なぜ桶狭間の戦いの後、信長の快進撃が続いたのか?
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たしかに全国から見ても番狂わせの戦いだったけど、一大名が天下を取るまで
のし上がるまでの出来事とは思えない なにが他の大名と違ったんだろ? まあ、桶狭間の戦いの後の美濃平定まではそこそこ時間がかかっているわけだけど 地の利があったこと 政策が型破りだったこと 部下への評価が合戦での手柄重視だったこと 表面は慇懃を装い猫を被っているが、実際は癇癪持ち・暴れん坊の徳川家康が
織田信長についたのも大きいんじゃァないの。
いつも苛立っている乱暴者の徳川家康には
血の気の多い積極果敢な織田信長の方が近寄りやすかったんじゃァないの。
お隣国の今川氏真のように
和歌も蹴鞠も剣術も筆も抜群の出来。家柄もいいと言う名門家の御曹司相手では
徳川家康、縮こまるほかにない。
なんでも鑑定団 愛のエメラルド >>7
家康はいつも負け戦だらけ
織田信長にとってはかなりお荷物で直臣より大事にされず
いつも一番死にそうな先陣ばかり 尾張へ平定したものは天下を取りやすい。
ただ、それだけのこと。
なぜならば、尾張を平定した時点で、
日本第二の平野である濃尾平野の支配が容易になる。
対抗馬の美濃は尾張に比べて地形的に一つの勢力にまとまりにくいから
美濃から尾張を征服するよりも、尾張から美濃を征服するほうが簡単だから。
日本第一の平野である関東平野は、日本の東の辺境にあるが
濃尾平野は、日本に中心部であり人口が最も多い畿内の征服が射程圏内になる。
しかも、畿内ってのは人口多いけど、地理的に複数の盆地や平野に分かれて
一つの勢力に統一されにくいので、濃尾平野の支配者にとって
容易な草刈り場となる。
そんなこんなんだから、古代から尾張は中央政権の重要な一族の直轄領になった。
古代においては、皇祖ニニギの兄のホアカリの子孫で
嫡流とされた尾張氏の支配地域。
壬申の乱のときに勝者の大海人皇子を支援した最大の勢力は尾張氏の軍で
大海人皇子側の兵力の半分は尾張氏の傘下の軍だった。
中世においては、足利幕府の中では、
足利家の分家出身の諸侯で最高家格の名門とされた
斯波氏の直轄領とされた。
近世においては、徳川幕府の中では
将軍継承権を有する徳川御三家の筆頭にあたる徳川義直の子孫の
直轄領とされた。 もし、織田家が勃興せずに、斯波氏が尾張国の支配権を保持しつづけたのならば
斯波氏のよって天下が平定されていたのかもしれない。
事実、斯波氏は、かなり最後まで、
尾張国での権力を維持し続ける可能性があった。
そうなれば、第二次足利政権が誕生していたかもね。 濃尾ってかなり開発が進んでたんだろ
平野部もそうだが伊勢湾を主体とした海商関連の記録もあるもんな
北陸方面なんて越後上布の取り引きにも苦労してるあとあるもんな 大義名分が重視されていたことを考えると、位置的に京に近かったのは大きいと思う
その点では九州や東北の大名は不利といえるし
それから巧みな外交もあったと思う 相手が格上だと下手に出て貢物をし、戦力が整えば
積極的にしかけていく 面子にこだわらない信長らしいやり方 何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」
尾張の歴史
◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。 >>9
平野が優位な土地と認識されたのは、まさに信長の時代以降。
それまでは天然の城壁である山に囲まれた盆地が大名の拠点に相応しかった。
奈良盆地や京都盆地がそれ。
堺や津島などの経済力に目をつけた信長秀吉家康の頃から
海運に適した平野部が重視されるようになった。
大阪や江戸がそれ。 >>14
鉄砲が原因なんでしょうか?
