南部氏(・><・)巻之八
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三閉伊一揆で南部利済は母である油御前の浮気して生まれた子だから
南部家の血は入ってないって噂が流れたらしいが
それなら利済の子に継がせるのはおかしくないか? しかし楢山佐渡的には利義でも、利剛でも自分の従兄弟だから関係ないだろう。
佐渡にとっては少なくとも利済夫人である自分の叔母さんの血は入ってる。
さらに利剛夫人は徳川慶喜の姉、水戸斉昭の娘、水戸明子で、
佐渡にとっては自分の従兄弟の妻の弟が最後の征夷大将軍ということになる。
一方で利義の夫人は井伊直弼の姪。阿部正弘的には利義には盛岡藩を相続させたくない。
慶喜的にも利剛が盛岡藩を相続した方が安心できる。 さらに三閉伊一揆と楢山佐渡を考える上で重要なのは、
楢山家が宮古通、特に田老村を知行地とする宮古の大地主だったことだ。
http://miyapedia.com/index.php?title=%E7%94%B0%E8%80%81
つまり三閉伊の漁民にとっての楢山佐渡は、単なる藩主の従兄弟ではない。 楢山家は知行地の石高を上げるため村の発展に努めたという。文書によると普請と呼ばれる耕地開拓、洪水対策、災害復旧などを実施した記録が残されている。
その中には天保15年(1844)前年の火事で焼失した田老村復旧のため杉50本、松100本の払い下げを楢山家が南部藩に申し出て、
これにより復興した田老村は100軒ほどが立ち並ぶ町並みとなり、造り酒屋、商店なども発生し、毎月6日、16日、26日と「6」のつく日に市が立ち賑わったという。
この家の出の、藩主の従兄弟で、水戸家の親戚にもなる楢山佐渡に漁民は期待し、
実際、佐渡はその期待に答えて、阿部正弘を動かして一揆を処罰せずに利済を江戸に謹慎させることに成功した。 >>2
南部利謹はとても好色で、正室の娘と延々性行為に及びそれを注意されると、次には側室の「るん」を溺愛して、
これもまた延々性行為に及ぶ。さらに、「るん」が若くして死ぬと、今度は「るん」の母親と延々性行為…
この間、産まれた子供はゼロ。いや…「るん」に一人子供が生まれたけど、その子は「肉塊」とも言えるモノであっ
て、「るん」もショックを受ける。「るん」の母親が死亡する時には利謹もかなりの歳をとっていた。
で、次は塗師の妻が「るん」に生き写しなので、その妻を略奪して自分の妻に据えるといきなり子供ができる。
種なしと噂されていた利謹だが、いきなり子供が生まれたので、妻が浮気をしたと言われても仕方ないレベル。
ちなみに、三奸の一人の石原汀は、略奪婚された塗師とその妻とに出来た子供。
まあ、この理論が正しいとしても、南部利義には >>3 の通り南部氏の血が一応入っているから… 「るん」は全盛期の角川映画に出てくるアイドル女優みたいな感じだったんだろうな。 「東武天皇」即位説
戊辰戦争中の慶応4年(1868年)、彰義隊に擁立された頃、または奥羽越
列藩同盟に迎えられた頃、親王は東武皇帝あるいは東武天皇として皇位
に推戴されたという説がある。親王に常に従軍していた僧義観の日記か
らは、四月頃からすでに用語などは天皇扱いであったことが知られ、彰義
隊に擁立された頃には践祚したか、少なくともその計画があったことが推
測できる。
奥羽越列藩同盟に迎えられた頃に即位したというのは以下の研究によ
る。
この説の先駆者は瀧川政次郎である(「日本歴史解禁」1950年/昭和25
年/)。その後、武者小路穣の「戊辰役の一資料」(『史学雑誌』第61編8
号、昭和28年)、鎌田永吉の「いわゆる大政改元をめぐって」(『秋大史
学』14号、1967年/昭和42年)と続き、1981年(昭和56年)、藤井徳行「明
治元年 所謂「東北朝廷」成立に関する一考察」(「近代日本史の新研究
1」)で詳細な研究がまとめられた。佐々木克によると、奥羽列藩同盟の盟
主となった輪王寺宮を天皇に推戴し年号を「大政元年」とする構想があっ
たにすぎないとする。これに対し、中山吉弘は輪王寺宮は即位して東武
天皇と通称されて、年号は「延寿元年」だったという。 この説は北東北戊
辰戦争に従軍した山本八十吉の話(『大館戊辰戦史』93頁)、斬殺された
仙台使節の罪状書きに「尊氏の悪例」と書かれていた(『仙台戊辰史』)こ
とを根拠とする(中山吉弘編著『明治維新と名参謀前山清一郎』〔東京図
書出版会、2002年 ISBN 4434013491〕を参照)。直接的な史料としては俗
に「東武皇帝の閣僚名簿」などと通称されるものがあり、現在3種類が知
られる(蜂須賀家資料・菊池容斎資料・郷右近馨氏資料)。「延寿」の年号
はすでにこの年の四月頃から奥羽を中心に流布していたことが当時の新
聞で確認できる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B しかし利謹は女なら誰でもいいというわけではなく、
逆に言えば「るん」に似た女じゃないと萌えないんだから、これはこれである意味純愛?なのかも知れない。
しかしどう想像してもヤンデレエロアニメみたいなイメージしか浮かばないが。 このへんから入らないと、なぜ幕末に楢山が藩の中心だったかわからんよな。
盛岡藩はもともと福岡藩とも親密だし、福岡藩主も八戸藩主も島津の養子で、
薩摩藩のことは知り尽くしている。佐賀藩の技術レベルは大島高任が知り尽くしている。
利剛夫人は水戸明子で、大島は水戸藩にもいたから幕府のことも皇室のこともよく知ってる。 >>3
井伊直弼の姪といっても養女で、実父は利済の先代の南部利用(2人目の方)。 井伊直弼の実兄で、養父の近江彦根藩の藩主、井伊直亮の実母、井伊直中の夫人は、
南部利正の娘で南部利敬の姉、豊。
となると形の上では、井伊直弼の祖父は南部利正になり、南部利敬が伯父になる。 すみませんちょっと質問があります。
戊辰戦争時、秋田県大館市の「扇田神明社畷の戦い」のとき、楢山佐渡はどこにいたのでしょう?
秋田側の記録では、南部の本隊はこのとき移動していて居なくて残留部隊のみがいたということになっています。
南部側の記録では鹿角市史や楢山佐渡の「秋田藩へ討入之日記」などを見ても、そのような記録はなく、どうも
楢山佐渡は扇田にいて危ない状況だったようにも思えるのですが…。
本当の所はどうなんでしょう?秋田側も南部側も失敗を糊塗するために記録をちょい書き換えたいとする気持ち
があった可能性は高いと思うのですが。 原著名は忘れたけど、盛岡市の中央公民館で読んだ記録にはこの小説と同じ様な内容のことが書いてた。
http://www.kitanomori.jp/serialwork09-2.html
襲撃前日の夜は、神明社でなく、仙寿院という寺の本堂に案内され、肝入の主催で酒宴が開かれるが、
途中で佐渡は酒宴を中止させて、神明社に移動して野営。
翌日早朝、大館兵が仙寿院を包囲して銃撃するが、中は無人。神明社で遭遇戦になり、
佐渡も数人と格闘。大館兵の名前も書いてたが忘れた。佐渡単身で数人倒す。
その後、救援が来て銃撃され、大館兵退却。 >>17
ありがとうございます。でも、楢山佐渡を美化している傾向がある気がw
扇田神明社畷の戦いについては、南部側は死者を少なく書いていたり、秋田側も記述におかしい点があったり
まあ、戦争記録にありがちなんですけど、基本は両方の史料を合わせて読むことですね。 >>18
南部と秋田の両方にエラーが出たという感じだな。 まあこの作戦の肝は楢山を桶狭間の今川義元みたいに殺るのが第一目的だった訳だから、
楢山が敵を倒したかは別として、大館兵に殺られなかっただけでも条件クリアだろう。 南部利剛さんは城から出て、陣頭指揮とまではいかなくても、
野戦にて「顔みせ」をしたことはあったの? 利剛さんは安政の大地震のときに藩邸で負傷して、歩行も不自由だった。
でも楢山のいいなりって訳でもなくて、東次郎を呼んでみたり、
楢山が京都から盛岡に帰る前から、薩摩藩兵の入国は拒否したりしてる。
特に大山格之助に対しては個人的に不信感もってる。 んなこと言ったって、仙台から秋田に薩摩藩兵ってどうやって移動したの?
ワープ? 確かに盛岡にきた奥羽鎮撫総督府の官軍は鍋島藩兵と小倉藩兵だけだな。
花館で庄内藩兵に皆殺しにされた薩摩藩兵は横手でも通ったのかな? 薩摩兵・長州兵は沢為量副総督と新庄から秋田、大館へ向かっている。
仙台から盛岡へ来たのは九条総督と醍醐副総督。 >>25
九条総督と醍醐副総督には薩摩兵がついていなかったのか…?
ちなみに、沢為量副総督と薩長兵は、大館を北上しようとしたら、津軽藩が矢立峠を封鎖して「入るな」と言われ、
仕方ないので、能代に転進。そこで、大山格之助や桂太郎は諸藩を説得できないふがいなさから自殺まで考え
て絶望的な雰囲気になっていた。
まあ、大山や桂は4月の春の陣で既に入間森畑の戦いにてこてんぱんにやられているから、説得できなくて自業
自得とも言えるのかも。
ちなみに大山らをやっつけたのは、元の原因を作った薩摩藩邸焼き討ち事件を指揮した酒井玄蕃。 >>26
>薩摩藩邸焼き討ち事件を指揮した酒井玄蕃。
この人が挑発に乗ったのが幕府崩壊の一因ではないか? 大山格之助と桂太郎が能代で潔く自殺してくれていれば秋田戦争はなかったかもしれんな。 そうなると、日露戦争の時の指導者が一人いなくなるから、綱渡り的に成功した日露戦争が
失敗してたかもよ…
まあ、歴史は何でも言えるんだけどね 第二流内閣のニコポン宰相なんか不要。
原敬や新渡戸稲造、後藤新平、斉藤実がいれば十分。 もし大山格之助が津軽に入国できていたら、秋田は同盟から離反せず、
秋田戦争は起こらず、代わりに南部佐竹連合軍による津軽討ち入りになっていたかもしれない。 薩摩藩邸焼き討ち事件が話題になっているが、この事件の際に島津藩のスパイとして活動していた南部弥八郎って
南部家と何か関係あるの?
