【風林火山】武田信玄【甲斐源氏】
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まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>119
足利高義の娘を嫁にもらってる人もいるから高いんじゃないの?
もしくわそうみられてたか、特に足利尊氏と親しかったか。 信長が京都を牛耳っていたから勝頼が官位を貰えなかったのは
もう仕方が無い
むしろ関東公方・管領系に働きかけて関東系の官位を貰えるように
する方が合理的だったような気がする >>141 謙信に頼むんか? まあ、謙信はそこのところ話がわかるかも知れんが。 信玄はクーデターによって当主になったから、逆に家臣にクーデター起こされないように、
御機嫌とりに必死だった
その一環で、慣れない京文化を習うのにかなり時間を割いてるし、アホな時間の使い方をしている
そもそも信長が30代で尾張、美濃、伊勢の高生産力な国を取って支配地が150万石超えたのに対して、
信玄が52年の生涯で得た支配地は100万石有るか無いかくらいだから、動員兵力、資金に差が有り過ぎる
信玄が上洛を開始した頃には、国力の差が開きすぎてどうにもならなかっただろうよ
信玄が決意したのは足利将軍の御行書の威力を信じすぎたから 人間誰しも自分が死ぬタイミングまでは計算に入れられない
けど信玄は年齢考えたらそろそろ計算に入れないといかんかった、そこは後に響く致命的な失敗 武田の透波って、実体は全員が下忍でしょ。
下の下の下じゃん。格好悪過ぎだよね。 武田信玄って何回同盟結んで裏切っているんだ?
結局最後は誰からも信用されなくて孤立化、滅亡しているし信玄がいなかったら武田って甲斐一国もしくは信濃二国の中堅大名として生き残っていたかもね。 >>147
元亀年間の信長との断交の一回だけじゃないかな。
信玄の時代には北条との同盟があるし、勝頼の時代には上杉や佐竹との同盟がある。
ぜんぜん孤立してないし。 裏切りによる窃取を繰り返した割に勢力拡大が緩慢だった
勝てば官軍負ければ賊軍、全方位敵も厭わない意気は良いとして
官軍になり得るだけの勢力を築けなかった
120万石程度じゃ無理です >>148
信玄が裏切った大名家
主だったのだけでも諏訪、今川、北条、織田、上杉、徳川
国人領主クラスになったら数知れず。
同盟結んでおいて領地が欲しくなったらさっさと破棄して侵略、滅亡させて大大名になった。
相手から見たら同盟の意味が全く無い。
勝頼の代には全く信用なくなって仮にも五カ国の太守だったにも関わらず織田に対して抵抗らしい抵抗も全く出来ず最後は惨めな最期。
上杉や毛利も織田の猛攻受けていたがきちんと抵抗はしていた。 勝頼が戦ばかりしていたバカ殿と言われるのは信玄時代に同盟破棄を繰り返して周りの大勢力全てを敵に回したっていう側面もあると思う。 諏訪との手切れは、諏訪側の盟約違反が背景にあったとか、知らんのかね。 織田:300万石
徳川:50万石
武田:120万石
信長
「貴殿も知っているように、自分は信玄の為に貴殿との間を取り持とうとさんざん骨も折った。
しかるにこの度の信玄の裏切りは古今未曾有、武人の風上にも置けない天魔外道の行いと言うべきだ。
絶対に許さない…」
謙信
「信玄が信長と戦いはじめたのは、わざわざ蜂の巣に手を突っ込むようなものだ。
いくら信玄が老練とはいえ生半可なことではない。しなくてもいい戦いを始めて自ら苦境に陥るとは、
信玄も何を考え違いしたのか知らないが我が上杉としては幸運というべきだ」
ttp://k-mary13.blogspot.jp/2014/04/blog-post_22.html
結論。信玄がもう少し長生きしたとしても、結局は織田に滅ぼされた可能性が高い。
信玄最強のイメージは家康の意向で江戸時代に武田ageが行われたから。
これでよろしいかな? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>153
苦境に陥ってたのは攻めこまれた織田と一向一揆けしかけられてた上杉だよね 大河板の直虎スレに岩村皆殺しをやめたという内容の信長→謙信書簡があると