どうしても狭くなる山城よりも大きく築ける平山城、さらに大きく築ける平城
となったの?(鉄砲の射程距離的に) 美濃西部は木曽三川の輪中だらけ
集落ごとに小さくまとまっていた
当時は百姓=武装農民であり、ある程度輪中集落を飛び石攻略できれば、
オセロゲームの様に白集落間に挟まれた黒集落は白に反転、
与力合力せざるを得くなる
攻略できた輪中間は楽市楽座の自由通行とし、
輪中内警備員?を常設中央軍戦闘員に徴用
東は松平元康に預け、北に小名だらけの美濃攻略10年が寄せ手
かくして常備軍が出来たところで各地大名小名はドンドン信長配下へ
大規模戦闘なんか数える程しか起きていない 上杉、武田と隣り合っていなかった地理的有利もある 両者が牽制しあっている間に
美濃をはじめとした地盤を固めることができた 時に将軍や朝廷の権威を利用し、うまく立ち回ったから 実際は屁とも思ってなかっただろうけど >>14
少し違和感が
京都なんか山に囲まれてるっていっても
平野部はかなりの広さがあるし、水路も大阪湾から淀川 小倉池(当時)とあって
大阪に比べてもそこまで軍事的に有利で経済的に不利とは思えない 壬申の乱の時の勝者、大海人皇子側の総大将・村国男依。 詳しくないけど、桶狭間で今川軍を破った後、降伏兵を編入して軍を大きくしたとかじゃないの? @今川軍を破った後今川との国境の松平(徳川)との同盟
これにより東の今川の心配をしなくてすんだ
仮に今川を攻めて領土にしたとしても、東の北条、武田と隣接したら
東の備えをしなければいけないから、負担が増えた それを徳川
にさせる事により西(京方向)へ注力できた
A楽市楽座、南蛮貿易による利益の創出
基本的に戦国時代の大半の兵士は農民 つまり春から夏は農業をおこなう
よって戦ができるのは秋から冬 上杉軍なんかは雪の関係で実際に戦ができるのは
9月〜12月初旬位がいいところ これでは天下統一は不可能
織田軍は金があるから傭兵を雇う事により一年中戦ができる
B仏教勢力との決別
当時の仏教勢力は最大の利権団体
例えば公道に勝手に関所を作って交通料金をとったりしていた
よって商品の値段が跳ね上がり 市民が困っていた
又当時は武力を持って政治に対して自らの利権を主張拡大していた
残念ながら毘沙門天の化身の謙信とか出家をした<信玄>なんかでは
仏教勢力の利権は切り崩す事ができない
信長以降現在の様に仏教勢力は平和団体に代わっていった
こんな所かな 仏教団体に市民が困っていたと言うな、なぜ長嶋では市民が仏教団体側についたのか。 何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」
尾張の歴史
◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。 >>25
ごめん 不正確やったわ
長嶋だけやなくって、越前は一向一揆の国やし徳川の領地でも反乱はあったよね
と同時に仏教勢力が公道に勝手に関所を作って金を取ったり
座を設けてそこで権益を独占していたのも事実
(事実かどうか知らんけど、秀吉が針売りをしていたっていう話があるでしょ
あれは針やと手軽に持ち運べて大がかりにならず、座の締め付けが少ないから
逆に油なんかやと、座の締め付けが強く、座の許可を取らず無断で売ろうものなら
命の危険すらあった)これを大きな社会のあるべき姿から見るとやはり不自然不健全でしょ
当然個々の立場はあっても信長のやろうとした事は大局で見れば正しい事やし
そこに多くの人間の支持が集まったと考えてるの 尾張→美濃→近江という先進地域かつ米持ち国を進んでいけば、
そりゃ他勢力と比べてアドバンテージ大きいわな。
個別の戦闘で負けても、何度も繰り返し兵士を動員して戦争できる体力を持てる。 >>27
長島にしても越前にしても座の権益を信長が奪い取っただけなんですけど
だから庶民は本願寺側についた
信長が正義になったのは戦いに勝てたからで
正義だから勝ったのではない >>27
信長は自分に逆らったから殺したってだけで、宗教勢力を除いて庶民を救うなんて発想はないでしょ。
本願寺の自治は、一方では町の治安を守っていることにもなるんだよ。
だから庶民がみんな本願寺側についた。信長は自治を壊すテロ集団にしか見えないからね。
政教分離だと言う連中もいるが、庶民にしてみれば領主が宗教団体だろうと大名だろうと関係ない。
信長が支持されたというが、庶民は本願寺について信長に敵対していることを忘れちゃいかんな。 >>29 >>30
の言ってる庶民ってのは多分農民の事じゃないかな
当然当時は農民が大部分を占めてるけど
商、工といった人は座とか関所なんてない自由な商売を求めてたんじゃないかな
土地でいうと京 堺 大津 秀吉時代やと+博多
それに後の歴史から見ても信長の政策ってのは正解やったと考えるのが妥当じゃない?