八戸藩とのからみでの人物? >>32
不明としかいいようがない。
維新後まで生き延びたのかどうかすらわからない人物である。 200年前、わが藩のもっとも豊かな土地を奪い取った津軽藩が、従四位の位まで賜って、わが藩の上位に座るというのは、到底承服し難いことである
野辺地・烏帽子山は、当藩固有の領土でござる。それを津軽藩が、200年前と同じように武力をもって無理やり奪い取った。 当時、江戸町民の間でも相馬大作事件抜きで
南部藩 >>> 津軽藩
だったそうだけど、なんで?双方似たような藩で、そんな本質的違いないのに… 南部なんて苗字はごろごろいんぞ
苗字が同じならみな兄弟かたこ
なら前田はみな日本全国加賀藩主の末裔でいいんかぼけが >>37
前田はともかく、苗字が龍造寺とか長宗我部なら末裔っぽいな。 「南部」はみな親戚だと言われている。
「田」のつく苗字の多く(吉田・山田など)は全国各地で同時発生的に生まれたので、
親戚ではない複数の氏族があると言われている。 本所七不思議の津軽の太鼓なんか、なんで七不思議なのかさえ不思議だが、
なんか津軽の扱い低いのはわかる。 幕府も南部、津軽の争いについてはある程度配慮していた
@南部、津軽は随年で参勤交代させ、江戸でニアミスさせないようにした
A津軽藩が、参勤交代ルートは秋田領を通行し、南部領を避けさせた
B南部がもとの主筋とし、津軽を手軽に扱う >>40
> 本所七不思議の津軽の太鼓なんか、なんで七不思議なのかさえ不思議だが、
まあそうだな 以前テレビで珍しい苗字特集で三重あたりに南部て名前が多く、
由来聞いたら町の南部だから明治につけたとやってんだよ
ホラばっか不意てんじゃねーぞボケが そうだそうだ!紛らわしい苗字付けるな伊勢のたわけどもが! 明治時代に生まれた苗字は重ねている世代が少ないので、広がりも狭い。
平安時代に生まれた苗字は多くの世代を重ねているので、
地域的広がりも広いし、人数的にも多いし、分家も多い。 だったら藤原はなんで日本全国あんないんのや粕アホンダラが なんだとコノヤロ!居るからいるんや!
おま吐いた言葉、呑み込むなよ?なあ、ホントだぞ!ホントだぞ!噛み付くんだからしっかり噛み付いて来いよ? >>46
勢力の大きい氏族は急速に膨れ上がる。
朝廷を見れば、藤原氏がどれだけ力を持っていたか端的にわかるだろう。 なにいってんだこの馬鹿
藤原という苗字名乗ってるやつはどうなんだといってんだよ?
ラリってんのか50の馬鹿は >>36
相馬大作を捕縛した弘前藩用人の笠原八郎兵衛の江戸での各種の工作があまりにもあからさま過ぎて
江戸の町民にも不評だった。
だからこそ、相馬大作があの程度の事件で、あれほど江戸庶民に持てはやされることにもなるわけだ。
この工作は金を大量に費やし、弘前藩の財政を悪化させるばかりか、相馬大作を断罪する裁判の際に
奉行からわざわざ曖昧な(まあ、ほぼ明らかだけど…)津軽為信の出自を公共の場で明確に裁判の場で
言明させてしまったのも大きい。奉行にも反感が伝わってしまっていたのだろう。 豊臣は下克上上等の公家志向だったけど、徳川幕府の武士道は朱子学を基本にしてたから、
朱子学社会ではやっぱ肩身狭いよな。
まあ津軽はもともと裏工作で生き延びてきたから、なんかそういうのが節々に出るのかも。 南部家は、伝統的に中央への根回しや工作が遅い、旨くないと云わざるを得ない というか、藩論不統一のまま、個人個人が中央工作を独自にやろうとして、不発に終わるという感じ。 別に佐竹や津軽が中央工作早かったわけでもない。
佐竹が同盟離反したのは藩主に無許可で大山格之助が勝手に仙台藩の一行を皆殺しにさせたからだし、
津軽は矢立峠封鎖して官軍入れなかったからな。野辺地戦争も私闘と認定されている。
八戸藩は藩主が島津重豪の子供だった。 >>40
石高に見合わない官位を朝廷から得ると江戸城から遠くへ敷地替えされる。
吉良上野介なども。 >>35
豊かというか過剰なまでの稲作偏重とか博打過ぎる。
どっかの資料で見たことあるけど
米20万石、稗数千石、大豆数千石ってリスク度外視もやり過ぎだろw >>57
> >>40
石高に見合わない官位を持っている大名というと、他には誰が居るだろ? 御三家の分家なんかは法外に官位が高い。
一万石で従四位上中将とか 松前藩なんか実質石高ゼロだろ。北の大名の経済力を石高で考えるのは間違い。 >>62
高位のお公家さんから嫁もらうと官位もセットされるからさ。 津軽の偽家系も近衛家が認定しているから南部より高位になったりする。 >>66
腹の中ではそうだろうが、表面上はそういうそぶりをしたことは一度もなかったはず。
津軽家に文句を言うクレーマー南部人も
表立っては近衛家に文句を言わない。
(陰口はたとえあったとしても、記録に残らない) >>68
その代わり、江戸庶民に津軽の悪口をいいふらし、津軽のここが悪いとPRしたのであった>南部人 一条家もそうだが南部家は五条家と仲が良かったらしい。
名護屋に出兵したときに世話してもらったのが五条家。
京都の南部屋敷も五条大橋のたもとにあった。
盛岡の京町には五条四郎兵衛という五条家の四男が商店を出していた。 しかし東部さんとか北部さんとか西部さんという名字は聞かないよな。 南部の伝承だと長慶天皇は浄法寺で死んだとされている。 なぜ伊達であるはずの宮城県の神楽は南部神楽というのか? >>73
長慶天皇は東北各地に曰く付きの場所があるからなあ。
なんでこんなに人気あるんだろ?判官贔屓みたいなもんか? >>74
南部神楽の歴史と由来・伝承地域
http://www7b.biglobe.ne.jp/~nanbu_kagura/nanbu/kaisetsu.html#kaisetsu01 >>74
伊達支藩の領内だった水沢で作られる鉄器が、南部鉄器と呼ばれて売られているのと同じくらい不思議だ。
>>54
後に足利尊氏に恭順したが、かなり長い期間、南朝勢力として無駄にねばったり、
一族内乱中といえ、秀吉の動きを先読みできなかったり、南部のお殿一族が、
先を見る目が無いのは伝統芸能ではないだろうか。
南部藩士系の政治家、軍人が太平洋戦争の口火をきるのを決めたり、よく生き残ったなと
逆に感心するような先見性のなさだ。
いま現在も岩手県庁は、国の政治の多数派と真逆の先細りの権力がいまだに支配しているし。 南部神楽は早池峰神楽に対する南部の神楽だから、という説があるが、
それにしても南部領にある早池峰山の神楽を基準にしてることになるので少し不自然。
いずれにしても早池峰神楽が起源で中心ということになるが・・。 >>77
南部鉄器はもともと盛岡だったんだが、全国各地に南部鉄器と名乗る商品が出てきた。
それで登録商標にしようとしたが遅かったか制約があってできず
伝統工芸品としての指定をとり、南部鉄器の名称をよそで使えなくした。
しかしその場合市町村による括りではなく都道府県単位で行わなければならず
水沢の業界も南部鉄器と呼ばれることを了承した。
↑細かいところはうろ覚えだが、大まかにはこんなところだったはず。
(もともと水沢も南部鉄器と呼んでいたというwikiの説明とは異なる。多分俺の聞いた上の説の方が正しい)
尚盛岡の鉄瓶や工芸品に対し水沢は実用的なものを作るのがはじまりで系統は異なる。 津軽せんべいなんか見た目は全く南部せんべいだが、まあ南部せんべいとは言えんよな。
かと思うと秀衡塗りには甲斐源氏である南部氏の武田菱が入っていたり。 はたして奥州藤原氏の時代に割り菱(四つ割り菱)はあったのか? >>88
同じ文様でも秀衡塗に描いてあるものは武田菱とは呼ばない。 南部氏最古の家紋か 南部・聖寿寺館跡で出土
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201409/20140930_25007.html
鶴が向かい合う文様が施された刀装具
青森県南部町教委は29日、14〜16世紀の南部氏の中心的城館だった国史跡聖寿寺館(しょうじゅじたて)跡で、江戸時代の盛岡南部氏の家紋のモチーフとみられる最古の文様が見つかったと発表した。
文様は2羽の鶴が向かい合った「向鶴(むかいづる)」。長さ26ミリ、幅13ミリ、厚さ3ミリの青銅製の刀装具とみられる金具に施されていた。城館の主殿と推察される建物跡から出土した。
向鶴紋は南部氏の家紋。町教委によると、南部氏は中世のころから、向鶴紋を家紋にしていたと江戸時代の文献に記されているが、江戸期より前の実物は見つかっていなかった。町教委は、この文様が向鶴紋の最古とみられるとして「重要な史料だ」と指摘する。 映画にもなった「小さいおうち」の直木賞原作者中島京子の新作。
「かたづの!」根城南部八戸氏の女当主が主人公の物語らしい。 なんか京都アニメーションの萌えアニメみたいな題名だな。 まさか全世界の金持ちがナンブに熱狂する時代が来るとは。 「かたづの!」盛岡の書店でもベストセラーになってるよ 兜や鎧は伝着用がほとんんどなんで、直江の愛印兜とかもうだけど。
盛岡南部家が所蔵していた黒田官兵衛の兜みたいに履歴がはっきりしているのは稀なんだよね。 鎧や兜は直江兼続の愛印兜のように着用されたかわからないものがほとんど
なので盛岡南部家が所蔵していた黒田官兵衛の兜のように着用さてたのが確実だというものは珍しい
こうですかわかりません カンベー・クロダのボウルシェイプのブラックラッカー&シルバーペインティングヘルメットは、ユーザーのネームがフェームで、
オーナーのモリオカのナンブファミリーの、ヒストリカル・メモリアルな、
グッズ・オブ・オナーでとってもレアなのさ。
サムライのアーマーはオーナーがいってるユーザーがリアルとは限らない。
フェイクやレプリカも多いのさ。ユーノウ? 小学生の頃に盛岡に黒田の殿様の兜があると知って見に行った事があります。
黒田の兜といえば長政の水牛の角の兜があるのか!ワクワクして行ったら
展示してあったのが錆びて黒いドお椀だったので、とてもがっかりした思い出があります。 九戸政実が南部一族にも嫌われ者で中央政権に退治されただけ。 九戸政実がいくら強くても秀吉に勝てるはずがないのは
わかりきっていたはずなのに
どうして挙兵したんだろうね? >>113
妙な反骨の血筋でもあるんですかね?