書いてあったけどこれ本当? そのあたりは武田総合スレの方が詳しい人間がいるはず 1571年ぐらいに信玄は、信長に負けていた。中部地方は
強敵が多く。信長は 浅倉や浅井を破り、 既に近畿地方を
制圧していたのに。 近江は京に近く甲斐の信玄は信濃を
川中島の戦いを繰り返しても統治できず 53歳で上洛を試み
るも病で引き返し亡くなる。三方原の戦い位信長勢に一泡
吹かせた。 仮に病気で倒れずに上洛できていたとして上洛後のビジョンが見えてこないな そりゃ本当の烏合の衆は畿内の連中だもんw
京都の朝廷は末期は周囲の大名小名に乱入されるくらいだからな
だから初期は敵であった遠方の地方勢力に頼らなきゃならなかったわけで
成功の暁にはとんでもない恩賞をエサに取り入ろうとしているわけ
あとは仏教の宗派別の対立の影響なんかもあるわけ 木曽義仲が上洛したときも実際に乱暴狼藉の主体を成した兵団は近畿兵だからなw 京都の治安維持のための勢力を外部に求めたのが上洛だの何だのの始まり
近畿の統治が成功しなきゃ用済み
下手に上洛すりゃ滅亡する危険すらあったわけで京都が魔都扱いされた理由
下手に関わるよりは地方勢力であり続けた方が滅亡する可能性は低いからな
関東勢力が距離を取ろうとしたのはそれが理由 仮に上洛して、義昭に謁見しても甲斐までとんぼ返り
上杉、北条らとの均衡した状態になるだけ。信長のように
近畿制圧出来たと思えない。 そこでウルトラCですよ。一条信達を甲斐国主に任命し、信玄卿は山城に留まる 一人だけど畿内に謎のコンプレックスを持つ甲斐党も存在するんだな
東国と違いそこまで無下にされた歴史はなかっただろうに >>165 信長は、武田 上杉 北条 が牽制しあっていたからよかったよ。しかし、
毛利が、宗麟と三好を滅ぼしていたら、どうだったろうね。毛利幕府はできて
いたか? 岐阜と京押さえてた信長と違って毛利は居城移しても広島。
大内義興と似た運命たどったような。 信玄や山本勘助に関する小説本以外の本が、いつの間にか書店で消えてるね。
古本屋にもほとんど見かけない。
これから勉強しようと思うんだけど、なんで本屋に無いの? >>171
中国共産党特殊情報局の陰謀工作なんです >>171
本屋は売れ筋しか置かないから
小説以外の歴史本自体、大きな書店以外では見かけない
史料に当たるなら資料館や大学図書館だろうし
amazonで取り寄せるとか なんという良スレ…
スレタイを見ただけでワクワクしてしまった
このスレは間違いなく伸びる
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( ・(ェ)・)……。
_| つ/ヽ-、__
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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 現在の人口比と戦国時代の人口比って、そんなに変わらんっしょ?
所詮どう頑張っても山梨県が愛知県に勝てる筈も無し。
せいぜい長野県にチョッカイだす程度。 >>182
太閤検地のころで尾張57万石、甲斐20万石ぐらいだっけね。
都市が小さいから、近い国だとそんなには経済格差なかったかも(東北は別格)。
もっとも尾張、美濃、近江、越前と大国を押さえたら200万石超えたと思われるので、信長の優位は動かず。
朝倉を滅ぼした時点で信長の天下は決まったと思う。
信玄さん最後の長征も、もしかしたら乾坤一擲の信長つぶしだったかもね(あの時点で濃尾が落ちればわからなかったろう)。 >>183
絶っっっっっっっっ対に濃尾は落ちない
予備兵力が違い過ぎる >>183
朝倉宛書状の書き出しが信長滅亡なんだから
信長潰しだろ
と加来が言ってた 武田氏と武田勝頼はなぜ滅んだのか? 重厚長大にして胸に迫るヘビー級の読後感『武田氏滅亡』(著:平山優)
源氏の流れを汲み、甲斐に根を張った名門武田家。
信虎が国内をまとめ、信玄が領土を拡張し、そして勝頼の代で滅びる――。
昨年の『真田丸』序盤において、視聴者の心を最もゆさぶったのは、気高くも儚く消えた武田勝頼の姿ではなかったでしょうか。