基本的に信長、秀吉政権ってのは商業を基本として強くなった政権でしょ
逆に徳川幕府ってのは重農政権の色彩がつよいけど
勝ったから正義であって、正義だから勝ったのではないってのは50%正解って
ところじゃない?
庶民の支持なしにずっと勝ち続ける事が不可能なんは木曽義仲の例を見てもあきらかやし
信長も京に入った時は軍規をかなり厳しくしてるよね
それと<<27の宗教勢力を除いて庶民を救うじゃなくて、俺の考えは宗教勢力の利権を
を取り除いて庶民を救うね 信長は宗教団体の存続は認めてるはず そりゃ年貢収めてたのは農民だもんなw
座とか商業の、場合は通行料なのよ
その土地を通るときに収める金銭だな 信長は神仏の使いである鹿の大量虐殺による寺社への挑発・荘園の略奪・惣村強制没収略奪・京での略奪放火恐喝大虐殺・強制労働と相次ぐ臨時の税賦課
上限の設けられない軍役・軍役がない時は軍道作りを強制される。また子供が遊ぶことも禁止された。
これらに従わない場合は弾圧で村や都市ごと焦土にする(信長のこのやりかたを一国亡国と呼ばれ批判された)
信長体制とは無政治無内政体制ともいうべきもので、とても国家の体を為してない
単なるあらっぽい下克上大名のレベルからの昇華は認められない。
それに家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成がなされていないからこそ生じた問題であろう。
それを武篇道の督励で対応しただけの蒙昧ぶりが信長。
信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。
秀吉が治水をしているのも田畑開発、水害防止、大坂から京への海上経済通商政策を理解しているから。
兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。
これにより専業武士と農民が区分けされ秩序が生まれ国内は安定を迎えた。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある。
秀吉の平和安定のための物流革命と言えば、信長死ぬや早くも 天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。
これが桃山文化と呼ばれ日本各地で城下町が整備され、
日本史史上最も派手で豪勢な時代と言われている。秀吉の下、インフラ整備と経済活況化への資本投入による民心安定策である。
さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
秀吉は全国統一の度量衡の統一、税や法の平等を施行し、
それに反して挙兵するものは朝廷から認められた公儀政権として警察権を行使し
下克上的機運や中間搾取層の排除による既得権益の一掃と豊臣政権による官僚制を志向した。
秀吉は帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し
大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで
戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。 〜キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす〜と秀吉は書状に書いている。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。
重商主義的・帝国主義的な植民地化がすでにフィリピンにまで押し寄せている中で
秀吉のみがキリシタンの野望を喝破し、逆に朝鮮への遠征を行うことで
日本の武威を知らしめ、陶工などを連れ帰り現在に至る名産品を生む。
秀吉は明確に日本人民の安全を謀り世界に対する武力誇示と同時に
国内混乱要因の武士層のストレスを解消させる政策を実行(神風連の乱や西南戦争を見れば明治政府の武士への扱いの苦心もわかる) 資金面から見てみよう。
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。 永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに
まずは小手調べで賀茂〜嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
恐ろしくなった上京が払った銀1300枚の受け取り拒否した上で上京を焼き討ち略奪。
(信長に金を渡しに行く際に織田軍に略奪され、改めて高利貸しから借金して信長に渡すなど酷い状態になったりした)
御所への延焼の恐れが出てきて天皇も逃亡準備。桂川が死体で埋め尽くされる大虐殺開始。
下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
しかしあっちゃこっちゃ延焼しまくりで火だけは統御できない。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
しかしもう恐喝できる相手すらいなくなり
みんな貧民だらけになってしまう現実・・・北朝鮮的織田統治下全員貧困化政策。 長文は下劣だということを60年間考えて、60年後に出直してくれ 宗教団体でさえ皆殺しにできる神経は信長ならではだったと思う 一揆制圧のために
やむなく戦った例は他の大名にもあるが、積極的ではなかったし、懐柔策を取る場合も多かった
神仏に帰依するのが当たり前の時代、そこまで冷徹になれたことは、信長が頭一つ抜きん出た
要素の一つだと思う >>15
戦国時代は大名たちが治水工事を積極的に行って、それまで湿地帯だった下流域も耕作地になっていた
というのがあるんでしょうかね? >>40
ただの残酷なキチガイにしか思えませんがww 神仏であろうと焼き討ちするのは平清盛だってやっていたし
もっと罰あたりなのは高師直
程度の問題はあるにせよ信長の先輩はいるんだが
ウリジナル主張するのはどうかと思うぞ 過去には先輩はいたけど、あそこまで過激な奴はあの時代にはいなかったってことじゃね?
マジできちがいレベルだし 韓国あたりだって廃仏で壊しまくってるだろw
ならお前らはその気持ちが分かるんじゃねえのか? 寺社の持つ荘園を横領しまくった盗賊が信長。
安土城城下町も元は東大寺の荘園領を没収したもの。
これで寺社に命じて執り行う国家の祭祀事業のほとんどが中断してしまった。
また惣村が協調して領主に意見する自治を信長は嫌い、
虐殺略奪と上限設定のない果てしない軍役と軍事道路作りの賦役で疲弊させ抵抗力を失わせた。 なにいってんだこいつらwww
韓国あたりだって廃仏きめてるの国王じゃねえかよw 日本史板でいちいち韓国の名前出すなよ なんの関係もないだろ 織田がやった戦なんて火事場泥棒しかねーじゃん
美濃を斉藤の幼君&混乱&分裂で寝返りばかりなのを火事場泥棒したら負けまくり
動乱でぐちゃぐちゃになった畿内を浅井や徳川や足利義昭の力を頼って火事場泥棒したはいいが
その後信玄に負けまくり滅亡寸前
伊勢でも分裂状態の北畠を無理矢理乗っ取ったりしたしたはいいが大河内城や長島一揆に負けまくり
しまいには御館の乱や新発田の乱で極度まで疲弊した上杉を45000の大軍&神保・佐々・長など地元諸侯派遣しまくり
火事場泥棒しようとしたら越中中部〜魚津・松倉の短い区間で天正8年から2年も立ち往生するなど大苦戦。
まともにガチンコで切り取った土地なんかねーだろ 信長は地の利や自国の国力に馬鹿みたいに恵まれてたからね
斉藤…道三・義龍・龍興と三代続けての内紛と幼君で混乱しクーデター騒ぎで弱体化しきったまともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢… 木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で分裂、自壊
今川…たまたまおきた遠州騒乱と松平独立で極度に弱体化
六角… 観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化、信長の斉藤攻めや上洛戦では信長に大いに協力
足利将軍家… 三好や松永らの反逆で権威が落ちきり形骸と化し信長に助けを求める
播磨但馬丹波…守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない
摂津… 石高がわずか12万石しかない
浅井…もともとは織田方で上洛戦や斉藤攻略などで信長を大いに助ける。石高はわずか10万石程度
波多野…石高は10万石以下。
上杉…謙信死後の御館の乱や新発田の乱で自爆崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除
美濃は斉藤の元で既に統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。 >>50
メッケルの軍事指導嫁やw
謀略も参謀の責任の一つだ 斉藤が三代続けての内紛や幼君での混乱・クーデター騒ぎで弱体化しきっててまともに抗戦するものが皆無で自落していったし
義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけ。
その上さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてただけ。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になる。
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。 信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。
米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。
信長の周りには畿内で賢主と呼ばれた大名はみんな死んでいて最盛期が過ぎ 衰退に向かっていく弱い大名ばかりだが
信玄の周辺には実力が同等国か同盟国ばかりだった。 仕方ないから謙信方面に行くしか道がなかったよね。
北条・武田・上杉の三国が互角の鼎のように竜虎獅子が合い戦う強豪っぷりだったしな。
武蔵国の名は武器の蔵と言われていたと信玄も言ってる。 家康は武田旧臣を配下に入れて翼が生えたようなもんだ。そのおかげで信濃や甲斐が統治できたしな。
そんな中で勢力拡大してた武田さんは素直に凄い 織田厨は算数ができないので、自国がチート国力であり、自国に比べて周辺には弱体化しまくってた雑魚国力の大名しかいなかった織田を棚ボタではないとか言ったり
自国が貧国・山国・雪国の制約があり
自国と同等レベルかそれ以上の国力に囲まれてる上杉や武田などを棚ボタなどと妄想したりする。
武田の場合
上杉 120万石
織田500万石 武田 100万石
徳川 40万石
織田の場合
上杉120万石(しばらくは同盟)
赤井10万石
本願寺20万石 武田100万石(徳川・上杉が抑えてて対織田戦はろくに兵も出さず)
織田500万石+徳川40万石
全然立地条件が違うわな。
織田の場合は総軍を四つにわけても各個撃破が余裕で可能な国力がしっかり整った状態で雑魚を周辺に抱えてるだけで、到底「四方を敵に囲まれてる」などとはいえない
「雑魚国力が回りに散らばってる」の方が正しい 自国はチート国力
周辺国は
斉藤…道三・義龍・龍興と三代続けての内紛と幼君で混乱しクーデター騒ぎで弱体化しきったまともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢… 木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で分裂、自壊
今川…たまたまおきた遠州騒乱と松平独立で極度に弱体化
六角… 観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化、信長の斉藤攻めや上洛戦では信長に大いに協力
足利将軍家… 三好や松永らの反逆で権威が落ちきり形骸と化し信長に助けを求める
播磨但馬丹波…守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない
摂津… 石高がわずか12万石しかない
浅井…もともとは織田方で上洛戦や斉藤攻略などで信長を大いに助ける。石高はわずか10万石程度
波多野…石高は10万石以下。