幕末も新政府側に着こうとしていたくせに、突如幕府側に。
現在でも無駄に民主党の知事を誕生させて自民政権から
冷遇されること長きにわたる。
もうバカなんじゃないかと言うレベル。 >>115
そういう妄想自体がバカなんじゃないかというレベル。 >>116
なんでそういうこという?
事実いつも負け馬に乗ってるじゃないか。
しかも勝てるか負けるかのレベルじゃなく、勝てそうに
ない負け馬に自分で乗っかってる。
お前バカ南部殿さまの子孫かそれとも小沢信者だろ? >>117
別々の家系を一つの血筋として考えてることが妄想レベルだと言っている。
同じ血筋だという根拠でもあるのかね? >>118
ああそうか。
血筋じゃなくて風土といえばよかった。 >>119
「反骨の風土」と呼べるほどじゃないだろ。
盛岡藩の地域に特別多いわけじゃない。 でもね 南部、まあ南部氏としておこうか。ついてるよ。
南北朝とか信直とか、戊辰戦争とか 断絶どころか領地はふえてるし。
運はいい方でしょ。 ん?
戊辰戦争と、領地が増えている、をなんで並べて書く?
あと昭和大恐慌だかに、南部家って破産してなかったっけ? つきがなけりゃ 鎌倉時代から現代まで続くわけないよ。 >>123
どこかに領地替えさせられていたら、領民ももっと平穏に暮らせたのにな。
先祖代々の土地で酷い統治をする南部。 >>117
> しかも勝てるか負けるかのレベルじゃなく、勝てそうに
> ない負け馬に自分で乗っかってる。
しかしそれをやっても南部家は今日まで生き残っているからなあ。
結果的に「勝ち組」になってしまったと思うよ。 >>113
> 九戸政実がいくら強くても秀吉に勝てるはずがないのは
> わかりきっていたはずなのに
> どうして挙兵したんだろうね?
「しばらく善戦していれば、和睦に持ち込める」とでも思ったんだろうか? >>128
葛西や大崎が取り潰されたのを見てて、その判断は
非常に甘いと思うんだが。 九戸政実で検索していたら
「斯波氏の侵攻」
とやらが出てきたんだが、管領家の斯波氏一族が
なんで岩手にいたんだろう?
しかも最上とか大崎とか苗字を変えず、
斯波氏のままってのも異例なような。 >>129
結果的に見て、甘い判断だったから討たれたんだろう。 >>131
ということは、岩手にいた斯波氏は実は本家筋になるのか? >>133
本家は管領家
ただ斯波家長の子孫なら大崎・最上よりは本家に近い血筋になる
大崎の分家って説もある 小田原城攻めに参陣しないと攻めますの秀吉触れに恐怖して小田原へ参陣した東北勢はが勝ち残ったわけですが。 九戸政実が生き残る道は、津軽為信みたいに信直より早く秀吉のところに行って本領安堵
してもらうことだけだっただな。そういう判断ができなかった自分の不明を反省すべき。 能代あたりで、檜山御前という女性が話題になっていた。
檜山御前は、南部信直の次女(養女)で、政略結婚で能代の檜山城主であった秋田英季に嫁ぐ。
ところが、嫁入りしてからまもなく「夫は出張先で死亡した」と家臣に騙され、御前は実家に戻る。
これだけなら、単なる江戸時代初期の悲劇だけど、なぜか三戸の長栄寺と秋田市の当福寺には
立派な五輪の塔と墓碑があり、なおかつ盛岡城内に御前を弔うために、大泉寺が創建されている。
異様な、超破格の扱い!w
これが何故かという考察が面白い。 >>137
能代あたりで、檜山御前という女性が話題になっていた。
↑
どこどこあたりという、あいまいな前提 >>138
能代地区の地方新聞に載っていたということです。 相馬大作が花輪の関の実家で計略を練っていた頃、菅江真澄が花輪に到着してないか?
1821年(文政4年)3月〜4月の話なのだが…。やっぱり、菅江真澄は忍者かスパイか? >>127
座して死を待つよりは可能性に賭けてみた気もするけどね
謀反を起こさなくてもいずれは浄法寺氏、阿曽沼氏のように
潰されるのは目に見えてるわけだし >>141
平将門みたいに野戦で玉砕ならまだわかるが、
最後は籠城だったからなあ…。 >>140
松尾芭蕉は幕府のスパイだが、
菅江真澄はどこかの藩のスパイだったかもしれない。 相馬大作の助命嘆願を、幕府のスパイの間宮林蔵が行っていたとか。
まあ、津軽藩の忍者早道の者を統括する笠原八郎兵衛がそれを許さなかった。 暗殺の失敗により、秀之進は相馬大作と名前を変えて、盛岡藩に迷惑
がかからないように、江戸に隠れ住んだ。江戸でも道場を開いていた
と言われている。しかし、幕吏(実は弘前藩用人・笠原八郎兵衛)
に捕らえられ、1822年(文政5年)8月、千住小塚原の刑場で獄門の刑
に処せられる。
(ウィキ)
↑
弘前藩用人が江戸にいる人物を捕縛できる権限はあったのか? >>145
幕吏なら捕縛する権限を持っていてもおかしくはない。 >>145
南部側の史料では、江戸にいた津軽藩の笠原八郎兵衛が収賄を送り、奉行所に申し出て
奉行所は仕方ないから大作と関を捕縛したとある。津軽側は反論して前後関係が違うから
誤認だとしている。まあ、これは南部の言い分の方が正しいとだろう。
津軽藩のまずかった点は、相馬大作の捕縛が、相馬大作行き付けの飯屋だったということ。
江戸の町民の衆人環視の中の捕縛になり、(まさに、なんと時代劇そのままの世界!w)
相馬大作も一時手荒なことをするなと簡単に捕縛の役人を振りほどいたり、観念したら、
あっさり捕まり堂々としているなど、まさに時代劇!
これが、江戸町民に色々な噂が広がる原因ともなっているのは明らか。そりゃ、講談にもなる。 >>113
南部晴継(もしかしたら晴政も)が南部信直のクーデターによって命を落とし、
信直が家督を継ごうとしたことを九戸政実が咎めたのではないかという話を聞いた。
そう考えると確かに筋が通ってる。 >>148
南部晴継は暗殺説もあるが病死説もあるので、なんとも言えないと思う。
その暗殺説も、南部信直黒幕説と九戸政実黒幕説がある。 >>149
確かに確定的な証拠は無いんだが、情況証拠を考慮すると筋が通ってるという話。 >前スレ
このあたりも、人馬が狼に襲われる犠牲が多かったな。狼が土を掘り侵入して襲ったり。
>「盛岡藩雑書」によれば、狼は家の中にも侵入したという。しかし
>附馬牛で13人、東禅寺で2人の合計15人が狼に食われたというのは、かなり衝撃的だ。
しかし、同様に人食いなど狼の害が多発した加賀藩が、足軽出して狼を退治したのに比べ
藩の動きが若干鈍い気がするんだが、鉄砲の総数に差があったのだろうか。 南部馬の産地だからオオカミ駆除はよくやってたが、オオカミに食い殺される犠牲者も多かった >>152
目先だけ考える馬鹿南部だから徴税に人を割いて、
狼駆除が人手不足になったんだろう。
搾取だけ南部一族は青森の僻地で野たれ死ねばよかったのに。 オオカミは人間が手を出さない限り、大人を襲わないよ。
まあ、子供なら分らないが。 >>152
盛岡藩も、鉄砲撃ちを派遣したり鉄砲を貸し出したりしている。 盛岡藩のマタギってどんな扱いなんだ?
弘前藩ではマタギに鉄砲持たせなかったみたいだ。江戸時代でももっぱらヤリで熊と戦っていた。
秋田藩は阿仁マタギがいて、鉄砲も自由自在で、全国を渡り歩いていた。 >>157
> 弘前藩ではマタギに鉄砲持たせなかったみたいだ。江戸時代でももっぱらヤリで熊と戦っていた。
ヤリでは熊に勝てないのではないか? 南部信直が狩猟免状を出してたし
許認可制だったのかも >>157
老犬神社伝説がある鹿角地方や戊辰戦争で
官軍の指揮官を撃ち取った雫石マタギといった話がある
基本的に狩猟は火縄銃を使用していたみたい まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 南部藩の悪行
@高い年貢で領民いじめ
A高い年貢をもとに作った豪華な館に幕府の調査団が派遣されると知り館を破壊。
農民の重税は会った言う間に水の泡。
B農民との約束を反故にし、処刑。
C飢饉の際、豪商が領民のために代官所に届けた米を役人同士で山分け。
餓死者が出ようとお構いなし。
5万3000石の赤穂藩には大石内蔵助はがおったが、20万石のわが南部藩にはおらぬのか。 なんか想像してたのと違うスレだった
むしろ戦国期とかそれ以前の話でもしてる場所なのかと
伝承では南部さんは甲斐国南部郷が出自の甲斐源氏の裔みたいで、
更に蠣崎さんは若狭武田氏の一族らしいし、安東さんと争った浅利さんも実は甲斐国浅利郡の甲斐源氏っぽいという。
浅利さんは実際甲斐武田家臣団にも名がある一族だね >>166
税率が低いのになんで一揆件数が最多なの? 税率安くとも
飢饉がおこると米がとれないからじゃ? んな訳ねーべw やたら税取っていたぞ。
大体、三閉伊一揆が起きたトコって海沿いだから、米問題とあまりリンクしないんじゃないの? >>172
水産業であっても、年貢は米で払わなければならなかったはず。 >>170
税率と一揆に直接の因果関係はないよ
8公2民の薩摩藩の一揆件数は少ないし・・・・
南部藩の一揆が多いのは他藩に比べて藩士の割合が低いからでしょ
庶民にしてみれば一揆を起こしやすかった 南部はどのくらい藩士を抱えてたの?
ググっても出てこないが 南部藩の藩士は特殊だからなあ。
殆ど農耕に従事していながら、有事の際だけ武士身分になる人もいた。
統計取っても他の藩の事例と異なるから、役に立たないかも。 >>176
何をもって藩士とするかで変わるから一概には言えない
ただ九戸の乱で多くの武士が没落、離散してるし利直の改易や転封で
帰農せざるを得ない武士も多かったので、他藩より抱えてる割合は小さい
例を挙げると遠野に移封を命じられた1万3千石の根城南部は
元々500〜600人抱えてたけど、実際に移動したのは300人程度
これを南部藩そのものに当てはめると400石で1人となり5000人くらいかな
>>177
>殆ど農耕に従事していながら、有事の際だけ武士身分になる人もいた。
これは藩士とは言わない いや、南部藩では藩士みたいなモンにカウントしてて、実際に戊辰戦争でも戦役に参加してたりする。
都合がよいというか何というか… >>178
wikiだと侍方の人口(藩士以外含む)は2万人台なので
これを6で割った数字(老夫婦+世帯主と嫁+子供2人)の3〜4千人くらいだろ
久保田藩はおろか津軽藩よりも少ない
信直・利直親子リストラし過ぎww
>>179
戦争に参加してた=藩士じゃないから・・・
マタギみたいな民間人も戊辰戦争に駆り出されてたけど
マタギは藩士じゃないだろ マタギ兵じゃなく、半郷士みたいなのがいたんだよ。
当然、武装して訓練してたし、暇な時は農耕してた。つーか、農耕が主だった。 南部藩の悪行
@高い年貢で領民いじめ
A高い年貢をもとに作った豪華な館に幕府の調査団が派遣されると知り、館を破壊。
農民の重税はあっと言う間に水の泡。
B農民との約束を反故にし、処刑。
C飢饉の際、豪商が領民のために代官所に届けた米を役人同士で山分け。
餓死者が出ようとお構いなし。 1849年、秋田から鹿角(南部藩)に来た松浦武四郎(幕末の探検家)。
鹿角の物価が、秋田の2倍であることに気付き、茶店で理由を聞いた。
「税のかからないものは水以外には無いのさ。」 と店の人は答えた。
領民虐めの搾取南部。ひどいね。
南部藩って本当に悪政だったのだろうか?
明治以降東北から搾取するのを正当化するため、明治政府によって歴史を改竄させられたのではないか? まあ、南部藩の鹿角の金持ちは、鹿角で生活せず、わざわざ秋田藩の大館の旅館に泊って生活費を
浮かしていたという話もあるしな。 「佐庄伝右エ門物語」
今から一四六年前(安政四年・1857)、鹿角を震撼させた大事件が起きた。「加賀の銭屋 か、南部の佐庄か」と唄
にまで歌われた南部藩随一の豪商として、資産百万両と謂われ た佐庄の財産を、南部藩が理由にもならない理
由をこじつけ、無法にも欠所(財産没収・ 所払い)処分にしたのである。
佐庄は、度重なる献金により、九代目の庄重郎は二五〇石、十代目を継ぐ二男の伝右 エ門は七〇石、三男の重
助は五〇石の士分に取り立てられておったが、その身分を剥奪 したのである。庄重郎は病床にいたが、伝右エ門
らと共に盛岡の牢屋に入れた。更に幕 内に直訴されるのを恐れてか、遠く離れた田名部(現在の青森県むつ市)に
庄重郎を移 し、伝右エ門は野田(岩手県の三陸)に移すという非道極まる処置を取った。
(以下略)
非道極まりない南部藩の仕打ち! おっとリンクは…
「佐庄伝右エ門物語」
http://www2u.biglobe.ne.jp/gln/88/8891/8891onko/sashou/sashou01.htm
佐庄伝右エ門の波瀾万丈の人生はリンク先にて…
そして、慟哭の書「旧盛岡藩華族南部氏兇悪大略」
http://www2u.biglobe.ne.jp/gln/88/8891/8891onko/sashou/sashou21/sashou21.htm
佐庄伝右エ門は放浪の末、成功をおさめるが、南部藩を放浪している時代には、各地で南部藩主の
噂を収拾している。三閉伊一揆の首謀者からも取材した慟哭の書「旧盛岡藩華族南部氏兇悪大略」! >>181
> マタギ兵じゃなく、半郷士みたいなのがいたんだよ。
> 当然、武装して訓練してたし、暇な時は農耕してた。つーか、農耕が主だった。
これは幕府からクレームが来てもおかしくないと思うんだが。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>185
地域別に扱いが違ったんですよ。
盛岡や八戸などの自分の地盤には優しくて、沿岸地方や
和賀郡などあとから領地になった土地は植民地扱い。
後者には税を重点的に掛ける。
だから一揆が相次いだ。
盛岡の連中はひどい目に遭わなかったので
南部マンセー脳みそになってる。 >>192
残念ながら、あとから領地になった土地は「搾り取ってやろう」という発想なわけですね。
支配した直後ならまだしも、ひどい話ですね 南部藩の税率は外様の中では低い方だぞ
人口から逆算すれば実高で40万石くらいはあったけど
検地が出来たのは最大で25万石だし・・・
残り15万国は税が掛からない資産だったわけで 通常の税の他に、色々理由をつけて次々に取り立ててただろ。 言っておくが明治時代以前は、
基本的に石高(田畑以外の土地や家屋含む)に
基づく資産課税くらいしか税は取れない
例外は商工業者たちから摂れる冥加金くらいだけど、
それもやり過ぎると領内の経済や流通に支障をきたすから
税収増は期待できない税制体系だったんだが >>195
冷害があると額面通りの収穫できないぞ。
それでも南部藩は容赦なく税を取り立てた。
まともな藩政なら備蓄米を放出する場面だがな。
餓死者続出で赤ん坊を交換して食らう惨状でも税を取り立てる南部藩w 津軽藩、久保田藩はキツイ検地をしてたけど伊達藩、南部藩は
検地が緩かったのはなんでだろう? >>199
おまえのそのしつこさだけはほめてやるわ >>197
http://www.tonotv.com/members/fukudokuhon/rekishi05_2.htm
>農民は、年貢米のほかに山林・草地・利水・牛馬などや窓・棚などにさえ
>税をかけられ、きびしく取りたてられた。また、商売でもすれば、
>運上金という税を納めねなければならなかった
窓や棚に課税する南部藩w
>>195
住民がみんな農業してるとでも思ってるのか?
じゃあ当時世界規模でも最大都市の江戸は何百万石、
何千万石の田地を抱えてるんだろうか?
南部マンセーは本当に馬鹿だw >>203
南部のことが話題になれば必ず一揆だの年貢だの持ち出してきて、悪口しか言えない
おまえも本当に馬鹿だwww 窓税は割とよくある税だよ。
日本だけでなくヨーロッパでも取り入れられてた時期もある >>203
石高と検地について真面目に勉強しようよ。あと
>農民は、年貢米のほかに山林・草地・利水・牛馬などや窓・棚などにさえ
>税をかけられ、きびしく取りたてられた
上記を含めて石高だから。他の大名家も田畑以外の資産も検地に入れてる
これらのまとめたものが最大で25万石。一方人口は35万人前後で推移しているので
実高は40万石くらいが妥当。で南部藩は検地できた石高の五公五民が税率だから
外様の中では低いと言える 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>207
その「人口35万人前後で推移」は胡散臭いってよ。
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/2370456/%8D%5D%8C%CB%8E%9E%91%E3%82%CC%93%FA%96%7B%82%CC%90l%8C%FB%93%9D%8Cv/21/
なんで大飢饉の年でも死亡者が他の年と同じくらいなんだ?