従来囁かれてきた暗愚の二代目像からはほど遠く、運命に抗う力すら失い、自害に追い詰められていった勝頼。
彼がああまで追い詰められていったのは、一体何故なのか。
それを新書離れした分厚さで描き出したのが本書です。
武田氏滅亡 (角川選書)
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平山 優 KADOKAWA 2017-02-24
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厄介なことに、730頁を越える本書を読んで得られる結論は「結局、武田勝頼は何が悪くて滅びてしまったのだろう?」という大きな疑問です。
もとより現代から振り返る歴史に明解な答えなど辿り着くことは困難極まるものかもしれません。
それでも真摯に核へ迫ろうというのが本書であり、当代随一の武田氏研究者・平山氏の検証・思考には僭越ながら学ぶ箇所だらけであります。 長篠の敗戦よりも痛打となった御館の乱の判断ミス
従来、武田家滅亡の原因は勝頼の無能さにあるとされてきました。
いや、そもそも信玄時代からかなり無理をしていてそれがたたったのだという見方もありました。
長篠の戦いにおいて、鉄砲の天才・織田信長に対して、騎馬による突撃という古い戦術をとった武田勝頼という典型的な見方もありました。
ただ、大敗したとはいえ1575年の長篠の戦いから、1582年の武田家滅亡までは7年という歳月があります。
こうした人間の能力だけが武田家のような大きな組織を滅ぼすというのは、少々単純化された話のような気がします。『信長の野望』と違って、現実は人間のステータスだけで動くものではありません。
長篠のあと、勝頼はむしろ領土を拡大し体制の立て直しに成功しています。
領土の広さだけで比べたら、むしろ父・信玄の代を上回っています。
※ただし、本拠地を次々に変えて、領土拡大先で完全に所領化した織田信長と異なり、地元の国衆を傘下にするだけの武田氏基盤が意外に脆弱だったという指摘もありますが……それはさておき。
勝頼の失敗は、長篠の敗戦よりも、1578年に起きた「御館の乱」の方が深刻でした。
御館の乱とは、隣国・越後で起きた謙信死亡後の上杉跡継ぎ騒動であり、甥っ子の上杉景勝と、北条からの養子・上杉景虎が争ったものです。
勝頼は、北条氏と同盟関係にあり、正室を北条家から娶っているにも関わらず、北条氏政の実弟・上杉景虎支援に失敗し、北条との同盟が決裂してしまいました。
御館の乱の終結時に勝頼は、景虎を破った景勝と同盟を結ぶのですが、北条という貴重な同盟相手を失うという大きな損害をもたらしました。
そしてさらにその2年後、決定的な打撃を受けます。
「高天神崩れ」です。 和睦をチラつかせて決断を鈍らせ……巧妙すぎる織田信長の策
北条氏と熾烈な関東をめぐる争いを繰り広げるようになった武田家。
この北条と呼応したのが、徳川家康でした。
1581年、徳川勢が高天神城(静岡県掛川市)を攻めたとき、勝頼は北条に対応するため、徳川の侵攻に対して思うように援軍を送ることができませんでした。
ここで城を攻める家康の同盟者である信長は、残酷かつ的確な指示を出します。
敵が降伏をしてきても決して受け入れるな、勝頼が援軍を出さなかったせいで高天神城の者たちは見殺しにされたと知らしめるのだ、と。
高天神城に籠城した者たちは、この残酷な意図のもと、食糧供給を絶たれて餓死してゆきます。
脱出しようとした僅かな者も、張り巡らされた徳川の包囲網にかかり、敢えなく戦死。
彼らはなるべくむごたらしく悲惨な死に方をする方が宣伝になると信長は計算したわけです。
戦死した者たちの多くは、武田家に付き従ってきた有力な国衆たちでした。
この状況でなぜ勝頼が援軍を出せなかったのか。
それは前述の通り北条の状況もありましたが、信長が和睦交渉をすすめていたこともありました。
和睦で解決できるのならば、援軍を出さずともよいと勝頼や重臣が考えてもおかしくはないわけです。
武田家の中で長篠の記憶は生々しく、下手に織田勢とぶつかるのは避けたいという意識もあったことでしょう。
しかしこれは結局のところ、信長の時間稼ぎだったというわけです。