上杉…謙信病死、謙信死後の御館の乱や新発田の乱で自爆崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除 、信玄が都合よく病死
しかも、義昭が信長の下を訪問し、斉藤攻略→畿内平定までを和田や甲賀衆や浅井などの派遣により楽にお膳立てするヌルゲーっぷり。
謙信・信玄・直正・元なりらも都合いいタイミングで病死。
残ってるのは当時の織田から見れば雑魚国力の大名ばかり。
ここまでヌルゲーな大名なんて織田以外にはそうそういない。 信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
自国の6倍程度ある織田と交戦状態の中、家中を二つにわけた後継者争いで
周辺大名がこぞって国内に出兵してくる窮地の中の窮地で勝ち抜き
その後の内戦の中、自国の10倍もの兵力で侵攻を受けて、2年もろくに進ませず耐えた景勝や上杉 120万石 織田500万石 徳川 40万石 と計自国の6倍程度の相手と戦わなければならなかった勝頼が棚ボタとか相当馬鹿だな。
棚ボタは織田しかいねーだろ。
周辺国が悉く内訌分裂弱体化、当主の死に次ぐ死
自国がチート国力
足利将軍家や六角義秀や浅井や甲賀衆のお膳立て。
ここまで棚ボタ条件が揃ってたら毛利レベルの雑魚でも天下統一できるだろ。
信長はそんな条件ですら、家臣に殺されて家は大衰退したが。
織田厨は算数ができないから、自国と敵対大名の国力を比率で考えることはできないし
敵国が内紛だったりクーデターだったり、お家騒動だったりといった、状況を追う事ができない。
だから平然とそんな馬鹿な発言をする。 桶狭間で今川義元の首を獲ったことで、それまで信長に懐疑的だった連中が
信長を信頼するようになったってのは大きいだろうね
そうなれば元々の生産力は全国屈指の尾張
勢力を拡大させるのはそれほど難しくない その当時、信長に対抗できるだけの石高っていったら数は限られる? あくまでも目安の一つでしかないけど、慶長期の国別石高ベスト5
1位 陸奥 1,672,358石
2位 近江 775,359
3位 武蔵 667,126
4位 尾張 571,737
5位 伊勢 567,105 織田信長は尾張と美濃の二カ国を平定した時点で
石高130万石だから。
伊勢や近江を抑えて、あっというまに200万石を突破した。
武田信玄なんて、広範囲の5か国を平定しても、山ばかりの地域だから
ギリギリ100万石だろう?
小田原の北条も関東の大半を抑えて、やっと200万石
毛利元就も晩年、九州や四国にも手を広げても170万石ぐらい。 >>61
それ表高で実高250万石くらいある。家臣団も多いから相殺されるけど。 斯波氏が尾張守護に着く前は武田氏が守護やってて斯波氏が下向するときに
鎮守府将軍、藤原利仁の一族のやつが着いてきたんだと
根っからの下克上のやつなんて秀吉以外いないな
みてりゃどいつも名門だわ 当時は美濃あたりのほうが、東北や越後の石高より高かったってこと?
地形に恵まれていたんだな、信長は 太閤検地といえどどのくらい正確かは正直よくわからない部分はあるけど
当時の稲作技術だと東北や越後といった寒冷地よりも尾張や美濃の方が
安定して米作りができたのは確かだろうね >>69
正条植えの技術が上方から関東地方に伝わったのは
天保年間だというから、関東の生産性はとても低かった 70
そりゃそうだろ
関東ローム層とか火山灰の影響で何回、開墾し直していると思ってるんだよ 新潟なんか米の生産は戦国以前なんか40万石だったものが
江戸時代は600万石だぞw 新潟だけで600万じゃ豊作が続くと米が余り過ぎるw
江戸の町民て、おかず無しで米ばっか食ってたらしいけど… 英雄たちの選択文
【放送局】
NHK BSプレミアム
【放送日時】
2014年6月12日(木)20:00〜21:00
【番組概要】
「シリーズ・戦国合戦の謎(2)桶狭間の戦い・信長を天才にした逆境」
初公開!!信長の手紙▽桶狭間の戦いの内実▽降伏さえあり得た!?▽信長を天才にした逆境 尾張で50万石強
今川の本領駿河でせいぜい20万石程度じゃないのかな
はっきり言って最初から今川は劣勢だった
織田の朝廷への献金額が他国を圧倒している
明智も将軍家もそれは前々からわかっていた
織田が滅びるわけがなかった
