【謎の世紀】古墳時代についてマタ〜リと語ろう 2
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古墳時代は、日本列島において古墳、特に前方後円墳の築造が卓越した時代を意味する、考古学上の時期区分である。
古墳の成立とその衰滅をいかに捉えるかによって、古墳時代の時期区分にも僅かな差異が生じる。
現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。
中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。 ○時代区分
3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、4世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期としている。
実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半頃、関東では8世紀の初め頃、東北地方では8世紀の末頃でほぼ終わる。 ●古墳時代前期
3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れる。
その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的である。
最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土している。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。
埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。
この頃、円筒埴輪が盛行。土師器が畿内で作られ、各地に普及すると、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。
●古墳時代中期
5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化した人物埴輪が現れた。
5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。
5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。
5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓が造られ始め、また、装飾古墳が出現し出した。
●古墳時代後期
6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。
6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行。埴輪が畿内で衰退したことで、関東で盛行するようになった。
西日本で群集墳が盛んに造られた。
●古墳時代終末期
全国的に6世紀の末までに前方後円墳が造られなくなり、畿内でも方墳や円墳がしばらくの間築造されていた時期を古墳時代の終末期と呼んでいる。 弥生時代末期には、発掘調査の結果から北部九州を中心とする政治勢力と奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことが判っている。
3世紀前半に活躍した倭国王(親魏倭王)卑弥呼の所在地邪馬台国が北部九州、畿内のどちらにあったのかについては未だ学説が分かれている。
いずれにせよ、この両地域の勢力が母体となって古墳時代のいずれかの時期に、畿内を本拠地とするヤマト王権が成立したと考えられている。
成立の過程ははっきりしないが、考古学の成果は、奈良盆地勢力が吉備政権など列島各地の勢力と連合してヤマト王権へ成長してゆき、この過程で北部九州が衰退したことを示唆している。
北部九州勢力が奈良盆地へ東遷の後、奈良盆地勢力を制圧してヤマト王権となったとする見解もあるが、この説は科学的に証明出来ていない。
成立期には、従前のものより格段に大規模な墓(前方後円墳)が奈良盆地を中心に登場している。
弥生末期には畿内、吉備、出雲、筑紫などの各地域ごとに特色ある墓制が展開していた。
前方後円墳には、それら各地域の特色が融合された様子が見られるため、ヤマト王権は列島各地域の政治勢力が連合したことによって成立したとされる。
ヤマト地方(畿内)を本拠として本州中部から九州北部までを支配したと考えられている。
倭国を代表する政治勢力へと成長する過程では大小の勢力や種族との衝突があったと考えられる。『日本書紀』などにはそれを窺わせる記述(ヤマトタケル説話など)が残されているが、詳細な過程は不明である。 中国の史書に266年から倭国の関係記事は皆無である。次に出てくるのは約1世紀半後の5世紀の初め、413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀の記述である。
421年(宋・永初2年)に『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事があり、これ以後、倭王に関する記事が中国史書に散見されるようになり、讃以下、珍・済・興・武と続いている。
これが「倭の五王」である。倭の五王は、『日本書紀』に見える天皇との比定が試みられた。必ずしも比定は定まっていないが、例えば倭王武は雄略天皇ではないかと見られている。
武については、中国皇帝に上表した文書には、先祖代々から苦労して倭の国土を統一した事績が記されている。
5世紀末時点ではまだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していないとされている。埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘の「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」から推測されている。
一方島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」の銘から、6世紀中頃までには部民制の施行がうかがい知れる。
また、大臣・大連の制度ができ、大臣には平群氏、大連には大伴氏・物部氏が選ばれた。氏と姓の制度がある程度成立していたとされている。
4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。
この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと『日本書紀』に記述があり、これを磐井の乱(527年)として扱われている。
これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が北部九州に重く、乱となったと考えられるが、この時代はまだ北部九州勢力がヤマト王権の完全支配下にはなかったことも示唆している。 安閑(531年 - 535年)・宣化(535年 - 539年)・欽明(539年 - 571年)の各王朝を通じて、地域国家から脱して初期国家を形成していった。
王権のもとには、ウジを持つ物部氏・大伴氏・蘇我氏などがいて、臣・連・国造・郡司などの職掌があった。
地方では、吉備氏系氏族がウジ・臣を作るなど、各地の豪族が部などを作り、勢力を張っていた。
宣化朝に蘇我氏が大臣になり勢いを増した。
後の崇峻期(587年 - 592年)を経て稲目・馬子・蝦夷・入鹿と蘇我氏が政治上重要な地位を占めることになる。この権力の掌握はは645年(皇極天皇4年)の『乙巳の変』までの約半世紀間続いた。
欽明朝では、戸籍が造られ、国造・郡司の前身的な国家機構が整備された。
また、この欽明朝では仏教の伝来があった。538年に百済から伝来した。『日本書紀』は、552年に伝わったと書いているが、他の史料から編者の改変である事が分かっている。
仏教伝来については、蘇我氏と物部氏とが争い、蘇我氏の勝利に終わっている。 (_ _ ) < >>1さん、
ヽノ) 乙でございます。
ll
wikiからの丸写しなテンプレも変だといえば変なんだけど、
テンプレっぽいものがないのも変なので>>2-7までやってみた。
容量間違えて>>2と>>3を2つにしてしまったり、5回連投規制に引っかかったりとけっこうドタバタした。
しかしこのwikiの要約見てもすぐに気づくくらい、空白の4世紀だなぁ orz
やっぱり文献って偉大だよな。発掘だけでは歴史の再構成には限界があるな。
もちろん文献だけでは真偽がわかるわけでもないのも自明だけどね。 日本至上最も大規模な祭祀が行われた時代。
世界史上でも有数の規模だ。 祭祀の舞台としては最大級だよね。
巨大なモニュメントとは、それを造ったものの権威の象徴であるけど、
強大な権威が有るもの故に、それに相応しいモニュメントが造られたのか、
巨大なモニュメントに相応しい権威が欲しくて造られたのか、そのどちらかでしょうね。 大掛かりな権力の簒奪があった可能性が高くなるな。
その祭祀のしきたりも、稜の主もわずか100年後には、何もかもわからなくなってしまう、
なんてことが血筋が連続しているのに、起こりようがない。 弥生期の方形墳丘墓で40m四方程度が上限
これが
古墳時代の100m超の古墳になるときの
途中の移行期に当たる古墳とか
比定されていないのかな?
50m級とか70m級で、いわゆる纏向型のプレ形式を
持ってるとされているものがあるのかな? >>11
そうだな。
平安時代の人物なのに5世紀に築造されて平城京建設の際に前方部が取り壊された古墳が陵墓になってる平城天皇も今の皇室とは関係がないな! >>11
天武vs天智みたいな争いは各年代で繰り返されてきたんではないかな
つまり、その時々の政権にとっての仇はその都度抹殺される
生き延びた血統はさらに骨肉相食んで潰し合う…
つまり、広義の血脈は受け継がれてるが、政権血統そのものは100年前の祖先に義理立てするようなものではない…
とか >>12
それがホケノ山古墳ではないのかな
違ったら失礼
いわゆるホタテ貝型で不恰好な前方後円墳だが >>17
伝統に則って祭祀を主宰するというのは、伝統的な権力の正統性の根幹じゃないか。
カンボジアポルポト政権や、中国文化大革命のように直近の伝統を
丸ごと否定し忘却してしまうのが古墳時代の日本の権力では当たり前だったということ? >>19
その2種の事例をなぜ同列に扱うのか意味不明だし、論調が極論で乱暴すぎる。
天皇家でも南朝・北朝の分裂期に相手の祭祀に関しては無視しただろうし、
(こちらは幸いにも60年程度でちおう再合一ということになったけど)
もちろん1百年では短いだろうけど、2〜3百年も廃れていたのなら
比較的簡単に忘れ去られてしまい、伝承のみが残るようになると思う。 南北朝は祭祀の破壊とは正反対の事例だよ。
ひとつの祭祀をめぐってどちらが祭祀の主宰として正統なのかという争いだ。
河内古墳群の規模の大きさからして、当時の余剰経済力のありったけをあの稜に
注ぎこんだのは間違いなく、当時の国家の政の根幹を成していた可能性が高い。
なのに、100年後の仏教伝来時の論争にはこれらの古墳群についてまともな言及がない。
古墳の墓守が間違えたとかいうくだらん問題じゃないんだよ。 >>21
文書の類いが見つからないとこを見ると口伝だった蓋然性が高い
口伝者が死んだらどうなるだろうか
致死率の高い時代だ。何もかも弟子に伝えて死んでくれただろうか
古代人が伝承を死ぬより大事にしていた、という前提も、我々現代人の誤解かも知れんよ
人間、大事なのはまず自分だからねぇ >>20
祭祀つったって平安時代の陰陽道重視の祭祀はそれ以前のものと大分異なってるしね
この点は吉野裕子の研究が面白かった
いろいろと事情はあるが、我々がアメリカ化を意識しないのと同様、中国化(唐)を無邪気に進めた時代もあったというわけだ
人間はその時代の空気の中にしか存在しない。無邪気に流行を追うだけだ
江上波夫のように、ここで埴輪が変わってる、馬に乗り始めてる、服装が遊牧民風になってるだとかで、
わざわざ民族移動を想定する方が異常だった 中央の人達にとっては文書化していたかも知れないけど
現地レベルで墓守する一般住民?にとっては又聞きの口伝レベルなのはありそう。
中央とて、火災などで焼失したり、没落が長引けば散逸するのは普通にあるきがする。
ややスレチだけど、無邪気というか、より高い文明・文化に触れたらそれは積極的に
取り込みたいのは世の常、人の常だも知れない。 >>11
つーか>>15もいうように平安時代の平城天皇陵ですら取り違えてるのに
古墳時代の天皇陵がすべて正確なわけないじゃんって前スレで突っ込まれてたろが
そんなことも忘れるぐらい頭が悪いのか? >>25
頭が糞悪いやつだな。
平安時代は、稜は政の中核でもなんでもない。ただのお墓なんだよ。 相手が先にしてきたから自分もやり返すとか、
同レベルでしか争いは起こらない説は確かに正しいかもしれんw >>25
その祭祀のしきたりも、稜の主もわずか100年後には、何もかもわからなくなってしまう
この前提がすでに間違いなんでは?
当時はきちんとわかっていたの
ただその後長い月日を経てわからなくなったというのが真相
記紀編纂時はきちんとわかっていた。わかる? >>28
頭が腐ってるんか?
大古墳時代、何が行われていたか、記紀にまっとうな記載があったら、
5世紀は謎の世紀でも何でもない。
スレッドタイトル自体にケチつけてるようなもんだw ん?
ちゃんとこの天皇はどこそこに埋葬されたって書いてあるじゃん?
ちゃんと読んだ? 記紀に書かれている地域に、
10や20の古墳があることも
ざらだけどな。 仲津山古墳こそが仲哀天皇陵だと思うんだけど、どう?
他に候補ある? >>29
> 大古墳時代、何が行われていたか、記紀にまっとうな記載があったら、
> 5世紀は謎の世紀でも何でもない。
>
正論だね >>31
天皇家陵以外の陪墳の説明なんかもキッチリ書き記してあると良かったろうが、無い物ねだりだろうなぁ >>29
は?これはひどいジョークだね
記紀には5世紀のことについてちゃんと書かれてる
はい論破 五島にも古墳があるんだね。
「此の嶋の白水郎は、容貌、隼人に似て、 恆に騎射(つねにうまゆみ)を好み、其の言語は俗人(くにひと)に異なり。」
とか風土記に書かれてるのに。 ちなみに記紀には、蘇我高麗はでてこない。
結構、知識が試される部分である。 >>38
高句麗人を妻にしてたとか知らんかったな
日本書紀は読んだんだけど
やはり渡来系なのか?しかし葛城系なんだろ? >>39
おっしゃるとおり。記紀と書いたのは間違い。
>>40
稲目以前の蘇我氏の出自については、通説すらない状態。
葛城系というのも、秀吉が平氏だったレベルの話。 蘇我氏
具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、
それ以前に関しては以下の諸説がありよく分かっていない。
河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町
一須賀あたりと特定される説もある)の土着豪族という説
葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)の土着豪族という説 蘇我氏渡来人説
門脇禎二が1971年に提唱した[1]が、現在は否定されている。門脇が提唱したのは応神天皇の代に渡来した、
百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする説で、鈴木靖民や山尾幸久らの支持[2]を得た一方、
加藤謙吉や坂本義種らが批判[3]したように、史料上の問題点が多い。根拠が不十分であり、現在では支持する研究者はいない[4]。
問題点は整理すると以下の通りであり、木満致と蘇我満智を同一人物であると実証することは不可能である[5]。
「木満致」の名が見える『日本書紀』の応神天皇25年(西暦294年、史料解釈上は414年)と
「木満致」の名が見える『三国史記』百済本紀の蓋鹵王21年(西暦475年)とでは時代が異なる
百済の名門氏族である木満致が、自らの姓を捨て蘇我氏を名乗ったことの不自然さ
渡来系豪族が自らの出自を改変するのは8世紀以降であること
木満致が「南行」したとの『三国史記』の記述がそのまま倭国へ渡来したことを意味しないこと
百済の名門氏族出身でありながら、孫の名前が高句麗を意味する高麗であること
満智の子は韓子(からこ)で、その子(稲目の父にあたる)は高麗(こま)という異国風の名前であることも渡来人説を生み出す要因となっているが、
水谷千秋は「蘇我氏渡来人説」が広く受け入れられた背景を蘇我氏を逆賊とする史観と適合していたからではないかと述べている[6]。
また、韓子は『日本書紀』継体天皇24年秋9月の条の注に「大日本人娶蕃女所生為韓子也」(大日本人、蕃女(となりのくにのめ)
を娶りて生めるを韓子とす)[7]とされているように、外国人との混血児の通称であり、実在の人物名としては考えがたいとする[8]。 蘇我高麗
蘇我 高麗(そが の こま)は古墳時代の豪族。蘇我韓子の子。
蘇我稲目の父[1]。本名は蘇我 馬背。母は、高麗毘賣(こまひめ)[2]。
母が高麗(高句麗)人だったので、高麗と呼ばれたとする説がある。
業績はいっさい不明で『古事記』『日本書紀』にも登場しない。 大伴狭手彦が高句麗を攻めたときの戦利品として、高句麗の姫を欽明天皇に献上した。
高麗毘賣は大臣の蘇我稲目に下賜されて、妻となった。
というのが日本書紀のストーリー。 高麗という名前が初めて出てくるのは、紀氏家牒で、
蘇我高麗ではなく、「蘇我馬背宿祢、亦曰二高麗宿祢一」という形で出てくる。
同資料に「物部守屋大連亦曰二弓削大連一」とあるから、
本名は馬背であり、高麗というのは母方に由来するのだろうといわれる。 >>42
雄略に滅ぼされた葛城氏が『我は蘇る』と名乗った…という合理化は一応できるね >>43
キタナマロみたいに悪名つけたりするもんな 蘇我氏の系図で怪しいと言われる理由の一つに他の武内宿祢の子孫と違い石川から高麗まで分家が全く出てない点がある
蘇我氏は武内宿祢の直系の子孫ではなくて葛城氏か平群氏の分家だったのかもしれない なぜか紀氏家牒に系譜が出てくるから紀氏の分家じゃないの? そういえば奈良の都塚古墳が
基壇を整えてその上に階段状に積み上げられていた方墳?だったと
発掘でわかったとかいう記事がでていたね。
実際に稲目なのかどうかはわからんらしいけど。 武内宿禰関連の子孫云々の記述は他の豪族も全部あてにならんだろう。
何百年も生きたという人間の子孫がどうのという記述を素で受け取るやつは
頭がおかしいとしか思えない。
武内宿禰について書いてたやつは、漢文は下手くそとは言え、当時の朝廷内での
知性は卓越していたろう。当然そんな記述の非現実性については重々承知。
そんな非現実的なことを書いた理由は、当時のいくつかの豪族の格付けを同格と
位置づける手段が、血筋しかなかったからだ。
伝承上の人物の年齢を何百歳と書こうと誰も困らんが、
朝廷権力の担い手同士の諍いは非常にまずい。
書いた当人も、よもや千数百年後の人間が、その記述を素で受け取るほど
頭が悪いとは思っていなかったろうさ。
とはいえ、蘇我以外の名前が挙がる豪族は歴史的に実在した可能性が高い。
蘇我については、そもそも豪族だったのか?というのが問題の出発点だ。
蘇我のように自身の祖神を持たない「豪族」というのは一種の形容矛盾だろ。 寿命の長さがありえないことが
武内宿禰の実在性や子孫の系図を否定する根拠にはならない なんていうか「古代史のなぞ」的な本読んでそれで古代史語ってる感がすごい
武内宿祢の年齢を理由に非実在とすれば多くの学者が実在と認める120歳の崇神・110歳の応神・124歳の雄略ですら非実在になるんだが 第一すでに没落した葛城・平群と中堅豪族の紀、大臣を出し続けた蘇我をどうしたら同ランクに見えるんだw 都塚古墳関連で、稲目が高句麗の女を娶った話は信じられている割に、
狭手彦が高句麗の姫を奪って来た話が信じられていないのは何で? 武内宿禰って武内が姓じゃないの?
宿禰が姓なの?
この人の身内ってナントカの宿禰ばっかりだよね。
五月みどり、小松みどり姉妹みたいなもん? 質問に答えるよスレがあるんだからそちらでどうぞ。
単発Q&Aなモノを書いてもスレチでしかない サデヒコは批判しかできない学者が重箱の隅をつついて
この話は信用できませんねえとか言ったんじゃないの
武内宿禰の時代は姓は未発達だし、そもそも皇族なので姓はない
宿禰はこの時代の豪族の尊称の一つで豪族なら貴賤に関わらず使われた 「宿禰」で興味深いのは、日本書紀における6世紀代の実例が、蘇我稲目・蘇我馬子・紀男麻呂の3名に限られること、
紀男麻呂が皇別の紀氏出身なら「紀臣男麻呂」あるいは「紀男麻呂臣」とでも書かれていて良さそうなのに(神別の紀氏なら紀直)、
欽明朝〜崇峻朝まで一貫して「紀男麻呂宿禰」という記載であること、
そして、蘇我馬子についても「宿禰」の称が付されるのは基本的に崇峻朝までであり、その後は回顧的記事での使用を除けば、
天武朝の八色の姓の「宿禰」(むろんそれまでの宿禰とは意味が違う)まで、上記の称号としての「宿禰」の用例は見当たらないこと、
などが挙げられる。 >>58
スクネは役職というか身分みたいなもんで子孫に継承されるんだな
スクネの子もスクネ >>61
稲荷山鉄剣の【足尼】がスクネだとする見解もあるがどうなのかねぇ
デキスギのような気もするが >>63
たしか続日本紀に、「足尼」は「宿禰」とするように、とかいう記事があったと思う。
その他、古文献で「足尼」と「宿禰」が対応するようだから(例えば平群の都久宿禰と都久足尼)、
まず間違いないと思う。 蘇我稲目も上宮聖徳法王定説・天寿国繍帳で足尼って書かれてるな 刀禰は、戸主 > toushi > toshi > toji > 刀自のように、戸の兄(tonoe)からきている気がするけど、
宿禰ってどういう意味なんだろうか? 大兄(オホエ)に対して少兄(スクナエ)ではないかと。 あるいは
オホアニ(ネ)→オホネ〔大尼・大禰〕
スクナアニ(ネ)→スクネ〔足尼・宿禰〕 大碓命 オホウス
小碓命 ヲウス
のようにオホエとヲエになるんやないかという疑問はあるけど、
ありえそう 孝元天皇の子には、大毘古命(大彦命)と少名日子建猪心命(少彦男心命)という例があるね 三国史記の将軍「于道朱君(ウチシュクン)」が武内宿禰で葛那古は葛城襲津彦
倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。
于老はその接待の役に任ぜられた。彼は倭の使臣に戯れて
「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。
倭王はこれを聞いて怒り、将軍、于道朱君を派遣して、
わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。
于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、
私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って
「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、
軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。
倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。 >>73
三国史記は時代的には日本書紀を参照可能なんだが、こんな屈辱的な話が朝鮮の記録に独自に存在したんだろうか "大兄"去来穂別(履中)と雄朝津間稚子"宿禰"(允恭)ってのも似たような範疇かも。 >>70
興味深いけど、これだと音読み訓読みごっちゃになるよね
その辺掘り下げてみたい 于道朱君おもしろいね
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/uchi/uchisuk1.htm
これを読む限り、三国史記って、
全然史料批判されずに、基本無視されつつ、都合のいいところをひっぱられている印象を受ける >>76
大尼・大禰のことでしょうか。
これは「先代旧事本紀」に出てくる、物部氏の役職や一種のカバネ的名称です。
実際にあったかどうかは分かりませんが、伝えられてきたのだとすれば無論後世の当て字と思われます。 つか奴らが資料使うときって、チェリーピッキングしてる所しか見たことが無いんだがwww
対馬は昔朝鮮領だった〜とか實聖尼師今七年の記事(倭国が対馬に軍営を置いて兵糧を蓄え、我が国に侵攻しようとしている!)知ってたら絶対言えんわな。
瓠公とか絶対知らんだろうし。 >>75
確かに天皇なのにスクネっているんだよね
となると、役職やカバネだと説明つかなくないか?! >>79
日本人を絶対的劣等民族と言っときながら、片方で古代朝鮮人の子孫だと言うからな >>80
カバネというよりカバネ的「名称」かな。
○○ワケ天皇(皇子)、なんてのも相当するかも。
時代は違うけど、○○大兄皇子とかもね 武内宿禰って武内が名字じゃないの?
なんか身内の名前がナントカの宿禰ばっかりなんだけど。
宿禰が姓なの?
五月みどり、小松みどり姉妹みたいなもん? ごめんなさい>>84=>>58です。
うちのケータイが>>56で止まってたんで
二度質問してしまいました。 >>83
となると、>>70が真実味を帯びてくる
単なる大小を指す言葉なのか
ところで、仁徳天皇紀にスクナという怪物が出てくるが無関係なのか もしかしたら邪馬台国の時代から蘇我入鹿まで二重統治制だった?
邪馬台国時代は聖権の卑弥呼と俗権の男弟とによる祭政二重統治制
崇神天皇〜蘇我入鹿は聖権の大兄(オホネ)系の天皇家と俗権の少兄・(スクネ)系の宿禰の祭政二重統治制 二重統治じゃなくて多元統治だろ
王族含め諸豪族がそれぞれ土地と人民をもつ小首長
大王はそれらの最終的なまとめ役
7世紀はそこから天皇を頂点とする公地公民・中央集権・官僚体制への移行の歴史 武内宿禰の話が嘘っぱちとは思わないね。
成務天皇と同日生まれで、5代の天皇に仕えた。
日本書紀の120歳とかを信じるとうそっぱちかもしれないけど。
有栖川宮幟仁親王は73歳まで生き、4代の天皇に仕えた。
亡くなった時大正天皇は生まれていたから、5代ともいえないことはない。
どんな庶民でも、祖父、父、自分、子、孫の5代を知ることは難しくはない。
特別長寿と書かれているんだから、80歳に近かったのかもしれないが。
活躍したのが、30代〜50代に相当する働き盛りの期間だと考えられる。
でっち上げる必然性はない。 >>87
ありえるかも
『隋書』「東夷傳俀國傳」より
俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟
(訳)
倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(かふ)して座す。
日出ずれば、便(すなわ)ち理務を停め、いう、我が弟に委ねんと
兄 大兄 オオエ 天皇 祭 聖
弟 少兄 スクネ 宿禰 政 俗(軍) 二頭政治という指摘は今までにもあったと思うけど、
それを大兄、宿禰という名前と結びつけたのは画期的かも。
乙巳の変によって「宿禰」の意味が分からなくなって、
記紀ではその扱いがぞんざいになった可能性もある。
また、大王が亡くなって次の大王が決まるまでの間、宿禰が大王になる、
あるいは兼任するということもあったのかもしれないが、
そういったことが乙巳の変によって失われてしまったということも考えられる。
そう、考えると、兄弟統治(実際の兄弟である必要はないが)ということで、
一つの名前で記されてたとすると、
一人の天皇が100年以上も生きたという事も説明がつくかも。 二王制ってスパルタかよ
新羅の王家が三系統あるってのも意味わからん 日本書紀は年齢を盛ってるね。
だけど、古事記には年齢はなくて没年の干支がある。
崇神没年318年説を取れば、武内宿禰の年も荒唐無稽ではないかな。 継体の晩年になって、それこそどこの馬の骨ともわからん蘇我がいきなり登場し、
以降他の豪族を押しのけ、継体後の歴代天皇の外戚となる。
まあ、そもそも継体自身もどこの馬の骨ともわからんやつだが。
仏教導入時にも、他の豪族の「んなよその宗教入れて、祖神はどうすんだよ!」という
猛反対にもかかわらず、蘇我と天皇は、受け入れ強行。
「もうでかい古墳なんてつくるんじゃねーぞ」と禁止令まで出す。
異文化の二人組み押し込み強盗にのっとられたんだよ、畿内は。 >>94
継体天皇の皇子が続々即位しちゃって王権が乱立したってのも結構リアルだよね >>90
欽明天皇→蘇我稲目
用命天皇→蘇我馬子
聖徳太子→蘇我蝦夷
山背大→蘇我入鹿
生没年から検証しました。 >>94
傍流が何かの拍子で王統を継いだ場合権威づけに外来の思想や宗教持ってくる
ってホントどこにでもある話だな >>91
ヤマトタケル(明治以前の読みはヤマトタケ)=「武」内宿禰(弟は「甘美」内宿禰)
景行天皇=武雄心説があるみたいだね
ヤマトタケルは武内宿禰(たけうちのすくね)の若き姿
http://www.geocities.jp/shoki_otoku/
↑
この幻の皇統系譜説を参考にするとこんな感じかな
皇統 スクネの系譜
開化天皇 大彦
崇神天皇 彦太忍信命
垂仁天皇 景行天皇=武雄心
仲哀天皇 成務天皇=日本武=武内宿禰
麛坂皇子 応神天皇
仁徳天皇 宇治稚彦皇子(武・内宿禰の内は宇治に通ずる>>77)
履中反正 允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰)宿禰から異例の即位 倭の五王済は前王との関係不明 >>96
ちなみにこれは天智天皇が山背王=蘇我入鹿暗殺して、日本書記を編集したという意味です。武内宿禰以降の子孫は歴代の天皇ということになります う〜ん、こういうのはどうなんでしょうね?
古墳を潰して宅地にしたところに住みたいですか?
