和睦をチラつかせて決断を鈍らせ……巧妙すぎる織田信長の策

北条氏と熾烈な関東をめぐる争いを繰り広げるようになった武田家。
この北条と呼応したのが、徳川家康でした。
1581年、徳川勢が高天神城(静岡県掛川市)を攻めたとき、勝頼は北条に対応するため、徳川の侵攻に対して思うように援軍を送ることができませんでした。

ここで城を攻める家康の同盟者である信長は、残酷かつ的確な指示を出します。
敵が降伏をしてきても決して受け入れるな、勝頼が援軍を出さなかったせいで高天神城の者たちは見殺しにされたと知らしめるのだ、と。

高天神城に籠城した者たちは、この残酷な意図のもと、食糧供給を絶たれて餓死してゆきます。
脱出しようとした僅かな者も、張り巡らされた徳川の包囲網にかかり、敢えなく戦死。
彼らはなるべくむごたらしく悲惨な死に方をする方が宣伝になると信長は計算したわけです。
戦死した者たちの多くは、武田家に付き従ってきた有力な国衆たちでした。

この状況でなぜ勝頼が援軍を出せなかったのか。
それは前述の通り北条の状況もありましたが、信長が和睦交渉をすすめていたこともありました。
和睦で解決できるのならば、援軍を出さずともよいと勝頼や重臣が考えてもおかしくはないわけです。

武田家の中で長篠の記憶は生々しく、下手に織田勢とぶつかるのは避けたいという意識もあったことでしょう。
しかしこれは結局のところ、信長の時間稼ぎだったというわけです。
勝頼は信長の策にかかり、高天神城と彼の威信を失ってしまったのです。

選択肢は常に困難極めるものばかり

さらに信長は、勝頼は正親町天皇に逆らう「東夷」であり「朝敵」であると喧伝することにも手抜かりはありませんでした。

勝頼は莫大な金に目がくらんで北条との同盟を破棄した男であり、味方が追い詰められても援軍すら出さない冷たい男であり、さらに朝敵でもある。そんな認識が世間に広まってしまったのです。
後に、穴山梅雪や木曾義昌らは勝頼を裏切ることになりましたが、彼らに言わせれば「勝頼の方こそ我らの信頼を先に裏切ったではないか」ということかもしれません。