戦国の番狂わせは美談だ
結局、今川が負ける あれは順当な歴史 信長は美濃の大垣城や刈谷の水野領分15万石もあるので
合計70万石以上は確実にある。
普通なら信長から三河に侵攻できてもおかしくないくらいだろう。 貧乏大名今川義元が上洛して天下に号令するって話がそもそもあり得ない
絶対に無理な話だった
金満信長にあっけなく討ち取られて当たり前 実は越後にも天下取りには有望な地の利があった
でも残念ながら謙信には野心がなかった >>74
これをみると今川の駿河、遠江、三河の総石高は100万石ほどだったとあるけど 100万石って、現代の資本金に換算すると
いくらぐらいなわけ? >>79
今川本国である駿河で15万石
遠江で25.5万石
三河で29.1万石
一方で尾張で57.2万石
(慶長三年の検知高を基準とした)
徳川の動向が織田・今川の雌雄を決していた
徳川が今川を離反して時点で今川の敗北は必至
恐らくは家康は人質ではなかった
横柄な態度を取り、でかい面をして一時的に今川についていたのであろう 当時の書簡などで今川氏真殿に仇討の気持ちが
あった事は、ハッキリ分っているんだが
岡崎の御曹司徳川家康が駄々捏ねて従わないどころか三河を切り崩そうとまで
するのだから始末に負えない。
遠江も独立しようとする動きも出て
さすがの氏真公も家臣団を纏まり切れず地団駄を踏んだようです。
氏真に桶狭間の敗戦の復讐戦の気持ちは
ハッキリとありました。
だけど、本領駿河15万石だけではどうにもなるまい。 本領がたった15万石なのに
25.5万石の遠江を従えて、29.1万石の三河を丸めこんで
100万石の武田、300万石の北条と三国同盟を結んでいたなんて、
義元ってすごい奴だったんじゃね?
雪斎の知略だったのかもしれないけど >>83
それに加えて信玄も三国同盟を破棄してるんだよね
これじゃー、氏真が気の毒すぎる >>84
さながら
雪斎は孔明
義元は劉備
といったところだろう
いや、桶狭間前のこの二人はそれ以上の離れ業をやっている >>1
快進撃なってねーよ。
信長関連だとコレと武田滅亡の流れよく誤解されてるから別にいいけど。 快進撃っていうより、どうやって台頭していったかのほうがしっくりくる 美濃平定のあと快進撃だろ
美濃攻略は7年くらい掛かってない? 名古屋から米原か京都まで新幹線で一往復すれば岐阜の地勢が天下取りにどれだけ寄与したか解る
京側には開けた通商路が在り北側は飛騨山系が障壁と立ち東側には木曽三川が江戸期以降とは比べ物にならない暴れ川状態で天然の水濠を為し大阪城スケールで見れば巨大な水城だった
守るも攻めるも思いのままで税金も取り放題だったが露天商の出店税は免じたらしい なんか本能寺の変の動機と関係がありそうな資料が発見されましたね 大河でパワハラ、板挟み、朝廷の陰謀の三重苦の光秀が見たいw 明智光秀主役だと平清盛みたいに視聴率振るわなそうw だから娘のガラシャとセットで主役扱いの誘致活動なんだろ 30代後半で漫画家になろうとしている童貞ひきこもりなバカを発見
2chねらーに荒らされている。足立区に住んでいるそうだ。
http://inumenken.blog.jp/archives/7002197.html むしろちんたらしすぎだろ
関西平定してから10年以上無為に過ごしてる 桶狭間で義元を討ち取り、今川軍は駿河に総退却したが
その信長の奇襲計の武功は当時、東海道の小大名であった
ため天下に知れ渡るとは思わないが。三国志演義の玄徳と
似たエピソードだ。むしろ信長の台頭は 斉藤義竜を倒し
浅井長政と同盟を結んで足利義昭を迎えいれてからだろう。 いやいや駿遠三の主がやられたんだぜ
甲子園ベスト8ぐらいのインパクトはあるだろう ベスト8は言い過ぎとしてもベスト16以上は確実だな。
「初出場校、出場回数20回優勝3回の強豪校をサヨナラで破る」
当時の今川勢力圏と駿府って今の愛知県と名古屋ぐらい影響力ありそうだし。 うん。
天下に知れ渡るとまでは行かんとしても、「知らんヤツは情弱www」と言われるぐらいの事件だよな、当時としては。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています