九州王朝ってどこまで信じれるの?
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wikとか見たらすごい面白そうなんだけど
トンデモ説の域はでてないのかな? 畿内説は誹謗中傷ばかりしてないで、自分たちの説を補強したら?
ああ、そうしたくても材料がないのか。 もともとは邪馬台国九州説は皇国史観の一部分を占める学説だったんだが、
それを焼き直した古田の説は日本の古代国家による列島統一が韓半島での統一国家出現より後になるという側面からだろうか、
韓人の支持を受けやすい側面をあわせ持ってたわけだよな
その影響で皇国史観派から攻撃されたことでもあったのかして、やたら皇国史観に対する敵愾心が強いけど、
元々の皇国史観は邪馬台国畿内説ではないからな。皇国史観は、あくまでも邪馬台国九州説だよ もともととかはどうでもいい。
現在の九州説は、魏志倭人伝の解釈と考古学的な考察によっている。
政治的に歴史を歪めようとしているのは畿内説。 + パヨク +
+ / ヽ_, ,_l ヽ +
パヨチ━━━//゚\ ll /゚\\━━━ン!!!! あれだけ九州王朝ガーで騒いだから
+ /:::::⌒(__人__)⌒:::::\ + 日本史の定説になること間違いなしwww
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|奇痴害陰謀論イラネ | ノ ノ _/ ツ !
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ノ ゚ ヾ'゚ ≦ 三 _ ゚
/´ 。 ≧ 三 =- 九州王朝説の方が考古学的考察に合うとか言ってたのは80年代のことで、90年代以後の考古学では九州王朝に否定的な研究ばかり出てくるからなあ 考古学的に郡評とか九州王朝説とドンピシャなんですけどね。 郡評論争って、論争が始まる前には評の存在すら知られてないし、論争開始後は二択か三択のどれをとるか程度しか予想しようがないシロモノだから、
明らかに門外漢だった古田でも偶然の一致程度の予想は可能だっただろ、たまたま当たった程度だぞ。そんなエセ「ドンピシャ」で誇ってるとか、ザコ過ぎる >>527
負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
何も証明できてない。 お前さんが例に挙げた郡評論争で古田は論証してたかね、自力で物証を出せる手段など持ってなかった古田が。 >>527
>郡評論争って、論争が始まる前には評の存在すら知られてないし、論争開始後は二択か三択のどれをとるか程度しか予想しようがないシロモノだから、
何が悪いんだ?
言いたいことがよくわからないな。
古田を妬んでいるのか? つか、ここって九州王朝説信者が論拠を述べない間は雑談しかできないんじゃないの
結論連呼しかできなくて論拠を説明できないザコ信者では何もできないな 太宰府で発見された695年の戸籍木簡の地名では、
大和朝廷が制定した郡じゃなくて
評で書かれてたんだよね。 白村江から大宝律令までの期間こそ古代史の最大の闇かも知れないね。
筑紫にあった倭国の存在を隠し通すこと、それが歴史改竄の主軸となったのだろう。 >>534
>筑紫にあった倭国の存在を隠し通すこと、それが歴史改竄の主軸となったのだろう。
そんなアホなw
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
徳島県国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
http://awakouko.info/modules/webphoto/index.php/photo/203/
http://www.geocities.jp/yasuko8787/kannonzi.htm
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 長崎県壱岐市のカラカミ遺跡で、漢字の「周」の左半分が刻まれた弥生時代後期の土器片が見つかり、市教育委員会が10日までに発表した。
漢字が記された史料は福岡市の志賀島で出土した「漢委奴国王」の金印(57年)などが知られるが、土器としては国内最古級。
7世紀の竺志前國嶋評の戸籍木簡(太宰府市の国分松本遺跡出土)
大宝2年の筑前國嶋郡川邊里の戸籍(正倉院文書)
701年を境に「評」が「郡」へ、「竺志前國」が「筑前國」へ表記が変わってる
平城京跡から出土する木簡も「筑紫」となってる。 九州王朝ってどこまで信じれるの?=宇宙人やネッシーってどこまで信じれるの? >>536
つまり、壬申の乱で九州王朝が滅んだあとも何年かの間は評とか「竺志前國」とか使われてるわけだよな
>701年を境に「評」が「郡」へ、「竺志前國」
九州王朝説と合わないんじゃないか? 九州王朝説は701年の大宝律令により政権交代が完了したという説が多いね。 そうすると、701年より前に死んだ天武天皇の時代が中途半端になってしまうだろ
九州王朝を滅ぼしたあとも不思議なことに天武天皇の時代を通してずっと、
天武天皇と無関係なはずの九州王朝時代の法律を使い続けてるとか、異常だぞ 壬申の乱とか乙巳の変とか実際にあった年をずらしてるみたいですね。 信じるのも何も、そんな王朝はないんだけど
もういいから、はやく頭の病院に行け 天武が筑紫倭国と無関係だなんていう主張は初めて聞いた。 ちなみに頭の病院というのは
精神科?精神病院というところだよ >>546
すると壬申の乱は九州王朝内部の争いで、畿内とは無関係なんか
畿内は武力を用いないで九州王朝を制圧したわけか?
次々とおかしな話に化けていくな 九州王朝というのは無いと言ってるんだよ、
当時の王朝の話でしょ、無いと書いてあるはず 壬申の乱は九州王朝内部の争いで
それの一方に天武が加勢して勢力を拡大
九州倭王を畿内に呼んで乙巳の変で暗殺
日本書紀では壬申の乱と乙巳の変の順序を入れ替えてある
持統が九州倭王家からの嫁で(継体持統で「血統をよくぞ繋げてくれた」の4文字熟語)
天武と持統の子が王位を継ぐ条件で勢力したがその子が先に死亡で乙巳の変 壬申の乱という武力衝突もあったわけだが、誰が九州側で誰が畿内側か、明確ではない。
現代の政治争いでもそうだが、事情はもっと複雑になっていただろう。
紀元前以来ずっと博多湾沿岸にあった倭国から、畿内の日本国への政権交代が、簡単に行われたわけがない。
ソ連からロシアへの交代だって、後世から振り返ればシンプルに説明できるけれど、当時は武力衝突も含めて混沌としていた。 現代政治では、社会党の村山政権とか、民主党の鳩山政権があったが、ほとんど黒歴史となり、なかったことも同然の扱いだろ?
同様に、唐に習って律令国家となった日本国にとって、唐と戦争をしていた倭国政権なんて、なかったことにしたい黒歴史だったろう。
筑紫に王都があった時代を数百年とか数万年前に設定して日本書紀を書けば、数世代も経てば筑紫倭国のことなどただの架空の伝説としか思われなくなるだろう。
まさか21世紀になって、考古学者が1世紀や3世紀の王墓を発掘してしまうとは、予想していなかったのだろう。 >>556
宗教ということにしたいだけでしょ?
それって、考古学的な根拠がない畿内説という宗教なんだよ。 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。 べつに批判するつもりはないんだけど、
何という宗教(宗派)の工作員なんだ? 他のスレにも書いている事なんだけど、
そろそろ刑務所(死刑)に行ったほうが良いんじゃないのか? ま、紀元前以来ずっと博多湾沿岸にあった倭国なんてものは現代痴呆人の空想の中にしかないからな
できの悪いラノベ同様言いたい放題なのだが
すぐ辻褄が合わなくなる
設定変更を繰り返すが
結局醜態をさらす 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 畿内に弥生王墓はない。
福岡県にだけ弥生王墓がある。
弥生時代の倭国とは、福岡県と対馬海峡。 高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。
そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。
そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した。
奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。
九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。
蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からないが、筑紫にいた武内宿禰の末裔と言われる。
古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていた。
蘇我大臣家と天皇家が物部大連家を滅ぼし(物部戦争)、次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。
こうして天皇家が畿内の覇者となった。 結局、九州王朝信者は結論連呼しかできないわけだ
論拠を出せと言われて出す論拠っぽいものすら、なぜそう言えるのか説明できなくて、連呼だけ。 >>566
>その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。
会稽東冶は、寧波舟山群島である。
朱崖は、福建省寧徳市 霞浦県 赤岸村である。広東省ではない。台湾台北市北北西250q
儋耳は、福建省寧徳市 東沖半島である。海南省ではない。台湾台北市北北西230q >>561
>日本国は倭国の別種である。
>その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
>あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
>またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。 >>572
文献の本文はともかく古田流の曲解珍読は信用できないからしかたないね そんなものは初耳だしどうでもいい。
話を逸らすなよ。 大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 古田流だとは思っていないし、伊都が倭の首都だと思っている。
(古田は伊都を首都だと思っていなかった) 海上部族である天津神が出雲を攻略して陸上の支配権をも奪ったのが出雲の国譲り。
かくして筑紫の日向に倭国統一政権が誕生したわけです。
ただしこの時点では倭国はまだ筑紫と出雲くらいで、しかも中国と交渉するのは筑紫だけ。
だから金印をもらうのも筑紫だけ。
中国からの使いが来ても駐在するのは筑紫だけ。
倭王がいるのも当然、筑紫。
倭王である高祖日向三代がいたのは筑紫の日向、伊都国と奴国を含む福岡県西部の博多湾沿岸、高祖山がある日向地区。
倭王である卑弥呼も例外ではない。 >>582
三国志の記述では伊都は首都圏の外にある。明白な地方都市な 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>582
伊・・・これ
都・・・みやこ
「これ都に近し」にはならないよな、古田氏も最後は頭がボケてた
伊・・・霊力を持った聖人(卑弥呼のこと)
都・・・みやこ
伊都国が卑弥呼の都ですね。
古田氏は伊都国に近くに邪馬壹國があったと言ってるが
場所が不明ですね。 古田氏の最初の著作の頃はまだ平原遺跡が発見されたばかりで、その意味がわかっていなかった。 >>585
大率は「刺史のごとし」とある
刺史という官の特徴は、地方官、監察官、中央から派遣される、といったところ
地方官でない監察官なら別の官職があるし監察官じゃない地方官なら牧や太守もあるので、
そのなかから刺史と指定してあるのは地方官でなおかつ監察官であると解釈せざるをえない
郡国のごとき伊都国を監察する地方官なわけ。
牧ではなく刺史と言っていることからすると、官の格式自体は伊都国王より低いのだろう
(郡の太守を監察する刺史の俸給が太守より低く、官の格式自体も太守より低かったことに留意) >>590
伊都国王=卑弥呼=倭王ですよ
大率(一大率)は伊都国に居る卑弥呼が女王国の北部を治める為に置いた検察官ですよ。 刺史は地方官だ
お前さんの説明のような役職ならは刺史ではなく司隷校尉などと書いてたよ >>585
そうだろう、そうだろう
と
誰しもが思っていることなんだけど、
なぜ認めたくないんだろう 本当に鬼退治の話をしているわけではないんだけど
『伊達の桃太郎』「司馬 司徒 司空」
このような事が書いてあったり 気づいている人は気づいている事なんだけど、
司馬というのも、もともと名字、人名ではない
日本にもそういう作家がいたけど、
違うでしょ
wikiにも書いてあるはず 調べてみた?
司空?建築・・・そのような事が書いてあるし、
家の老婆のほうが詳しい? 『松傾』のような名前の家で、本人なのかな?
セメント関係の話をしていたり、浅野セメントの話 皇族というのも、日本の皇族の事ではないと思う?
そのような話はしらない、中国の皇族の事だと思う サルタというスレを参照
高祖?土民(土人)だと言ってる人がいたり 神祖、高祖神?
悪く言うと土人だと言ってる人がいるでしょ >>591
伊都国王=世有王=帥升王統の王=旧倭王ですよ
大率(一大率)は邪馬台国に居る卑弥呼が女王国の北部ある国々を治める為に置いた検察官ですよ
(卑弥呼は女王國内の一部である邪馬壹國にある城柵を都としている。)
(女王國=邪馬壹國+投馬國+不彌國+奴國 伊都国は女王國に含まれない) >>603
世有王=魏の世に居た王=卑弥呼=現倭王ですよ
何で世有王が旧倭王なの?
女王國=邪馬壹國+投馬國
邪馬壹國=不彌國+奴國+伊都国+末廬國+一大國+對馬國+其餘旁國 >>603
女王国の北部を治めるために九州北部の伊都にいたなら、女王国は九州だよね?
筑後山門かな? 大率という役職は、百済などにも見られており、中央の高級官僚だよ。 >>606
そうだと言っているんだよ、
家の、お爺さんの・・・・子供の頃に着ている制服でしょ、
白い制服のようなモノ ちなみに力夫という名前ではないよ、
そういう名前の親戚もいないし >>606
卑弥呼が朝鮮海峡付近の諸国に置いた検察官の一大率が
後の百済の中央の高級官僚の大率という役職の名前の基になった? なんで朝鮮海峡などと呼ぶの?
畿内説はどこの国の人なの?
対馬海峡ではいけないの? 着ている服、何の制服なのか、わかった人はいないの? 古代の百済と倭は非常に近い関係であり、政治機構も似ていたということだね。 亀戸(天神)に行ったこともあるんだよ
と言っていたり、老婆が嫁に来るよりも前の話
亀戸天神・・・大宰、太宰? どのスレだったかな、
宮様の写真じゃないの?というレスが来たこともあった
松傾のような名前の家なんだけどw それなら、なぜ『何者にもなれない お前たち』のような家に住んでいるのか?
家を出て、何かの職人になったような事を言っていたり、
退職金?なども無いとか、父親の話
金属関係の職人、加工?不明 お爺さんというのは、
セメント関係の仕事をしていたり、
その前は違うと言っていたり
機織りなどをしていた? このような曲があったでしょ
同じ痛み〜。同じ心で〜。
そういう作品なのかな
サルタというスレ:貧乏、みんな貧乏と言ってる人がいたり ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています