京都の五塚原古墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3

「古墳時代最初期の3世紀中葉-後半頃の築造と推定される[3]。
向日丘陵の首長墓群では最古になる[4]。墳丘の「斜路状平坦面」は箸墓古墳(奈良県桜井市、一説に卑弥呼の墓)と共通する古い形式であるほか、
前方部の形状は東田大塚古墳(奈良県桜井市、箸墓古墳と同時期か)と一致する[8][3]。」


被葬者は誰であろうか。ごく普通に考えて山代国造、山代県主の類であろう。
ならば候補者がいる。
先代旧事本紀・巻第五「天孫本紀」に出てくる山代県主の祖・長溝(ながみぞ)である。
崇神の叔父である伊香色雄命の義理父にあたる。

同じく箸墓との関連が言われる大阪・交野の森古墳群の雷塚古墳。
被葬者は誰であろうか。
候補者がいる。
天孫本紀に交野連と書かれてる多弁宿祢命(たべのすくね)である。
伊香色雄命の子である。

ここにきて箸墓と強く関連する二つの古墳の被葬者候補に伊香色雄命を軸とする二人の人物が浮かび上がってきた。
箸墓古墳とは伊香色雄命の墓ではないだろうか。
彼が磯城の王であったことは姉のイカガノシコメと「ヒメヒコ」を形成してることでも明らか。
そのイカガノシコメから産まれたのが崇神。
崇神墓を古事記の記述から行灯山古墳として、叔父で磯城の王であった伊香色雄命が崇神より巨大な墓を造ってたとしても不思議ではない。

このように先代旧事本紀は考古学と整合するのである。