知ってたら無理ですよね。
↓小倉北区日明一本松塚古墳
http://kitaqare.d.dooo.jp/images/hist0205.jpg 古墳時代前期〜中期の天皇(大王)実年代化(古事記の没年情報+中国皇帝への朝貢記録+同時代人)チラ裏
★三輪(佐紀)朝=【列島統一→半島派兵(高句麗・新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源を獲得)】
10祟神(〜318年)…纏向に東遷280年頃(西晋滅亡前夜)?四道将軍派遣290年頃?大田田根子
11垂仁(情報なし)…330年頃没、新羅王子「天之日矛」帰化、田道間守 、野見宿禰vs当麻蹴速
12景行(情報なし)…343年頃没、日本武尊の熊襲討伐・東征340年頃、大臣・武内宿禰(〜応神)
13成務(〜355年)…国造/県主設置
14仲哀(〜362年)…新羅派兵に反対し、神罰により崩御(暗殺か)
神功(※〜389年)…「旨」三韓征伐(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→「神功52年」372年百済・近肖古王より贈呈)
★河内朝=【半島派兵(高句麗との戦い&百済支援)本格化】
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)
18反正(〜437年)…「珍」(438年)
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)←「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)23顕宗(情報なし)24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
※神功皇后…日本書紀による没年情報 「倭の五王」の正体判明!「倭の七王」だった!〜隠れていた2人の倭王(17代履中と25代武烈)〜
413年/421年/425年「賛/讃」…仁徳
430年★「倭国王」…履中
438年「珍」…反正
443年/451年「済」…允恭
460年/462年「倭国/興」…安康
477年/478年「武」@…雄略
502年※「武」A…武烈
★430年の「倭国王」が履中 → 438年「讃の弟珍立つ」の真相
430年に中国の南朝(宋)に朝貢した「倭国王」が「讃」ではなく、「讃の子」で、
その8年後の438年に「珍」が朝貢した時に、倭国の使臣が「先代の弟」と説明したとすると、
台与以来約150年ぶりに朝貢してきた倭王=「讃」のイメージが強烈だった宋側にしてみれば、
名前不明で影の薄い先代「倭国王」の弟ではなく、先々代「讃」の弟と錯誤した可能性がある。
もし【父「讃」→「倭国王」/「珍」兄弟】ならば【父(仁徳)→(履中/反正)兄弟】となり、
記紀(大和朝廷)の天皇系譜と合致する。
※倭王「武」は2人いた。
502年、南朝(梁)の「武」帝が征東大将軍に進号した倭王「武」が、477年/478年の倭王「武」(興の弟)とは別人で、
雄略(幼武)の孫の武烈とすれば、雄略の没年489年や、雄略没後の大混乱(24年間の朝貢中断)とも整合する。
∴@讃(仁徳)→A倭国王(履中)→B珍(反正)→C済(允恭)→D興(安康)→E武1(雄略)→F武2(武烈)
「倭の七王」となる。 そういう推測は倭王の名前からできるが、中国は勝手に外人の姓名を漢字に直すんだよね
クシャーナ朝のヴァースデーヴァは波調だし 自然科学分野では光の速さは一定だなんてありえない!なんて言う馬鹿はいないのに
人文科学分野では105みたいな知ったかが湧くのってなんでだろう 泰氏が漢族はどうかはわからんが、漢文明圏からの移民であるというのは通説だろ。
他の連中にも同類がいても何の不思議もない。
記紀にある各豪族の勢力圏なんてのは、後世の記述だからそれ自体は何の根拠にもならない。
オーストラリアは昔からイギリスの領地でした、というレベルの話。 単純に機織りが秦で、事務係が文部アヤベだっただけの気がする
あるいは辰韓(秦韓)の移民という内容が含まれるのか
後で始皇帝の子孫とか言い出したから秦の字が着いてるだけじゃないのか
日本人はシャレの表記を楽しむ風情があるからね >>109
>>110
通説にたいして適当な妄想垂れてんじゃねーよ、池沼 >>111
おまえの知ってる通説を簡単に説明してくれや 仲哀天皇は302年崩御
応神天皇は394年崩御
神功皇后の胎中にて即位したとされる応神天皇と
394年崩御の応神天皇とが同体であるということは
天皇位の継承が名跡継承方式であったことを物語る。
胎中天皇が仲哀天皇の実の子であれば、
却って天皇位継承権がなかったのではないか。
神功皇后が出産遅延の努力をしたのはこのためである。 >>117
景行朝から仁徳朝まで仕えた武内宿禰がいるのだから、応神天皇がそんな長生きだったとは考えられずむしろ短命だったのでは。
那珂道世博士は仲哀天皇崩御年を362年としていてこちらの方が正しいと思われる。
また血統を重んじていたことは顕宗天皇・継体天皇の例を見ても明らか >>116
年代が比較的明らかな時代の安閑天皇以降でみると
安閑天皇70歳
宣化天皇73歳
欽明天皇63歳
敏達天皇48歳
用明天皇48歳
崇峻天皇40歳
推古天皇75歳
聖徳太子47歳
舒明天皇49歳
皇極天皇67歳
弑逆された崇峻天皇を除くと平均60歳 >>104
502年は中国側の王朝交代により進号で高句麗や百済にも同時に進号させているのでその時代に倭王武(もしくはそれの後継者)が朝貢したわけではないと思われ 古墳の周濠、あれって、大阪人ならボートレースをしてたと思うよな。
10人漕ぎの大型軽野(カヌー)が一団となってコーナーを抜けるには、
仁徳天皇陵のような大型レース場が要る。
古墳時代の土豪というには、住民から税金を取っていたわけではない。
寺銭が主な収入源だし、大きなボートレース場を持つことが大王の条件。
江戸時代には、地外法権で規制の緩い寺の境内が賭博場として使われ、
寺に寄進した場所代が寺銭と呼ばれた。 今、地方に行って立派な建物と言えば、役所などの公共施設とパチンコ屋。
3〜7世紀に次々と造られた前方後円墳はあまりにも豪華すぎる。
なぜそんなものが必要だったのか?誰が金を出したのか?
日本人は昔から賭け事が大好きで、大王は賭博王だったと言うのは頷ける。
大型古墳は、ボートレース、競馬、相撲などの複合賭博場だったのだ。
賭博で負けて土地を失った農民を人夫として働かせ、大型古墳の賭博場を全国に展開した。
運だけで大王になれた時代、いや、運が悪いと奴卑、すごい時代だった。 古代住之江ボートの元締めが住吉大神様であった、ということですか?
初めて知りました。納得です。ありがとうございます。 >>122
古墳を作るのは大変だから
仏教を取り入れて火葬になったと思う >>43
50年差で同じ名前の人物が登場するのに別人とはそちらの方が不自然
どちらかの記事が時代を誤って書かれているとみるべき >>126
むしろ名前が同じだから同一人物に違いないという考えが不自然 古事記にしても日本書紀にしても編纂者は本当に愚かなことをしてくれたよな?
天皇制の権威づけのために系統や歴史を盛りすぎたせいで
実在したであろう君主や巫女の記述があいまいになり
あげく「架空の人物」に近い扱いで教科書にすら取り上げられない
何やってるんだか全く 古代住之江ボートでツケマイというテクニカルは
あったのでしょうか? 蘇我氏渡来人説とか寝言は寝て言えって感じだな
百済と高句麗の区別もつかない奴が学者できるってのもすごいが >>127
仮に同一人物でないにしても
氏族名+官名
で両者が一致した、つまり親族の可能性が高いわけで どうしても渡来人にしたいやつがいるんだね。
心配しなくても渡来系といえば、みんなアフリカからの渡来人だよw
記紀の時代、どの氏族が渡来人かの記録があるのに、わざわざ詐称する必要は
ないだろ。 >>133
色々ツッコミたいけど、
あなたのいう一致している「氏族名」と「官名」って何? >>128
神武天皇や決死八代はともかくそれ以降は全員実在して
事績も誇張はあるにせよ記紀の通りだと考える学者は最近多いよ 欠史八代とか王朝交替説とか訳の分からん説よりも、記紀のほうが考古学と
整合性があるんだよな。なんという皮肉 箸墓、西殿塚古墳、西山古墳、メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳、このあたり誰なんだろ。
開化陵ってどんな評価なんだろ。見たことないからなあ。
改修されて元の形が不明で発掘もしてないから評価の仕様がないのかなあ。 どっかのサイトの受け売りだが、
主神でアマテラスを祀ってるのが1200,
副で祀ってるのが5000だとか >>138
崇神天皇陵より古いとなると、それこそモモソヒメ命やいわゆる四道将軍のだれかくらいかなあ
吉備津彦兄弟や丹波道主王は地方に下ったみたいだけど彦坐王や大彦命は崇神天皇より年上だろうし、本人が地方に下ったわけでもないみたいだし可能性は大きいと思う >>141
初期の大きめの古墳がヤマトに多すぎるんだよな。
天皇だけだと余ってしまう。卑弥呼とトヨを入れても余る。
なんというか、有力者がヤマトに集住し、そこで古墳をつくったかのような。 天皇陵だけじゃなくて皇后陵も考えればいいんじゃない?
御間城姫命は父が大彦命、兄が武渟川別命だし全員皇族だからみんなあのあたりに埋葬されててもおかしくないし 箸墓:モモソヒメ命
西殿塚:孝元天皇
西山:伊香色謎命か欝色謎命
櫻井茶臼山:大彦命
スメリ山:彦坐王
まあこんなところか?
でも延喜式に見える孝元天皇陵が小さい古墳だというのはむしろ誇張等をしておらず正確な気がするから分からんなあ… >>15応神(〜394年)…「禰(でい)」
>>16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
仁徳の弟らが、倭珍、倭済であり
後期九州王朝へ分岐している。
軍事指導専従の統合参謀本部として
かつての「倭国」の名義を再興したわけだ。 >>141
大彦は中央の安倍氏の祖先だから中央にいた可能性あるが
彦坐王は但馬に下ってんじゃないの? >>146
そこに住む一族の初代が磐余彦・吉備津彦みたいな称号を名乗るケースが多いみたいだから
丹波道主王こそ初代で彦坐王は下ってないと思ったんだけどどうだろう
と思っていろいろ調べてみたら彦坐王墓って岐阜なのか… 彦坐王ってなんか岐阜と関係あるっけ?
なんで岐阜ってのを宮内省も認めたんだ? 彦坐王は近江・山城・春日じゃないのか。
椿井大塚山古墳あたりはどうだろ 確かに椿井大塚山古墳の方が大きさ的にもいいとは思うんだけどね…
たしか群馬のある古墳が毛野氏の祖先の皇族の陵墓にしてはどうかと働きかけがあったとき
「それなりの証拠がないと比定出来ない」と言われたという話を聞いたことがあるんだが
あんな小さな古墳のどこを見て皇族の陵墓と認めたんだろうか >>146
但馬は当時は丹波だし、古墳から見ても丹波一族がいたんじゃないかなあ。 トヨと崇神の関係が気になるなあ。
トヨは248年頃に13歳で、266年に朝貢しているっぽい。
崇神の一世代上くらいじゃないかと思うけど、記紀に出てくる誰かであっても
おかしくないね。 応神天皇の崩年が甲午で394年で、
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年
成務天皇の崩年が乙卯で355年
崇神天皇の崩年が戌寅で318年か258年とされるが、
垂仁・景行・成務三天皇は直系で相続しているので崇神崩318年は無理があるから
むしろトヨは崇神の一世代後で豊城入姫命こそ正しいと思う
その場合卑弥呼はモモソヒメ命だろう 応神天皇の崩年が甲午で394年 → 正解
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年 → 303年
成務天皇の崩年が乙卯で355年 → 295年
ですっきりするでしょう。
303年〜394年が、半島から実力者が次々にやって来た時代で、
万世一系の建前が成立しないので、記紀が書けなかった。 おいおいw
またチョンコロが喜びそうな説に持っていってるなw 154
それだと崇神天皇の崩御年は198年になるんだが
つーか当時の朝鮮人自身が朝鮮人に渡海侵攻能力はないって言ってるから 分かってるよwww
邪馬台国だの魏志倭人伝だの突然、話が湧き上がってきたのは
日本国内からだからな
チョンコロが後世になって日本国内に住み着いて威張りだしたか
あるいは当時の宗教関係などから利用するように生まれたのか?
どっちにしろロクなもんじゃあないんだよ
遡及方を適用するなら朝廷関連やら徳川だの過去の日本国内の
戦犯には償ってもらわなきゃな 歴史では美化されてるけど実際の性格なども違うようにも描かれてもいるんだよなw
これはマスゴミの犯罪な、小説家やら思い入れで評価は変わるからなw
どうやって手段絡みに持っていったんだ?お前らな >>68
俺の妄想説では宿祢の「スク」は 佐、介、助 つまり次官のことだと思う
たとえば信長の称した上総介は上総守が上総国長官で、その次官になる。
大国主命の国造りを助けた神が「スクナヒコナ」。少彦名と書かれるが
助ける彦 と云うのが元の意味だったのではないか
武内宿禰、蘇我稲目宿祢と書かれるのは彼らが大王を助けて政務を執る立場
大臣だったから。そういえば武内宿禰の後継氏族から大臣でている >>152
卑弥呼 垂仁の異母兄姉弟の豊鍬入姫
台与 景行の同母兄妹の倭姫命
21 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 17:42:31.06
神武天皇を1世とした時の世代数
25世. (38代) 天智天皇. 626-672
42世. (77代)後白河天皇 1127-1192
72世(125代) 今上天皇 1933-
古代〜中世 1世代平均29.47年 25世 天智天皇(生年. 626)から42世 後白河天皇(生年1127)まで
中世〜現代 1世代平均26.87年 42世 後白河天皇(生年1127)から72世 今上天皇(生年1933)まで
古代〜現代 1世代平均27.81年 25世 天智天皇(生年. 626)から72世 今上天皇(生年1933)まで
時代が古くなるほど1世代あたりの年数は長くなる
生年が確定している天智を起点に父の父の父の・・・と1世代29.47年で遡ると・・・
626 25天智 626-672
596 24舒明 593-641
567 23押坂彦人大兄皇子
537 22敏達 538.?-585.?
508 21欽明 509.?-571.?
478 20継体 (武烈)
449 19彦主人王 (清寧)(仁賢)
419 18乎非王 (雄略)(市辺押磐皇子)
390 17意富富等王 (允恭)(履中)
360 16若野毛二俣王 (仁徳)
331 15応神
301 14仲哀
272 13日本武尊
242 12景行
213 11垂仁 田道間守(たぢまもり)=難升米(タヂマ)
183 10崇神 四道将軍=倭国大乱 磯城県主って三輪氏と同族で、磯城県主家が絶えて大物主神の祀り方がわからなくなったから大田田根子が呼ばれたんじゃね?
って思ってたら太田亮の姓氏家系大辞典に俺の説がそのまま乗っててわ
戦前の学者ってすごいな >>161
天智天皇〜孝明天皇までにした方がいいと思う。明治以降は条件が違いすぎるから
だいたい1世代27年だった。
古代史は史料が少なすぎて所詮、水掛け論になってしまうのだが、継体以前の
大王位は血縁による世襲ではなかったと云う説も有力になってる。 164
だが系図を見れば血縁で結んであるけどな
つうか系図の見方を変えた方がいいって話なのかな >>164
学者の言う「世襲王権が確立した」を曲解した奴が言ってるだけだ。
それ以前は即位には豪族による推挙の過程があったのが欽明朝以後なくなったってだけだろJK
第一倭の五王は中国側に姓が倭だと名乗り出てるんだぞ、血統の概念はあったに決まっている あと、古代は職掌は伴造、国造、県主みたいな一般官吏だけでなく大臣や大連のような要職に至るまで世襲だったからな
だったら大王も世襲と考えるのが当たり前だろ
なのに王朝が一つでなかったなどというのは万世一系を否定したいだけのただの妄言と言わざるを得ない >>164
天智天皇〜孝明天皇は1世代平均28.02年
だいたい28年 >>165
記紀以前の聖徳太子関係だったと思うが、継体天皇から後は、大王位はその血統より外に出た
ことがない書かれている史料があった。それ以前は一系で世襲されていなかったということだろう。
倭の5王の讃、珍、が兄弟で後、済=允恭、興=安康、武=雄略と世襲されるのだが
珍と済=允恭の続柄が中国側史料に書かれていない。允恭は雄朝津間稚子宿禰尊と書紀に
書かれているのだが、宿禰という姓は王族らしくない。
記紀は天皇家が日本を統治する正統性を述べるものであるから、本来一系でなかった王統を
一系に作り変えたのだと思う。 >>168
>古代〜現代 1世代平均27.81年 25世 天智天皇(生年. 626)から72世 今上天皇(生年1933)まで
>天智天皇〜孝明天皇は1世代平均28.02年
矛盾してないか >>167
大王にふさわしい人物が倭国を構成する有力氏族によって大王に推戴されていたのだと思う
遥か後の時代である飛鳥時代でも、即位儀礼として形式的になってはいたが
臣(まえつぎみ)が新大王を推戴する形をとっていた。 >>169
以前読んだ本にあったのがソースかよ
それこそ左翼学者の脳内妄想だろ
それに天武天皇は諡に真人が入るから血統が変わったてか?
幾つも王等があったってじゃあ残りの王統は何処に消えてなんでわざわざ越前から継体天皇が来たんだか説明ができない。
記紀通りの系譜であったほうが自然 あと允恭天皇の宿禰は履中天皇の大兄に対応すると思われ >>169
宿禰が允恭天皇の姓? 名前の後ろについてるのに?w
あと五王の倭王済は「倭済」って書いてあるの知らんの?
姓が倭氏なら倭讃と同姓だから男系で同族だっていう表現だろ。通説だがねw その時代、姓はまだ無かった
俺の妄想説では宿祢は大王を助ける地位にあった人物
だから、珍の死後、珍の大臣にあたる地位から大王位に就いた 妄想だ、ええ妄想なんだよ
撮り鉄、乗り鉄、車両鉄 皆、鉄道会社の社員でもない素人が鉄道で楽しんでいる
古代史なんて史料が少なすぎて最後は水掛け論に終わるんだから
歴史の探求はプロであるその道の専門家に任せて、素人は自説を妄想することを楽しんだらいい 「僕は専門家じゃないから妄想を垂れ流してもいいんだ」って考え方、最低だな
チラシの裏にでも書いてろ
人としての礼儀を考えろよ 基本となるのが、崇神の崩年干支を318年と定めるかどうか。
ほぼ文献的、考古学的にほぼそれが定説になっていて、
他の説だと牽強付会の感をまぬがれない。
318年から考察していくと、流れがだいたい見えてくる。
初代、神武からはじまじって、十代崇神でヤマトの王から、
日本(大八洲)の統治者になっていく流れが。 鉄器を作り始めたのが7世紀ころってのはハッキリしてんだろ
伊賀甲賀は忍びの里、近江商人は武器商人
まあ畿内で始まってるわな 鉄器を作り始めたのが7世紀ころってのはハッキリしてんだろ
伊賀甲賀は忍びの里、近江商人は武器商人
まあ畿内で始まってるわな >>172
そうだよ、だから別々の氏族に押される皇族同士で皇位争いがあったんだろ
そこまでは記紀の伝承と矛盾しないじゃん。
万世一系を否定する根拠にならんよ。
モンゴルのクリルタイも父系血統の範囲内でしか候補は選ばれない。
群臣が推戴する形があったからといって
血筋まったく無関係に王が選ばれた証拠にはならない。 >>184
なぜ群臣が推戴するのか。大王が後継者を指名すればそれで済むことだ
そうでないのは昔は倭国を構成する有力氏族が自分たちの中から大王を選んでいたからだと思う
モンゴルの例も、もっと昔は選挙王政だったのでは
中国でも夏王朝から血統による世襲は始まった。それ以前の三皇五帝時代は世襲ではなかった
しかも、夏王朝1代目禹、2代目啓が即位するにあたって別の候補者がいたが諸侯が彼らを支持した
ことにより即位している >>161
卑弥呼が豊鍬入姫だったら
卑弥呼の墓=ホケノ山古墳となるから
箸墓古墳みたいな年代の矛盾はなくなるな >>153
応神天皇の崩年が甲午で394年で、
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年
成務天皇の崩年が乙卯で355年
崇神天皇の崩年が戌寅で318年か258年とされるが、
崇神の没年は318年でも矛盾はないよ。
事績等から、崇神は平均より長命、成務は後継者も残さず早死していると思われる。
仲哀も長命ではなかろう。神功皇后は応神の成人までは生きていたはずだが。
崇神没年が258年ならば、まさに魏志倭人伝に書かれた最中の人になる。
同時代にもかかわらず、何も記されていないのは矛盾する。 桓武天皇の祖父志貴皇子の生年が不明。
天智天皇生年626年、志貴皇子、光仁天皇(709年)、桓武天皇(737年)、嵯峨天皇(786年)
嵯峨天皇は桓武の49歳の子。桓武は父の光仁天皇も当初は皇位を継ぐ予定ではなかった。
当然桓武も末端の王族でしかない。天武系の生きている子孫の多くが臣籍降下し、
王族がほとんど残っていなかったからか、高齢で生まれた皇孫である父が急遽
皇位を継ぎ、桓武が皇太子になり、后を取り高齢で子をなした。
そのため、天智天皇から4世代後の嵯峨天皇まで160年にもなる。
他の10世代が平均26年で260年、この4世代が160年、合わせると14世代で420年で
平均すれば30年になる。
だからといって、天智天皇から遡る場合、平均を30年にするのが正しいとは
思えない。 >>188
欽明は安閑宣化が継体と同じ仁賢天皇の皇女を皇后にしたことから
継体が50歳以上の時の子だろうし
応神も神功が麛坂皇子忍熊皇子らと戦ったことを考えれば
仲哀は少なくとも40歳、50歳や60歳の時の子の可能性もある 代数より世代で考える方が数値は安定してる。27年〜30年だな。安本なんて天皇の代数で1代10年だから
卑弥呼が天照大神になってしまう。
だだし、古い時代は末子相続の可能性や、兄弟なのに親子として
記録に残されているかもしれない。兄弟相続が履中以降なのはおかしい 前スレで諸豪族との系譜比較で崇神天皇が神武天皇の5世孫あたり、
垂仁・景行と成務・仲哀が同世代とした方がよいって表があったな
それなら崇神崩年が318年でもおかしくない範囲になるし巻向遺跡との整合性も取れるしいいんじゃないかと思うんだが 諸豪族は第1夫人の子が跡を継ぐけど
拡大期の大王家は政略結婚によって第2夫人(30の時の妻)第3夫人(40の時の妻)が皇后になることが多い
だから諸豪族より1世代が長くなる >>190
古い時代にあったのは兄弟相続じゃなくて末子相続。
履中以降に現れる兄弟相続は末子相続から長子相続への移行期だと思えば
ぜんぜんおかしくない。
それと兄弟相続でも最後は末弟にいくんだから一世代あたりの平均年数は
兄弟相続と末子相続では同じ年数になると思われ。
>>192
そうともいえない
諸豪族の系譜でも兄弟が記されてる例では末子相続が多いことから
系図上で一子しか記されてない場合でも
その子は末子が少なくとも長子でない可能性が高い 崇神の時代の逸話は、記紀で内容が違うんだよな。
四道将軍とかモモソヒメとか、古い伝承で何時のことかはっきりしないのを
全部崇神の代にまとめたって感じがするね。
古事記では、吉備との関わりはもっと古いんだよな。
崇神のころにヤマト王権を支えていた有力者を、「崇神が支配下においた」
という形で書いてるというか。
系譜は捏造してるとは思えんな。そのように伝わっていたのを書いた。
他の氏族との関わりがあるから、A家から嫁に来た妃を消すわけにいかんし、
そんなことしたら自分の先祖を消すことになるし、作ったとすれば先祖でない
人を先祖にすることになる。そんなことをする必然性もないし。
捏造ではなくて、後の天皇家につながる系統だけを取り出して書いていると
いうことだね。崇神以前は、特出した権力は持っていなかったんだろう。
崇神以降も王位継承の争いが頻繁に起きている。
そのような時代に、40歳の時の子供をわざわざ後継者に選ぶ必然性はない。
早ければ早いほうが良い。少なくとも20代のうちの子供だ。 >40歳の時の子供をわざわざ後継者に選ぶ必然性はない。
>早ければ早いほうが良い。少なくとも20代のうちの子供だ。
史料を重視する限りそれはなさそうだな
思い込みを優先して史料の所伝を歪曲するのは賛成できない
むろん史料のかたる伝承がそのまま事実とは限らないが
伝承に訂正を入れる場合は確たる証拠がないとね 資料を読んでも「わざわざ40歳以降の子を後継者に選んだ」って見つからんけどな
130歳を信じるならそうかもしれんが 諸豪族とは違って崇神、垂仁、応神、継体などは第2夫人第3夫人以降の嫁が皇后になっている 崇神の皇后は大彦の娘で第1夫人。垂仁が生まれる。
垂仁の第1夫人はサホ姫だが、皇子は口がきけずないから、
皇后に地位にはつけない。さらに、兄サホ彦とともに反乱で焼け死ぬ。
継体の皇后は欽明を生んだ正式な第1夫人の手白河皇女。 継体の場合、入り婿だから手白香皇女を皇后にするしかないな
サホ姫は皇后だよ。兄が反乱を起こしたとき兄とともに焼け死んだから
ヒバス媛を2代目の皇后にした 家康も正室→継室と晩年に正室を新しく置いているね
古代諸豪族と同じく家康側近の四天王は正室だけ
長子優先が確立していたから秀忠が継いだけど
崇神の時代なら秀忠でなく尾張徳川義直、紀伊徳川頼宣、水戸徳川頼房の
誰かが跡を継いでいたかもしれない
兄の豊城入彦は弟の活目入彦より20歳以上年上の可能性もあるな 狭穂姫の残された皇子は誉津別命というのだが命がついている割に白鳥をみて
初めて言葉を発したとかショボイ伝承があるだけで、皇統には何の影響も与えていない
この人が応神天皇ではないかという人もいる
私は天智天皇の皇子である建皇子がモデルだと思っている 崇神 遠津年魚眼眼妙媛→御間城姫 晩年の皇后の子が継いでいる
垂仁 狭穂姫→日葉酢媛 晩年の皇后の子が継いでいる
仲哀 大中姫→気長足姫 晩年の皇后の子が継いでいる 目子媛は継体の地方豪族時代の夫人だから皇后じゃあないだろ
手白香皇女と婚姻して、即位できたと考えるべきだ 晩年に婚姻した2代目皇后(正室)の子が跡を継いだ天皇
崇神 遠津年魚眼眼妙媛→御間城姫
垂仁 狭穂姫→日葉酢媛
景行 播磨稲日大郎姫→八坂入媛
仲哀 大中姫→気長足姫
継体 目子媛→手白香皇女 >>207
長じて即位してから有力者の姫を娶ったのかな 崇神〜応神は晩年の皇后の子が継いでいたが
応神の晩年の皇后の子の菟道稚郎子が仁徳に皇位を譲って自殺(仁徳に殺されて?)から
晩年の皇后の子は継がなくなる
崇神〜応神と応神〜天智の1世代の長さはかなり違う
応神〜天智が30年で崇神〜応神は40年ってこともあると思う 大仙陵古墳ほどの国家の大事業が記紀に載ってない
当時全長800m超の墳墓を造るのは大したことじゃなかったのかな >>98
事代主直系の向家・富家に伝わる話がベースの擦り合わせ神代系譜で
大国主より以前の神代系譜は・・
・御中主命=国常立命(クナト大神)
クナト大神−八島篠−布葉之文字巧為(ふはのもじくぬす)−八束水臣津野−赤衾伊努意保須美比古佐倭気−大国主・・八千矛(大穴持)┬伊佐我(伊佐波)
├阿遅須枳高日子
└高照光姫
・出雲・大国主神・・八代:八千矛神−九代:阿遅須枳高日子神−十代:鹽冶毘古能神=長髄彦−十一代:古事記の速甕之多気佐波夜遅奴美神=神門 速甕之建沢谷地乃身神(初代:旧出雲大社(杵築大社)司祭:神門氏)
・・十代神門 阿多神−十一代:出雲(神門)振根命=(倭健命)日本武命−十二代:神門鹽手命=神門伊賀曽熊命の子
建部氏(武部)、武内宿禰・葛城襲津彦・・蘇我馬子=島大臣。※@百済国、第二十五代:武寧(武内)王=斯摩王
出雲(神門)笠夜命、斯摩宿祢、島津(志摩)国造家の斯摩、志摩、島(直)氏の島族・・※A百済渡来島族の武蔵・千葉国造家
※@は、三韓討伐以降の在地官人が王族化し、その末代が倭史・和史と名乗り、白村江の敗退で、日本へ渡来。
し、日本国内でも、朝廷や出雲族と争い、神門神社を頼った記録が九州の神門神社周辺に残っている。
※Aは、同じく百済から渡来し、島族として帰化に成功した百済人が、武蔵・千葉国造家として関東平野へ移住した事を示している。
大宮・氷川神社などの祭神がそのようですね。 ゆえに、関東平野・東京湾周辺の古墳群を神門古墳群と呼ぶのでしょうか・・ >>214
新門古墳群て初めて聞いたな。具体的にどの古墳の集団を指すの?
