養華院を信長御台とする根拠は總見寺に所蔵される織田家の過去帳『泰巌相公縁会名簿』の
「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七壬子七月九日 信長公御台」なんですよね。
一般的には戸籍制度が確立する以前は寺の過去帳がその代わりをしていたので、この過去帳はかなり信憑性が高いと思っています。
ただ養華院を「寵妾」と記した史料が存在することも事実なので、絶対とはいいきれないです。
個人的には織田家衰退とともに、濃姫の実子の子孫が存在しなかったことから仏事なども疎かにされ、
そのあたりの真偽が曖昧になってしまったから?

分限帳の貫高も信長正室にしては見劣りしますし、どっちかというと最高の貫高である御局のほうが濃姫ではと
子の徳姫よりも貫高が低いのは不自然だし、「局」は城の妻子が居住する空間をそう表現する場合もあるので、
安土城の局の長であった正室のことを示していると解釈できなくはないです。信雄の身内の女性で、公家出身で高貴な身分の女性はいないはずですし。そうなると安土殿というのは恐らく丹羽長重室あたり?
(輿入れに際しての化粧料とか)安土城は1585年までは織田宗家の城として機能していますから、
結婚当初丹羽室が安土殿と称されても不思議はありません。姉である徳姫より低い貫高なのも納得がいきます。
信雄の庇護下には自身の室や姫なども大勢いたところに母親や信長の妻子も加わったので、
分限帳ではこういう表現になったのではという臆測も成り立ちます。
千貫は現在で換算すると1億程度といわれていて、その他濃姫は御料所なども持っていたので
貫高的には妥当ラインだとは思います。

それから濃姫が岐阜で亡くなっていても斎藤家の菩提寺である常在寺に葬られることはないと思います。
信長生前に亡くなったとしたら墓はやはり尾張の織田家の菩提寺か、あるいは岐阜なら崇福寺あたりではないかと思います。
でも濃姫が亡くなったならあの言継が日記に書かないわけがないので、少なくとも信長生前に亡くなってはいないでしょう。