>石高の五公五民が税率だから外様の中では低いと言える
不作で収穫が減少しても「平年作の半分よこせ」ではやってられませんわな。
あと南部の悪政の問題は特定地域への偏重した課税。
盛岡市民なら優遇されただろうから南部擁護するんだろうが。 >>210
胡散臭くても一次資料の数字だからな
それをベースに議論するしかないかと
>>不作で収穫が減少しても「平年作の半分よこせ」ではやってられませんわな。
盛岡藩は領土が広いのに藩士の数が少ないから
定免法を採用するのは仕方がないだろ
今のように整備された道路や自動車なんてないんだから >>211
じゃあ聞くが、仮に実高四十万石あったとして、
それがどう生かされたのか聞きたい。
とても余裕があったように思えない。
飢饉になっても放出する救い米さえ手当てできないのに。
あと特定地域への偏重課税はどう思う? >>212
生かされてたって意味がよくわからないが・・・
税率は低いってことは、税収が少ないわけで
藩に救い米なんて行う余裕はないだろ
あと偏重というか生産力の高い地域が
生産力の低い地域よりも税率が高いのは普通だと思うけどな
幕府も生産力の低い悪田の所有者には税率を抑えてたし >>213
「表高25万石、実高40万石だから余裕あるぜ」
「税率も五公五民だから安いぜ」
で
「飢饉になっても税率低いから救い米出せません」
っておかしいだろ?
あんたの論だと恵まれてるはずの民なので救い米いらないはず。
それが救い米なくて餓死するくらい余裕がない。
一揆の件数もダントツで日本一。
この民の窮乏をどう説明つけるよ?
>あと偏重というか生産力の高い地域が
>生産力の低い地域よりも税率が高いのは普通だと思うけどな
豊かだからとかじゃなく、特定の地域に重税掛けてただけだ。
鬼畜南部の一族か家臣の後裔かなんかだろうけど、
適当に言いくるめようとするなよw きっと ご先祖様がいじめられたんだろう。
恨みは1000年たっても消えない人たちだね。 >>215
全然ファビョッてないですよ。
「南部は実は石高高くて税率も低かったですね」
っていかにも善政敷いたように誘導してる輩がいるから
「でも一揆はダントツ一位の発生数で、餓死者が多発しましたね」
って言ってるだけ。 まあ、南部氏の政治は決して褒められたモノじゃなかったからな。 >>214
恵まれてるなんて一言も言ってないけど・・・
勝手に脳内解釈しないでほしい
言ってるのはあくまで、検地外の石高(俗にいう隠田等)を含めると
税率は軽いってだけ
何に怒ってるのかは知らないけど、生産力の低い糠信郡より
生産力の高い北上盆地の方が税率高いのは自然だろ >>219
そちらの言いたいことはこうか。
「恐らく四十万石くらいあったのでは?」
「五公五民だから税率は安いほう」
「肥沃な土地に重く課税するのは当然」
それで何が言いたいのかわからん。 >>214
>あんたの論だと恵まれてるはずの民なので救い米いらないはず。
>それが救い米なくて餓死するくらい余裕がない。
>一揆の件数もダントツで日本一。
横からだけど当時の農民って手間が掛かり
リスクの大きい稲作はそんなにやりたがらなかったんだよ。
だから必要最低限の米しか作らなかった
それよりは手間と時間が少なくて済む
換金作物作りに励んでいた というか、米は作っても年貢用で、稗や粟、麦などを主に食べていたんじゃないの?
小麦は加工して麺にするのが流行っているが、昔は麦粥だからそんなにうまくはない。 江戸時代のそばは、基本はすいとんみたいに団子状で食べたんだよ。
もちもち感も中途半端で、汁のうまみは全体に行き渡らない… どちらかといえば今の蕎麦掻に近いものだったと言われてるよね 駕籠で登城すべきところを上げ輿で登城したり、油屋の娘を側室にしたりして金を使いまくり、挙げ句70万両もの借金を作った津軽信順は、
幕府から処分を受けて屋敷を鈴ヶ森に移され、江戸町人から笑い者にされた
それにひきかえ、南部利謹の取った農村復興政策は徐々に効を奏し、庶民の暮らしも、生き生きとして、明るくなったのであった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 昔の蕎麦はすぐ伸びて不味くなるから麺で食べるには不向きだった そばの練り方、作る肩は「そばもん」という漫画で知ったが、とんでもなく面倒くさそう。 土着した源氏って事なら分からんけど,進出ってことなら源頼義なんか陸奥守だし進出した源氏と言えなくもない そもそも、源氏の始まりが八幡太郎義家で、義家がほとんど全滅状態になるコトすら経験し、
艱難辛苦を経てやっと奥州を平定して源氏の名をあげたのだから… 蝦夷地での安東と蠣崎の下克上を見ると
安倍VS源氏の因縁を感じる
西の大内
東の安東
下克上で没落 別に安東は没落していないよ。
安東愛季は蠣崎慶広を使って浅利勝頼を檜山城で殺させているけど、これで大館方面からの脅威は無くなって
秋田支配が固まり、港湾施設も充実させることができたんだよな。
豊臣家に蠣崎は取り入って独立するんだけどね。 >>239
大内氏と安東氏は差がありすぎだろう。
安倍氏の末裔ていうのも自称だし。 >>242
安倍氏の末裔自称は東北だけでなく一杯いるんだよ。
あttこっちにな。 >>242
話が古すぎて、当時の朝廷の方でもそういうことは気にしてない。 南部氏の凄いところは
家老を上洛させて
薩長が鳥羽伏見の戦いで完勝したのを見届けてから
幕府サイドについたということだよなあ。
いわゆる
「逆張り」
「ハイリスク・ハイリリターン」
だよなあ。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 南部重信が急死した際、藩大老の藤江左京は側用人柳沢吉保に根回しをし、南部直房を次期藩主に据えようと図ったが、
御三家筆頭の水戸藩の介入で、この目論みは潰え、南部重信が八万石、南部直房が八戸二万石を承継し、藤江左京は処分された >>242 あたりは和田喜八郎に騙されてる、安藤マンセーのにおいがする。
いい加減目をさませ。 安藤はすごい?津軽にいた?津軽はすごい という郷土自慢が目を曇らせ、『安藤妄想』
爆発! マスコミも煽る。 で今は嘘と事実がごっちゃになっている。特に津軽地方。
中途半端な奴ほどこれがひどい。
だから、安藤氏の話が出てきたときは注意が必要。特に津軽出身の人が何か言ったときね。 その妄想が爆発したのが、相馬大作事件ですなw
わかります。 >>256
バカだろ。相馬大作と安藤がどこでどうつながってるんだ? 安藤時代からの南部のいわれなき偏見が爆発したのが相馬大作じゃないの?
無茶な話だよなあれ。 >>258
安藤が南部に敗れ津軽退去が15世紀半ば 以後津軽は南部氏治世。室町時代
相馬大作事件は1821年。相手は津軽藩主。江戸時代
「安藤妄想」の和田喜八郎は戦後の活動。昭和の時代
どこのどこをどう思えば「いわれなき偏見が爆発」といえるのか? だから、津軽氏が大浦氏じゃなくて、わざわざ「津軽」と名字付けて、出自もねつ造しなきゃ
いけなかったんだろ?
それだけ、その地方にはアイデンティティがあったわけだ。
地元には、安藤氏もいたし安東氏の残党もいて出自を主張して地方に一定の支持があったと
見て良いだろ。
安東妄想の和田サンは戦後だがそれはまた別の話。 「南部のいわれなき偏見」というのがよくわからんわ。
「アイデンティティ」も江戸時代に藩をあげて,津軽氏は南部氏と何の関係もない、と必死こいて
洗脳した結果じゃねーの。悪いことはすべて南部のせいにすれば藩への不平不満をガス抜きできたんだし。
相馬大作がどれだけ安藤氏の歴史を知ってたか今となってはわからんよ。
南部一族は領地を貰ったら大概そこの地名を名字にしてるから、為信が津軽氏を
名乗ったのも別に不思議でもなんでもない。
青森県は想像以上に『安藤妄想」に汚染されてるよ。何とかしないとだめだと思うな。
和田喜八郎も罪なことしたもんだ。 はあ?