勝頼は信長の策にかかり、高天神城と彼の威信を失ってしまったのです。
選択肢は常に困難極めるものばかり
さらに信長は、勝頼は正親町天皇に逆らう「東夷」であり「朝敵」であると喧伝することにも手抜かりはありませんでした。
勝頼は莫大な金に目がくらんで北条との同盟を破棄した男であり、味方が追い詰められても援軍すら出さない冷たい男であり、さらに朝敵でもある。そんな認識が世間に広まってしまったのです。
後に、穴山梅雪や木曾義昌らは勝頼を裏切ることになりましたが、彼らに言わせれば「勝頼の方こそ我らの信頼を先に裏切ったではないか」ということかもしれません。 振り返ってみますと、武田勝頼は、長篠の戦いでの敗北は何とか立て直すことが出来ました。
人的損害は何とかできたのです。
しかし、高天神城で地に落ちた名声は、もはや彼自身の運命とともに、墜ちるところまで墜ちるほかありませんでした。
失われた信頼、世間に広がった不信感は、簡単に拭いさることができない。そんな典型的な例だったのでしょう。
高天神城陥落の翌年、勝頼は僅か50名ほどの者たちと落ち延び、最期を迎えます。
結果的に勝頼は間違えました。そして滅びました。
しかしその選択肢は常に極めて難しいものばかりで、彼は決定的なミスばかりをしていたわけではありません。
選択した直後、勝頼も武田家の重臣たちも「今、間違ったことをしてしまった」と気づくことはできなかったでしょう。後で影響が及んできて、結果的にあのときああしてはいけなかったのだ、と理解したことでしょう。
そういう複雑な状況を「勝頼は暗愚であった、だから滅びたのだ」とまとめてしまったらどれほど楽でしょうか。思考停止できたらそれでスッキリすることでしょうか。
本書は750頁という厚さで「ところが、歴史というのはそんなに単純なことではない」と突きつけて来ます。
読後は、妙な疲労感を覚えました。
それは滅びの物語をたどる重さだけではなく、私たちも勝頼のように最善の選択をしたつもりでいて、あやまった道を歩み、そしてそれに気づいていないかもしれない、と感じたためです。
人にとって失敗とは何か。歴史だけではなく、人間のそんな本質にも迫る労作です。
このヘビー級の読後感、なかなか味わえない一冊です。
小檜山青・記
【関連記事】 武田信玄は後世の過大評価
血筋は立派だが甲斐信濃駿河を抑えた山猿に過ぎない
やっぱり神君家康公を苦しめた存在ということと、武田遺臣を徳川家が大量に抱えたからだね >>188
相変わらず平山は織田側史料読み込んでいないのか(笑)
妙心寺記に天正九年の八月に快川と南化が両者の和睦について
協議した旨が書かれてあるのはスルーか(決裂したが) なんという良スレ…
スレタイを見ただけでワクワクしてしまった
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\_/ 噂の騎馬軍団は後世の創作で当時のお馬さんは短足の鈍足
じゃあ一体何が強くて名将扱いされてんだよ?!
わけわからん 山梨の親戚にで中込と言う名が有るのですが、この名前は武田家家臣の名前なのでしょうか?
少し調べると、穴山家家臣団や山県家臣団に名前が見受けられました。又は、金丸虎義前の分家とも有りました。
山梨県内では多い名前ですが、ご存知の方はいらっしゃいますか?
私自身山梨県とは縁が無く、これを機会に偶々調べていて興味を持った次第です。 へー中込って名前武田の家臣だったんか
阪神の中込甲府高校?商業?だったな 中込、甲府興行定時制から半身へ
中学頃から悪党と風聞あり
部室にて手篭めしへりとか 中込伸は高校時代すでにチンピラのおっさんにしか見えなかった真正DQNだけどな 中込姓は山梨では多いのですが、土着の姓であり加えて古い姓であるにも関わらず、文献にコレと言った決定的な記述が無いのが興味深く、偶々親戚姓からですが調べ始めた所です。
武田家高名録には上から4段目左に、中込民部介定行、他には中込又兵衛(山県昌景家臣団後赤備として井伊隊に吸収)等興味深い無いようですが、いかんせん情報は少ないですね。 織田家が中央集権、武田や毛利が豪族の連合体って言われるのはなんでなの?仮にこれが正しいとして、中央集権って家臣を城下町に住まわせて妻子を人質にすること?
また、これに従うと信玄は信虎を追放したのは中央集権から連合体に戻したってこと? >>201
そこらへんは曖昧というか、イメージの問題になってるけど、たぶん領土の所有性の問題だと思う
豪族の連合体にとって、豪族の領土は豪族本人がしっかり保有している神聖不可侵なもの
中央集権制の織田家にとっては、家臣や地方豪族の領地はあくまで貸し与えているもの。真の保有者は、信長ただ一人。だから信長の意志に応じて、領土の転封が行われる。
まあ、信長にしたって、この中央集権制をどれだけ徹底できていたかは疑問だし、信玄だって時には家臣や豪族を他の地方に転封したりしたとは思うけど
しょせん近世の時代だからそれほどはっきりした区別はできないと思う 信長が中央集権制なら信玄も中央集権制だし豪族連合も左に同じ
そこらは両家さして変わらんよ
そしてどうしてそう語られるかは創作ものの悪影響が大きい 昔に比べ研究が進んだ今でも信長はこうあるべき脳から
脱却できない人多数だからな >>202
サンクス
武田は家臣の領土を変えられなかったと。
穴山にはい、次は〇〇郡の統治ね!は無理ということね
あと、通説として信長の兵農分離ってあるじゃん?農繁期農閑期の話
西股氏の本で否定されてたけど、それが本当ならなんで今までは一応通説とされてたの?それなりに根拠があったのでは? >武田は家臣の領土を変えられなかったと。
誰もそんなことは言っていないと思うのだけど…
203氏も書いてるけど織田家も武田家も正直あんまり変わらない
ただ、武田の場合は古くからの在地武家が織田所領内より多くまた
その独立性も織田に比べ認められていた(というか認めざるを得なかったと
言った方が正しいのかもしれない)からイメージ的にそう見えるだけなのかも
しれないとは思う >>205は
ただの武田嫌いの信長厨だろどうせ、文章から頭悪いの丸わかり 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
WRM1B 落ちてしまった武田関係のスレに原虎胤の発給文書は偽物だろうねって話があって。
あるサイトにあったんだが無くなっていたがグーグルのアーカイブにあったので
http://archive.is/ELPs
武田遺文や資料にみられないので製作者に問い合わせたところ地元有志の制作した
本が出典らしいですが詳しくはわからない。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1322b9cf791dd10729e510ca36a73322) 信玄より、父親の信虎の方が有能
信玄は父親が稼いだアドバンテージを食い繋いだだけ 甲斐を統一した人だもんなぁ、信虎
もっと評価されるべき 【信玄堤】
そもそも信玄が存命中に、そう呼称された事実なし。
その存在すら戦国時代には無かった。
釜無川の治水土木工事は江戸時代中期から。
それが何故か「信玄堤」という名称に。
武田家が存在中はノータッチ。
外征ばかりする国に内政の余裕無し。 ふんだけんど、へぇ〜信玄公の業績だっちゅうこと
わにわにしちょ? >>224
まあ、飛鳥時代から平安時代初期までに多くの人々が半島を逃れて来たからな。
とりわけ甲斐國は高麗郡が制定される程に多数の渡来人が定住したから、後の甲州人の言語や気質に影響してるわな。 東夷とまた違う意味で甲斐國の住人も「まつろわぬ者」だったからなぁ >>219
家紋を使っているならこの子らは武田の末裔か >>229
( ´∀`)Σ⊂(゚Д゚ )ナンデヤネン! 桔梗屋信玄公餅が 武田信玄に全く関係ない件について 山背大兄王事件、大化改新、壬申の乱等一連の、政治的要因を等しうする事件において、天皇または皇子が旧来の豪族に対抗するときに、東国にそのより所を求め、
その兵力に頼らんとしていることは甚だ興味あることであって、それは大化前代の親衛軍の基礎が東国にあったことからきているのである。
(岩波現代文庫『日本古代内乱史論』北山茂夫/立命館大学教授/和歌山県出身)
大海人率いる大和勢を勝利へと導いたのは当時東国と呼ばれた伊勢、美濃、尾張の兵士たちである。
古来軟弱で知られる近畿の兵から成る近江軍を打ち破った。
大海人軍の中でも最強とされるのは遠く甲斐から参戦した甲斐の勇者と呼ばれる騎兵であった。
(壬申の乱)
東男は 出で向かひ 顧みせずて 勇みたる 猛き軍卒
(『万葉集』)
東人は常に云はく 額に矢は立つとも 背に矢は立たじ
(『続日本記』)
坂東武者の習 親死に子討たるれどもかえりみず いやが上に死重て戦ふとぞきく
(『保元物語』)
九州出身の防人たちはどうも役に立たなかったらしく、早くも七五九年に大宰府の官僚が
「東国の防人を罷めしより、辺戍日に荒散せり」と、防備体制がなっていないことを政府に訴えている。
七年後の七六六年にも大宰府は「筑前等六国」で徴兵された防人たちの不適さを指摘し
「人勇健に非ずは、防守済まし難し」という理由で、「東国の防人旧に依りて戍に配せむ」ことを願っている。
このとき朝廷は妥協策を講じ、任期を終えた防人にはそのまま筑紫に残っている人が多いはずなので、
かれらを使って地元の防人の補強となすことを大宰府に命じている(『続日本紀』)。
(ブルースバートン『国境の誕生』大宰府から見た日本の原型、NHKブックス) >>231
すでに家紋が「桔梗」な訳で........ 甲斐ゆえに!人は苦しまねばならぬ!甲斐ゆえに!人は悲しまねばならぬ! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています