守だったし
時頼以降、相模守になったけど、やっぱ義時の先例にならったのかね
兄貴は泰時の系譜の武蔵守だったし
館もそうだよね
時頼が義時亭で、経時が泰時亭 その3か国の関係はどうなってるのだ
ランク低くても得宗は相模守じゃないとまずいのでは? 陸奥守は担当面積だけでいえば、日本最大の気がする。 陸奥守は源氏に縁のある受領名だし、末期には鎮守府将軍とずっと兼任された。
武家にとっての鎮守府将軍の重みを継承してる部分があるんじゃない? 泰時あるいは時頼あたりが陸奥守に任官しておけば、
何かのはずみで「〜将軍」と名のつく役職を狙えたんじゃないか
せっかく承久で勝者になったのに詰めを誤ったように見えるんだがな 神輿の将軍と対立したわけでなし。
てか、そんなことしたら他氏からフルボッコだろ。 時頼の執権就任が大きな転換点だったな
先代の経時は泰時の路線の合議制を踏襲しようとしていたのだろう
正室も泰時の意向で宇都宮氏を迎えてるのを見ると
時頼になって三浦排除に外戚の安達優遇を行うなどして得宗専制に変わってきた 蒙古襲来の時にリーダーシップを発揮したのは、天皇でも治天でも
将軍家でもなく、執権時宗 >>70
平賀朝雅は血統、実績ともに優秀で、北条時政にとっては当時ベストな将軍候補だろうね
武蔵国の支配に邪魔な畠山は消したことだし 北条氏自身が将軍になるのは難しいかもしれんが、
平賀朝雅の子が将軍になれば時政は再び外戚となれる
頼朝の時とは違い、今度は権勢を振るうこともできたろう >>79
将軍にも院にも蒙古にも勝つんだから北条氏は凄いと思う。
日本史上ここまで対戦成績良い天下人は珍しい。 時政と頼朝の関係は謎だな。
曽我兄弟の時も黒幕と言われつつ結局遠江守護になってる。
単に政子の存在かも知れないが「穏便」義時より面白い動きをしてる時が多い きっと中先代の乱に成功していれば、北条時行が後醍醐天皇を廃帝にして
新たに擁立した持明院統の天皇より征夷大将軍に任命されていただろう 時行って、南朝に属してたよね?親の敵の新田もそこにいる 観応の擾乱では、戦略上
足利尊氏も南朝と結んだりしていたからな >>78
北条長時を執権に据えつつも
長時を時宗が成長するまでの中継ぎとして捉え
自身は最明寺殿として実権を握っていたことからね
この時点で執権という肩書き自体が形骸化している 義時の代に将軍を形骸化して
時頼の代に執権を形骸化したら
高時の代では得宗が傀儡になってしまったね 形骸っつか高時の代で権力を失い時行の代で滅んだわけだが 周りが自分の土地あらそいに精一杯の時に、ルール作ろうよと言っていたのが北条家
一目置かれると思う。 北条家がルール作ろうよって言ったのかどうか知らんが、
仮に他の人が言っても一目おかれないわけで。
北条家が一目置かれたのは単純に、尼将軍の縁戚だったからだと思うけど。 時政が娘を嫁がせていなければ末席の御家人で終わったであろう 泰時と時頼だな
蒙古襲来を撃退した時宗も捨てがたいが。早死にせずに戦後処理まで完璧にしてたら間違いなくこいつ 時頼以降の3代で比較すると、時宗>時頼だと思う。
あとは時宗と貞時で決勝戦じゃないの
泰時は平時の名執権なのは確かだが、承久の乱では退守防衛を主張したり、
和田合戦ではヘベレケになってたり、勝負師としての能力にやや疑問符がw 承久の乱で完勝した北条義時
得宗専制という転換期を築いた北条時頼
名越一門と決着をつけ、蒙古を撃退した北条時宗 北条氏って対外的には歴代最強の一族だけど
幕府内では、たえず綱渡りだったんだな。
だって、朝廷からの官位的には、一御家人にしかすぎなかったわけだから。
だから、北条氏は自分たちの権威が上がるよう、いろいろ努力している。
当初は、源義家の外戚だった平直方の子孫だったので、
武家の棟梁の河内源氏と外戚としてやっていくつもりだったけど
実朝の暗殺で予定が狂ってしまった。 日本に限らず、世界的にみてもこれだけ優秀な統治者が出た一族はないな。
得宗家で外れと言えるのは経時と高時くらいのもん。
庶流にも人材が多いし。
義時、泰時、時頼、時宗、甲乙つけがたいわ。 高時は生まれた時代が彼にとって不幸だった
過小評価されている部分もある >>100
御家人の中でも特に格が高い家じゃなかったからね。
ごくごく平凡な坂東豪族だもんな。出身は。
そういう一族が、家格が絶対の時代に事実上の日本の最高権力者になるという難しい立場になった。
その緊張感、綱渡り加減が、いい統治者を輩出させたのだろうね。 泰時は「撫民」という言葉をよく口にしており
善政をスローガンとしたことが結果として統治者としての
正統性を高めたのだろう >>101
名君揃いの上にドロドロとした闘争劇が魅力的な時代だな
後鳥羽院や諸侯との闘争の果てに蒙古の大帝国をも撃破したのだから
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