まぁあまり歴史に詳しくないので検索してみたけどやはりヒットしなかったので。 >>214
ああ、失敬。漢字間違えて検索してた(笑)ごめんごめん、理解したわ。
千葉に昔いたけど、市原の方には目が向いてなかった。 なんで日葉酢媛命陵が晩年の妃なんだよ。
サホヒメが死んだのは赤ん坊を産んで間なしじゃん。 第一皇后の狭穂姫は垂仁天皇即位後2年目
第二皇后の日葉酢媛命陵は即位後15年目
即位したのが30として45歳 >>224
見たいと思ったら奈良かよ…。さすがに東京からはいけねぇな >>225
140歳を信じるのか。驚きだ。
サホヒメが死ぬ前に言い残したんだから、その時にお年ごろですぐに
嫁にもらったと普通は考えるけどな。 『釈日本紀』に引く『尾張国風土記』逸文では誉津別皇子は7歳になっても話すことができなかったとある
即位したのが30歳とする
狭穂姫との婚姻を即位直後(日本書紀は2年目)として
誉津別が生まれたのが32歳、7歳の時に垂仁は39歳
狭穂彦の乱直後(日本書紀は10年後)日葉酢媛と婚姻したとしても39歳
日葉酢媛2皇子・2皇女を産んでいる(15年以上か?)ので垂仁39歳〜54歳
十分晩年と言える なんで7歳で乱になるのさ。
乱の時に生まれてすぐと書いてあるじゃん。 日本書紀には誉津別命は壮年になるまで話さなかったとある
日本書紀を信じるなら誉津別命は30歳以上
尾張国風土記逸文を信じるなら7歳以上生きたことになるね >>225-230
いや両立するやん。矛盾は回避できてるやん。なんの議論だね?
>>227のツッコミがわからないんだが第二皇后が若い分には
垂仁天皇からしたら問題ないよね? あとホムツワケが何歳かは関係なくね?
サホヒコの謀叛は即位当初のことだろうからその頃うまれたんだろ 垂仁天皇はホムツワケが7歳にならないと再婚できないのか。 >>232
えw オマエは現代の庶民の結婚と同レベルで考えてんの?w
ここでいう結婚ってのはあくまで正式な結婚だろ
それならできるだろうけどするかしないかは本人の自由
あるいは政治的な事情もあったかもしれんしなかったかもしれん
少なくとも側女はいくらでもいるだろうから
性欲のはけ口って意味では女に不自由してないだろうし どのスレで聞いたらいいのかわからんのでここで聞くけど
倭王武=雄略の頃って少なくともすでに関東九州の統一は終わってんだよね
これって景行天皇の時に征服したってこちょなのかな?
神武天皇は少なくとも日向・北九州・山陽・近畿南部と畿内は支配したんだよな?
崇神天皇の時は東海・関東・北陸・会津・丹波まで
景行天皇の時に出雲・南九州・陸奥の南部までほぼ統一?
邪馬台国が畿内説の場合、その時代は南九州のぞいて西日本統一→景行以前の状態?
邪馬台国が北九州だと、ヤマト朝廷が邪馬台国と別の勢力だったとしても記紀にあてはまる時代がないね
邪馬台国が南九州って説にするなら景行天皇以前の状態には合うが。 景行天皇から神功皇后までは、
いきなり福岡にワープして、
九州を平定する話ばかりなので、
九州福岡の豪族のエピソードを引き写した話だと思っている。 現在の日本を見ていてわかる
やってる事が間違ってるからなw >>235
いきなりワープ?
ちゃんとその前の代までに吉備や出雲は征服された話が先行してるじゃん
記紀が描いてる歴史の全体の流れみないで
あなたが「いきなりそのページだけみて」感想いってるだけじゃないの? 景行天皇から神功皇后まで、
応神天皇が生まれるまでに、
一回くらい畿内に帰ったんだろうか? 天皇と天と、いわゆる神様の天は違うみたいだよ
詳しい人に聞いてみると良いよw >>238
出雲の話はあるな。
>>240
何度も帰ってるだろ。日本書紀よんだことないの? 景行天皇は、熊襲退治の時は、7〜8年は帰ってないね。
いきなり下関にワープし、戦を重ねて宮崎に6年仮宮、
さらに熊本、筑後を巡幸、ここでは戦闘なし。
この辺は非常に細かく書かれている。
筑後の浮羽まで行ったところで巡幸終了。
そこにどのくらいいたのかは不明。
また畿内までワープ?
けっきょく、下関だけ本州で、あとは九州の事跡だけで終わってる。 景行天皇の熊襲退治は、
九州内で道筋を書けるくらいに詳しく細かく書かれている。
ただし、畿内への道は全く書かれていない。 >>234
神武天皇の勢力範囲は葛城だけ。東遷も王権の移動というより貴種流離譚に属する流浪の旅と考えたほうがいい。
全国展開するのは崇神から。 >>240
畿内じゃなくて奈良へ帰ったのかなって思うね。
景行は大津に宮を移し、次の成務も大津のまま。
仲哀は敦賀から出発して、宮は九州になっててそこで死んでる。
ヤマトタケルがヤマトを歌ったうたがあるからヤマトにいたんだろうけど。
新羅から帰った時、ヤマトに入れない話があるから拠点はあったのかな。
巻向遺跡は四世紀中頃には廃れてるらしいね。 倭王武の上表文のような「大征服の時代」っていうイメージは
崇神天皇にはないね。これは完全に景行天皇だろうな 上表文にある「渡りて海北を平らぐること、九十五国」はいつの時代?
広開土王碑の時代かな? 事績で重なるのは
大乱〜崇神 信長
景行〜応神 秀吉
雄略〜継体 家康 >>234
神武の頃はそこまでいってないだろ
ヤマトで地盤固めしてるくらい 古い神社の伝承って面白いね。
そういうところの周辺を発掘したらおもしろそうだけどなあ 考古学って面白いね。
寺沢氏なんか「ヤマトには纏向を生むものは何もない」って言い切ってる。
どこかの勢力が来たんだよな。
でも、なんで纏向だったんだろうな。
あの一体は、纏向以前は荒れ地だったらしい。縄文晩期に洪水が起きて、
弥生時代は人も住まない荒野たっだんだとか。 川からはずいぶん離れてて不便そうだし、何より平地の真ん中になんか作るってのが奈良以前の日本人の美意識から見て不自然なんだよな。 ん?南北を川で区切られた地域だし、中にも水路は多いと思うが? 纏向のことなら平地の真ん中ではないな。
山裾の小高い扇状地の裾というか。 >>254
>寺沢氏
の本は何か読んだけど、まったく内容に記憶がないほど、
印象がなかったけど、
「ヤマトには纏向を生むものは何もない」
ならば、
東海の土器が多いから、そこら辺りから来たとかいう、
デンパに近い研究者だったか。 東日本住民における顔面平坦度度の地域差と時代変化
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/bitstream/10097/22721/1/M1H160074.pdf
川久保善智
東北地方や関東地方の集団では縄文時代から古墳時代にかけて平坦さが著明に
増加する変化が認められた。この平坦性の増加は渡来人の遺伝的な影響である
可能性がすでに指摘されているが、本研究においても顔面骨に著しい平坦性が
認められる西日本弥生人と東北地方や関東地方の古墳時代人の類似性が認めら
れた。
その結果、全ての平坦指数において北海道では縄文時代から近世までほとんど
変化がみられなかったが、関東地方や東北地方では縄文時代から古墳時代にか
けて著しく平坦性が増し、その後再び立体的になるという時代変化が認められ
た。東北地方や関東地方において縄文時代から古墳時代にかけてみられた時代
変化は先行研究によって遺伝要因の関与が指摘されているが、古墳時代より後
の時代変化には環境要因も大きく関わっていることが明らかになった。 環境要因で顔が立体的になるの?
遺骨が残る身分のサンプリングの違いな気がする。 >>260
遺伝子的にも形質的にも
>西日本弥生人と東北地方や関東地方の古墳時代人の類似性
が認められる、ということは、
崇神の四道将軍派遣以降、ヤマト王権がますます
関東、東北(といっても福島、宮城あたりまでだろうが)
及んだことの証左でもある。
文献的(記紀)にも一致する。 漢字以前の日本の歴史が曖昧なのは今の国境区分けでは受け止められない
入り乱れた状況があったからかも知れない 以前、>>73で
>三国史記の将軍「于道朱君(ウチシュクン)」が武内宿禰で葛那古は葛城襲津彦
って話があったけど、葛那古は5世紀に新羅征伐に半島に渡った蘇我韓子の可能性もなかろうか?
三国史記の時系列や編年があってるかどうかもきちんと検討されていないみたいだし、
新羅の記録や伝承の混乱、創作もありえると思う >>260
専門家によって言い方が違うんだよな。
「近畿の人間は朝鮮人にそっくりだから遺伝的にも近いに違いない」
とかいう専門家と、この違いはなんなんだろ。 >>266
挑戦がらみとか武洛がらみとかになると学者も平気でころころ主張かえるよ
学者ってのは院生から這い上がるまで想像を絶する苦労してて
性格が捻じ曲がってるからな
血みどろでつかみとった地位を絶対捨てなくないと思うし。 どうでもいいことかも知れんが、古代の「ヤマト」は磐余地域ってのが定説
らしいけど、いつから定説になったんだろう?
奈良の人間なんだが、どうも違和感があるんだよなあ。
葛城山の麓の方がふさわしいというか。
両方含んでいたような気もするけどね。
そこに立って周りを見回すと、ここがヤマトタケルの故郷だと実感するんだ。 >>261
環境要因でもなる
そもそも寒地に適応して平坦顔になったんだから 斉藤某が出雲でDNA調査をしたらしいな。
調査はいいけど、結論の導き方がいいかげんなんだよな。 >>269
そういう説があるのはもちろん知ってるけど
別に定説になってるような感じもしないと思うけどな…?
元来のヤマトは奈良盆地の南半分なんじゃないの、普通に考えて。 >>273
そうか。
たまたまなのかなあ。最近読んだ本に2つもあった。
いつの間に定説になったんだ?と不思議で。
最近南の方へ行くようになって葛城山(含む金剛山)の存在感に圧倒される。 ヤマト王権は最初は磐余を含む奈良盆地南東部、
それから葛城地方などの南西部を収めて、
崇神の時代以前にすでに奈良盆地全体を掌握していたのだろう。
のみならず、奈良盆地に近接する地域も婚姻によって、
勢力圏になっていたのは、妃の名(出身地)でわかる。
河内はもともとが物部氏が大きな勢力を占めていた。、
当初のヤマト王権は奈良盆地南東部を中心に河内をも収めていたから、
ますは南西部の葛城地方を支配下に置くのは、
当然の流れになるだろう。 >>232
>ここでいう結婚ってのはあくまで正式な結婚だろ
現代的な意味での「結婚」という概念は当時なかったと思うが
そもそも当時に正室や妾という中国的な概念があったかどうかすら怪しい
通い婚が基本だし 側室がいたんだから正室は7年まって再婚したっておかしくないって言い分に
結婚という概念や正室や妾という概念があったかどうかわからないって返答は答えになってねーだろ
たとえ側室が居ようと7年も待つ必要はないって答えればいいだけだろ 九州の幾何学模様壁画の古墳がまったく話題にならないのはなんでよ。 文献の紀年が正しいか矛盾してるかのはなしをしてるんで、正室側室とか七年とかは本質じゃない。 >>278
異端の学者の領分だから。
常世に通じてたりヒルコが出てきたり。 鹿児島県の霧島温泉の近くに、「熊襲の穴」というのがあって、
洞窟の中に装飾古墳みたいな落書きが書いてある観光スポットがある。
装飾古墳って熊襲の文化じゃねえよな、とか思いつつ、
「西の正倉院」とか、観光のために捏造される地方史には辟易させられる。 妃というのはあるが「皇后」という概念があったかどうかは分からんね。
天皇も皇后も、後に作られた用語だし。
中世の天皇の妃だって、出路に応じた身分が付くが、正妃というのは特に
ない時期もある。
天皇家には、正妃と側室という区分けはないよね。
すべてが臣下であり、対等な関係はないんだろ。
唯一、天皇の娘を妃にした時はそれが第一婦人になるが。 >天皇家には、正妃と側室という区分けはないよね。
そんなことはない >>282
桓武天皇とか源氏物語とか、母の出自と地位が問題にされる例はたくさんあるが。 >>282
古い時代になると天皇や皇族の母の名としてしか夫人の名が残らなかったらなのか、後の天皇を生んだ妃を後から皇后だったと呼んでる感がある 成務天皇とか清寧天皇の皇后がいないことになってるのって、
子供がいなかったからその母親たる皇后も名前が伝わらなかったのかもね >>286
その二人は皇后を娶れる歳以前に亡くなったんじゃないか? >>282
古代大王家では皇族出身の大后が強い権力を持ち
皇位継承に第一の発言権を持ち夫の死後即位した例も多い
推古天皇、皇極天皇、持統天皇、すべて大后(皇后)出身
藤原道長らが娘の立后にこだわったのも
正后とその他大勢の女御更衣とではまるで妃の待遇も発言力も違ったため
室町時代には天皇家にも公家にも金がなく摂関家も娘の入内に消極的だった
そのために正后が立てられず天皇のお手付き女官が次代天皇を産んでいた
江戸時代、明治時代にも正后とそのほかの側室たちとは全く扱いが違う >>286>>287
成務天皇は子供いるよ
女子のみだが
母親の名前も記紀に書かれてある
いずれも豪族の娘で皇后は立てられなかったようだ
清寧は41歳まで生きている
生まれつき白髪の虚弱体質でおそらく童貞で生涯を終えられた うまくは表現出来んが、江戸時代の武家のような、御台所と側室というような
区別はないように見えるね。
将軍家が前田と伊達と黒田から妃を迎えているような感じ。 古墳時代のスレなのに、律令国家の制度や平安を引き合いに出すのって変。 ★各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…西南九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側
▼札幌医大・松村博文先生(兵庫県出身)
http://www.frpac.or.jp/rst/sem/sem1721.pdf
『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』
▼形質学から求めた朝鮮人との遺伝的近似性(小浜基次・大阪大学教授による)
頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
蝦夷人 76.55 23.65 44.60 55.14
東北人 80.16 23.07 44.46 54.33
畿内人 84.98 22.67 43.99 54.23
朝鮮人 85.16 22.35 43.30 53.48 未盗掘の首長級墓から大量の副葬品!
宮崎県えびの市・島内地下式横穴墓群
http://www.nishinippon.co.jp/import/miyazaki/20150119/201501190002_000_m.jpg
宮崎県えびの市教育委員会は19日、同市島内の島内地下式横穴墓群から
2体の人骨と武具や装飾付き馬具など大量の副葬品を納めた
古墳時代中期末−後期初頭(5世紀末〜6世紀初頭)の未盗掘の墓が見つかったと発表した。
副葬品が土に埋もれずほぼ完全な状態で見つかるのは極めて珍しい。
朝鮮半島製とみられる大刀(たち)や、大和政権との関係を示す甲冑一式も出土しており
首長級の有力者が埋葬されたとみられる。
遺体を安置する墓の玄室(奥行き2.25メートル、高さ0.94メートル、幅3,1メートル)には
女性の遺骨1体と男性とみられる遺骨1体とともに、矢羽根周辺に黒漆を塗ったものを含む
約300本の矢や箱に入った状態の鏡など計400点を超える副葬品があった。
銀メッキで鞘などを装飾した銀装円頭大刀が出土したのは九州で初めて。
朝鮮半島=百済ないしは伽耶=で作られた物と様式が酷似しており半島製と判断できるという。
また衝角付冑と短甲、肩甲などが完全にそろって出土した甲冑は、
他の国内遺跡から出土した大和政権下で作られたものと様式が似ており、
大和政権との政治的関係を示している。
玄室が土に埋まらなかった為、馬具や大刀の柄に繊維や革など有機物も残っており
当時の製法や使用法の解明についても期待できる。
調査に当たった鹿児島大総合研究博物館の橋本達也准教授(考古学)は
「武器や馬具の特徴から埋葬された人物は朝鮮半島で軍事や交易の交渉に関わるなど
大和政権と政治的関係を持っていた可能性がある」と話している。
ソース 西日本新聞
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/miyazaki/article/140283 >>294
>『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
> 『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
> 『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
> 『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
> 『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
> 『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
> 『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
>『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』
これって東アジアの人種ならすべて当てはまるんじゃね 手足が長い。
中頭
湿った耳垢且つワキガ
物凄い福耳
髭は普通
奥二重
蒙古襞は有るな
歯はコンプレックスなくらい小さい
こんな俺でも東洋人で日本人だ。 統計的特徴の話をしてるんだから、はずれ値は小さくなってなさい。 >>295
なんでもかんでも朝鮮半島製ってほんとかよ、とこのごろ思う。 百済ないし伽耶という書き方も不思議であるよなあ
全然わかってない感がスゴイ 南九州の石積石室墓から発展したのが、前方後円墳だと思う。
外側は違うけど、中の構造がよく似てる。 何か根拠があって「朝鮮半島製」とか「朝鮮半島から来た技術」とか言ってるのかな?
陽線半島の古い製鉄遺跡は発見されていない。
魏志東夷伝に書かれた記事のみが根拠とか。 >>294
人類学者が比較に持ち出す「朝鮮人」って、現代人ばかりな気がするなあ。
弥生開始期以前の朝鮮人と比較するならわかるけどさ。
半島南部に倭人が住んでいる、三韓には中国人が移住していると書かれているのに
混じった後と比較してもしょうがないんじゃないかな。
弥生文化が到来した時の遺跡の人骨と、その時代直前の朝鮮半島人が、人骨も
文化も全く同じってならだけど、そんあものはどこにも存在しないんだよな。
鉄は弁辰とかいうくせに、朝鮮で製鉄の遺跡なんか一つも出ていない。 前方後円墳は吉備と出雲が合体説も怪しくなってきたね。 >>304
渡来系弥生人の頭蓋骨といって、北九州あたりにおいてある図があるけど、
渡来系というぐらいなら、同時代の半島の頭蓋骨を並べるくらいしろよ、とは思う。
なんていうか、学問的にしょぼい。 絵になってたり比較で持ち出すのって、山口の土井ヶ浜の遺骨が多いんだよな。
あれって、弥生の平均とかじゃなくて、特殊なやつじゃん。
あたかも、「ここに流れ着いた渡来人がその後日本中に広まって弥生人になった」
かのように書いてる奴もある。
弥生時代がというか水稲稲作が始まって随分経ってからの遺跡なのに、未だに
弥生文化をもたらした渡来人そのものかのような扱いは変。
人類学者って考古学を馬鹿にしてるのか知らんが、前後関係とか文化とか
無視して、「人骨が縄文人と違うからこれこそが・・」みたいな決め付けを
するから信用できん。 大和古墳群の中でも、北の方の一群に興味があるなあ。
100m超えのがいっぱいあるんだよな。 縄文人と弥生人の区分って使ってた土器による超ザックリしたものだから
人骨で判断なんて無理
割目遺跡みたいに途中から住民が縄文人から弥生人になった場合とかどうすんだって話 >>309
そこでいう縄文人と弥生人って、同じ遺跡で土器が混在してるって話?
それとも人骨の話? 割目遺跡は縄文時代から弥生時代まで時代をまたいで存在した集落の跡だよ
途中からこの集落の住人は縄文土器から弥生土器を使う「弥生人」になったが
生活遺物は断続の跡が見られず縄文時代からいた人々の子孫とみられている 古墳時代の豪族の館が南北朝時代の武士の館と同じに感じた
古代からぜんぜん発展してないのかね
三ツ寺T遺跡
http://www.ranhaku.com/web04/c4/1_04miniature.html >>311
つまり人骨の話じゃなくて土器の話ね
>>307
いや、全国的なのは土井ヶ浜タイプのほうで、
吉野ケ里タイプのほうが北九州に局所的なものと聞いたが…? 南北朝の武士の館より古代の豪族居館のほうがレベル高いぞ
土台が高いし堀幅も広いし何げに横矢もあるからな >>314
劣化してるのかw
トイレとかどうだったんだろうね 【文化】東日本最古の古墳が壊される!? 卑弥呼と同時代...道路は本当に必要か [転載禁止]©2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1436311542/ >>311
誰だったか学者が書いてたね。
遺跡が出た時に違いを強調するあまり、それ以前(縄文)からの伝統を軽く表現しすぎた
というようなことを。実際は、伝統的な縄文の文化にちょっとだけ新しいもの
が加わるだけらしいけどさ。
新しいものだけを取り上げると、あたかも渡来人がやって来たかのような印象を
受けるんだよな。支石墓なんかはまさに朝鮮半島からの到来文化だと思うけど、
埋葬されていた人骨は縄文人っぽいとか。
ここらへんが、発掘する考古学者は全体を見てるようだけど、人類学者とかは
一部だけを取り上げて自説に都合よく解釈しているとしか思えないんだよ。
松菊里型の住居跡も、それが出てきたことしか書いてないと、渡来人だけのムラ
が本州一帯に進出したような印象になるんだよ。 古墳ギャルのコフィーというアニメがあってだな…。
あれは衝撃的だった。
お世話になります。
私、責任者の加茂と申します。以後、宜しくお願い致します。
http://www.apamanshop.com/membersite/27009206/images/kamo.jpg
浪速建設様の見解と致しましては、メールによる対応に関しましては
受付しないということで、当初より返信を行っていないようで、今後につい
てもメールや書面での対応は致しかねるというお答えでした。
このように現在まで6通のメールを送られたとのことですが、結果一度も
返信がないとう状況になっています。
私どものほうでも現在までのメール履歴は随時削除を致しております
ので実際に11通のメールを頂戴しているか不明なところであります。
http://s-at-e.net/scurl/common-list2.html まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった うちの所有する山に古墳らしきこんもりした盛り上がりがあるのですが確信はできないので放置してます。こういうのって何処かに言えば古墳か調べて貰えるのでしょうか?すぐ近所には邪馬台国の時代の古墳もあるので何となくロマンを感じてます… >>324
地元自治体の教育委員会の埋蔵文化財担当部署へ行って遺跡地図を見せてもらえ
すでに古墳として認知されているならば遺跡地図に表示されているはずだ
遺跡地図に載っていなかったら担当者に古墳らしいものがあると話して、見に来てもらえばいい
考古学を学んだ人間ならば人為的に造られた遺構なのか自然地形なのかはだいたい見ただけで判別できる >>324
邪馬台国時代の古墳が有るってすごいね。
全国でも数少ないのに 古墳とアレって言うブログ?でうちの土地の古墳が載ってる…。絶対許可とってないしぜひ見学をとか書いてあるし迷惑だ。でも土地バレしてるから嫌がらせされても困るし。愚痴です、すみません。 土井ヶ浜は、あれこそが難破して漂着した徐福一団の一部じゃあなかろうか。 >>327
つか邪馬台国の時代って古墳時代?弥生時代?
弥生時代なら古墳じゃなくて弥生墳丘墓だよね、実質同じかもしれんけど 古墳時代・・それは、国譲りで敗北した先住出雲族の誇り・・それが、古墳である。
古墳の建造、神社の修復は、先住出雲族のみの技術だった・・。
出雲大社の修復は、古来より杵築大社の元々の司祭家である神門臣家の者しか修繕改修を許され無い神聖に職業。
また、南関東国造家を記紀では、三字以音(散自出雲)と自称する者たちが、東京湾周辺の神門古墳群を形成した。
この、南関東国造を島族と言い、親筋が、伊勢志摩の志摩国造家に当たり、この志摩国造家の島(直)氏=斯摩宿禰将軍と言い
斯摩宿禰が神門臣家の子筋の先住出雲族とされており、南関東の散自出雲族の親が神門臣家で一致する。
東海道上の古墳群は、この散自出雲族=島族が造ったと、ほぼ、断定可能なのです。 >>333
おまえの訳分からない電波定義はどうでもいいんだっつのw 毛野が上毛野と下毛野に分裂したとき、戦争はあったのかね?