津軽氏は、地名を取って名乗っただけではなく、自分の出自を偽ってただろw
なんでこれを無視する。
津軽氏は、南部氏の出自だと津軽地区だと堂々と名乗れないんだよ。
相馬大作は、津軽と南部の悪感情と津軽が南部よりも上の地位になったのを
自分の家の経営がうまくいっていないのの一発逆転的に利用してテロ行為を企
んだだけだ。
相馬大作は死罪になる時の判決文に、目論見どおりに「津軽氏は南部氏の出自」
という一文を潜り込ませることに成功し、これを天下の目にさらした。
そりゃ、南部藩としてはしてやったりだろうな。 >>262
<津軽氏は、南部氏の出自だと津軽地区だと堂々と名乗れないんだよ。>
家臣も、町人百姓もみんな知ってたと思うよ。 <<260
津軽のアイデンティティーってことだろうけど、藩主がの歴史を捏造して反南部を煽ってるんだから
江戸時代は当然反南部が根ずくに決まってる。津軽が何か騒動するときでもそれを出すと津軽が
一致団結するという風調ができるのは当たり前だし、不平不満を南部に向けるという政治的手法も
確立したんだろうね。
それがいまだに活きているってことだと思うね。
津軽と南部の対立というのは江戸時代にできたんだし、安藤氏の時代とはずれるでしょう。
「安藤妄想」はここ50年のつい最近のことだしね。 ちょい妄想が入っているような…。
もう少し根拠ほしいよね。 南部四天王について調べているんですが三上氏と安芸氏について教えて下さい
安芸氏は奥瀬氏のことなんでしょうか? 違うんじゃない。
奥瀬氏は小笠原氏じゃなかったかな。 >>266
津軽氏の非南部氏の運動はちょっと異常だね。
近衛への働きかけはドンドンエスカレートしていくし。
なんで津軽氏はそこまで出自を隠そうとしたのか? 新渡戸稲造の「武士道」のモデルで、養父の太田時敏って、東京で明治時代洋服店を経営してたけど…
この人、維新前は太田練八郎と言って、ひょっとして秋田戦争で参謀をつとめ、大館城落城のときに
一番乗りの一人になった人なのか?w
ネットの情報を総合するとそうなるが、たった1つしか引っかからないけど…ホントならすごいなw
そりゃ、新渡戸稲造に「武士道」のモデルの一人として描かれるだけはある。 守行のあと、義政から信時までって絶対なんかあったよね
家督の順番おかしいし
津軽や鹿角が根城南部氏から三戸南部氏のものになったのもこの時期だし >>272
守行は三戸南部にとっては一番といっていいほどの人物。なんだけども三戸南部氏のこの時期の
客観的資料はほぼ皆無。ということを常に頭においとかないといけない。
南北朝の対立が終わったのが1392年。北朝側の勝利で根城南部氏が危機を迎えた時に守行が根城へ
乗り込み、「昔、自分の家が危機的になったとき助けてくれた。このままだと根城南部は滅びる、
それは忍びないから何とか助けたい。足利将軍家には自分が話をつけるから降伏しろ」と説得した。で、根城はそれを飲んだ。
それで根城南部氏はほぼ何の処分もなく本領安堵になった。(八戸家系)
で、これ以降三戸南部がこの地域のトップになり以後南部氏の本家ということになる。(はっきりと)
というわけで、守行は大変重要な人物。
でもまあ、これ以後根城と三戸の関係がどうなったかよくわからないところが多い。
津軽に関しては、守行(1359年〜1437年)の後の義政(1374年〜1440年)の代に安藤氏を津軽から追い出している。
1432年、(萬済准后日記)この時も2家の役割がどうなってるかよくわからない。 >>272
晴継って諱も怪しいな。父晴政の晴も字はもともと将軍の偏諱だし >>273
後の津軽の状況を鑑みると安東勢力を駆逐したのは浪岡北畠って説もあるけどな
当初は旧浪岡町程度の所領しかなかったはずが次第に勢力を拡大し、
最盛期には大浦領や大光寺領の検地までも行えるようになったわけだし ところが、桧山安東氏の桧山城の近くには、津軽氏から領地を奪われて逃げてきた北畠氏の
屋敷があったりする。北畠氏が安東氏を津軽から追放したなら、桧山に迎え入れる訳がない。 >>278
ではどうして浪岡北畠は津軽の半分以上も直轄にできたのか?
その合理的な理由を説明できる? >>279
安東を追い出すことはできたけど統治できなかったんだろ
別に珍しい話じゃないよ。反乱が相次いで鎮圧のために労力を使うくらいなら
浪岡氏に統治させた方が得策と考えたと >>277
浪岡北畠氏は自前でそんな大きな武力を持ってないと思われる。
南部氏の後ろ盾がないと何もできなかったはずだから安藤氏を駆逐なんかできるはずがない。
前に安藤氏を追い出したのは根城か三戸かよくわからないと書いたけど、実は根城南部じゃないかとおもってる。
どうしてかというと、「根城南部氏文書」という大変貴重な同時代資料が根城につたわってるのだが、その中に安藤氏にあてた
顕家からの安堵状と、安藤氏の譲り状があるからだ。こんな家宝もいうべき大事な文書が南部氏の手に入ったということは
南部氏が安藤氏から奪ったということを意味する、じゃどうして奪ったか?南部氏が安藤氏を背め立てた時
安藤氏は着の身着のまま逃げたんじゃないかな。余裕があればこんな大事なものはすべてもってゆくはずだ。
浪岡御所の調査を数年前に徹底してやったそうだが、新しいものは何一つとして出てこず、なぞはなぞのまま残ったそうだ。
>>279
南部氏の代官的な位置にいたからだと思うね。 >>282
浪岡北畠はれっきとした独立勢力だよ
南部の代官だったら安東と婚姻関係なんて結べるわけない 一戸二戸三戸....の「へ」って何でそんな気の抜けた読み方になったん?(・ω・)
普通に「と」でいいじゃんって思う
あと戦国時代にもマグロ漁してたんかな?大間のマグロって有名じゃん >>283
浪岡御所の成立は南北朝期(1333〜1393)と云われてる。
南部氏の後押し、後見がなければ浪岡でやっていけなだろう。その時期から滅亡まで200年、そりゃあ
「御所」なぞと呼ばれるようになったんだからそれなりの権威がついてくるのは仕方がないんじゃね。
鎌倉末期、南北朝始まりの前に北畠氏が浪岡に所領をもっていたことは確認できず、だね。
その婚姻はいつのことかな? >>285
それは万葉集の時代までさかのぼってどうして「戸」をへと読むと決めたか聞いてこなくちゃね。 手塚治虫の「ライオンブックス」の中にある「百物語」は、恐山から浪岡の物語だね。
浪岡の殿様はバカ殿に描かれていて、下克上で主人公に乗っ取られるものの
最後には津軽氏と同盟した殿が主人公をやっつける話だ。 >>285
マグロは醤油付けが開発されるまでは基本的に下魚 中トロ美味いやん
サンマといい江戸人は肉食った事無いから脂が多い食いもんの味が分からんのやろね >>286
浪岡さんは京都の朝廷からそれなりの官位をもらっていたのではなかったか? なんだ、調べてみると浪岡北畠氏の一派は、安東氏の家臣になって秋田氏と改姓して
三春までついて行っているじゃないか… さすが日本将軍安東秋田氏。
古代ヤマト統治者ナガスネヒコにつながるだけあって、
細川磨呂さんと北畠磨呂さんという豪華な家老衆。
喜連川氏の家老衆
二階堂氏・武衛氏・上杉氏に引けをとらぬ >>291
官位は大概の大名はもらってたよ。
例えば南部氏は大膳大夫。
浪岡北畠氏は為信が謀反した時どっちにもつかずただ洞ヶ峠きめこんでたのかな?
結局は為信に滅ぼされるけど。
>>292
南部にも仕官しているが。 >>294
南部家中の争いだから介入しない方が無難と判断したかと
一般的には為信の謀反と言われているが、晴政の命で石川を
討ったのだとしたら南部宗家も敵に回すことになるわけだからな >>295
それにしても、為信反乱期の「浪岡御所」の存在感の薄さは腑に落ちない。
津軽の半分も支配しているのが本当なら双方にいろいろ働きかけられるのじゃないのかな?
南部側が津軽を攻めた時も浪岡が兵を出したいう記録はないよね。為信に兵を出した記録はあるのかな?
しかし、為信と浪岡御所というと、あの有名な毒殺事件を思い出すわ。5人くらい殺してるんだろう・ まあ浪岡北畠は川原御所の乱でガタガタになってたし
津軽地方の動揺を抑える力はなかったってことだろ 出羽国の最北端に飛ばされた時の南部の殿さんって喜んで行ったんかな?(´・_・`)
京から日の本でいっちゃん遠いし寒いし
おいらだったら断るかもっと京に近い所にしてって懇願するな >>298
広い土地が持てたから嬉しいんじゃないかな?
どれくらいの加増になったかわからないけど、
甲斐の千石→陸奥の二万石なら嬉しいだろう。
自分で開拓するって意欲もあるだろうし。 >>298 299
何の話?勘違いしてるんじゃね。 >>300
初代南部が下向してきたときの話じゃ?
思うんだが、曽我兄弟にもどこか遠隔地に土地を与えてたら
仇討ちは起こらなかったんじゃないだろうか?
閉伊郡豊間根郷みたいな狭い土地でもいいから。 >>298
南部氏が得意な牧草地がふんだんにあるトコだからな。
甲斐のままだと牧草地が急斜面で牧草を得るのはやたら大変そう。 >>301
あーそれなら、津軽氏も越後の川中島に転封させられるはずだったんだよな。2代目の時に。
話が出て、実際に移動する人員を決めて、移動途中の藩に話を付けてたその後にダメになったんだよ。
移動していたら、桧山騒動とか相馬大作とか野辺地戦争とか現代に繋がる話は無かったのにね。 南部氏って何で青森に飛ばされたのに苗字代えんかったん?(・ω・)
本州最北の地で南部って変やろ >>301
曽我兄弟の仇討ちはいろいろ言われてるけど、やっぱり
北条時政の頼朝暗殺計画の一環だと思うよ。
なんで弟が頼朝の寝所に切り込まなきゃならんの? おいおい、南部各地で定着した武士は、その地区の地区名を名字に付けて、移動しても名字変えてないだろ。
和井内とか毛馬内とか斗米とか苫米地とか金田一とか釜石とか…
これらは結果的にアイヌ語が名字に入っている。 平成・南部藩
1千万石超え
三日月の丸くなるまで南部領 >>298
初代さんは元から馬産をしてたし意外とノリノリで下向したかもよ
糠部郡は低い山々が多いから牧草にも困らないし、
海も近いから塩の確保もしやすく、台風の影響も小さいので
古来より馬産が盛んな土地柄だったし 「陸奥の牧」や「尾駮の牧」、「尾駮の駒」の歌枕は南部氏がこの地区に来る以前の歌枕だからな。
かなり有名だったはず。 >>303
津軽も移動していたほうがよかっただろうな。
普通は過去の因縁も代が経てば水に流すものと思うんだが、
南部ときたらいつまでも執念深い。
それでいて自分はよその豪族に酷いことしてるのに、
自分が加害者の場合は無問題。
>>305
曽我兄弟の仇討ちは、彼らが御家人として採り立てられなかった
ことが要因だと思う。
曽我兄弟の祖父が頼朝の息子を殺害したのを、頼朝が根に持ってて、
頼朝健在のうちは曽我兄弟が御家人になる目は無い。
そこでいっそのこと工藤と頼朝二人ともやっちまえ、となったんではないかと。
僻地でも山間部でも土地与えてたら、たとえ北条時政にそそのかれようと、
仇討ちはしなかったと思う。 津軽氏と南部氏って和解したん? まだ仲悪いままなん?(・ω・) あれは石川高信を倒した恩賞として切り取り許可もらったんだろ 曽我兄弟の仇討ちは今では単純な仇討ちでなくその裏にいろいろあるというのが定説らしい。
ま、ちょっと調べればそう思うわな。
その討たれた工藤佑経の子が奥州に下向し津軽と三戸名久井に土着して勢力を伸ばしたけど
南北朝期に南部氏とぶつかり大概は南部氏家臣になったりしている。
北奥羽は鎌倉期には工藤氏が大繁栄しているのだがあんまり歴史の表面にでてこない。
ちなみに青森県で一番多い名字は、鈴木でも佐藤でもなく工藤だ、子孫が繁栄したということかな。
曽我氏も実は同じころ津軽平賀郡に地頭代として下向している。いわば敵同士が津軽に同居してたわけだ。
面白いもんだね。さらに、後に南北朝期に曽我氏は南部氏に滅ぼされている。 何で目の前の北海道に進出せんかったん?
北海道 でっかいどう >>310
というか甲斐国南部牧を与えられていたことから
馬産の為に糠部を宛がわれたんじゃないかな >>316
この場合、南部牧はどうなったんだろう?
一族の誰かが残ってそこを継いだのか。
それとも南部牧の土地を失って陸奥の国の一部が与えられたってことだろうか?
>>315
旨みの無い不毛の土地と思っていたんじゃないかな?
陸奥より余計寒いし。
主な産業だって漁業くらいで、わざわざ進出するほどでもないだろうし。 >>317
山梨県の南部氏は、鎌倉幕府滅亡南北朝の争いが始まる時に大騒動して
残ったのが、波木井氏、南部氏ですね。大雑把に言うと、この2氏がその地に住して
南部氏は戦国時代にそこを追い出されるか、討たれて甲斐の南部氏は消えますね。
もう一方の、波木井氏はもう侍やめて、日蓮宗の僧になって日蓮宗教団の中で
結構いい地位のまま今日まで生き延びています。
この辺の家系図等はみんなまちまちなのでどれを信じていいのかわかりません。
根城が波木井南部氏の養子になったというのは今ではほぼ否定されています。
根城が足利に下ったとき山梨の所領を放棄したというのは本当だと思いますが。
三戸と山梨の関係はまるで分かりません。 >>315
農業どころか馬産にさえ向かない土地に進出する意味はないだろ >>310
陸奥の 尾駮の駒も 野飼ふには 荒れこそまされ なつくものかは 後撰和歌集 読み人知らず
現在の六ヶ所村にあったとされる、「尾駮の牧」の初出は多分これか?後撰和歌集の成立はは950年台だ。
さて、915年には北奥羽や陸奥は大災害が起きていた。それは、十和田湖火山の大噴火だ。
このとき尾駮の牧あたりはこの被害は大したことは無かったのだろうが、この被害が契機となって
遠くへの馬の売り込みが必要になり京に名が知られるようになった…のかもね。 馬と言ったらやっぱこれでしょう
いけずき!あの有名な宇治川の先陣争い、佐々木高綱と梶原源太景季。
七戸産、戸立(へだち)の馬。佐々木高綱が一番乗り! >>322
お前が言う「南部一族」が何を指してるかによる。 搾取南部。
領民に「年貢を払えない時は片腕を切り落とす」という証文を書かせた。 幕府が南部氏には大甘だからなあ…。
伊達を背後から牽制してほしいというのもあったんだろうが。 >>327
江戸時代初期に一揆が頻発してたら、改易か転封されてただろうな。
伊達を牽制するなら、譜代か松平一門を置けばいいわけだし。
蝦夷地防備とかやらせてたので、強く出られなかったんだろうか。 >>328
普通の大名は誰も陸奥の北なんて行きたくないだろう
福島正則の津軽地方への転封も流石にあんまりだってことで
取りやめになったくらいだし・・・
津軽藩は川中島への転封に乗り気だったらしいけど >>328
南部は軍用馬育成ノウハウを持っていたということもあるし、
幕府から見て政治的には無害そのものだったから改易するメリットが少なかったのだと思う。 初代藩主は人気があるのが普通なのに
何故南部利直は不人気なのだろうか? ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>331
南部利直は藩祖とは言いがたい。
南部家はそのだいぶ前からあった家だから。 相馬大作事件の首謀者、相馬大作は多くの物語で矢立峠で津軽藩主を殺害しようとしたことになっている。
でも、本当の犯行予定場所は別の地区だ。
この混乱は吉田松陰の著作のためと言われていたが、もっと別の要因もあるのではないか?
調べてみると、相馬大作の親戚で江戸時代大館釈迦内の大富豪だった日景家がある。
現在でも日景町という地名が残されていて、現在の大館駅が大館市街と釈迦内の中間に建てられたのは
日景氏の影響とも言われている。
さて、この日景氏の当主である日景弁吉が明治初期に始めたのが矢立峠にある日景温泉だ。
オレは、この矢立峠の日景温泉を宣伝するために、相馬大作の犯行予定地が矢立峠だというコトを利用したのではないかと思うのだ。
何せ、明治期には相馬大作モノは各所で大流行していたから。矢立峠には相馬大作に関係する碑が幾つか建っている。
津軽寧親が大館を通らず、日本海側を通って津軽藩に戻った時には、大館で津軽藩主を揶揄する子供の歌が
流行ったという。久保田藩にとっては、津軽藩と仲が悪いわけでなく、どうしてこんなに早く子供の歌にまで
津軽藩主を揶揄する歌が流行るのか訳が分からなかったが、これも多分大館の富豪の日景氏が流行らせたものだろう。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>337
ちなみに、相馬大作は襲撃予定前日に大館に宿泊しているが、その宿泊地が、親戚にあたる
日景家だった。
日景家の別家筋?でも、戦後に相馬大作を擁護する意見を言っている人がいるので、日景家
そのものが、相馬大作をバックアップしていたに違いないと思う。
さて、これは他のサイトからの情報だが、漂白の文人菅江真澄は1803年に日景家に逗留している。
そして、1820年ずっと久保田藩にいた菅江真澄は突如鹿角への旅行を決意し、なぜか冬なのに
また、ずっと久保田藩だけにいて、結構な老齢なのにわざわざ極寒の峠を越えて1821年花輪につく。
花輪では日記を残しているのだが…
この頃、相馬大作はまさに花輪で津軽藩主襲撃を計画している。果たしてこの2人は花輪で出会っ
ているのだろうか?菅江真澄は津軽藩や津軽藩主のコトをよく知る男で、津軽藩を追われた男だ。
彼の情報を相馬大作が使ったとし考えてもおかしくはないが… 三本木開拓について調べてます。北海道開拓に比べれば
割と容易な気がしますが、北海道の様に大規模な移民や
移住者の話がないのは何故でしょう? >>340
同藩の二男、三男を移住させたからじゃ? 有志主体の開拓だから
北海道は国策なので全国から人が集まった >>342
とうほぐ人とほぐりぐ人の入植組が5割占めますだ >>340
米が作れないので開墾してもどうにもならんかった
戦後、農林1号という神のように寒さに強い稲の品種ができるまで
三本木はおろか北陸より北はまともな米が獲れなかったんだ
割れた米つぶばかりだった
野辺地のように大豆を味噌に加工して売れる契約農家なら
大豆だけでもやっていけると思うが三本木じゃ無理
今、三本木で農家やってる人に聞いてみ、全部戦後の入植だから
ちなみに八郷とか〇郷って付く地名ないか?
それ戦後入植者に払い下げられた馬の牧だよ だから大豆を買いたたけば儲かる野村が金だしたりしてる
> たまたま隣町・野辺地の大富豪、野村治三郎が七戸を訪れた。野村は、藩政時代から廻船問屋で
>財をなした東北有数の富豪で、また代々の篤志家でもあった。工藤の苦境を聞き、公益のためにと
>、当時としてはとてつもない三千円という大金を用立てた。無担保無保証であったという。
工藤轍郎(くどう てつお) 【旅の蔵七戸】七戸町観光情報サイト
http://www.shichinohe-kankou.jp/jiten/history/kudou >>344
新渡戸3代の野望が本当に叶ったのは戦後ということか… >>346
わからん。新渡戸傳の頃だったら
糞不味い陸稲でも、さらにゴミみたいなヒビワレ米つくれただけでも
成功と思ってたかもしれんし
我が藩は開墾して、石高増加させれば殿の覚えがよくなるから
南部藩士的な出世狙いで開墾する広大な面積探してただけかもしれん
庶民の生活なんぞ
なーーーんにも考えてなかった可能性すらある。
青森県の歴史調べてたら新渡戸はもちろん南部藩の関係者からそんな臭いしかしないし
それに比べて
ほぼ無税だった上に野村治三郎が税ほとんど払ってくれてた
野辺地は天国だったろうて
野村は昭和30年頃まで町の予算半分出し続けたらしいよ
その為に野村銀行潰したけどな ひどい…
新渡戸傳はふっかけられた戦争の野辺地戦争で「責任を取って自分の首をやる」と言っているから、
骨がある人だとは思うケド…まあ、その頃にはほとんど死に近づいたような年齢なんだけどさ。
野辺地戦争で津軽藩から「賠償金をやる」と言われて、庄屋が「南部藩は秋田戦争で多くの家を焼い
ているから賠償金をもらったら禍根を残す…」ってのも美談とされているが、庶民にとってはエライ迷惑
な話だよなw
しかも、このスレでも過去これを美談みたいな言う人も居る始末だし。 >>344
>>345
ときどきある
こんな感じのレベル高いレスがあるからこのスレはいいよねw
南部藩は戦国期、軍馬や鷹の羽で結構儲かってたんだろうね
平和な江戸期になって鷹の羽や軍馬の需要が減って産業の転換を図り失敗
むしろ需要が増えた味噌や木材の販売をしてた廻船問屋はそのまま儲かってたんだろう >>347
このスレに時々出現するから調べてみたけど
野村治三郎ってすごいね
浅虫水族館の前身とか全農青森とかもこの人だし
単なる金持ちのレベル超えてる
もっと知りたいので書き込みしてくれw 南部藩(盛岡以北)は馬、煙草、大豆、漆といった商品作物の育成が主体 藩政になる前の南部藩は金持ちなのよ。
戦国時代以前より金がザクザクあったから。ただ残念なことに製錬技術がない。だから砂金を
拾ってたんだけでそれがとれがなくなったらもうだめになるのね。それが江戸時代初期。そのあとはご存知の通り
米中心の財政に転換して超貧乏。
製錬技術があれば、鹿角銅山なんか銅の中に金がすごい含んでたから楽できたのに、みんな出島のオランダ人の
懐に入っちまったてわけ。出島のオランダ商館は南部の銅でぼろもうけしたんだって。
砂金探しは南部藩全域にわたって行われるんだけど、それがすごい。
名もない小川まで沢伝いにさかのぼっているんだよ。下北半島あたりも人の入ってない小川はゼロといわれてる。
で、これが南部がよそ者に対して冷たくなった原因。ゴールドラッシュのように他藩の人間が入ってきて砂金採られちゃうからね。
江戸時代を通じて南部藩が排他的になっちゃった。
話が飛ぶけど、「奥の細道」で芭蕉が平泉まで来て南部に来なかったのもその辺に原因があるという・・・・ 秋田藩はそれを知って、平賀源内を江戸から呼んで精錬所を作り金を絞り取って出荷して利益を出していたんだよね。
でも、明治維新後もそこで藩内だけでだが通用する贋金を作っていたんだけど、明治新政府が「各藩で贋金を作っている
ようだけど、これからは禁止ね」というお達しがあってからも作っていたから(半年程度)大目玉を食ってしまう訳だ。
それが秋田藩がいまいち維新の功績にあづかれなない一つの原因ともなっている。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ アイヌ文化に詳しい弘前大学の関根達人教授は
「アイヌの人たちが城に出入りしていたことを示す貴重な発見だ。
本州と北海道のアイヌの人たちは言葉が共通しているので、
三戸南部氏が北海道と交易する際に活躍したのではないか」と話しています。
戦国時代の城跡から出土の皿にアイヌの人たちの刻印 青森7月25日 20時21分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170725/k10011074231000.html?utm_int=news-culture_contents_list-items_018
青森県南部町にある戦国時代の城跡から
アイヌの人たちが刻んだと見られる印の付いた皿の破片が見つかりました。
専門家は、当時の武将とアイヌの人たちの交流をうかがわせる貴重な資料だとしています。
この皿の破片は、戦国時代に今の青森県から岩手県北部を支配した
三戸南部氏の居城だった南部町の「聖寿寺館跡」から出土しました。 いやだから、
大坂冬の陣に、南部氏がアイヌの部隊を連れて行ったという話があるじゃない。 >>357
一次史料はわからんが、司馬遼太郎「城塞」にはそう書いてあったね。 九戸の乱でアイヌ人部隊が蠣崎氏に引きつられてやってきたというのは有名だが?
南部の領地にそれほどアイヌがいたというのは一次史料が欲しいところ。 『歴史を紀行する』の「郷土閥を作らぬ南部気質」の中にでてくるのだが、
自分が記憶しているのは、もっと別な作品のような気がする。
残念ながら司馬もこの話の出典がなんであるか忘れた、と書いている。
そいうわけでどなたか大坂の陣の挿話集を当たってみたら見つけられるかもしれないね。
司馬はもっといろいろ書いていた気がするがその中での一つ。
南部衆の無言。
南部軍は戦の時無言のままで突撃し、鬨の声が無しだそうだ。
そんな軍団見たことがなかったのでまわりの大名たちが変わったやつらだ、と思ったらしい。 アイヌ人は居ただろうけど同化政策で消えていったんだろうな 今日南部町に行ってきた
このスレの印象で糞みたいなキチガイな奴が多いと思ってたんだが
全然普通だった。
やっぱり晴政の一族だけがキチだったんだろうと思うわ
山がガスってたけど年中ガスってんのかねえ? >>364
戦のたびに傭兵として雇われて海を渡って来た可能性もある。
100人単位とかではなく5人とかその程度の毒矢使いとかその辺
南北戦争のミニットマンやドイツのイエーガのように
狙撃のプロとして 三戸で相馬大作の劇があるんだよね。
2月にやるけど、14−15日にもやる。
ブログであらすじ見たけど、うまく史実を総合して、都合良く解釈しているなーと思った。 コメ取れない言うてもコメは手間かかるし代わりに雑穀収入あったんやろ?
蝦夷貿易に馬売買に金山と南部氏って晴政のころ意外と富裕なんじゃね? >>369
意外とゆうよりも、かなり富裕。
まだ領内に金があったからね。
まあ 金の切れ目が貧乏の始まり。米なんかろくに取れないからね 石高が少ない場合、どういう風に家臣団養ってたんだろ?
あの時代基本家臣は所領収入だろ、鉱山や貿易は大名の管理下だろうし
所領収入以外に手当てでもないと家臣団キツいやろ 領地を配分して自分のところは自分で賄えじゃないの?
戦国時代前後って基本それでしょ つか、大名(代表)をトップに置いてそれ以外はみんな家臣っていう体制は秀吉以降でしょ
それまでは有力豪族のゆるい集合体って感じだったはず >>373
> それまでは有力豪族のゆるい集合体
内政はそうなんだけども、戦争になった場合には、盟主の家の当主の指揮下に入るわけで。 >>374
全軍で攻めるような戦争を東北でやり始めたの,伊達政宗からじゃないの? >>369
富裕ではないぞ。金山の発掘は江戸時代に入ってからだし
ただ合戦には欠かせない漆や馬、鉄の生産地だったことが
幸いし領土を拡げられた
>>376
斯波、和賀、阿曽沼連合軍と合戦してたよ
南下そのものは同床異夢だったんだろう いやいや 南北朝時代を知らないの
北畠顕家と一緒に二回も京都近辺まで行って一回は
尊氏軍を破って、尊氏を西へ敗走させてるだろ。 利直はなんで八戸南部を遠野に移したんでしょう?
当時の八戸地域は北上盆地の様にやませを緩和させる
山もない不毛の土地なのに。単なる嫌がらせですかね
あるいは反乱を起こさせようとしたとか >>379
> あるいは反乱を起こさせようとしたとか
反乱が起きると、中央政権が不快になるリスクがある。 >>378
それは北畠顕家という大将がいたからじゃない?
その家だけの全軍を大名主導でやり始めたのは、東北では伊達政宗からだと思うけど >>379
普通に八戸を直轄地の藩港にしたかったかと
南部重直が世継ぎをつくらず死んだこともあって
八戸藩が成立したため遠い不便な野辺地を藩港として使わざるを得なかったし >>382
>その家だけの全軍を大名主導でやり始めたのは、東北では伊達政宗からだと思うけど
いやいや ちがうでしょ。 南部とは関係のない浄法寺氏や鹿角衆
あと主な侵攻先の岩手郡の国人たちも南部の指揮下に入ってたわけで 常陸国でも、
真壁氏や江戸氏は事実上の独立勢力であったが
いざ戦争になると佐竹氏の指揮下に入ることになっていたと
記憶している。 >>384
伊達政宗以前の東北で、家の存亡をかけた総力戦ってあった? >>388
家の存亡をかけた総力戦はなくても、それなりの規模の戦闘はあったわけで。 それこそ、南部氏 vs 安東氏 やら 津軽氏 vs 浪岡北畠氏 とかいっぱいあるなあ。
九戸の乱では恩讐を越えて、九戸氏をやつけにそれら北東北の大名が勢揃いしたんだっけ? >>388
記録はあんま残ってないけど、大光寺曽我氏とか出羽葛西氏とか楢葉氏とか、戦国以前に東北で滅亡した武家って結構あるよ
もうちょい新しいとこでは桃生山内氏とか標葉氏とか 自立した勢力ってどこまでそういえるんだろうね
少なくとも、戦になったら大勢力の傘下に入るクラスは大名とは言えないんじゃないのかな >>391
葛西氏は奥州仕置きで滅亡したんじゃなかったっけ? >>395
出羽葛西氏は檜山安東氏以前に檜山地域を治めていた勢力
安東氏に滅ぼされたらしい >>397
東京の葛飾区や江戸川区を統治していたらしい。 >>394
北奥羽で言えば高水寺斯波氏、稗貫氏、和賀氏、阿曽沼氏、柏山氏
あと津軽地方の浪岡北畠氏、大浦氏くらいかな
それ以外は大概が南部の傘下に組み込まれていたかと 雫石に地盤を持ち南部氏と戦った戸沢氏なんてのもあるな。
色々あって江戸時代まで生き延び、新庄藩主として勝ち組になったんだっけ? 『馬淵川』で直木賞作家、その他『九戸城落城』などの渡辺喜恵子の温泉記『湯治場風土記』を読んでみた。
日景温泉の文書が最初にあった。そこに昔の時代の日景温泉の話が載っていた。
その中で、やはり日景温泉と相馬大作事件の話が書いていた。
おかみさんが日景温泉近くの矢立峠事件発生説を紹介しつつ、長谷川伸の『相馬大作と津軽頼母』を読んでいて
歴史的に正しいのは多分「岩抜山」だと言っていたのが笑えた。 九戸政実が農民合わせてとはいい約5千動員出来たって事は一般的な戦国大名よりは裕福やったんやろね >>414
NHKBS3の九戸の乱の回を見逃した!
再放送はいつだ! 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
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