日光に「戦場ヶ原」っていう湿地帯があるんだが、そこには大蛇に化けた男体山(栃木)と大ムカデに化けた赤城山(群馬)が戦ったと謂われる伝説があるんよね まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>341
ヘブライ語で「シマヤシマヤ」とは・・「注目っ注目ぅ〜」の意味。 >>132
預言者シマヤ検索・・。
ヘブライ語で「シマヤシマヤ」とは・・「注目っ注目ぅ〜」の意味。
登場人物で読む聖書の物語 シェマヤ 列王記・歴代誌
http://flamboyant.jp/bible/bib179/bib179.html
JBS-iばいぶる-聖書全文検索
http://www.bible.or.jp/i2/vers_search_i.cgi?cmd=search&trans=ni&book=2ch.old&chapter=12
Tテモテ6章11〜21節 「神の人として」 大田原キリスト教会
http://otawara-church.com/?p=2111
投稿ナビゲーション← 民数記21章イザヤ45:1-13 レジュメ →Tテモテ6章11〜21節 「神の人として」
いよいよテモテへの第一の手紙も結びの部分に入ります。
きょうは、この結びの部分から、「神の人として歩もう」というタイトルでお話したいと思います。
パウロはこの結びのところでテモテを、「しかし、神の人よ」と呼んでいます。
聖書の中でこのように「神の人」と呼ばれている人は稀です。
旧約聖書ではモーセ(申33:1)やエリヤ(T列王17:18)、
また その弟子であったエリシャ(U列王4:16)などが神の人と呼ばれました。
また あの有名なダビデもそのように呼ばれました(U歴代8:14)。
その他、預言者でシェマヤ(T列王12:22)という人や、
イグダルヤの子ハナン(エレミヤ35:4)もそのように呼ばれました。
他にそのように呼ばれた人はいません。
新約聖書でこのように呼ばれているのはテモテだけです。
パウロはこの「神の人」という言葉をテモテに用いました。
それは牧会で苦労していたテモテにとって、どんなに大きな励ましであったことでしょう。
※・・旧約聖書ではモーセやエリヤまた その弟子であったエリシャなどが神の人と呼ばれました。
また あの有名なダビデも そのように呼ばれました。
その他、預言者でシェマヤ・・。
神の人・・シマヤ >>343の>>132はアンカーミスで無関係です。
失敬。 自己レスで誤爆とか
ほんとに松浦厨は笑わせてくれる >>345
ならっ
シマヤのうたの感想くらい書いてけっ 倭人伝における邪馬台国
○ 代々男王 → 「共立」卑弥呼 → 男王 →「復立」卑弥呼宗女である トヨ
記紀に適合可能的なものは
a 代々男王 ∧国を治めるのを補佐するヒミコの男弟 崇神 → ひみこ=ももそ → イクメ → トヨカリイリ姫
父 叔母 長男 娘
b 代々男王 ? → モモソ → 男弟 イクメ 垂仁 → トヨ
補佐する男弟 崇神
a と b ともに皇族家族内。 女性は3者共通して鏡とアマテラスがつけられており、なおかつ伊勢神宮の斎王であり強力
男弟 国を治める
官 イクメ 垂仁
いずれにせよヤマトの大和朝廷、皇室、皇族内の話。
日の巫女 ももそ姫
トヨ 豊 確定 崇神の子
記紀においては崇神−ももそとよ しかし、あれだけ巨大な墓をつくれる古代日本って何があったんだろう?
人口?トップの宗教的権威? 最大の仁徳天皇陵で680万人日
2000人で10年位 このスレの奴らなら「古墳 悪魔教」で検索した事は容認できる訳だ
縄文人もモンゴル人もソグド人もD2遺伝子民全てゾロアスターを崇めた悪宗教だからな
日本の上に立つ神社は全てそれであって出雲族も日向族も同じ穴の貉だからな
全ての概念がひっくり返る、神一厘もメシアも全て悪宗教の偽神・真神、悪の中で完結する経綸だ
ttps://www.youtube.com/watch?v=WR7qMrbXbNs
ttp://www2.biglobe.ne.jp/remnant/097kodai.htm
D2を持つ無宗教日本人こそ真の民と言える訳だ >>350
なんだろうなあ。
人口推計では、弥生末期から奈良時代まで人口が急増してる。
AD200 60万 → AD725 450万
これって、150年で約二倍になった江戸初期の増加率に似てる。
平和になり、幕府や大名が率先して新田開拓を進めた。
新しい村がたくさん誕生した。
次男三男は、新田の開発に行き、そこで新しい家族を作った。
お城のようにも見えるけどな。
技術、統率力を持った人間が、庶民に給金を払い作らせた。
一大土木工事だから、そこで働いた人間が地元に戻って新田を作る技術を学べ、
食料や道具も支給されたら、喜んで来てくれるのかも知れない。 元々住んでいた、
本当の住人や持ち主を殺害し、追い出し
盗んだ後に漢字変換、当て字か 遠方に追いやられ、
古代、古墳時代そのままの暮らしをしていたから
当時の言葉に近いんじゃないの?
日本語というか標準語より、
アイヌ、朝鮮wの言葉 【重大】
放射能テロ虐殺犯の安倍が、核兵器を密造か!?
三菱商事の核ミサイル担当重役は安倍晋三の実兄、安倍寛信 三菱重工の重役でもあるらしい
これがフクイチで核弾頭ミサイルを製造していた疑惑がある 書けばツイッターで速攻削除されている
https://twitter.com/toka iamada/status/664017453324726272
安倍晋三の兄が関与している三菱重工 核開発疑惑について いくつかツイートしたが、反応がないから変だと思って、自分のタイムラインを調べてみたら、
完全に削除されていた 私のツイートで、安倍政権に都合の悪い情報は速攻削除されている これは驚いた ここまでやるのか
https://twitter.com/toka iamada/status/664016524592574464
先ほど、まだ数分以内に、三菱重工の核開発疑惑について、いくつかツイートしたが、検索しても出てこない 多くの人のタイムラインに出てこない ツイート直後に消されてしまったようだ
https://twitter.com/toka iamada/status/664015521830952960
【警告】
死亡者数、戦時なみの勢いで増加中!!
川崎病の年間患者数、史上最高に 1万5千人を突破、ピーク時を超える 最初の報告は水爆実験後。本当の原因は被曝
震災以降に死亡者数が、第二次大戦に匹敵するほど急増している
厚生労働省によると平成23年から平成25年の累計死亡者数は360万人以上に急増。今の日本は太平洋戦争時の時と同じくらいの勢いで人が亡くなっている
除染袋回収の作業員5人 疲労で動けず、自衛隊など救助 疲労じゃないだろう、被曝障害だろうよ 死んだように眠る人々(写真多数)
http://s.ameblo.jp/kaito000777/entry-12031605335.html
【川島なお美の食べて応援が恐怖すぎる】自宅でも進んで食べて応援
1年後・軽くぶつけただけで肋骨骨折 2年後・眼球から出血は半年に一度 3年後・胆管に腫瘍、血液検査は異状無し 4年後・逝去 夫は片目失明、愛犬もがん
https://twitter.com/2ch_NPP_info/status/648256313571479552
・・・ 今も、原子力緊急事態宣言中… 対策本部長は安倍首相。 古墳って上から見ると「鍵穴」キーポイントはこの中にある。パンドラの箱と
同じで、鍵は開けないほうがいいと思う。 5世紀末-6世紀初頭(古墳時代後期)の築造で国指定史跡
全長150m(推定復元160m)で東海地方最大の前方後円墳だ・・・前方部が後世削られた痕跡が見つかった
前方部幅120mの高さ16m、後円部径80mの高さ13mで、3段築成で葺石・埴輪を備え、25m×17mの西部くびれ部に造出しがある
墳丘の周囲には濠がめぐる
埋葬者は、伝承では宮簀媛命(日本武尊妃)、推定では尾張氏の首長墓(尾張連草香や継体天皇の后・目子媛)とされる
尾張氏は、孝昭天皇・孝安天皇・崇神天皇・継体天皇の正妃、安閑天皇、宣化天皇、敏達天皇、推古天皇らがここの出自で古代豪族
周辺には、白鳥古墳(前方後円墳、墳丘長70メートル)や北山古墳(熱田球場の位置に前方後円墳。潰した!!)、
高蔵遺跡(古墳時代の竪穴式住居跡、貝塚、方墳や円墳、弥生時代の環濠集落)など、古墳時代の遺構がいっぱいある
断夫山の由来は、宮簀媛命(日本武尊妃)の伝承からだがヤマトタケルの伝承は4世紀なので尾張氏の墓説がこんにち有力だ
入山の受付をすれば断夫山古墳を散策できる
名古屋市博物館、見晴台考古資料館、南山大学人類学博物館、豊田市郷土資料館に出土品の埴輪、円筒、須恵器が展示されてる 熱田神宮へ行ったらついでにどうぞ
神宮西駅から徒歩5分くらいです。。。北西の位置 方墳と円墳を合わせたらあの形になっただけなんだけどね
鍵に見えるなら偶然かそれとも日本の古墳の形を真似したか 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 4世紀に文献がないっつっても「紙の文献に載ってない」ってだけで
金石文なら広開土王碑文があるだろ
空白じゃないよ よくまああれだけ累々と作れたものだと思うわ。
特に大和古墳群と馬見古墳群。 >>350
専門家が推定しているよりも人口が多かったんだろうなあ。 ……………………
「早稲田大学の大隈重信の銅像」と「慶應義塾大学の福沢諭吉の銅像」はどっちが格上だと思いますか?
早稲田大学の大隈重信の銅像
https://www.youtube.com/watch?v=U2gxBPucWQs
慶應義塾大学の福沢諭吉の銅像
https://www.youtube.com/watch?v=0RhSTUKqlPc
…………………… >>367
古墳の大きさってのは
その大王の在位期間につくった農業貯水池の規模に比例するんじゃね
掘った分の土を積み上げるわけで >>371
それ松浦厨っていうガイキチの書き込みだよ >>370
農業貯水池に留まらず、今の土地改良事業に相当するような大規模な土木工事
で発生した残土の利用法として古墳=墓を造成したんじゃないかと思う。最初の
うちはかなり苦労しながら試行錯誤を繰り返しただろうが、一つの定型を生み
出した後は、案外簡単に造ったんじゃないかと思う。最初から古墳=墓として
利用することが決まっていれば、玄室になる部分は最初からわかりやすい目印を
着けておき、後で掘り出す時に崩れないように予め杭を打つようにしたんだろう
と思う。某ゼネコンが大仙稜古墳を造るのに15年はかかっただろうから、天皇
が在位中から工事を進めていたはずと主張しているが、俺はそうは思わない。
飽くまでも残土利用に過ぎないのだから、死後玄室部分だけ掘削すればいいだけ
だろう。水田開墾はその集団の誰にとっても利益になるのだから強制的奴隷労働
なんかさせる必要はなかったはずだ。 そりゃそうだ
巨大な御陵をもつ応神仁徳の時代に治水伝説も多いってのは偶然じゃないだろう
こういう議論は戦前にすでに普通にあったけどな 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>378
箸は橋と同じ語源であの世とこの世を繋ぐものだから
巫女の意味だよ 箸は当て字で単に地名じゃないの? 端っこの方の土地 子供に「墳丘長ってなんて読むの?」って聞かれたけど、これ「墳丘ちょう」か「墳丘なが」のどっちなんだろうな
こういう用語ってわざと一般的じゃない読み方をすることがあるから悩んでしまった >>373
強制労働というよりも、食料と住まいを給付した土木技術者養成所みたいだな。
あそこへ行ったら食料はくれるし住まいは用意してくれるし、技術は学べるし、
帰るときには道具も種籾ももらえる。
競争率高そうだな。 大和古墳群と馬見古墳群が気になるな。
1,纏向型ー談合政権をまとめ上げた人及び卑弥呼の時代の英雄達の墓
2,大和古墳群ー談合政権の後期とトヨの時代の有力者の墓
3,馬見古墳群ーその少し後、半島進出した時の英雄(前半と後半あり?)
2の同時代のがヤマト以外ではいくつか見られるが、数はそれほど多くはない。
2の前半は、椿井大塚山古墳や西求女塚古墳等。
次の佐紀陵山古墳の相似形のものがわりとたくさんある。
三角縁神獣鏡は、鏡作神社の伝承通り崇神天皇が作らせたというので正しい気がする。 鏡作神社周辺を発掘すれば、一気に解決しそうなんだがな 景行天皇あたりまで、王位が特出していなかったのかな。
王墓規模のが6つもある。
椿井大塚山古墳も充分大きいけどさ。 倭国王って選挙王だったと思うんだ。
有力国主たちに選ばれてなる。
時代が下っても群臣の推挙を受けて即位してるしね。
例えれば、神聖ローマ帝国とハプスブルグ家みたいな感じで、
倭国王も最初のうちはそれなりに選挙で選んでいた。
徐々に対抗馬を蹴落とした天皇家が形式的には選挙だけど実質は世襲で倭国王に即位するようになった。
何で、倭国王なんてものを選んだかが疑問なんだが、
目的は楽浪郡の先進文物と朝鮮半島の鉄を公平に配分することじゃないだろうか。
1世紀には楽浪郡や鉄の産地に近い北九州の優位は明らかなんだが、
直接交渉が困難な倭人地域の拡大に伴い北九州に対抗するために連合する。
一種のカルテルか談合組織みたいなもので、
分裂するのは簡単だけれど分裂すると皆が損するようになる。
卑弥呼即位は
分裂したままでは損だから纏まりたい。
でも、あいつ等の推す倭国王は認められない。
という妥協から共立されたんじゃあないだろうか。 大陸の動乱が関係してるんじゃないかな。
黄巾の乱で、分裂、主導権争い。その余波が日本列島にも及んだ。 亡国の軍人が、海賊になって暴れまわったんじゃないかな。
内輪もめしてる場合じゃないほどひどくて、談合政権を作ったとか。
九州の一部に、海賊と結託したのがいて、瀬戸内海を暴れまわったので、
狼煙を上げて連絡した。
終わりの方は、東海から援軍を頼んだ。
魏が成立するとすぐに朝貢したのは、海賊を取り締まってくれという意味もあった。 >>388
どうかなあ。
最有力の海人である海部一族がいるのが丹波(丹後)と尾張だからなあ。
加古川沿いに瀬戸内海まで進出してるようだし。 >>389
大陸の動乱が関係するかなあ?
中国の分裂は周辺への圧力低下を意味するから、周辺国では恐怖による求心力は低下する。
漢が健在なときでも、日本から見て朝鮮半島の小国すら制圧していない楽浪郡を脅威に感じるとは思えない。 >>392
そうじゃなくて、国が分裂→国家の統制ができなくなる→海賊などが蔓延る。
ソマリアやシリアみたいな感じ。 世界規模の気候変動で寒冷期が来ると、あちこちの地域で大国が分裂したり内乱が起きたりしてる
漢の滅亡もローマの分裂や滅亡も根源的には寒冷化の影響。
であるからして、日本列島でも飢饉多発により戦乱があった可能性はある。
それとはあまり関係ないけど、
楽浪郡あたりを支配してた国(燕、根拠地は遼東郡)は、西は北京に近い地域まで、南は山東半島北東部まで領有する、けっこう大きな国だったみたいだぞ
魏から独立してた期間は短いけども。 この前のヒストリア怪しい学者の前方後円墳は壺を模したもの説を異常なまでに押してたな
怪しい学者はほぼ壺で確定みたいな言いきりだったけど
どう考えても壺の線は薄いだろ >>378
古墳時代の日本に箸なんてねえよ
少しは勉強しろよ 当時は炊き立ての熱い飯を手づかみで食ってたのか?
んな訳なかろう 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) 2016/6/23
「明治の盗掘説」真相は 仁徳陵の謎を探る(3) 軌跡
http://www.nikkei.com/news/special/side/?uah=DF260320148186
http://www.nikkei.com/content/pic/20160623/96958A9E93819B9AE3E49AE2E18DE3E4E2E4E0E2E3E49393E082E2E2-DSXMZO0391724022062016AA2P01-PB1-4.jpg
明治初期、大山古墳で見つかった甲冑を描いた絵図(個人蔵)
米ボストン美術館には大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)出土とされる古代の鏡や大刀などが収蔵されている。
「1872(明治5)年、堺県(現堺市)の県令(知事)が立場を悪用して仁徳陵を発掘した際に持ち出した品」。
こんな説が小説などを通じて広まっている。
確かにこの年、堺県が「墳丘を清掃して石を取り払ったら穴が開き、石室を見つけた」との文書を国に提出している。
これが意図的な発掘だったというのだ。出土した石棺や甲冑(かっちゅう)などの詳しい絵図も残る。
宮内省(現宮内庁)から派遣された絵師が描いたものとされる。
だが当時の状況を詳しく検証した元堺市博物館学芸課主幹の樋口吉文さんは
「当時の県令にそんな権限はなかった。ぬれぎぬだろう」と話す。
江戸幕府は、周辺住民が里山として大山古墳を利用するかわりに維持管理を委ねた。
明治初期もこの状況は続いており「まきでも拾おうと住民が墳丘に立ち入り、ついでに少し石をどけたところ石室を発見。
県令が国に届け出たのだろう。通常の手続きで、文書の内容に疑わしい点はない」と樋口さんは分析する。
絵図を描いたのは宮内省の絵師ではなく、絵の巧みな建築技師だったことも判明。「古美術に造詣が深かった技師が話を聞き、
私的な立場で現地を訪ねて描いたのでは」
ボストン美術館の収蔵品については「大山古墳とは年代が合わない」との指摘がかねて出ている。
宮内庁は同館で調査し2010年、成果を公表した。収蔵品は岡倉天心が買い付けたものだった。
当時の記録で唯一残る会計報告書には「古代の墓から出土」とのみ記され、「仁徳陵」の名は無かった。
裏付けのないまま唱えられた「仁徳陵出土」との推定が一人歩きした――。調査を担当した徳田誠志・陵墓調査官はこう推察する。
「確かな情報は無く、現時点で結論は出ない。仁徳陵と結びつけることは控えるべきだ」 前方後円墳古は主に高句麗との戦に出兵する多国籍基地
朝鮮への出兵が必要なくなると消えた ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>388
>倭国王って選挙王だったと思うんだ
古墳の本質が何もわからないからこんなアホなことを言うw 古墳、少なくとも
前方後円墳というのは「国土開発」のシンボル、ほとんどの場合水田開発成功の
シンボルだろう。この開発には進んだ土木技術とリーダーの存在が不可欠で、その
成功をもたらしたリーダーがカリスマとなって世襲制を生む。それくらい、水田開発
には知識とリーダーシップが必要だったのだろう。日本の水田開発は、治水技術の
簡単な方からより難しい方へと発展して行った。最も簡単なのが山間部の棚田で、
より難しいのが河川氾濫原だ。リーダーというのは選挙なんかでは発生しない、
カリスマ性からしか発生しない。今上天皇がいまだに稲作を儀式としてやっている
野はそういうことだ。 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/vX3ERl 火星の表面に「前方後円墳」とみられる巨大遺跡が存在していることが分かった。NASAが撮影した人工衛星画像の中から見つかった。
発見された構造物は、古墳時代(3〜7世紀頃)に日本各地で作られた前方後円墳と形状が酷似している。
火星の前方後円墳は全長2.8キロメートルもあり、日本最大の前方後円墳である「仁徳天皇陵」486メートルと比較しても、そのスケールの大きさが際立っている。
古代の火星では、シドニア人とユートピア人と呼ばれる種族が、地球の古代文明とよく似た文明を築いていたとされる。
これまで火星画像の分析から、ピラミッド型の構造物の痕跡などが見つかっており、古代エジプト文明が火星文明と交易を行うなど、直接の関わりを持っていたとする説の証拠になっていた。
プラズマ物理学者のジョン・ブランデンブルグ博士は、火星の地表における放射性同位元素の分布を調査し、
火星では過去に人工的な核爆発が起きていたと結論付けた。
このことから博士は「古代火星文明は核戦争で滅んだ」と主張している。
核戦争による滅亡を逃れた火星人の一部は、地球に避難し、火星文明のなごりを地球上にも残した。
日本各地で前方後円墳を建設した古墳時代の豪族たちも、そうした火星人の末裔であった可能性がある。
火星の前方後円墳はGoogle Mars上でも確認することができる。
緯度経度座標は「6°3'57.07 というわけだから、苦内庁!
天コロの墓を調査させろ あいつら鰐(鮫?)の子孫だと思ってたら、タコの子孫だったのかよ! いい加減、箸墓含めた全古墳、詳細調査すべきだと思うんだけどね・・・・。
って、やらんだろうな。 >>409
天皇陵を掘ったらすべて解決、とはならんからな。
桜井茶臼山古墳もメスリ山古墳も初期の大規模古墳だが、掘ったからといって
誰が埋まってるかなんて全くわからん。
主なものは盗掘されてるし、人骨は残ってないし。
仁徳陵とか発掘するなんて考えただけで恐ろしいって考古学者が言ってるからな。
恐れ多いという意味ではなくて、巨大すぎてどのくらいかかるか想像もつかないらしいw
まあ、箸墓古墳と西殿塚古墳は掘ってほしいけどな。
行灯山古墳もかな。 >>363
違うだろ。
円墳や方墳に作り出しがついて、それがどんどん大きくなった。 天皇陵に限らず、内部まできっちり発掘調査してないのが
まだまだたくさんあるでしょ
うちの近所にも古墳が何基もあるけど墳頂部までしか調べてなかったり
上に神社が建ってて調べてなかったりだわ
高松塚古墳より大きいし、中に壁画か何かあるかもしれん 予算の確保が問題かね?あと、「誰がやるの?」っていう問題か。 発掘も遺跡の破壊
今掘る必要がないならば掘らないというのが国の基本方針 したいってところもあるらしいよ。
でも許可しないということは、何かやましい事があるんだろう。 後ろめたいも何もない
掘る必要がないなら掘らせない
それが埋蔵文化財行政の基本方針 古墳規模は九州王朝の権威に比例。
イワイの乱以降、古墳は小型化する。
イワイの乱は、雄略が倭国王を暗殺した結果生じた
九州王朝内軍閥の衝突である。 キトラ古墳や高松塚古墳を見ると
ヘタに発掘するとまともに保存できずに劣化させるだけだし、
現状維持も一つの手段だな 「保存のために何も手を付けない」ってのは、確かに必要なことかもね。
下手に風穴開けると、余計な物が入ってダメになることもあるだろうし。
触らぬ神に祟りなしって諺が思い浮かんだ。 それじゃ何時までたっても謎は謎のままで、結局はあれこれ語ってもファンタジーじゃないか。
そんじゃあ進歩が無い。
実際に調査する以上に勝ることはないもの。 邪馬台国が何処にあろうと歴史の教訓には成らんだろうし >>421
そうなんだけど、学術調査で発掘した古墳でも、決定的なものは見つかっていない。
桜井茶臼山古墳やメスリ山古墳や中山大塚古墳や下池山古墳。
まあ、メスリ山古墳は、たくさんのものが出てきたけどな。
>>416
立ち入りくらい許可するべきだと思うけどな。
考古学者は仁徳さんを掘らせろなんて言う人はいないしw
掘りたいけど掘りたくない。
矛盾した思いはあるらしいけどな。
もっと後になれば、もっと技術が進んで「正しい情報」を得ることが出来るかもしれない。
掘ってしまったら、壊すことになり、遺跡をかき混ぜてしまうから。 >>393
トルコだよな。
トルコは国がでかいから、あの程度ですんでいるけど。
ギリシャにしても、通過するだけだからあの程度で済んでいるというか。
国の崩壊期、特に大国が混乱状態になると、近隣の国(地域)への波及は大きい。
ベトナムや東南アジアの華僑の存在をみればよく分かるだろ。 ピラミッドだって、いまだ内部に空間がどうとか言ってるんだし
未解明な古墳だらけで当然だ 明治になって主な陵墓を立ち入り禁止にしたので、樹木が生い茂りかえって破壊が進んだという話があるな。 天皇陵(参考地ですか)に眠っている方が本当は全然違う場合、勝手に名前とか付けられたら眠っている方に普通に失礼じゃないかと思うんですよねぇ。
こういう言い方はいけないのかも知れませんが罰があたるのではと・・・ なんにせよ古代のロマン、日本の魅力はまだまだあるのではと。良い方向に進むといいなぁ。 古墳に墓標があるわけではないので、発掘しても主の特定にはあまり繋がらない。 掘って凄いものが見つかっても、
それを保存する資料館の保存施設を
税金でどのくらい維持できるかという問題がある。 中国もそれについては頭を悩ましてるとか言うね>保存の技術
始皇帝陵を掘って調べたいけど、保存技術が無いので、下手に掘って潰してしまう可能性を考えると
掘り起こすことは困難だとか。
キトラの例を挙げるまでもなく、下手に手を付けない方が良いんだろうね。 >>
雄略陵や継体陵、仲哀陵のように、明らかに違うというものははずすべきだよな。
だだ、じゃあ合っていそうなものが100%確定できるかといえば、それは無理だ。
せいぜい「およそ正しいんじゃないかな」程度。 誰の墓か石碑くらい建てといてくれたらよかったのにねえ。できれば系図付きで。 古代人の落書きが、解読不明の古文書になってたりしてね。
「何か意味がある!」とか学者が必至になって調べても何も分からないという・・・。
それはともかく、バブル期の開発で、一体どれくらいの古墳が壊されたんだろう・・・
そんなことを考え出すと夜も眠れません。 バブルの頃ならほとんどは破壊前に調査されてると思うよ
それよりも高度経済成長期の方が社会認識も体制も整ってなかったから悲惨 福岡の地盤沈下とか、遺跡はどうなったんだろう。
あのあたりはもう調査済みなのかな? >>107
ロングレスしとく
物質中で光速は遅くなるのが理系の常識 >>438
多すぎてろくに調査されてないまま風化とか九州はかなりある模様 wpbに、古墳の特集記事載ってるね。
東京の芝丸山古墳だったかな。 古墳王国裏付け1万3249基|YomiuriOnline
ttp://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/news/20170304-OYTNT50245.html 舒明天皇の初葬地か、蘇我蝦夷の大陵か 小山田古墳
ttp://www.asahi.com/articles/ASK2W46V9K2WPTFC009.html 「百舌鳥・古市古墳群」世界遺産国内推薦向け 首都圏から機運醸成を 事業者とアイデア公募
ttp://j.sankeibiz.jp/article/id=860 奈良で古墳時代の椅子発見 木目が確認できるもの珍しく | THE PAGE 大阪
ttps://goo.gl/WngxeW ちょっとWikipediaで調べてみたが卑弥呼が生きてた時代って第13代天皇・第14代天皇・神功皇后がいらっしゃった頃じゃねえか。
神武天皇が始めたヤマト王権が奈良県北部、 卑弥呼の邪馬台国が奈良県南部って感じで一緒に存在してたのかな?最終的に邪馬台国が戦に負けてヤマト王権に併合されたのかな? 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
彼らが大王ならその血を残すために複数の后がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国とはヒメたたらが住まわれた奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のブログだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite 妃ではないが、倭迹迹日百襲姫(ヒメ)と豊鍬入姫(トヨ)の関係がある。
これなら卑弥呼と台与が宗族関係にあるという中国の文献にも合致。
二人をつなぐ系譜的位置にあるのが崇神天皇。
歴史の確かな大王から1世代25年で遡れば、崇神は3世紀後期の在位となる。
これは3世紀後期から、すなわち「箸墓築造以降」に、前方後円墳国家が築かれることとも、
崇神が「ハツクニシラス」と称されることとも、それ以前が「欠史」であることとも合致する。 興味ある時代・好きな時代
昔 戦国・江戸
今 弥生・古墳 >>447
違うよ。
卑弥呼の時代ってのは、中国の史書に書かれた時代。
日本書紀は130歳の天皇を書いてるが、古事記にはそういうものはない。
崇神天皇が300年前後の人で、卑弥呼の少し後の時代の人だろうってのが考古学者の
共通認識だ。
正確には「後の人が崇神天皇と名前をつけた大王」だけどな。
発掘により、纏向は三世紀から四世紀前半まで。
記紀に拠れば、纏向近辺に宮を置いたのは、崇神、垂仁、景行の途中まで。
景行は後に滋賀県の大津に宮を移したと書かれている。今の高穴穂神社。
記録と遺跡が矛盾していない。 崇神のことを天皇家自身が「ハツクニシラススメラミコト」っていってんだから
それが正しいのだろうな。
権威付けのために古くにでっち上げるなら、10代の天皇にそんな名前をつける必要がない。
でっち上げ説って、あんまり意味がない。
日向に天孫降臨する意味もない。
最初からヤマトに降臨すればいいわけだからな。
ヤマトに降り立ち、そのまま国家を作ったでいいはずなんだよ。
ニニギを先祖にしておけば問題はなかった。
だけど、そうはしていない。
天皇家はよそからやって来たということが当時の人々は事実として伝承されていたから。
そして、婚姻関係もでっち上げは難しい。相手があるからな。
当時のヤマトの人にとって確認できないことは、神武がニニギの孫であるかどうかってこと。
神武がヤマトへ入った時、アマテラス伝説も天孫降臨も古代の氏族の伝承もヤマトの有力者は
共有していた。
「イズモ」とは、いやオオクニヌシが譲ったのは九州ではない。
ってことは、譲られたのは神武のひいじいさんのニニギではないってことだ。 卑弥呼=百襲姫天皇が崩御した後の男王ってのが崇神なんだろ。
しかし狗奴国との戦局が悪化する一方だから、早々と王位を降ろされ、
代わりに崇神の娘の台与が王に指名され、卑弥呼二世になったら狗奴国との
戦争が終わった。
という事なんだよ。
崇神天皇と百襲姫のエピソードは実際は百襲姫が天皇で崇神が皇子なんだよ。 卑弥呼=百襲姫天皇が崩御した後の男王ってのが崇神なんだろ。
しかし狗奴国との戦局が悪化する一方だから、早々と王位を降ろされ、
代わりに崇神の娘の台与が王に指名され、卑弥呼二世になったら狗奴国との
戦争が終わった。
という事なんだよ。
崇神天皇と百襲姫のエピソードは実際は百襲姫が天皇で崇神が皇子なんだよ。 >>454
御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)は日本書紀に出てくる
ちなみに、古事記には「初国知らしし御真木天皇」として出てくる だいたい、土偶や埴輪なんてロボットかモビルスーツに決まってるだろ。
カギ穴形の前方後円墳だって「宇宙船」そのものじゃねーか!
( あそこに、宇宙のカギを入れると=地球が、開く。のさ )
:アマテラスもスサノオも。世界中の神話の神さまや天使は、みんな宇宙から来たのだ。
( 月刊ムー、より )
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ >>338
毛野が上毛野と下毛野に分裂したとき、戦争はあったのかね?
日光に「戦場ヶ原」っていう湿地帯があるんだが、そこには大蛇に化けた男体山(栃木)と大ムカデに化けた赤城山(群馬)が戦ったと謂われる伝説があるんよね
ここに後世日光東照宮が建てられた意味は大きいよな
自分は常陸・奥州・下毛野vsヤマト・上毛野の戦場になったのだと思う。勝者は常陸連合。この連合が日本という国号だったのではなかろうか? 毛野とか吉備とかの巨大化する前の古墳にまた金文石が埋まってないものか 誰か教えてほしんだけど
確か日本書紀を編纂する頃にはもう「どこどこの古墳が誰の墓で〜」とかわからなくなってたんだよね?
でも天皇の墓だけならわかるんじゃないの?先祖の墓なわけでしょ?
仮に文献を残す習慣がなかったとかしても自分の親と祖父の墓ぐらいは知ってるはずだよね?
そしたらそれぞれ下の世代にそれを伝えていけばその知識が蓄積されて結果自然と歴代天皇の墓は遡れるようになってるわけで
なんでそれが途中でわからなくなるわけ?万世一系なんでしょ?先祖の墓でしょ? >>462
歴代天皇の陵墓は日本書紀に網羅されてますよ。 この国はある意味では北朝鮮以上の国民を騙す国家だと思う 北朝鮮以上に国民を騙し詐欺師の様に搾取する
★★★★政治家・マスゴミ・が隠す日本の真実!★★★★
https://www.youtube.com/watch?v=pX9COqRfCSU
↓ ↓ ↓
https://www.youtube.com/watch?v=A-cKT-sKly4&;;list=PLTEQ4LklraVRq1fq3xbolEhHFm4lhBYVM&index=1
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ どうして古墳って管理しなかったの?先祖の墓だったんでしょ? >>234
中央の権力は強くなったり弱くなったりしてる
倭王武の時代に九州から埼玉まで支配したとしても
また後年に独立を許して九州で磐井の乱を起こされたりしてるし
一度征服したらずっと大和朝廷の支配領域ということではないし
支配領域だからといって完全に支配してるわけでもなく、力関係によって自治を許したり、勝手に外交されたりしてる
また中央は中央で権力争いがあって
6世紀〜8世紀は頻繁に都が変わってる
特に7世紀は
アマタラシヒコの遣隋使派遣→大化の改新→白村江敗戦→九州が唐に占領される→天智天皇が百済残党を従え国の半分を支配し近江王朝を立てる→壬申の乱→天智天皇が負け近江王朝が滅ぶ→「日本」国号成立
と政変の連続
百済や唐を巻き込んだ戦国時代の様相を呈してる 天智天皇+百済残党軍の近江王朝ってのが日本建国の闇だよね
天智天皇ってのはほんとに日本人だったのか?っていう
天智天皇は中大兄皇子だから
だとすると大化の改新を起こしたのも百済人ってことになる 大化の改新の意味も変わってくる
百済人が蘇我を殺して朝廷を乗っ取ろうとしたというね だったらなんで日本書紀に天智が朝廷乗っ取ろうとした百済勢力だって書かなかったんだ >>469
天智天皇の盟友は中臣鎌足=藤原鎌足
藤原氏が権力を持ってたから書けなかった >>470
藤原氏が権力持ってたなら尚のこと百済民族であることを誇示すればいいじゃん
それに「白村江で負けちゃった!テヘッ!」なんてやらなくてもいいよね? >>472
白村江の敗戦は海外文献に残ってるからどれだけ国内で禁書と歴史の捏造をしようとも隠しようがない >>473
敗戦はごまかせなくても内容はいくらでもごまかせるじゃん
どの国の正史だって自分らに都合のいいように書かれてるんだし
あと藤原氏が力持ってたら百済人アピールするだろうになんで日本の歴史に合わせるの?
「我ら百済の民が蘇我を滅ぼして制服したった!」と堂々と書けばいいじゃん いいかね?万世一系は嘘っぱちだ
理由は古墳にある
皇族が自分の先祖の墓を忘れるなんてあるかね?なぜ代々語り継がない?なぜ放置してた?
しかもあんなに大きなものはその時代時代でとてつもない公共事業だったはずだ
それなら尚の事語り継がれるはずだし記憶にだって残りやすい(忘れようったってなかなかできない)
しかも先祖の墓ならしっかり管理もするだろうからあんなひどい状態になるわけがない
つまり実際は古墳時代なんて戦国時代で豪族どもが争って毎年王権が交代する状態だったのだよ
だからどいつもこいつも他の王朝の古墳に無頓着だったし放置して盗掘されようがお構いなしだった
それを天武持統の時代に中国王朝を真似て泊をつけるために無理やり継ぎ接ぎしたのが日本書紀の嘘っぱち史だ
いずれGHQから資料が公開されるだろう >>475
でもみんな前方後円墳だったのが面白いよな
対立して戦争してんのに墓の形はオソロ 戦国時代だって対立戦争してたやつらは同じ宗教だったんだから
古墳のカタチと権力闘争ってそんなには関係ないように思うね 昨日、日本書紀を読んでいてふと気づいたんだが、倭王興が雄略で、
武が清寧なのでは。雄略23年に百済の三斤王が死んでいて(477年)
同じ年に雄略が死んだとある。そして倭王武の遣使が478年。清寧の
本名の白髪武広国押・・・の一部に武の字もある 戦国時代とか対立しあってても城の基本的なデザインとか同じだもんな
権力者はその時代の技術の粋を結集した一番大きな建築物で権力を誇示するものだから
だからこそ古墳にしろ城にしろ一定の基準を共有した上で大きいものをつくって自分の力を見せつける ネトウヨ的には認めたくない話だな
よって古墳は天皇さまのご先祖さまさまが眠ってるってことでよろしく ていうか何で歴史書とか山奥とかにこっそり埋めとかなかったんだよ馬鹿高官どもが少しは頭使えよ
どうせクーデターとか王朝交代とかおこって焚書される段階になってはじめて「あ!ぼくたちの歴史書燃やされちゃう!あ!大変!」とか気付いたんだろ馬鹿が
使えねー野郎どもだマジで >>476
前方後円墳だけじゃない。
前方後方墳とか四隅突出墳とかバリエーションに富んでるぞ。 >>475
> いいかね?万世一系は嘘っぱちだ
> 理由は古墳にある
> 皇族が自分の先祖の墓を忘れるなんてあるかね?なぜ代々語り継がない?なぜ放置してた?
古墳が違うってことは別の王朝ってことだよね
ニコイの水芭蕉?
@bonchan1
https://twitter.com/bonchan1/status/911833352084144128
倭国王家本流=正統日本皇統が関東に居た証拠は「飛鳥時代末期の朝廷が突然『八角墳』を天皇墳墓に
採用している事」であり、「八角墳の発祥起源地=関東」であることからも判る。八角墳墓は天皇の「高御座
(たかみくら)」を表す。 >>474
> 敗戦はごまかせなくても内容はいくらでもごまかせるじゃん
敗戦をごまかした顕著な例がこれ↓ 元寇=元平合戦(源平合戦)
源氏=ゲン=元(モンゴル) 源平合戦=元平合戦 神風とか全部ウソ
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1505816832/
源氏はテムジンと共に日本に侵入した集団で元平合戦で平家(土着日本人)を滅ぼしました
義経伝説は本当はモンゴル侵攻の記憶です
頼朝や義経はどう考えてもモンゴル人
残酷過ぎてあれは日本人の戦い方ではありません
三宅島の神着の王葬山には蒙古王の墓という明らかに不自然な変てこな遺構があります
元寇を撃退したとか単なる威嚇だったとかならば日本に蒙古王の墓があるなんて絶対おかしいでしょう?
マルコ・ポーロもフビライ軍は京都まで侵攻したと記しています
実は源平合戦は元平合戦だった可能性が高いです。
たかが内戦如きで三種の神器を海に捨てたりしませんよ 魏志倭人伝の南を東に読み替えていいなら、邪馬台国畿内説ではなく、邪馬台国関東説があったっていいんだよね。 魏志倭人伝の漢字を一部読み替えることで辻褄が合うとか学者がよく言ってるけど
魏志倭人伝って全体的に誤字が多いもんなの?それとも牽強付会に都合よく読み替えてるってだけ? 邪馬台国の三文字目の「臺」と「壹」も誤字だしな
ただ形が似た文字を写し間違えることはあっても
東と南を写し間違えることはないわな >>485
魏志倭人伝は、海洋民族である倭人が対馬海峡や瀬戸内の海を支配していた時の話なので、
あれを全部現在の日本国内に置き換えてしまってるから意味不明となっているのでは?
後の倭寇ってのも、東シナ海やら対馬海峡あたりまでを領域にしてたでしょ?
鄭成功ってのが日中ハーフの英雄とされているが、おそらく日中ハーフというよりは、
倭人(中国にも日本にも拠点があって行き来していた)の英雄 日本が死ぬほど嫌いになったから古墳なんてどうでもよくなったわ
どうせなら日本の歴史なんて朝鮮人様が植え付けた歴史であってほしい
こんなクソ民度のジャップ国なんて生意気に歴史語る資格ねーよ >>489
白村江で唐軍が圧勝するまで、三韓は日本の属領だったのに? 儒教圏は、易姓革命に際して墓暴をやるし、
まあ、やらなくても人の質がアレで盗ッ人ばかりで、
墳墓破壊されまくりの盗掘され放題、
残ってないよね 日本も古墳が盗掘ばかりだしな
万世一系!とか言いながらテメーの先祖の墓もわからねーとか馬鹿すぎw >>490
>三韓は日本の属領だったのに?
そんな歴史はない 神功皇后の三韓征伐はさておき、
白村江の大義名分が新羅の反乱を誅することで、百済との属領どうしの勝手な開戦を罰するため。
百済は日本に泣きついてきている。
8世紀に渤海国が進貢の許しを求めてきたときも、自称高麗の再興なので旧交を復するを建前に
していた。旧交即ち臣下の礼を以て進貢。つまり、大陸側視点でも、朝鮮半島北端の高麗が日本の
属国だったということを認識していたわけよ。 >>462
万世一系でも何でもないことがバレて大騒ぎになるし、
中国に朝貢してた時の王はなかったことになってるし、
ウソ偽り矛盾が噴出するので、誤魔化し続けるよ
真実なのであれば、もっと情報を出せる。
出せないということはウソがバレるので隠している、って単純な構図だよね 適当に辻褄わせした歴史を真実として「皇紀20○○年!」と言ってる愛国馬鹿見てると
いみじくも浅田彰が言ってた土人国家も納得ってなるわ
仁徳の民の竈とかをマジで信じて語ってる愛国馬鹿ってカルトより質悪いしな
青山繁晴なんて涙目で「こんなに国民を愛した権力者が西洋にいますか!日本の天皇だけです!」とかヒートアップしてて馬鹿の極みだったわ >>462
日本書紀を編纂する頃には分かってたよ。(全部が正しいとは言わないが)
分からなくなるのは平安以降。薄葬思想や公儀の退廃で分からなくなっていった。 >>496
天災による農産物の収量の急減に際して、免租を行うというのは、古今東西、統治者に普遍的なことだけれどな。
やんなかったのは江戸時代の大名くらいだし。 「こんなに国民を愛した権力者が西洋にいますか!日本の天皇だけです!」
↑つまりこれを言った青山のジジィは馬鹿ってこと まあ記紀にしたって、こんなに民を愛した統治者がチャイナにいましたか!つて発想で書いてるからな。
儒教的発想では人民を甘やかしちゃあならん、ギリギリまで締め上げて置くものだ、というのが基本的な統治のやり方。
でも、反乱や逃散されても困るし飢饉で人口減ったら回復に何十年もかかってその間の税収が減るのはとても困ると
いうことは原始時代に毛の生えたような古代の統治者にも解っていた。
建前を重んじる儒教圏だと、大っぴらには免租なんかできないけど、個別に税のとりっばぐれに目こぼしをしたり、
個別に税を軽減したり、普請や祭礼や軍事行動やなにやにかこつけて配る形で、税を民に還したりしたりしていた。
史書に遺すような形でおおっぴらには、単なる免租をやらない。
日本は儒教よりも在来の祖霊信仰・自然数はと親和性の高い仏教・道教の影響が先にきていたので、
奈良時代だと平気で免租を善政として記録に残すし、本格的に支配層に儒教が入ってくるのは武家政権時代、
それも、後代に生じた原理主義的な朱子学や陽明学のようはな流派なので、
免租した方が殿様にとっても得な場面で免租をせず18世紀19世紀の遅い時代に大規模な飢餓が起こったりしている。 4世紀 九州・朝鮮遠征
メンバー:景行、神功、武内宿禰、応神
(遠征の間、大和には大王が不在であるはずはなく、当然別の大王が在位中であり政治を行っていた)
4世紀末
神功、武内宿禰、応神畿内帰国
応神の出生の秘密により大和からは腫れ物扱い、河内に王朝を立てる
歴代河内王朝の王
初代 倭王禰=武内宿禰
倭王武の上奏文「祖禰は・・・」禰を祖と認識
二代目 倭王旨=ウマシウチ宿禰=武内宿禰の弟
百済から贈られた七支刀に「倭王旨に贈る」と記される
三代目 倭王讚=応神=ホムタワケほか諸説
四代目 倭王珍=仁徳ほか諸説
五代目 倭王済=反正ほか諸説
六代目 倭王興=允恭ほか諸説
七代目 倭王武=雄略
熊本と埼玉からワカタケルの鉄剣
「東は毛人の五十五国を征し、西は衆夷の六十六国を服し、渡りて海北の九十五国を平ぐ。」
八代目 清寧天皇→滅亡 >>501
景行〜清寧までは河内王朝と大和王朝の二朝分裂
(鎌倉時代の武家政権と朝廷の二重権力のようなもの)
倭の五王代の倭王の数と記紀の天皇の代数が一致しないのは
河内王朝と大和王朝双方の大王を両方記したから >>498
免租が古今東西の統治者に普遍であるなら民のかまどの話なんて残らないんじゃないか
愛国馬鹿が仁徳のアホの逸話を愛国の象徴として涙ながらに語るキモさの源流は
仁徳のアホの免租が古今東西普遍的でなかったというのが一応の愛国馬鹿どものアピールポイントだろ 高校の時の教師が日本の歴史は天武天皇からはじまったと言ってたのですが間違いないですか? 百済人と新羅人の代表が天智と天武で
彼らが日本の建国者
古事記も日本書紀も古代の記述は嘘っぱち どうしてその後の権力者(皇族じゃなく武家)は半島人の歴史を受け入れたの?
自分たち日本人による真の歴史の創造とか考えなかったのかな?
「日本書紀なんざ天武どものデタラメだ!」ってならなかったのはなぜ? >>462
記紀の編纂のころにはわかっていた。だから書いてある。
現在不明なのは、「書いてある場所がどこだか分からない」ってことさ。
不明になったのは、仏教の優遇で先祖の祭祀が変わったことが大きいのだろうな。
それでも1500年、1700年も前の、大王でもない人たちの墓さえもが大量に残っている
ってことは大変なことで、宗教心に溢れた民族といえるだろうな。
天理や櫻井に行ってみると感動するぞ。 おもろいよな。
「記紀はうそっぱちで、でっちあげだ!」論者の根拠は、なんと記紀なんだからw >>475
お前のいうように戦国時代並に毎年王朝が変わっていたなら、古い古墳は破壊され
一つも残っていないってことになる。なんせ、王権の権威の象徴なんだから、前王朝の
権威の象徴なんざ残しておくとまずいわけだ。
なのに、1400年も前の古墳がほぼそのままの姿で多数残っている。
王墓だけでなく。 仏教の優遇で先祖の祭祀が変わったとしても現実として古墳は目の前にあるわけだろ?
それを大事に管理さえしていれば場所がわからなくなるなんてことは起こり得ないんじゃないか?
でも実際はわからなくなってる
それはなぜだ?万世一系だ神武だ、なんていうならなぜ古墳が放置されていたんだ、なぜ盗掘されたんだ?となる
日本人の宗教心とは所詮そんなものなのか? >>510
古墳が大量に残っているのは、壊す意味が無かったからでしょうよ。
別に全部が大事にされていたわけじゃない。
>>513
大事に管理ってのはコストがかかるわけで、何百年も前のことはそりゃあ
だんだん、忘れられていくでしょう。記録手段も脆弱だった昔のことだから、
無理もないよ。 たとえば自分たち一族の直系の先祖の古墳だけでも管理できないものか?と思う
お寺や神社だってできるだけ当時の状態のままに保管されて現在に引き継がれているように
古墳だってもし万世一系というのならその一族の分だけでも子孫がしっかり管理しようと思えばできたはず >>512
あれだけ大きいものを破壊するのだって大事業で膨大な税金がかかる
だから放置したのだろうし盗掘し放題だったんだろ >>515
発掘調査と土壌分析で、作ったあとはほったらかしだったことがわかってる >>515
それは君の思いであって、現実は難しいんだよ。
大型前方後円墳ではないが、後世に歴世不変の国忌といわれた
天智・光仁・桓武・仁明・光孝・醍醐の墓でさえ、
確実なのは醍醐と、天智がほぼ確実なくらいで、
あとの現陵は間違いなんだから。
それで万世一系がどうだこうだってのは、ちょっと違う。
平安時代の天皇陵で確実に合ってるのは4分の1程度しかないが、
それに比べれば、古墳時代の天皇陵は、巨大建造物ということもあり
考古学の知見と照らし合わせて、ある程度真陵の候補を提示することができる。
(できないのは神武〜欠史八代と安康・武烈陵くらいのもんだろう)
むしろ良く情報が残ってたもんだと、俺は感心している。 >>518
そういう話しじゃなくてもっとシンプルに考えるとだ
たとえば戦時中は歴代天皇の名前を丸暗記させられた
子供でさえ歴代天皇の名前を空で言えた
まったく天皇家の血筋じゃない縁もゆかりもない一般人のガキでもちょっと教育されれば面倒でも覚えられた
それなら皇族の人間ならテメーの先祖の墓の場所ぐらい先祖代々語り継ぐぐらい朝飯前のはずだ
仮に文献として残しておくことができない文化レベルの低い土人一族であったとしても
口承で親から子へと代々語り継げば墓の場所なんて誰でも記憶できる(教育レベルは高い身分なんだしな)
あれだけ巨大なものだ馬鹿でも覚えられるし馬鹿でも忘れないし(そして一般市民と違って一応馬鹿じゃない)
それがわからなくなるってどういうことだ?テメーらの先祖の墓さえすっかり忘れる鳥頭が万世一系とか恥ずかしくないのか?
だからどう考えても当時は戦国時代で王がコロコロ変わってたと考えるのが自然
武力で覇権を争うなんて世界中で繰り返されてきたことだ
だから王朝が変わるたびに前の権力者やその一族は皆殺しにされて記録も伝承も後世に一切伝わらなかった >>520
記憶するのが容易だということと
実際に記憶し続けるということには関連性はないでしょ
覚えていないということは、重要ではなかったということだね
まあただ、万世一系みたいなのは作り話だと思うけどね
ところで何でそんなに怒ってんの? 個人的には、大坂城の地、大坂本願寺を建てる前にあったとされる古墳が気になる。
かなりの立地だしね。誰の墓だったんだろう。 >>475
おまえんち、家系図ある?
おれんちは14代前までのしか残ってないわorz >>523
うちは34代前までよ
もう五代遡ったらそれ以上前の墓とか分からんで
江戸時代の期間分は先祖墓であるけど。先祖の誰かももうわからない。家系図には戒名書いてないから。
それ以上前は家系図に書いてあるからかろうじてわかるくらいで
居を変えた時、分家した時に失伝してるのが
うかがえる。
文字記録を更新し続ける
書き付けるというのがそれだけ特別だったということでは?
遊牧民は代々男子に先祖代々からの
家系家譜を渡して行く習わしという。
日本ではそういう習わしが定着しなかったということでしょうなぁ。 >>521
この人、最初は、日本書紀編纂時になんで先祖の墓がわからなくなってるの?
と質問から入っておきながら、その実、
わからなくなってるのは王朝が違うからだ、という結論の持ち主だから、
記紀の伝承に一定の評価をしたり、墓がわからなくなるのは中世以降だよ、
とかいう意見には、ご機嫌ナナメ。 >>523
皇統と一般庶民比べて意味あるの?
万世一系だ日本の成り立ちだ言うならその根拠はもっと明確であるべきでは?という当たり前の疑問を呈してるだけ
天皇一族なわけだろ?なぜ代々語り継がれないんだ?そんなことありえるか?仏教式の流入?維持費の問題?
いやいや実際に祭祀を行わなくなっても内々で語り継ぐことは自由にできるし誰も妨害しない
それがなぜできてないんだ?と疑問に思う >>525
怒ってるとかご機嫌ナナメとかそういう次元の話しじゃないんだ
ほんとうに疑問に思うから「そうではない」と思う立場の人間に話を聞きたい
建設的な議論をしたいからな
できれば人格攻撃に走る流れは勘弁してほしい
こんな古代の話なんざお互い利害関係はないのだしムキになったり攻撃的になったり排斥したりする必要もない
こんな過疎スレだフレンドリーにまったりいろんな意見を言い合って楽しもうじゃないか >>526
庶民と較べてスペッシャルとわかっただけでいいじゃないか、
万世一系か否かなんて大した問題じゃないんだよ、
兎にも角にもそうやってこうやって万民が持て囃してしまう存在であればいいの。
ところで古墳時代っていう時代名はいまいちしっくり来ないんだなあ・・・新銀行東京みたいな違和感を覚えるな >>527
話を聞きたいって、結構もう意見が出てるじゃん?
万世一系云々の根拠が明確であるべきでは?っていうのはあなたの意見なので、
そう思うのは自由だけれども、天皇家は実際その根拠を明確にする必要なんて
無かったんじゃないの >>530
まだ出ちゃいないね
どうも万世一系を否定されるのが都合悪いのか感情的になってしまう人間が一部にいる
これは毎度のことでこの手のスレやまとめサイトで同じような古墳の件で指摘すると毎回愛国者諸君に喧嘩を売られて辟易する
そんなどうでもいい個人的な自尊心なんて抜きに純粋にシンプルに疑問に思ったことを意見交換したい
こんな過疎スレで議論しようと別に誰も損しない誰も傷つかない誰の地位も名誉も財産も脅かさない
だからポジショントーク的に自由に気ままにいろんな角度から話が広がるようにしたい
>天皇家は実際その根拠を明確にする必要なんて無かったんじゃないの
それも君の意見だな。万世一系についての根拠は曖昧に、しかしその権威や歴史は尊重してください、という
ある種の政治思想をもった人間たちのご都合主義にみえる
それに本人たちに明確にする意識がなくとも真に万世一系が事実であるなら
そうした意志とは関係なく考古学的にも文献学的にも確固たる証拠が残っていて然るべきじゃないか >>529
>万世一系か否かなんて大した問題じゃないんだよ
だから歴史書の編纂なんて中国を参考に適当に継ぎ接ぎできるし古墳も盗掘し放題ってことかな?
でも万世一系が大した問題だからこそ歴史書で権威付けしたわけだしさ
矛盾してるよやっぱっ 天皇を権威付けしたのは
一定の広さの国を治めるのに
民心の拠り所が必要で
その威光を利用して権力を振るいたい者だろ
その威光をランクアップさせるのが
神話の時代から続く
万世一系ってブランドじゃないのか そもそも万世一系って
もともとは「国民みんなが天皇家の支配下」って意味だからね
後の時代の別の解釈なんて歴史をする上で全く意味がないよね 前方後円墳、昔の人は何を思ってあの形状にしたのだろう?秀逸すぎる >>531
今ひとつ、何を言いたいのかよくわかんないんだけど。
万世一系が事実であるなら→証拠が残っているはずだ、と。
証拠が無いんだから、万世一系は嘘っぱちなんじゃないの。
証拠が見つけられていないだけで、本当は万世一系なんだ。
どっちが正しいかというと、私は、万世一系なんて作り話だと思うなあ。 出雲大社の宮司にできたことがなぜ古墳ではできなかったのかね?先祖への敬意があれば何千年も文化や儀式を保存することは可能ではいないのかね?
職場のおっちゃんに論破されたんだけど反論したい
誰か頼む知恵をかしてくれ >>537
古代中国の宇宙観に「天円地方」思想があり、それをガッチャンコしちゃったんだろうな >>539
古代の出雲大社の宮司の墓は残ってないぞ >>541
なぜ出雲大社のように古墳の祭祀は引き継がれなかったか 中世にいたるまでに専属の祭祀奉仕者がいたかいなかったかの違いが大きいのでは 実際にはいたのにその古墳の一族は皆殺しにされて祭祀が廃れたという可能性もある 古墳は作ったら作りっぱなし
埴輪が壊れようが、草木が生えようが、ほったらかし
古墳で継続的な先祖祭祀はやってない 山岳信仰が根底にあるならむしろ草木は抜かないだろうけど >>548
発掘しても壊れた埴輪を入れ換えてない
周濠内の堆積土の分析ですぐに緑地化してることが判明
発掘しても継続的な祭祀を行っていた痕跡が見つからない
だいたい、日本において先祖の墓を重視し、継続的に墓参りをするようになるのは、かなり新しい風習 地下式横穴墓なんてひどいぞ
新しい遺体を放り込むだけ あんな目立つモニュメント
運よく(?)石室崩落とかしてなきゃ
残らず盗掘されてるだろうなあ 天皇陵、古墳・・・・
どこの話なのか、わからないけど、
盗掘されていると思う
盗掘後、
その上に他の建物を造ったという話があったり、
城などを建てた? されているか、されていないかは、すぐにわかる
『天皇陵 盗掘』検索してみて >>550
古墳はその時代の権力者の権威の象徴なのだから作ったら作りっぱなしであとは放置なんてことはない
それと痕跡が見つからないことと実際に祭祀が執り行われていなかったということとは別
そもそも祈祷をするだけとか鳴り物や踊りなどの儀式だけなら痕跡など残りようがない >>557
>古墳はその時代の権力者の権威の象徴なのだから作ったら作りっぱなしであとは放置なんてことはない
まずはそちらが↑を証明してくれ
>それと痕跡が見つからないことと実際に祭祀が執り行われていなかったということとは別
>そもそも祈祷をするだけとか鳴り物や踊りなどの儀式だけなら痕跡など残りようがない
確かにそうだが、古墳に埋葬や追葬する際のマツリの痕は見つかってるんだよ 藤原道長の墓が荒れ放題で
もうどこにあるのかもわからない
なんて詩が残ってるらしいね。
あまり長々と祭祀を続ける習慣はないみたい。 1600年以上も前の国家黎明期の大王の墓が、ほぼそのままの形で残っていることに
オレなんか感動するけどな。
その一つ一つが出雲大社のように祀られていないことで、戦国時代で前の王一族は
皆殺しになったからだ!なんていうやつがいることに驚くわ。
だったら何で伊勢神宮が残っているんだい?
大神神社は?石上神宮は?諏訪大社、籠神社、熱田神宮その他は何?? >>515
天皇家の力が衰えたからだろうね。
室町時代には南北に別れたり、戦国期には一万石の大名以下だったらしい。
后の数も少なく、分家を作るとか上皇になるようなお金もない状態で、古墳の維持どころじゃ
なかったのだろうな。
奈良時代や明治維新や現在の天皇家だけを見てると、ものすごい権力者に見えるのかもしれんが。
江戸時代は、徳川幕府が天皇家に3万石に加増して、伊勢神宮も遷宮の時は別途大金を
補助していた。
東大寺が現在残っているのは天皇家の財力のおかげではない。
主には庶民が寄付をしたからだ。
今ある大きなお寺は、徳川が作らせたものが多い。
家光の時代は、幕府の歳入の半分近くもお寺建設に使ったこともあったとか。
そのおかげで、現在の伽藍や大門があるが、徳川将軍家は家康が蓄えた資産を使い果たしたとかw
平安時代には陵戸があったらしいが、それさえも出来ないほど力がなくなったってことだわ。
一つの墓に200石いるとして、100以上の墓があるんだから、それだけで2万〜3万石必要だ。 勝手に無検証の前提条件を決め付けて
それへの適否を論拠にして自説を展開するのは
トンデモ電波ガイキチさんによく見られる 中国の兵馬俑とかだとそのまま全部地中に埋めてしまう感じだけどね
埴輪も機能としては同じでしょう >>559
>まずはそちらが↑を証明してくれ
君が自分でレスしてる↓の内容はまさに「作ったら作りっぱなしであとは放置なんてことはない」ことをを説明してる
>古墳に埋葬や追葬する際のマツリの痕は見つかってるんだよ 祭りの跡じゃなくて祭りの場面の埴輪集
埴輪で祭りの再現 >>561
まさにそうした神社のように歴代の宮司や儀式や伝統を引き継ぐのが歴史なわけだよ
それがなぜ天皇家だけ万世一系といいながら古墳が誰のものなのかわからなくなるなんてことが起こるんだ?と聞いてる
神社にできるなら天皇家や子孫たちにできないことはないだろう
いいか?伝統や行事そのものを残せと言ってない「どこどこの古墳は誰誰の墓」ぐらいはしっかりと語り継ぐことはできるだろと言ってる
それができてないで何が万世一系だ何が皇統だと言ってる >>562
天皇の力が強かった古墳時代や飛鳥時代のあたりにしっかり語り継いでおけばよかった
なぜそれができなかったのか
それは万世一系のような直線的な繋がりなど実際にはなく戦国時代のように王朝がコロコロ交代していたからに他ならない
コロコロというのは言いすぎだが実際には大きな体制の変革が何度かあったから神武以降の皇統なんてものは太古に断たれた >>563
キチガイとかいって人格攻撃はやめよう
いつもそうなる
毎回だどのスレでも必ずそうやって個人攻撃に走る
冷静になるんだ
誰も攻撃されてない誰も損をしてない
なぜ?の疑問に、私はこう思うという回答をすればいい
日本人が議論ができないといわれるのは話す内容から離れてすぐ人格攻撃にはしってしまうからだ >>571
なぜ?ってあんたの思ってる通りなんじゃないの >>567
何の証拠もあげられてない
見つかっているマツリの痕は一回分
継続的にマツリが行われていた痕跡はない
>>568
埴輪群像が何を現しているのかは諸説ある
>>569
思い込み以外の根拠をあげような
神社は神社で墓ではないぞ >>574
>神社は神社で墓ではないぞ
神社が今に引き継がれているように文化や伝統の継承というのは普通に可能ということだ
ということは“そこまでのレベルの継承”とはいわないまでも「先祖の墓がどこにあるか」ぐらいの継承は充分可能だ
いい加減この点について見解を聞かせてくれないか?その手前の例え話の時点でずっと足踏みしてる状態だ
いいか?「神社が継承可能なら古墳でも同じレベルの継承ができたはずだ」という部分が勘所じゃないんだ
だから「神社は神社で墓ではない」という反論で勝ち誇る話じゃないんだこれは
重要なのは神社は現代に残ってる←これはつまり語り継ぐことはできるということの何よりもの証明だ
同じように万世一系が事実であるならその子孫は祭祀が廃れようとマツリ事が廃れようと「じっちゃんの墓は○○だ」と子々孫々に語り継ぐことはできるわけだ
語り継ぐだけだ、俺が言ってる条件は
神社レベルの建物だの儀式奉納御璽行事を後世に伝えろなんて言わない
古墳が放置され盗掘され放ったらかしになろうが構わない(先祖を敬わない土人一族らしいから仕方ない)
ただただただ語り継ぐことは可能だろ?と言ってる
万世一系がほんとうなら自分の先祖の墓の場所を記憶することはできるはずだ
記憶する脳みそが小さくても自分の親の分は覚えられるはずだ、そしたらそれを子供に伝えて子供も自分の親の墓だけ覚える
せめて古墳時代や飛鳥、奈良時代まで天皇家が一本線でつながっているならこうして墓と先祖の一致なんてできたはずだ 墓にたいして執着がなかったんじゃねーかな
ニライカナイや黄泉比良坂があの世だったわけで >>576
確たる証拠がないのだから思い込みは当然だ
その上で>>577みたいに回答してほしいから聞いてる
なぜ○○なのか?について「思い込みじゃねーか」では話が進まない
思い込みかどうかなんてどうでもいいそこに拘っていない(だから思い込みということにしたいなら思い込みとしたらいい)
聞きたいのはその先だ
なぜ語り継ぐことさえしなかったのか?についての>>576の意見を書き込んでほしい
2ちゃんはここで止まるから議論ができない(必ず個人攻撃やどうでもいい言葉の一部分に噛み付くだけで終始してしまう)
思い込みだというのなら思い込みで結構、その上でどう思うかを書いてほしい
「戦国時代のようではなかった万世一系として先祖代々皇統が途切れることなく続いてきた」
それなら古墳の文化が廃れたとしてなぜ子孫たちが先祖の墓について語り継ぐことさえしなかったのか
あんな巨大な公共事業を要する古墳を作っておいて墓に執着がないというのは無理がある >>578
いや、執着がないのには無理がないよ
子孫が墓に構ったって自分の生きていくことに利益が無くなったんだな
もし利益があったんなら構っただろうね お前は「墓を大事にしてるはずだ」って勝手に決めつけて、
あとはその思い込みに沿ったことしか主張してないじゃんか
古墳時代は墓を大事にしていないと指摘されても、そんなはずはない、と思い込みで否定するだけ
否定するなら否定するだけの事実に基づいた根拠をあげろよ 地元に限って言えば、「アユ」「アイ」に相当する地名の所に古墳がある。
同時に同じ人物を神として祀った神社もある。
この辺りから推測するに、古代は山岳信仰と故人の祭祀は同一視されていて、
人工の山=古墳に「会いに」行く文化があったと思われる。
おそらく生活の主体である山に再生と集落の守護の想いを託したものであろう。
出雲大社や大山祇神社、熊野神社など、各地のもと土着信仰が山岳信仰であり、
その後大和式の神道に組み込まれたものは数多く見られる。
これは先祖への信仰を守る人々を懐柔しつつ、
古墳式地方支配から大和式中央集権に民衆を組み込んで行く政策の結果だろう。
これは神式の葬儀からさらに仏式の葬儀に置き換わっている現在からも類推される。
つまり古代人は墓=古墳への信仰を捨てた訳ではなく、
政治的に古墳が神社へとすり替えられ、さらに神仏習合される過程で習俗としての古墳祭祀が失われたものと考えられる。 >>575
思い込んでるやつに何を言っても無意味かも知れんがw
1,万世一系を取り立てて主張したのは、江戸時代の勤王思想やその流れをくんだ戦前の国体思想
2,少なくとも、記紀が出来た頃にはどこにあるか知っていた。だから書いている。
3,現在は、書かれた場所が正確には「どこ」だか不明ってことだ。
4.某国の王墓のように一箇所に固まって作ってあれば維持できたであろうが、古墳は
各地に散らばっている。
5.先祖の祭祀は、墓ではなく神社が主流だったと思われる。だから出雲大社や伊勢神宮が残っており、
現在まで引き継がれている。江戸仏教だけが先祖の祭祀だと思い込むのは間違い。
記紀によれば、崇神の時に大神神社を作り、その他各地にたくさんの神社を作らせた。
6,埋め墓こそが最も重要という思想は日本にはなかった
以上 もしかして、現在の「墓石の下に骨壷がある」墓が伝統の墓だと思いこんでるやつなのかな?
あんなのは新しいよ。 そういや弥生時代には甕棺だったか。
古墳時代は古墳に入れない人はどうしたんだろう。 >>587
野ざらしとか行き倒れだけだろ
土葬とか埋葬はされてるよ。 >>588
野晒しがあったかどうかは、遺構も遺物も残らないので、確認しようがない
しかし、平安時代では都の周辺に死体が転がっていた、という話はよくされるな >>580
墓を大事にしてないかどうかは重要じゃない
現実に古墳は存在してるということは誰かの古墳だったわけだ
そして万世一系が2700年前から続いているのなら子孫は古墳を大事にしようがしまいが墓の場所と主の情報は語り継ぐことができるわけだ
しかし実際はそうなっていない「なぜそうなっていないのか?」と問うてる
この部分の話をいい加減したらどうだ?何が不都合なんだ?これこそ思い込みじゃなく現実の現象についての疑問だぞ?
語り継ぐことは可能なのになぜ語り継がれてこなかったのか?これは思い込みじゃない(思い込みと思いたければ思えばいいが)
この現実に対してどう思うか聞いてるだけだ興奮するな冷静に会話をしろ >>580
>古墳時代は墓を大事にしていない
古墳は権力者の墓であり一大公共事業だった
そして祭祀もおこなわれている
それなのに「墓を大事にしていない」というのは暴論
それこそ証拠を出してみろ お前は300年前の先祖の墓の位置を知っているのか? >>592
大事にされてると主張してる方こそ証拠を出せよ >>592
埴輪の交換などのメンテナンスが行われていない
堀の堆積物に分析により、すぐに草木が繁茂していたことが指摘されている
継続的な祭祀の痕跡が見つからない >>595
日本書紀、古事記に墓参りの記事がないことも追加で >>582
>現在は、書かれた場所が正確には「どこ」だか不明ってことだ。
だからなぜそんなことが起こり得るかと聞いてる
万世一系なら先祖の墓を語り継ぐなんて当然のことだ
墓という概念が現在と違っていてもモニュメントとしての受け取り方はしているはずだ(あれだけの巨大な構造物ならな)
それであるとしたら自分の親の墓については一般的な教養として子に伝えるしその子もその下の代に語り継ぐことはするはず
なぜそれをやらなかったと聞いてる
これは思い込みでもなんでもない現実として墓と持ち主が一致しなくなってるなんてカルトな状況になってる
それはなぜか?と聞いてる
万世一系、皇統、そしてやんごとなき身分の人間は教育レベルも当然その時代時代で高いはず
それならなぜ自分の近い先祖の墓(繰り返す。墓じゃなくてもモニュメントとしての興味でいい)がデカデカと存在するなら
それについての関心や好奇心もあるだろうしそれを知識として得て自分の子孫へ伝えるのは容易なはず
なぜそれをやらなかったのか?を聞いてる 日本書紀にも延喜式にも陵墓の位置は記載されているのに
何をもって「実際はそうなっていない」というのか?
陵墓以外の豪族の古墳なんて、ごく一部を除いてまったく伝承されてないのに >>594
あれだけの巨大な構造物を大勢の人間で作っておいて大事にしなかったは無理がある
それなら盗掘で済むどころか古墳そのものが現在まで残ってない
さすがに古墳は大事にされてなかったは為にする無意味な暴論だぞ >万世一系なら先祖の墓を語り継ぐなんて当然のことだ
決めつけ
>墓という概念が現在と違っていてもモニュメントとしての受け取り方はしているはずだ
決めつけ
>それであるとしたら自分の親の墓については一般的な教養として子に伝えるしその子もその下の代に語り継ぐことはするはず
決めつけ >あれだけの巨大な構造物を大勢の人間で作っておいて大事にしなかったは無理がある
決めつけ
>それなら盗掘で済むどころか古墳そのものが現在まで残ってない
決めつけ 日本書紀にも延喜式にも誰の陵墓がどこにあるかは記載されている >>595
大事にする=メンテナンスというのは違う
それは自分に都合よくするための牽強付会にすぎない
先祖の霊を敬って墓の内部や周辺は禁忌として近寄らず日常的に遠くから祈りを捧げることだって「大事にしていた」ことになる 大事にしてたはず、ってのこそ
「自分に都合よくする」ための牽強付会にすぎない >>604
正確な情報として後世に伝わっていない
万世一系がほんとうなら日本書紀を編纂した動機でもある天皇と日本の権威付けのために正確な先祖の墓の位置は重要になるから
子孫はそれを調査して後世に記録として残しておくはず
明治政府がやったように国や集合体の権威付けのためには歴史を再確認し内面化する必要がある
それをやらなかったのはなぜか? 563日本@名無史さん2017/11/18(土) 14:59:09.56>>571
勝手に無検証の前提条件を決め付けて
それへの適否を論拠にして自説を展開するのは
トンデモ電波ガイキチさんによく見られる >>608
だから延喜式の時代まではやってたんだよ >>606
おまえこそ大事にされてない証拠を上げたらどうだ
古墳は現在に残ってるこれが何よりの証拠
上のほうでそのこをを誇ってた奴もいただろう
今になって墓なんて大事にされてなかったはないだろ牽強付会くん >>610
それは今の時代の人間には正確なことはわからないな
そもそも記紀だって天武や持統にとって都合よく書かれている可能性もさんざん指摘されてる
延喜式に書かれたことが絶対正しい真実だ!なんてのはロマンがあって微笑ましい思考だとは思うよ >>612
古墳が現在に残ってる=これが証拠
はい次おまえの番
大事にされてなかった証拠は?これはすごいな学会もびっくりな新説だ >>611
>墳は現在に残ってるこれが何よりの証拠
小さい古墳でも掘り崩すのはかなりの労力が必要
そんなところに労力を投下するのは無駄 さぁ議論できない日本人の悪い部分が出てきたぞ(笑) 実際、機械が導入された戦後になってからあまたの古墳が消滅してるな >>615
だったら古墳を作ることこそ最大の労力の無駄だろ
ほんとに古墳を大事にする文化がないならあんなにボコボコ古墳は作られることはなかった
大事されない=権威付けにならない、となれば当然古墳なんて作られない
はい次お前の番
逃げずに大事されてない証拠を出せ >>614
>これはすごいな学会もびっくりな新説だ
大事にしてたって主張してる学者をあげてみろよ >>619
>だったら古墳を作ることこそ最大の労力の無駄だろ
お前は古墳時代の人間の思想が読み取れるのかよ
学界もびっくりだなw >>619
>大事されない=権威付けにならない
決めつけ
作ることに意義を見いだしていた時代だと評価されているがな 古墳築造はエジプトのピラミッドのように働く代わりに食事を支給する公共事業だったのかも >>618
それ以前から朝廷の陵墓管理は崩壊してるぞ
つまり、答えは死穢のせい 自分の無知を認められないばかりに恥を上塗り
462日本@名無史さん2017/09/11(月) 15:51:05.23
誰か教えてほしんだけど
確か日本書紀を編纂する頃にはもう「どこどこの古墳が誰の墓で〜」とかわからなくなってたんだよね?
でも天皇の墓だけならわかるんじゃないの?先祖の墓なわけでしょ?
仮に文献を残す習慣がなかったとかしても自分の親と祖父の墓ぐらいは知ってるはずだよね?
そしたらそれぞれ下の世代にそれを伝えていけばその知識が蓄積されて結果自然と歴代天皇の墓は遡れるようになってるわけで
なんでそれが途中でわからなくなるわけ?万世一系なんでしょ?先祖の墓でしょ?
463日本@名無史さん2017/09/11(月) 16:09:10.84
>>462
歴代天皇の陵墓は日本書紀に網羅されてますよ。 その後の展開を考えると、無知ではなく結論ありきの思想による行動かと 3世紀から古墳が作られだして、石碑も文書もなく
似たような古墳が畿内周辺に何百と作られてたら
子や孫までの代ならともかく、それ以降は誰の墓かわからなくなっても別に不思議じゃない
古墳製造からすでに何百年何十年たった記紀や延喜式の記述は
正確な部分もあるだろうが、誤記もかなり含まれていると考えるのが妥当 祖霊信仰の強い日本に於いて皇室の先祖達が葬られている古墳が不明になるのは異常なこと
きっと現皇室とは関係のない人たちが埋葬されているのだと思う >>617
ちょっと失礼。
古墳=禁止足地の御神体としてその前段に社殿が造営された神社は意外と(特に田舎には)多く残っています。
例えば、但馬一宮の粟鹿神社(朝来市山東町粟鹿)や、
大阪府富田林の朝日ヶ丘に鎮座の崇神天皇の民の反乱=大蛇の神話と深く係わる、
美具久留御魂神社(祭神は崇神天皇自ら創建に関わり神号をも奉呈した美具久留御魂大神/出雲大神荒魂=大国主神。三輪山のほぼ真西にあり、二上山を挟んで対峙するような形式)
淡路一宮のイザナギ神宮等は、元来粟鹿神社と全く同様な円墳の前段に社殿(本殿)を営んだ形だったのを明治政府があな恐れ多くも古墳を破壊更地にして大神さま方の石室を露にして周りに人工基段を造りその上に本殿を造営(クサイものに蓋をした )
因みにイザナギ神宮は飛鳥の宮を中心にして同じ緯度に東には伊勢神宮(内宮)とほぼ同じ距離、経度の1度で配置されています。 >>623
>そんなところに労力を投下するのは無駄
おまえこそ古墳時代の支配者の気持ちわかるのか?思い込みが激しいな(笑) >>624
>作ることに意義を見いだしていた時代だと評価されているがな
どの学派や学者がどのぐらいの割合で評価してるのかソースを出せ
お前のご都合主義の決めつけの相手してると時間が無駄 >>631
つまり万世一系があったと言いたいのか?結論を書けよ >>633
そういう正論を書くと愛国者()くんが必死に噛み付いてきて議論にならないんだ(困ったものだ) >>623
>古墳時代は墓を大事にしていない
早くこの根拠と証拠を出してくれ
必死にアンカーつけて顔真っ赤なのはお前だけだぞ
大事にされてないのになぜ権力者たちはあんなにも古墳をボコボコ作ったんだ?
誰も大事にしないなら権威付けにもならないし先祖の供養にもならない
それなのになぜ古墳はあれだけ作られて尚且つ今も残ってるんだ?
これは決めつけや思い込みじゃなく現実の話だ
さぁ言葉尻を捉えて逃げるんじゃなく俺の質問にしっかり答えてみろ
怯えなくていいから冷静に大人の対応でレスを返してくれよ? >>640
>>615
>小さい古墳でも掘り崩すのはかなりの労力が必要
>そんなところに労力を投下するのは無駄
というのに対して、
>>619
>だったら古墳を作ることこそ最大の労力の無駄だろ
ってのは言いがかりでしかない
言葉尻をとらえて子供っぽい反論をしたって
誰も感心しないよ 記紀執筆当時の人間が歴史だとみなしていたのは雄略記以降で
それ以前の記は日本列島内外の時代も定かでないさまざまな逸話を
フィクションの糊でつなげた後から追加されたお話なんだよ
だから記紀は「仁徳」の古墳の認定を「間違えた」んじゃない
お話をこさえた後で適当に嵌め込んだだけのこと 平安時代延喜式どころか
陵墓祭祀が南北朝時代まで行われていたことも知らないバカがいるのか おまえら、新しいスレがニュー速プラスに立ったぞ 全員集合!
【歴史】陵墓に眠るのは誰なのか 宮内庁と学者の見立てに相違
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1511726842/
1 名前:紅あずま ★ [ageteoff] 投稿日:2017/11/27(月) 05:07:22.41 ID:CAP_USER9
陵墓に眠るのは誰なのか 宮内庁と学者の見立てに相違
朝日新聞:2017年11月27日03時02分
http://www.asahi.com/articles/ASKCL5R38KCLPTFC00F.html
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20171121004799_comm.jpg
陵墓に眠るのは誰?
大阪府の百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群が世界文化遺産の国内候補になったことで、「仁徳天皇陵」や「応神天皇陵」などの陵墓が注目されている。
だが、宮内庁が被葬者としている天皇や皇族には、学術的には疑問も少なくない。
陵墓とは、歴代の天皇・皇后の墓である「陵」と、皇族が葬られた「墓」の総称だ。
宮内庁のホームページによると、同庁は現在、188の陵と555の墓、46の陵墓参考地(陵墓の候補地)など、計899件を管理している。
堺市の百舌鳥古墳群と、大阪府羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群は、古墳が最も巨大化した5世紀を中心に築かれた、計88基の古墳からなる。
このうち、宮内庁が陵墓として管理しているのは46基。
全長486メートルと日本最大の大山(だいせん)古墳(仁徳陵古墳)、同425メートルで第2位の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神陵古墳)をはじめ、全長200メートル以上の前方後円墳10基は、すべて宮内庁管理の陵墓古墳だ。
宮内庁は一般の人の陵墓古墳への立ち入りを禁止している。
百舌鳥・古市古墳群が世界遺産候補となった際にも「引き続き皇室の祖先のお墓として、地域と協力をしながら適切な管理を行っていく」としており、登録が実現しても一般公開などは難しそうだ。 いくら近畿地方の府県で世界遺産が無いのが大阪府だけとは言え、
わざわざ古墳を世界遺産にせんでも…って思う ちゃんと先祖祀って管理してたんなら、なんであんな草木ボーボー生えるに任せたままにしたんだろう?
それとも元からそういう思想のものだったんだろか? >>647
完成後管理するという発想が無かったとか?
近所にでっかい丘ができた、くらいの認識だったのかも >>478の続き。
興が雄略である証拠→日本書紀で雄略5年に武寧王が誕生とあるが、
武寧王の陵墓誌より、これは462年と判明しており、倭王興の時代である。
武が清寧である証拠→上表文には、にわかに父兄を失うとあるが、雄略の
死後すぐに、清寧の兄の星川皇子が亡くなっており、記述と完全に一致。
逆に雄略はにわかに父兄を失ってなどいない。 その「証拠」なんだけどね
日本書紀執筆当時雄略からの代々の大王についてはいちおうの口承やそれを
まとめたできの悪い漢文があったと推測されるけど
大王間の血統関係については不明もしくは相互に矛盾した伝承があったと
日本書紀自らが言明している
史料が限られているなかで何らかの判断・解釈でもって不明点・矛盾点を片付けないと
執筆ができない
日本書紀の執筆者は中国の既存の史書を一通り読んでいるから
それらの史書の記述はきわめて有力な判断材料となる
だから中国の史書と日本書紀の記述が合致しているときわかるのは
当時の執筆者が「これで行こう!」と決めたという事実であって
史実だとは必ずしも言えない
逆に読んでいるはずの中国の史書の記述と食い違っていてかつ政治的配慮と
無関係な記述であれば中国の史書のそれより信憑性の高い執筆者が
有力だとみなした文書or口承の伝承記録を持っていたと判断できる 前方後円墳は最初からあの形をを作ろうとしたのではなく、
方墳文化の国と円墳文化の国の合併の象徴ではないか。
合体墳墓を作っている内に女性の性器にデフォルメされて、
生まれてきた穴に埋葬することで再生を願ったのだろう。 古墳墓制は仏教神道以前の道教的不死の思想が背景にある。
伊弉諾が死後の伊弉冉に会いに行った逸話に通じる。
死者が再び出てきてもらっても困るので、死後の世界での充実を願い
鏡や宝物、剣を副葬し、塚を盛り、服喪や殉死者をも送る。
仏教的成仏の思想には遠く、死は所詮汚れであれば
死者が忘れ去られた時、そこに詣でることもなく草木が茂に任すのが吉。
後に成立する神道的には氏神の一人として祀り祖霊となる。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
SOX3C 「卑弥呼の墓では」巨大な前方後円墳?謎の丘陵 日本最大に迫る全長450メートル [福岡県]|西日本新聞
ttps://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/402402/ >>650
雄略は、父を亡くした後、2年も経たないうちに兄を亡くしている。 古墳のおもしろいところは、古墳を墓として使っているのがあることw
一見意味がわからんやつもいるかもしれん。
要するに、古代の古墳を後代の人々が墓地に利用したわけだ。
うまい再利用というか、まさしく正しく使っていると言うべきか。
大きさからすると、その一帯で一二を争うくらい大きな古墳で、かなりの有力者のものと
みられるやつもある。子孫たちの墓になってるのか無関係なのか。 >>648
騎馬に関する記述もない。
古墳も騎馬も半島由来だから死んでも記紀には書けなかった なんか半島絡みでおかしな書き込みをするやつがいるな とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
YSY >>661
当時、本当に半島が先進地域で、天皇家の先祖がそこから来たのなら、胸を張って
そのことを書くだろうな。
あ、古墳は半島起源じゃないよ。
騎馬も違う。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 「中国」という表現がおかしいね
漢族ではない周辺地域からの移動があったかどうかなんだから
漢族の文明がどうすすんでいようと直接の関係はない
ちなみに中国人学者が好きな説は山東半島居住の水稲栽培族が
朝鮮半島および日本列島に広がったというもの
人骨は近いだのなんだの言っている >>667
何らの考古立証もできません。
人種も民族も5流なら、学者も5流のようで(嘲笑 痴呆老人ウヨってまだ生きてるのか
これ以上日本に害悪を及ぼす前にさっさと死んでくれよ
水稲栽培が元々長江周辺の非漢族のものであることは確定事項
これが遠方の朝鮮半島・日本列島まで波及するためには何らかの人の移動が必要
今の我々のほとんどが水稲の種籾と簡易な農具をいきなりもらったところで
収穫は0になってしまうのと同様
水稲栽培以前の人間が種籾を取得したところでやっぱり収穫は0 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 梁書には、倭国の東北七千里に文身国があったといわれるが、実態が気になる。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 「千葉県芝山遺跡」と「群馬県高崎市八幡塚古墳」の女子人物埴輪の頭が、
チベットのチャン族(羌族「きょうぞく」)の民俗衣装の頭にそっくり。カモ (?)。
写真で確認したい人は下記 url 。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20_Tibet.html 679 は削除 (∵ url が ちょちょ切れた為)。 これと、置換。
「千葉県芝山遺跡」と「群馬県高崎市八幡塚古墳」の女子人物埴輪の頭が、
チベットのチャン族(羌族)の民俗衣装の頭にそっくり。カモ (?)。
写真を見て確認したい人は下記 url を コピペして サイトへ飛んで下さい。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20_Tibet.html >>674
北陸説を押すね
出雲に滅ぼされた古志の国かもしれないね 897日本@名無史さん2019/03/30(土) 08:55:00.54
>>891
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
進んだ文化を持つ中国魏の役人にとって
邪馬台国や倭国群には労をさいて倭人伝に記述してるのに
邪馬台国から東へ渡海した所にある国々(村々?)は
特筆されるものが全くない未開な集落レベルの文化だったから
簡略して短い数行で終りしたとしか思えない記述記録なんだけど
どうなんだろう?
>>674
有名な史書の魏志や隋書には記述されてないのに
梁書にだけは女王國以東の風俗が残されてるって謎 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種
現代語訳すと
女王国の東(北東?)の海を渡って千余里行くと複数の国があり
其処の国々も倭人系である。
巡察してますね ところで古墳での祭祀について、皆さんどんなイメージ持ってます?
俺の想像はこんな感じ。↓
・後円部に死んだ奴を葬る
・前方部に後継者とその一族、周辺地域や中央有力者などの来賓がいる。段築の上の方ほど地位の高い人間が位置する。
(つまり来賓が多くなるほど、巨大な古墳を造らないといけない!
金持ちや有名人の結婚披露宴が大勢の来賓を招いて広い式場で行われるのと同じ)
・被葬者から後継者に権力を承継する儀式を行う。
・円筒埴輪は、
−夜の儀式で篝火を焚く。
−殉葬者の斬った首を入れる。
−各出席者からの供物を入れておく。
−その他
の用途に使われる。
皆さんどう考えてます? んで、前方部の先っぽの一番高い部分には中央からの来賓など一番地位の高い奴が位置し、
前方部と後円部のつなぎ目の低くなった所には後継者が位置して、来賓に顔を覚えてもらう。
後継者の顔を来賓たちによく見せるために、前方部の頂部はスロープになっている。
こんな感じ。 古墳での有力者の葬儀と権力承継の儀式は、たぶんその地域の総力を上げた一大イベント&お祭り&ハレの日&蕩尽の日であったと思う。
そして他所の地域への対抗意識もあり、競い合うようになるべく大きな古墳が造られた。 円筒埴輪が供物の入れ物であれば、儀式の後にそれら(食べ物や酒)は民たちに気前よく振る舞われたことだろう。
想像だが、あれらには酒がなみなみと入っていて、儀式の後は柄杓で飲み放題だったんじゃないかという気がする。 んで民たちは当然のことながら、祭りの後は他地域の人間も交えての大乱交。
何年もかけて地域の総力を上げて古墳を造って来たのは、この日のため。
巨大な古墳を造れば造るほど『祭り』は大規模になる。 農閑期に、田圃整地の残土を一箇所に積み上げ葺石で固めながら、男たちは、
(こうやってより大きな古墳を造れば造るほど『祭り』は大規模になり、まだ見ぬ遠くの村々の娘たちと乱交できる!)と、胸を高鳴らせていたのではないか。 古墳は奴隷たちの強制労働で造られたのではなく、
農閑期に田圃や用水路整備の残土を一箇所に積み上げては、
(ウチの首長様。代替わりの『祭り』は、他所に負けないよう盛大にやって下さいよ)
と言う期待を込めて造られたのではないか。
また(洪水の時には皆を守って下さいよ)と、避難場所としても使われたと思う。
田圃の真ん中の鬱蒼とした森として、田圃にもされず、住居にもされず、1500年以上残っている古墳を見ると、
それらは(奴隷労働の怨嗟と怨念の跡)(首長の無駄な見栄っ張りのために造られた負の遺産)ではなく、
もっとポジティブな存在ではなかったかと言う気がする。 田圃整備→副産物としての古墳築造→人口増加・地域繁栄
は古墳時代の『正の成長サイクル』として機能し、当時の技術で開墾可能な田圃をらあらかた造り終えるまで続いた。 >>694
>田圃整備→副産物としての古墳築造→人口増加・地域繁栄
それはすなわち、「忌部はん」 の所業そのものなのである。 @阿波 2019/06/26
墳丘の貼り石か - 王族埋葬の可能性/香芝・平野塚穴山古墳
https://www.nara-np.co.jp/news/20190626090839.html
https://www.nara-np.co.jp/dbimage/article/ab57375a9fbabef5ae934185f1a01362.jpg
平野塚穴山古墳で見つかった貼り石(後方は石槨入り口)=25日、香芝市平野
奈良・香芝の平野塚穴山古墳に二上山凝灰岩の貼り石 斉明天皇の父の墓か
https:
//www.sankei.com/life/news/190625/lif1906250039-n1.html
平野塚穴山古墳、皇族の墓か? 天皇陵級の張り石が出土
https:
//www.asahi.com/articles/ASM6S64YPM6SPLZU00W.html 平野塚穴山古墳 王族の墓か
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/20190626/2050002501.html
墳丘飾る石、王族の墓か 奈良の平野塚穴山古墳
https:
//www.nikkei.com/article/DGXMZO46600620W9A620C1CR8000/
石は近くの二上山の凝灰岩。
この石で覆うのは天皇陵と考えられる古墳でしか確認されていないことから、王族の墓である可能性が高まったとしている。
古墳は石室の入り口が露出し、過去の調査の際に漆で塗り固めた最高級のひつぎの破片などが見つかっている。
近くには6世紀後半〜7世紀後半の古墳群や寺の跡があり、同古墳も同じ有力氏族のものと推定され、
斉明天皇の父茅渟王(ちぬのおおきみ)の墓とする説が有力だという。
石室の石には築造の際に工具を挿入したとみられる「てこ穴」もあった。墳丘は高さ約5.4メートルの2段築成であることも確認した。
二上山の凝灰岩を墳丘に張り巡らす古墳は、斉明天皇が葬られたとされる牽牛子塚(けんごしづか)古墳(奈良県明日香村)と、
天武・持統天皇陵に指定される野口王墓古墳(同村)の2例しか知られていない。てこ穴は壁画で名高い高松塚古墳やキトラ古墳
(いずれも同村)にもあり、同じ石工集団によるものと考えられるという。
香芝市教委の下大迫幹洋副主幹は「遠い飛鳥地域に集中する王陵級古墳に限って見られる特徴を備えており、
被葬者は王族である可能性が極めて高い。てこ穴は高松塚古墳などの方がきれいに開けられており、平野塚穴山古墳での技術が
発展したのでは」と話した。 妄想するのはいい加減にやめたほうがいい
7c中葉まで文字すら持ってなく記録すらのこしてない
現に木簡の出土数は30万を超えてると聞くが7c台のものはわずか2〜300程度
しかも朝鮮半島出土のものとは1c以上の開きがある
察しろ ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代皇帝・司馬炎は、祖父・司馬懿(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいたw)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て宿敵孫呉との戦いにおいて、最高の牽制となるその背後に倭国「女王之所都」があるために、
ライバル孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡(蘇州)「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、その中に東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 10/15
【奈良】古代豪族・葛城氏の繁栄、体現 御所・室宮山古墳 朝鮮半島での戦闘の際、現地の人々を連れてきて葛城の地に住まわせる
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1571136031/ 古墳時代の存在を今日初めて知ったんだけど授業で習った記憶がないんだが学校とかでどういう扱いなの?
最近授業に取り入れたのか昔から教えてるけどタマタマ自分が受けた授業や教科書になかったのか
自分は縄文、弥生、飛鳥、奈良、平安〜とかは分かるし
テストとでも大体90点以上は取ってたから覚え逃しがあるとも思えないし
(ちなみにもちろん古墳そのものは習ってる) >古墳時代の存在を今日初めて知った
あんたが痴呆なだけ 弥生時代から古墳時代に文化の様相がガラリと変わってるんだから
記紀がフカシだっていい加減に認めような
キチガイ日本会議(脳)は ヽ、,jトttツf( ノ
\、,,)r゙''"''ー弋辷_,,.
=、..,,,ニ;ヲ_ ヾ彡r''"^ ,,,,,,,,,,,,,,,,__
``ミミ, ミミ=- :__ ,彡彡彡ミミミミミx.、
= -三t /~ヽ ,三``''ヾ::, ,彡彡彡彡ミミミミミミミュ、
,シ彡、 / / ,:ミ'' ,彡彡彡'¨´ `ヾミミミミミ、
. / ^'''/ /''ヾ! ( ,彡彡彡 ,z=x、 `ヾミミミュ、
/ / / 、 \ /¨ヾ彡' ::: ,ztッ、` `ヾミミュ、
/ ,t- ! ヽ. ヽ' | l!,ィ :::...~`::''´ ::==ニミミミミミ,
. / , -〜''ヽ .∧'ヾ. _.ノ i,.=ッ、 }iiミミ
l ----,〉 彡itー' ,:' ゙=、_ ノ '::..,イiiミ''
! ___`, ,彡/ .: ___ ~i!. !ミ''
!. ,ィ__ノ 'V .: :. 匁卅i》 ! ,ィミ
. l i _,/ヽ .: ::  ̄ / ` 気にするな
. _ノ / _,.イ/ \ :: , / チョンはいないものと
__/ヽ /ー─t≦ニ∧ ヽ ` ::...__,;:::'´,イ 思って話している
/ニ,イ. ヽ. /二二/二二ニ∧. ヽ /
. /ニ/ニヽ \イ|!二二/二二二二', `ァ、 _ ,ィ
. //ニニニ\ `t|!ニニ\二二二ニ', ,イ::::::::::', .,イヽ
/二二二二二\_,イi}ニニニ>二ニニニ,_>''´ ヽー-〈V. V:',>。.
/ニニニニニニニニ`Z7ニニく二二ニニニニ, l::::::::l Vヽニニ>。、
/ニニニニニニニニニV二二ニVニニニニニ, l:::::::::!. V=\二二>。、 >自分は縄文、弥生、飛鳥、奈良、平安〜とかは分かるし
飛鳥を開拓したのはまた別グループ(朝鮮半島から来た蘇我氏)
古墳時代においても異質 . ¶ (´⌒;;)
|| llll 馬鹿チョンコ!
|], ∧日∧ 糞食いや糞酒なんて止めろ!
|] (`ω´# ) 大日本帝国民になりたいんだろう?
人 [||と // )
(._ ). Д | | |
(__ ) (_(_.)
。゚<;゚`Д⊂ヽ
( ) ウリの唯一の楽しみを奪う日帝はなんて酷い奴等ニダ!! アイゴー!!
でも日本人名カッコ良いから名乗りたいニダ
1,200年も奴隷国家だったから宗主国風の名だったニダ
アイゴー! アイゴー!
∧_,,∧ アイゴー! 。 ∧_,,∧ 。
〃,<;∩Д´> :∧,,_∧: < ゚`Д⊂ヽ
/(_ノ ィ \ :<、 ⌒ヽo: ( ノ
⊂こ_)_)`ヽつ :(_,,ィ、__つつ ム_)_) 出雲の四隅突出に似た古墳が内モンゴルに
ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1293798199/926 >>687
円部に遺体を納めるのは分かるけど
方部に乗るのは神官だけかと
古墳の大きさは単に権力者だから
そして副葬品が多かったから
あと古来は呼ぶ呼ばれるでなく土地の者みんなが主体
円筒埴輪は神社で言うと玉垣みたいなもの >>683
出雲じゃないのかな
鉄じゃなく銅しか産出できなかったけど
ヒスイやギョクの加工権あったようだし
他にわざわざ書かなきゃいけない所があるかね >>667
>山東半島居住の水稲栽培族
そもそも農耕に向かない漁業と製塩の土地だよね >>537
円を四隅に作らなくても1個で良くね?ってなったのかな 倭の五王時代だったかな? 隋唐だったか?
日本海ルートの方墳文化と、九州瀬戸内海や以東の円墳文化を併せた、って言ってた。
大和朝廷〜統一王朝の象徴なんだよ。
筑紫卑弥呼の墓が径150mの日本最初の巨大古墳だったことでも知れるけど、
平定は征服じゃあなかった。 >>667
山東半島で水稲栽培?
淮河以北は降水量が少なく畑作地帯
山東半島は淮河以北で小麦などの畑作地帯だ
水稲栽培とか行われてないな。 ∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
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| |r┬-| | / < 反日教育に侵された
\ ` ー'´ // 在日ヒトモドキ丸出しw
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〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
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| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 惨めで卑しく哀れな
/ __ / 在日ヒトモドキ丸出しw
(___) / >>724
∩_
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____ 〈⊃ }
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| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 惨めで卑しく哀れな
/ __ / 在日チョンコ丸出しw
(___) / 秦氏族は大陸から半島に亡命した後に渡来してきてるだろ
なんで安直に韓国人と一緒にしてんのか意味が分からん >>716
筑紫で出土してる祖先祭祀墓制は渡来もの
そこで初めて大陸産の副葬品が出始めてるし、研究によると人骨のDNAが渡来系弥生人らしい(佐賀や長崎は支石墓と呼ばれる別の文化)
なお大陸方面では古代中国の皇帝が冬至の日に太陽の復活祭祀をしていた影響で多方面で流行ったんだけど、これ皇帝しかやる権利ないんだぞお前ら何様だヤメロって制止された地方は多かったみたい
その古代中国には、天を祀るのは丸形で地を祀るのは角形という謎の約束があった(>>540も言ってるな)
その知識を持ってた者が前方後円墳を造り出したんだろうと私も思う
ちなみに中国は基本父系社会なんで、倭(出土物から見て筑紫しか考えられない)が琉球王朝みたいに女王+弟で統治してたってことは中国の都の人間ではないと思われる
大陸の遼河文明から出ている勾玉や女神像から、あの辺は女系だったんじゃないかと思うが、賛否両論あるよな
日本と同じウラル系とされていて、最古の櫛目文土器もそこから出てるから、影響が無かったとは言い切れない >>667
水田は長江流域じゃないかい?
山東半島って不毛な土地すぎて誰か流刑になった所じゃなかった? >>714
>円を四隅に
イスラーム圏のミナレットみたいだよねアレ >>727
隋書に書かれてる俀国の遣隋使(600年)が「俀王の阿毎多利思北孤は、天を以て兄と為し日を以て弟と為す。天いまだ明けざる時に出でて政を聴くに跏趺して坐す。日出ずれば理務を停めて我が弟に委ぬと云う。」
この俀王の記述って女王の祭祀と弟の政治だったのかなって思うんだけど、めっちゃ隋から見下されてトンボ帰りしたのは「仏教伝来してんのに未だに女系かよ遅れてんな」的なニュアンスだったのかしら
隋の国は仏教政治だったし、冬至の祭祀は引き継がれなかったんだよね多分
その後バタバタと国政を整えまくって、607年に2回目の遣隋使を送る時には仏教の「日出処是東方 日没処是西方」を使った内容の手紙を持たせてるし、仏教的に冠を被るようになったし、
まるで仏教アピールで媚びまくったから対等に扱われるようになったみたいな感じがする
この時に天皇記や国記が編纂されたけど、もしかすると内容はめっちゃ仏教仏教してたのかもしれないね
推古天皇より前の人たちも実は女王だったけど隠しとこうってことになったんでないのかなと思ってしまう
隋唐のお陰でシルクロードの恩恵や最新文化を色々と受けられたのは良かったけど、古来の習俗が歪み始めた転換期だったんだろうな
女をケガレと見るようになって忌み小屋に避けられたりした転換期も、この辺りからだったのかなとか 沖縄の前身である琉球には古墳がなかったので「古墳時代の琉球」という言い方はできない。 ____
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|/ \ / 丶| | 琉球史の第一人者を自称する
/Y ヽ ノ |ヘ イジメられっ子で片思いの
ヒ| / |ノ 相手をナイチャーに取られた
丶- (_ノ -イ | 統合失調症を患う
|丶∈≡∋ /| < 在日中学二年生だと
>――――< バレて悔しいニダァ〜
/ 丶__ノ \
沖縄生まれの醜い在日朝鮮人
琉チョンの妄想はここから始まったw
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523031912/340
> ちなみに俺は沖縄生まれの沖縄育ちで、琉球史の第一人者。
> 残念でした。
命名の瞬間w
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523031912/405
> 琉球史の第一人者を自称するイジメられっこで片思いの相手
> をナイチャーに取られた中学二年生は日本人じゃなかったのか
沖縄は日本固有の領土ではない
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523031912/ しかも検索したら>>736本人しか言ってないwなにこいつw >>734
海女さんの古墳もあるしね
多いけど壊されたり埋め立てられたりした古墳も多くて残念よ
考古学的なものが何かしら出たかもしれないのに おっさんだが
習った時は大和朝廷だけど
今は大和王権って言ってる
古墳時代となぜ呼ぶの? ┏━━┓ ,, -──- 、._ ┏━┓┏━┓┏━┓
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:/ :⊂ノ|: >>741
古墳時代は、日本の歴史の時代区分の一つである。古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代、弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀や古事記による文献上の時代区分である。現在は研究が進んだこともあって、この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。(ウィキペディア) ウィキペディアを引用して何か言った気になってるやつは例外なく馬鹿 ┏━━┓ ,, -──- 、._ ┏━┓┏━┓┏━┓
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:/ :⊂ノ|: >>743
沖縄の前身である琉球には古墳がなかったので「古墳時代の琉球」という言い方はできない。 >>750
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/Y ヽ ノ |ヘ イジメられっ子で片思いの
ヒ| / |ノ 相手をナイチャーに取られた
丶- (_ノ -イ | 統合失調症を患う
|丶∈≡∋ /| < 在日中学二年生だと
>――――< バレて悔しいニダァ〜
/ 丶__ノ \
沖縄生まれの醜い在日朝鮮人
琉チョンの妄想はここから始まったw
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523031912/340
> ちなみに俺は沖縄生まれの沖縄育ちで、琉球史の第一人者。
> 残念でした。
命名の瞬間w
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523031912/405
> 琉球史の第一人者を自称するイジメられっこで片思いの相手
> をナイチャーに取られた中学二年生は日本人じゃなかったのか
沖縄は日本固有の領土ではない
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523031912/ , -――- 、
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ハプログループで言うと物部氏はO系かな?
472 名無し象は鼻がウナギだ! sage 2021/01/17(日) 09:17:08.60 0
■N:遼河文明人
日本人の0.2割(主に青森)
北東北や道南に見られる円筒土器の担い手か
モンゴル北欧に見られる櫛目文土器の担い手とも関連か
■D1a2a(D-M55):縄文人
日本人の3〜4割(主にアイヌや奄美沖縄)
日本で誕生してから3.8-3.7万年ほど経過
約5万年前には中央アジアにいた集団か
■O1b2:稲作弥生人とされる
日本人の3割(主に静岡,徳島,九州,青森)
支石墓の分布と関連か
■O2(O-M122):?
日本人の2割(主に北九州〜本州中部)
BC3000〜BC2000年に栄えた龍山文化人骨
モンゴル系の土族TǔZúとの関連を指摘する調査もある
329〜663年ごろ青海に栄えた吐谷渾tǔyùhúnと関係か いつまでもパボなミンジョク願望や被害妄想を滾らせてないで
オモニのおっぱいに吸い付いときなさいニダ
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縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国大陸系の
衣食住に関する様々な炊飯用生活土器やズボンのある生活衣類や土壁の住居を伴う
中国大陸系の生活痕遺構が一切存在しない
縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国大陸系の
衣食住に関する様々な炊飯用生活土器やズボンのある生活衣類や土壁の住居を伴う
中国大陸系の生活痕遺構が一切存在しない
龍山文化人が渡来定着なんて全く考古立証できないね
中卒すぎるので2回言いました >>757
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かつて大陸には様々な民族が常に入り乱れていた
バカなの? >>757
つーか考古学的に指摘されてることだバーカ
ニュースや論文くらい見ろ ┏━━┓ ┏━┓┏┓┏━━━┓
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ここで何を言ったって、
進んでる研究の事実は変えられないのにね
可哀想な暇人だと思っとけばいいよ >>757
そもそもO2は集団移動じゃなく少数難民と言われてるんで…
よく知りもしないで何ムキになってんの恥ずかしい 龍山人骨と日本人のO2は
遺伝子調査で判明してることだからなあ
必死に屁理屈こねても覆せない事実
自分も物部はO1b2の祖先かもと思う
各々の伝承を信じるとするなら >>764
で、龍山文化から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
. >>42-43
時を越えてレスするのも何だけど
元から出雲や越なんかの日本海流通圏を支配していたのが後の蘇我氏ではないのかという説がある
出雲大社には有名な素ガ社(ソガノヤシロ/なぜか変換できない)があり、スサノオの最初の宮は須賀という
越に影響を与えたスサノオは出雲の蘇我氏がモデルだったのではないかと
そこを、新潟の弥彦に留まったという尾張出身の天香語山(タケミカヅチ)と、越を平定し石見に鎮座したという物部神社のウマシマジ(フツヌシ)が、はさみうちして日本海航路を絶ったのではないかと
で、物部氏は出雲に"大物主"の祟りを封じる、からの、越に逃れて継体天皇と共にヤマト入りして"我は蘇る"なのでは?っていう
その後の伝承で蘇我氏と物部氏は姻戚関係になってるから
一方で南部九州に逃れた出雲王が神武天皇になったのではとか
結構これ好きな説なんだけどどうだろう
どの本か忘れたけど関裕二さん(漢字違うかも?)のどれかに書いてあった
ちなみに島根周辺の四隅突出型古墳は日本海を経由して伝わっているので、彼らの古墳の初期形態だったのではという
だから>>710が個人的に気になってるわ
あの形に何かしらの意味があるんだよね
前方後円墳は、四角が地・丸は天という大陸思想(都会で流行ってる最新概念の取り込み)なんだろうけど、四隅突出型は本当に意味不明な形
四隅に四人の祭司でも置いて何かしらの呪術でもやってたんだろうかっていう >>765
その変な改行は何なの?
あと、しょうもない煽りしか出来ないなら荒らしだよ >>767
で、龍山文化から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよ中卒すぎるおまえ! >>710
これ見れない人もいるかもしれんから貼っとく
926 世界@名無史さん 2020/03/18(水) 06:16:25.53 0
古墳スレで聞こうと思ったけど適したスレが無かったので、こちらで質問させてください
良いスレありましたら移動するので誘導お願いします
内容は、遊牧民は古墳を作るのか?です
場所は内モンゴルの額済納(エチナ/エジン)旗
シルクロードから少しだけ北に外れたゴビ砂漠の南部
湖が幾つかあり南北に長い川が流れていてエチナ川とか黒川とか呼ばれています
※この川の近くには観光で有名な黒水城(カラホト遺跡)があります
この川沿いをGoogleマップ航空写真で見ると、大きな塚が幾つか築かれていて、周囲は立派な水堀で囲われており、その周囲に2〜4個の三角形(まじない?墓守拠点?)が見えるんです
たくさんありますが3つ座標を出します
3号
41.8843223, 100.5621395
4号
41.7642048, 100.7177981
5号
41.7245296, 100.4551113
この辺りは砂漠だから農耕民が住む訳ないし、遊牧民の関係ではないかなと思うのですが、詳しい方おられますか?
もう少し西の辺りに某国の秘密のミサイル射撃場があるせいか、まったくネット情報が出てきません…
927 世界@名無史さん 2020/03/18(水) 06:20:05.55 0
ちなみに、かつて南側(シルクロード側)にいた農耕民と、この北側にいた遊牧民とで、川の水の権利をめぐって対立があったそうです >>53
>祖神を持たない
元から祖先信仰の無かった民族というか人種だったんだろうね >>94
同じく今までは完全なる外来者だと思ってた蘇我
でも本来のというか出雲の祟神だとすると見方が変わってくる
>>132>>134
そうだね
蘇我氏はソグド人だった、みたいな俗説にロマンを感じて持て囃す人がいるから誤解してる人も多いかもしれない
今でも悪者にされる立場の人は、ネットや週刊紙で根も葉もないことを言われる >>254
遅レスだけど、現代では「元からの在来勢力がワチャワチャしながら融合していった」と考える向きが主流になってるよ >>261
>環境要因
中国人に鼻の大きい人が多いのは空気汚染による
肌の白い黄色い黒いは住んでる場所の緯度による
などという説がある
>>266
戦後に爆発的に増えたからね近畿地方の朝鮮人 >>274
まだいらっしゃる?
できたら本のタイトルか著者を知りたい
今後の購入を避けたいから >>278
あれはあれで面白いよね
古墳に興味を持ったキッカケだわ >>378-382
橋や箸については、ハシが元々は水(川)の意味だったところから、川岸(端)を意味するようになり、しだいに繋ぐもの渡すものを意味するようになったとする言語学者がいる >>460
これ面白いなあ
>>626
エジプトではビールを振る舞って募集かけたと言うね
古墳がどうだったのか気になってた >>769
いつまでもパボなミンジョク願望や被害妄想を滾らせてないで
オモニのおっぱいに吸い付いときなさいニダ
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で、龍山文化から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよ中卒すぎるチンコロのおまえ! >>766
>>770
中央アジアの砂漠にあるのは古墳?結構でかそうだけど大きさ分かる? いつまでもパボなミンジョク願望や被害妄想を滾らせてないで
オモニのおっぱいに吸い付いときなさいニダ
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で、龍山文化から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよ中卒すぎるチンコロのおまえ! いつまでもパボなミンジョク願望や被害妄想を滾らせてないで
オモニのおっぱいに吸い付いときなさいニダ
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で、龍山文化から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよ中卒すぎるチンコロのおまえ! 俺の思い過ごしかもしれないが、古墳の出入り口って西向きが多いと思うけどどうよ >>792
いつまでもパボなミンジョク願望や被害妄想を滾らせてないで
オモニのおっぱいに吸い付いときなさいニダ
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古墳じゃなかったら何だろうな
あんなバカでかい道標とか無駄な盛り方するかよ
四方向に柱や台を立てる風習は
四隅突出型墳丘墓だけでなく、諏訪に点在する小社にも、イスラームのミナレットにも見られるぞ
そこから精神性を読みとこうとか思わんの? >>794
で、龍山文化から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよ中卒すぎるチンコロのおまえ! いつまでもパボなミンジョク願望や被害妄想を滾らせてないで
オモニのおっぱいに吸い付いときなさいニダ
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./ ヽ_!_!_j_} └|_!_!_!j \ 横穴古墳にしか興味なし
とくに九州(福岡県)と関東(埼玉県) >>799
興味なし(キリッ
じゃなくて話題提供よろ >>800
画像は見えなかったが
中国の基地みたいなのは少し西のほう
大規模だけど隠すようにしてて航空写真でも見えづらい
つーか普通基地は目立たせないもんだと思うが いつまでもパボなミンジョク願望や被害妄想を滾らせてないで
オモニのおっぱいに吸い付いときなさいニダ
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./ ヽ_!_!_j_} └|_!_!_!j \ >>798
で、龍山文化から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?
早く出せよ中卒すぎるチンコロのおまえ! >>800
>>801
一本グランプリで出してほしいわ >>803
あれが戦争拠点なら真っ先に標的にされるわな >>805
いつまでもパボなミンジョク願望や被害妄想を滾らせてないで
オモニのおっぱいに吸い付いときなさいニダ
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./ ヽ_!_!_j_} └|_!_!_!j \ たけし「歌を歌ったり映画やる気力もねえや、馬鹿やろう」 ┏━━┓
┃ ● 〜
┃ 天 〜
┃ 誅 〜
∧∧ ┃ 〜
<二━━━O━━━━━ロニニ>
∧,,∧(゚Д ゚ )]ミ
/・ ・ )Oニ)<;;> この槍くらえ!
/ ノ lミliii|(ヾゝ
(o_o,イ__ヽ´|(__) ノ~⌒)彡エラ張り一族め
ノllllllllヽ| | ̄ノl ノ
/ /~ヽ ノ'''''''~ヽヽ\ヽ_バババッ
ヽニフ|_| (_/ ヽ ドドド〜
(_ヽ 遺跡の本質はその建築者ではなく、観察者が決めるという一部考古学の危険性
https://i.imgur.com/zMuGIPW.png >>812
お前も観察者だろ?なぜ建設者みたいな物言い?
本質を決めつけて押し付けてるのは自分だろ? 悪さばかりしてるからだ!バカチョン!
. . ノ
∧倭∧ / / / / 彡 ノ
⊂(#.・∀・) 、,Jし // パン ノ
(几と ノ ) .て 彡⌒ ミ∩
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レ'レ' つまり世間一般には古墳は天皇の墓で、墓を作るために住民を使役して墓を作らせたという認識が一般的なの?
盛土説なら田圃開拓の為に土地を平坦化する必要があり住民と一緒に土木工事を行い余った土は一箇所に盛った
田圃完成記念物として盛土を祀ったと言う説
これは知名度あるの? そこまで理解できてないならWikipediaくらいは読めば? Wikiで一般的な古墳の認知度って分かるん?
最近の教科書にはどう書いてるんや? 要は使役して作らせたのか開拓のために共同して作っていったのかでだいぶ印象変わるやろ 開拓のためなら
貴重な鏡や玉を埋めたり
海女さん埋めたりしないだろアホか ということは使役させて権威目的に作ったという認識か
だが本当にそうか?
ワイは先程のように田圃開拓が主目的で古墳はオマケ、記念碑的なもんという説が一番しっくりくる
大体そんな無駄なもん作るか?
当時は土砂の移動技術が拙いから一箇所に盛っただけなんじゃないのか?
使いみちが無いから記念碑として使うのが一番合理的な使用法じゃないのか
わいの時の教科書にはこんな説は無かったが今にして思えば恣意的な教育操作さえ感じるぞ 天皇や豪族は人民を使役して来たのではない
みんなで豊かな田圃を開拓するために困難な土木工事のリーダーを買ってでたのだ
ひょっとしたら数十年に及ぶ大工事だったかもしれない
そこまでして出来た豊かな田圃は住民は感謝しか無かったろう
そして開拓事業の記念碑として古墳を祀ったのだ >>827
あんたは古墳の建設目的どう思ってるのさ >>729
確かにそうだわ
諏訪の方に行くと、小社の四隅には必ず高い竹笹が一本ずつ付けられてるのも気になる 年度末に道路工事するけどあれと一緒で
まあ予算とか消費してたんなら
昔から道路工事は毎年やるように決めてただろうな
たしか中国とは月日が違った記憶
墳墓は法律あんのかね 歴史探偵で飛鳥の八角形古墳やってたから来た
話題になってるかと思ったけど観た人いないか >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明、戦前は鞆の浦が有力だった?)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では方角や距離を正しく測れなかった可能性が高いが、
水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、この時点で不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめろ 菟道稚郎子って絶対弟の仁徳天皇に殺されてるよな。
弟のために自殺ってなんだよw >>835
あれは古墳時代よりもずっと後の話だからな
前方後円墳は皇室以前の畿内の豪族の墓だな
古墳時代に現代日本人が日本列島へ広がっている。 池田次郎『日本人のきた道』より
大陸からの渡来の波は、古墳時代を通じて断続的に押し寄せたが、それは中央政権の支配が拡大するにつれて、農耕が全国的に普及したためである。
このように渡来形質をもつ農民集団が本土の広い範囲に進出したからといって、古墳人の地域差が縮まったわけではない。
大陸要素の濃度という点からみれば、古墳人の地域差はむしろ拡大している。したがって、古墳人の特徴も、地域を無視して一概には論じられないが、
大ざっぱにいうと、大半の古墳人は現代日本人に類似する特徴を多かれ少なかれもっている。
百々幸雄らは、頭蓋小変異の出現頻度によって、縄文人・渡来系弥生人・古墳人・歴史時代日本人に分割され、現代人の特徴は古墳時代まで遡れると結論している。これらの特徴はすべて大陸に由来するものである。
古墳人骨がほとんど出ていない東海・中部地方・東北北部を除く日本列島を九地域に分けると、古墳人集団は三群に分けられる。
第一群は畿内集団だけで、これには畿内現代人が入る。
第二群は南九州・西九州・北陸の三集団で構成され、これには津雲縄文人、西北九州弥生人が属す。
第三群は第一群と第二群の中間に入るが、第一群により近いグループである。これには北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国、南近畿、関東・東北南部の五集団が北九州・山口弥生人とともに含まれる。
第一群と第三群を渡来系古墳人、第二群を在来系古墳人とよんでおく。 第一群の畿内古墳人は、高顔と鼻根部の平坦性が古墳人のなかでもっともいちじるしく、身長ももっとも高いなど、渡来系古墳人のなかでも渡来形質がとくにきわだっている集団である。
また、短頭性がもっとも強いが、この頭形は現在までうけ継がれている畿内人の地域的特性である。
古墳時代・奈良時代の人口密度がもっとも高く、大和王権の拠点であった畿内は、古墳時代になっても朝鮮半島からの移住者を大量にうけ入れた地域だった。
畿内古墳人が、韓国・朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し、縄文人からもっとも離れているのもそのためである。
資料の約半数が筑前・筑後・豊前から出ている北東九州・西中国古墳人の中心は福岡の平野部にあり、そこから南へむかっては南九州古墳人の、西へむかっては西九州古墳人の縄文人的特徴への傾斜を示すが、
豊後の山間部だけは特別で、そこには古い体質を保持しつづけた古墳人が居住していたのである。
資料の約八割が関東地方から出ている関東・東北南部古墳人は、顔面平坦度や頭蓋小変異の出現頻度で縄文人と大きく異なる。
身長は畿内古墳人とともに古墳人のなかでも高身長の部類に入り、頭蓋・四肢骨のすべての特徴に大陸的・農耕民的要素が認められる。
頭蓋計測値で第二群に入る北陸古墳人は、鼻根部の平坦度がやや弱く、低身長で、四肢骨の特徴にも縄文人的要素がみられる。
しかし、縄文人との距離は畿内現代人と同じくらい遠く、むしろ第三群の関東・東北南部古墳人に近いので、同じ在来系古墳人でも南九州・西九州の古墳人と同列に扱うことはできない。
頭蓋計測値(11項目)の形態距離に基づく古墳人集団の関係(男性)〔池田次郎〕
渡来…畿内
縄文…南九州・西九州・北陸
中間…北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国、南近畿、関東・東北南部 古墳時代から奈良・平安時代にかけて、政治・文化の中心部と辺境部の住民のあいだに明瞭な違いがあることは、各地の古墳人の特徴からも明らかである。
奈良時代、大和人にとって言語や風俗習慣の異なる異様な存在は、『古事記』、『日本書紀』など古典にあらわれる隼人・熊襲・肥人・土蜘蛛・国栖・蝦夷など古代の異族であった。
『古事記』、『日本書紀』、『風土記』によれば、土蜘蛛の分布は九州から東北地方までの十〇ヵ国にわたり、そのなかには大和も入っている。
水野祐によれば、『風土記』に記載されている北部九州の土蜘蛛の半数は肥前国西北部の沿岸に居住し、アワビなどをとっていた潜水漁労民で、『魏志倭人伝』にいう倭の水人とはこれらの土蜘蛛だったという。
西北九州弥生人が漁労を主生業とし、縄文人的な形質をもつ在来系弥生人であることを考えると、肥前の土蜘蛛はこれら弥生人の体質を守り通した漁労民だったかもしれない。
残り半数の北部九州の土蜘蛛は、豊後の山間部に住んでいたと伝えられているが、この一族は古い体質を残している豊後古墳人となんらかの関わりがあるのかもしれない。
隼人・熊襲・蝦夷・土蜘蛛は、いずれも辺境の地に割拠していた異族であるが、大和にも国栖とよばれる異族が住んでいた。
吉野川上流域の山岳地帯で狩猟民として独自の文化伝統と体質を守りつづけていた国栖は、大和人と接触する機会が多かったために、その異様な習俗と風貌がとくに目をひき、異族として扱われたのだろう。
池田の説明では弥生から古墳時代にかけての渡来集団は連続的に捉えられています。また、縄文人の形質を残す集団もいます。
なお、池田の扱っている古墳時代の人骨の多くが5世紀以降のもの。 「大ざっぱにいうと、大半の古墳人は、渡来系弥生人と古墳時代以後の日本人に類似する特徴を多かれ少なかれ持っている。
たとえば、古墳人の頭蓋・四肢骨の計測値は、ほとんどすべて縄文人と現代人の中間に入るが、鼻根湾曲示数・歯槽側面角・大腿骨の中央横断示数・身長などでは縄文人より現代人、さらにはそれ以上に渡来系弥生人に類似する。
また古墳人の顔面平坦度示数は縄文人・現代日本人より小さく、北方モンゴロイド(ナナイ・ニヴフなど)や渡来系弥生人に近い。」
池田次郎『日本人のきた道』(朝日新聞社、1998)278頁から)
さらに池田は、頭蓋計測値を基に列島を9地域に分けて、その地域性を述べる。
その際、古墳人の集団を三群にわけている。
第一群…畿内
第二群…南九州、西九州、北陸
第三群…南近畿、四国、東中国・西近畿、西中国・北東九州、関東・南東北
第一群は畿内古墳人で「高顔と平坦性が古墳人のなかでもっともいちじるしく、身長ももっとも高いなど、渡来系古墳人のなかでも渡来形質がとくにきわだっている」
また「短頭性がもっとも強いが、この頭形は弥生時代に出現し、古墳時代をへて現在までうけ継がれている畿内人の地域的特性」としている。
第三群のうち「北東九州・西中国古墳人」は「頭蓋・四肢骨すべての特徴で、北部九州・山口の渡来系弥生人にもっとも近い。」
また、南九州・西九州古墳人は「縄文人的特徴への傾斜を示す」などなど
各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…南九州・西九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側 中央政権による地方制圧
https://pds.exblog.jp/pds/1/201907/20/25/f0300125_21581552.jpg
中央から地方へ派遣された征討軍のルートが、横穴墓の分布と近似しています。以下、中央政権による地方制圧の記事を『日本書紀』『古事記』から見ていきたいと思います。
九州島は横穴墓が広範囲に分布していますが、景行天皇の九州行幸ルートとほぼ合致します(第8図)。『日本書紀』には、景行天皇12年7月に熊襲が朝貢しないため、景行天皇は九州行幸(西征)に発っています。
その経由地・滞在地を記すと、娑麼(さば)から、豊前国長峡縣(ながをのあがた)、碩田国(おほきたのくに)、速見邑(はやみのむら)、來田見邑(くたみのむら)、日向国高屋宮(たかやのみや)に移り、そこに留まって襲国(そのくに)の熊襲梟帥(くまそたける)を討ち、
その後、子湯縣(こゆのあがた)、夷守(ひなもり)、熊縣(くまのあがた)、葦北(あしきた)から海路で、八代縣の豊村、高來縣(たかくのあがた)、玉杵名邑(たまきなのむら)、阿蘇国、御木(みけ)、八女縣(やめのあがた)、的邑(いくはのむら)を経て大和に還っています。
第8図のように、横穴墓の分布とほぼ一致しています。しかも、佐賀県や長崎県、宮崎県以南に横穴墓が分布しないという点でも合致しています。
東海道から東山道の太平洋側の横穴墓の分布は、日本武尊の東征ルートと合致しています(第9図)。
若干の異同はありますが、『日本書紀』『古事記』共に記されています。『日本書紀』で見ますと、日本武尊は景行天皇40年10月に都を出て、伊勢神宮から駿河の焼津、相模を経て馳水(はしるみず)を渡り、上総国に入り、海路で葦浦、玉浦を巡り、「蝦夷の境に至」っています。
陸奥国の竹水門(たたのみなと)で蝦夷の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神・國津神等を制圧・虜とし、日高見国で転じて常陸に戻り、新治(にひばり)・筑波を経て、甲斐国酒折宮(さかおりのみや)に入っています。
そこから北に向かい武蔵国、上野国を経て碓日坂(うすひのさか)から信濃国に入り、信濃坂を越えて美濃国・尾張に還っています。
このルート上では、静岡県の焼津から甲斐国酒折宮の間が、横穴墓が稠密に分布する地域となります。
焼津は最初の戦闘地域であるのに対して、酒折宮で日本武尊は「蝦夷の凶(あ)しき首(ひとども)、咸(ことごとく)に其の辜(つみ)に伏(したが)ひぬ」と当初の目的が達成したと述べています。
このように、焼津から酒折宮までの間で征討行為がなされていたと考えられ、横穴墓が稠密に分布しているのです。 四道将軍の地方制圧
https://pds.exblog.jp/pds/1/201907/20/25/f0300125_21595221.jpg
北陸道および山陰道東部の横穴墓の分布は、いわゆる四道将軍の派遣先と合致します(第10図)。
『日本書紀』では崇神天皇10年10月に大彦命(おおびこのみこと)を北陸(くぬがのみち)に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に、吉備津彦を西道(にしのみち)へ、丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)を丹波(たには)に派遣しています。
翌年の11年4月には各地の賊を平定したことを天皇に奏じています。西道以外の派兵先は横穴墓が造られた地域となっています。
山陰道中央部にも横穴墓が稠密に分布していますが、この方面にも派兵がなされています。『日本書紀』崇神天皇60年に、出雲振根(いずものふるね)が弟の飯入根(いひいりね)を殺したことに対して、吉備津彦と武渟川別を遣わしています。
『古事記』にはこの記事はありませんが、倭建命が熊襲を平定した帰途に出雲に立ち寄り、出雲建(いずもたける)を誅したとしています。
このように、中央から地方にたびたび征討軍が派遣され、征討軍が派遣されたルート上や目的地に横穴墓が濃密に分布しています。両者には何らかの関係があったと想定されます。
中央から地方へ征討軍が派兵された結果、新たな階層が生み出されたと考えられるのです。
地下式横穴墓(隼人)・横穴墓(大和)
https://livedoor.blogimg.jp/warabite/imgs/c/9/c97e0728.jpg 記紀では、初期のヤマト王権が戦った敵勢力は、必ず男女ペアか兄弟ペアで統治されている。
そしてなぜか不思議なことに、初期のヤマト王権だけは、その中でまるでオーパーツのように、
時代を超越して中国の皇帝そっくりの、男系直系の天皇1人によって統治されている。
これは、白村江での敗戦後、唐に対抗して、
(倭国にも、中国の皇帝のような存在が大昔からいた)
というストーリーをメイキングしたから。
なので実際には初期のヤマト王権も、男女ペアや兄弟ペアで統治されていたと考えるのが妥当。
当時はそれが統治の正当性を担保するために必要だった。
たとえば神武は、軍事指導者と、呪術師との2面性を持った存在だが、
これは本来、軍事指導者である男王と、シャーマンである巫女王が男王1人にされたもの。
また崇神とモモソも、おそらくは姉弟か兄妹関係にある男王と巫女王。
推古天皇と厩戸王は、そう言う体制への先祖帰り。 古墳を調査すれば記紀とは全く別の大王の存在が浮かび上がる >>850
多分、大阪府羽曳野市にあった蔵塚古墳
南阪奈道路建設で調査後消滅
報告書PDF
file:///C:/Users/noboru/AppData/Local/Temp/17490_1_%E8%94%B5%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3.pdf 弥生時代から古墳時代の国産青銅器の原料は大陸産、つまり国産とはいえ大陸産青銅器のリサイクルにすぎないって本当? 今朝の茨城新聞
「考古学発祥」古墳に脚光
栃木・大田原 徳川光圀が発掘支持
江戸時代に水戸藩主の命で発掘が行われた栃木県大田原市の侍塚古墳が「日本考古学発祥の地」として注目されている。
来年で発掘から330年で、県は本年度から初の調査を始める。
地元では記念碑が設置されるなど観光資源としての期待も高まる。
という記事があったのだが、気になったのは「県は」。
通常、茨城県で「県は」と言った場合は茨城県を指す。しかしこの古墳は栃木県内。
茨城県だとしたら、勝手に他県内を調査していいものだろうか。 >>854
この場合、県って栃木県でしょ。
別に茨城新聞だからって、
必ず茨城県を主語にするとは限らないわけで。 >>856
だったら一ヶ所でも「栃木県」と入れれば要らぬ誤解をしなくて済むのに。 >>666
20世紀も終わりにならんとするときに、洞穴にすんでたりしてたじゃん。
yao-dong(窰洞) って。
北京にもあった。
最近はトッ崩されてビルになってるけど、小高くなってるところに盛り土をして穴を掘って、住んでたじゃん。 「仁徳陵ってデカいなぁ」
「ふん(笑)始皇帝陵やピラミッドに比べたらゴミみたいな規模。偉大さが違う!」
「それなら、造成は大した悪行では無いね」
「‥‥…大きさだけならクフ王よりも始皇帝よりもデカいの造りやがった昔の皇室の罪は量りしれない!」
「それなら、世界的な偉業じゃん」
「………」
「ところで仁徳陵にしろ応神陵にしろ、その主は今の皇室の先祖ではないらしいけど」
「そうだ、皇室の歴史なんて浅い!」
「だったら、巨大古墳造成で人民をこき使った罪は皇室には無いね」
「いや!あんなデカい古墳作らせたのは太古から人民を虐げてきた天皇家に決まってる!」
「それじゃ、あの古墳の主はやっぱり皇室の先祖なんだな」
「ぐぬう……」 俺は福岡の人間だけど奴国(福岡市)や伊都国(糸島市)が
邪馬台国(福岡南部〜熊本)より大和朝廷を選んだ理由がよくわかる。
気質がまったく違う。はっきり言って合わない。
だから竹田恒泰さんの大和朝廷の成立の解説がリアルにわかる。 >>832
地鎮祭のときにめぐらす四方の竹笹と同じじゃないの。 >>861
九州各地の気質の違いは知らんが、そもそもの倭国乱は玄界灘側と筑紫平野側の戦いやと思うわ。
双方の気質が違ってるのは、外海気質と内海気質の違いやろな。 諏訪は、京都から関東行田へ行く街道の拠点の一つ。
秦氏が開いたところで、諏訪大社の神事をみてもそれが分かる。
秦氏が、ユダヤ教徒であったことの証拠。
諏訪は、水があるところの意味な。 行田の最初の前方後円墳の後円部には、のちに小さな稲荷社が置かれた。
その稲荷社の総本社は京都深草の秦氏の伏見稲荷。
一本の線でつながってるのよ。
稲荷は神が降りたという意味。
伏見稲荷の稲荷は、シナイ山に擬して秦氏が名付けたものが訛ったものだ。 京都に3世紀や4世紀の古墳は無かったのかな、
鴨川の綺麗な水が流れていて住みやすかったと思うけど 京都の向日市に古い古墳がある。
五塚原古墳。
3世紀中葉〜後半の築造とされる。
秦氏の先祖が深草に入植する前に、すでにこの辺りに有力な勢力がいたということだ。
北河内あたりから日本海に抜ける街道の要衝にある亀岡と連携する勢力だろうな。
この五塚原古墳の勢力が邪魔で、そのために秦氏は嵐山から亀岡へ抜けるルートを開拓したのだろう。
その亀岡と結ぶルートの京都側の拠点が太秦だった。 まあ、古墳時代の産業、経済について、秦氏は欠かせない氏族だよ。 >>861
まあ元々奴国伊都国の方が先進国だったしな
その頃は畿内よりずっと進んでたわけだが 山梨県にある銚子塚古墳や丸山塚古墳て誰が埋葬されていると予想しますか? 中国と日韓が異なる点は、日本人と韓国人はツングース成分を多分に含むこと
黄河流域から東へ、アムール川から西への流れは少なからずあったが、
西遼河流域の日琉語族=濊人=扶余=満州=紅山文化人は何故か朝鮮半島へ南下して行った
https://i.imgur.com/n3W1iao.jpg
古代朝鮮半島に居た紅山文化人と縄文人の混血種は主に黄河流域漢民族の流入によって、現代韓国人は縄文成分が少なくなり本土日本人と北京漢民族の中間に位置している Admixtre遺伝的構造解析
(アムール川)黒竜江流域古人 (朝鮮北部)西遼河流域古人 (北京)黄河流域古人 縄文人
https://i.imgur.com/ikGl0nv.jpg
日本人 11.3 65.0 _0.8 14.8
韓国人 12.0 27.9 50.5 _3.4
北京人 _2.0 _8.2 65.9 _0.4
ホジェン48.8 15.7 _0.0 _4.6
ホジェン族(ナナイ)はアムール川流域のツングース系民族、アイヌとも交易をしていた
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/af/Nanai_children.jpg >>872
アドバイスしとくと、韓国の大規模な調査じゃ現代韓国人には縄文人遺伝子はほぼゼロらしいな
日本では何故かこのことが知られてないみたいなので ハニワを置くのは兵馬俑の影響を感じるが
前方後円墳は日本で独自に発展した形だろうけど
その前身の円墳や方墳は何かしら中国の影響があると思うんだがなぁ
でも中国の墓って始皇帝陵以外は
エジプトの墓みたいに地下を掘って部屋を作る形が多いから
とこの影響なんだろな 人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ >>876
宮本一夫の日琉語説なんかとっくに破綻してるよピピンミョンくん(嘲笑
まず縄文人の祖先の旧石器人の大半は朝鮮半島から入った集団だよ
残りの旧石器人は樺太から入って来ている
両旧石器人の融合人種が縄文人だよ
残念ながら縄文末から弥生開始時にかけて朝鮮半島から入植した考古痕跡はないよ
沿海州南部から入植した考古痕跡ならあるが
沿海州南部と同じ刻目突帯文土器土器を作る集団が縄文末に出雲地方に現れるが、
土器を同じくするその子孫たちによって稲作は朝鮮半島から取り入れられている
そこに朝鮮半島から入植した考古痕跡はない
弥生土器は沿海州南部の刻目突帯文土器が元になっていて松菊里文化の土器が
元ではないよ
それが事実なら、その当時の朝鮮土器である欣岩里式か先松菊里式土器を
もっぱら作っている生活痕遺構があるはずだろ
ない
よろしいですかな?よろしいですかな?
短絡的な思考回路のピピンミョンくん(嘲笑 巨大古墳って何のために造られたの?権力見せつける狙いなら、その費用で軍隊増強した方が遥かに効果あるよね? 古墳文化が波及しなかった北海道と南西諸島、古墳人骨がほとんど出土していない北東北などを除く日本列島9地域の古墳人集団に
縄文人、弥生人、現代人の4集団を加え、頭蓋計測値の形態距離で集団関係を分析すると、男性の場合、古墳人集団は大きく2群に分かれる。
第1群は畿内、北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国瀬戸内、関東・東北南部、南近畿(磯間人骨を含む)の6集団で、
第2群は南九州、西九州、北陸の3集団である。
近畿、四国瀬戸内、中国、北部九州、関東、東北南部には渡来形質が強く渡来系古墳人とよべる人々が広がっていたが、渡来系古墳人の最たるものが畿内古墳人である。
また、畿内古墳人は畿内現代人とほぼ同程度の頭蓋長幅示数をもち、上顔示数もかなり大きいが、バジオン・ブレグマ高は畿内現代人よりはるかに低いので、
短頭・高顔という畿内現代人の地域性は古墳時代すでに出現していたが、この地方における頭高の増大は古墳時代以降に起きた現象である。 まあ、古墳時代というのは、前方後円墳を政治的連携の核心に置いた大和王権史なのよ。
なので、大和以外の地方は、その大和王権との関りの枠内でしか捉えられて来ていない。
これは、日本史としてはかなりな欠陥だと言える。
卑弥呼が都を置いた邪馬台国は大和にあったとしつこく説く論説は、卑弥呼の邪馬台国を大和王権史の中に取り込む下心によるものであるので、大和王権しか認めないきわめていびつな史観だといえる。
卑弥呼の邪馬台国を大和王権から切り離して、はじめて真の地方史が可能になるのよ。
各地の人骨の形質の違いという論も、真の地方史の確立によってよりリアルなものとなってくる。
大和王権史の枠組みでみる古墳時代というのはいびつなものであって、まず、卑弥呼の倭国を大和王権とは別なものとして切り離す努力をするべきだと思うね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています