【アイヌ】北海道開拓と侵略責任★2【侵略】
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関西弁に馴染みのない標準語圏の人間からすると、愛知県から関西系イントネーションを感じるとは言われてる アイヌは未開の地に逃げ延びたために数民族化しただけ
倭人という言葉も列島へ侵入してきた外来種への蔑称として
古代から使われていたんだろうな
(上略)
たとえば、アイヌの人たちの血液からDNAを調べた結果、日本最古の民族である縄文人のDNAと非常に近いことがわかりました。これを根拠に、2008年、国会で「アイヌ民族を日本の先住民族とすることを求める決議」が満場一致で採択されました。
日本列島の最初の住民は、数万年以上も前にやってきた人たちです。あえて言うなら、その末裔である縄文人こそ、私たち日本人の直接の祖先なのです。
縄文時代の終わり頃から続々と侵入してきた稲作民たちの中には、自分たちを天照大神以来の皇統を受け継いでいる天孫、すなわち天津神(あまつかみ)の子孫であると主張した人たちがいました。しかし実際は先住民を次々と征服し、
自分たちの王朝を打ち立てた侵入者(インベーダー)でした。
(下略)
https://www.jinken.ne.jp/be/meet/okiura/ アイヌが日本になったのはだいたいコシャマインのせいなんじゃないの? 東北以北に流された倭人の流刑者+縄文人→混血→渡党→アイヌ
アイヌ人以外の先住縄文人は絶滅(ロシア系北方民族と混血か?) い(私達は)・らん(降りてきた)・からぷて(樺太から)
樺太出身者が履歴書を提出し、出身地の欄に、
出身地:『貴方の心にそっと触れさせて頂いても良いですか』
この様に書いていたら、面接官が困惑すると思いますが、如何でしょうか?
http://www.tedawakou.com/koubunsyo >>348
西日本の人口が少なかった時代、古代の東日本には相当の鮭民族がいたんでしょ?彼らがアイヌだったのか別種族だったのかは分からないけど、古い郷土料理に鮭を使う地方たくさんあるし絶滅は言い過ぎなんじゃないの? >>337
>エラが張って一重まぶたの耐寒仕様の顔の民族が寒冷地域から南下したように、彫りの深い二重まぶたの民族は温暖な地域から寒冷地に北上したんだよ。
思い込み強そう 福岡熊本あたりは古代からスキタイ方面からの移民が住んでヤバイ火山被害に遭って住めなくなったから東に移動してきた
宮崎鹿児島あたりは隼人熊襲がインドネシア系と同じ古墳を作ってるし南方系だろう、隼人は朝廷の言うこと聞いたから大和に移動した
男鹿や能登は見つかっている物からも渤海方面と交流あり恐らく血も交わってるが別に移動する必要はない
そんな感じで地方によって色々だし必ず移動するとも限らないのに>>337はザックリひとまとめにしすぎてるからナンセンスな論になってる つーか日本全国の地名由来がハッキリしない市区町村で「アイヌ語なのかも」説を押し出したがる安直な傾向あるから、地名の雰囲気だけでアイヌと決めつけるのはどうかと思うわ >>340
標準語圏の耳で聞くと、名古屋というか愛知らへんから急にイントネーション関西寄りになっていくよ
明らかに東の人ではないねっていうイントネーション
静岡までのイントネーションは割りと東日本に馴染んでる >>349
>貴方の心にそっと触れさせて頂いても良いですかw
これは民族代表の故国会議員様によるゴリ押し翻訳と聞いたことがある
たぶん、ニブフor(=?)粛慎が交易のために樺太から南下した際の労いの挨拶言葉じゃないかな?
アイヌ晤辞典によると樺太=カラプトだけどカラプテじゃ訛りすぎだからテをトにしたんだろう 俺大阪府の南の方だけど
幼稚園の時出し物で、
アイヌの簡単な衣装着て弓を引く
写真がある母は若くしてしんだが
父は知らないそうだ何でだろ 集合写真しか無いんだ
八巻見たいな物を頭に巻いてる
小学生5年で転校したから
うーむ分からん >>360
>>364
だからなんなのよ?
も少こし詳細な説明がないと
笑われるよw >>360->>364
だからなんなのよ?
も少こし詳細な説明がないと
漏れには分からないから
もっと詳しく説明してね♡ >>366
俺は幼稚園の頃の写真でアイヌ
の女性の様な衣装だと、ここのスレなら分かる人がいれば良いなと書き込みました
若くして死んだ母が縫った衣装なもんで
不愉快でしたら謝ります。 >>367
あやまる必要はないよ
自分も片親はアイヌの3世だし
もう片方の親は新羅(これが最も嫌い)の亜流です
まあ
難しく考えないのがベターですよ
腹が減ったら食べる
眠くなったら寝る
無記名掲示板のことが気にならなくなったら
そこに転機が訪れる鴨kamo 部落利権吸い尽くしたから、今度はアイヌ利権か。
ホントにチョソは懲りないな、氏ね。 企業がか?
ならその企業取り潰しでよいだな
国家反逆罪適用できる ロシアとの交易でコーカソイドと血が混じったアイヌがいた
この人達は骨格も皮膚の色も微妙に違っていた
某故国会議員もそんな風貌だった
エキゾチックな風貌だから日本人と異民族だと訴えたっかったようだ
でもこの人は日本人でもアイヌでもない
アイヌは縄文人でイヌイットで列島人でモンゴロイドの日本人です アイヌアイヌって言うけど
居住地も獲物も違うアイヌが何種類かに分かれてるよね アイヌのイナウって
神社のお祓いに使う幣帛に似てるよね バックに在日コリアンが動いてんからな
そのうち日本は朝鮮人が立てたとか言い出す 言い出すもなにも既に朝鮮学校の地図だと日本の所にコロニーオブコリアンて書かれてるよね
昔ネットに画像が転がってたけど
つーか嫌韓思想の展開はスレチ >>340
いるよ〜
北海道出身だけど中2の時に父の転勤で名古屋に移ったけど、
初めて聞いた時
関西弁
だと思った。 >>378
アイヌと結託してるからだろ?
金ヅルよ >>157
>『近藤守重(重蔵)が千島方面を探険。
>同地のアイヌが鉄砲を巧みに使っているのを報告している。』
松前藩(前身は渡党というアイヌ)の取締まり後でもアイヌは鉄砲を使っていたし、
明治時代はアイヌは普通に銃に対応した
> 1)1876年開拓使制定の「北海道鹿猟規則」下における
> シカ狩猟・流通・製品加工・消費などの実態を調査した。
> その結果、(1)比較的詳しい把握ができた胆振地方については、
●> 同規則による免許取得者のなかでアイヌ民族が占める割合が圧倒的に高い、
> [環境と社会研究会】アイヌがシカ猟規制でシカ猟が出来なくなったか?
> 毒矢禁止→アイヌがシカ獲れなくなった、なら話はシンプル。
●> しかし実際は、北海道鹿猟規則で義務付られた鹿猟免許(銃使用)取得者の大半がアイヌ。
●> 銃に積極的に対応した側面。ただし免許制限500人に洩れたアイヌも。
全道でエゾオオカミ狩ったのも、むしろアイヌ(狩猟免許取得者の大半)
※エドウィンダンの毒エサ使用なんて、静内の牧場周辺だけ※
エゾオオカミ研究史の検討
引用元:http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/60544/1/15_004_umeki.pdf
開拓期の北海道で.
アイヌがオオカミを嫌い,手当金の支給を受けるために捕獲していたことに
言及した事例も存. 在する[山田 2002:80]。 >248
まず北海道周辺に、先住民(ウィルタ・擦文・ニヴフ・モヨロら)がいたところ
13世紀ごろアイヌ文化が新成立(オホーツク系と交雑)し、先住民を征服・同化して勢力拡大
拡大の過程で、アイヌ(加害者)が樺太・大陸のニヴフ(被害者)を渡海侵略
…アイヌに害を受けた地元民が元に訴え
⇒地元民の訴えを聞き、元軍がアイヌ(侵略者)にたびたび防衛出動⇒アイヌは負けて元に服属
※以降、アイヌは歴代の古代中国に朝貢〔アイヌのサンタン交易:古代中国への朝貢交易〕
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%83%82%83%93%83S%83%8B%82%CC%8A%92%91%BE%90N%8DU/5/
>日本では鷲羽は、アイヌ交易の代表品として捉えられており[25]、
>アイヌは鷹羽・鷲羽流通の掌握を狙っていたと思われる[26]。
アイヌによる侵略に対し、元軍が船・ソリ(犬・トナカイなど)で何度も排除・懲罰して服従させた
https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/hakubutukan/education/d061522_d/fil/tatakai.pdf
★>アイヌはサハリンに侵入するだけでなく、
★>大陸に渡って村々を襲い、略奪をおこなって. 元軍の手を焼かせていました >>375
新参で13世紀成立の「アイヌ」とは、多様な諸民族の総称(「ネイティブ・アメリカン」も同様)
≫ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
≫★民族みんぞく ethnic group; nation; people
> 一定地域に共同の生活を長期間にわたって営むことにより,
> 言語,習俗,宗教,政治,経済などの各種の文化内容の大部分を
> 共有し,
> 集団帰属意識 (→エスニック・アイデンティティ ) によって結ばれた人間の集団の
> 最大単位をいう。
「共同生活での文化内容の大部分共有」無し、「集団帰属意識」無し、なら別の民族
アイヌ諸民族は
・日本文化寄り(渡党⇒松前藩)
・清に朝貢する部族・清勢力下の民族と同居
・ロシア進出後、カムチャッカのロシア・カムチャダール等に鉄など必需品を依存
(それら交易の債務で、清・ロシア側に連れ去られる者多数)
日本国内の地域差どころでなく、政治経済社会文化、また民族意識で異なっている
(例)100年ほど前の調査で
「北海道アイヌvs千島アイヌ」は互いの存在を知らず〈忘れ〉、同一の民族だとは認め合わなかった
民族のアイデンティティが根本的に違う、別民族であると当時のアイヌ自身で結論出してる >>80 >シャクシャイン
>謀略と奸計で他のアイヌ酋長を惨殺しまくってアイヌを牛耳った後、
>松前に同じ目にあわされた因果応報
シャクシャインがデマ流して武装蜂起したテロ>>160で、民間の和人も大虐殺(皆皆殺し)
http://www2.rikkyo.ac.jp/web/esdrc/products/zoku_senjuminzokutoESD.pdf
…
小屋を懸けさせ、くつろき候時分、狄共夜に入りよせ、
皆皆殺し申由に付……」すなわち寛文9年の蜂起の和人殺害は、シコツではじまった。 >>380
日本人のアイヌを敵視するお前が外国人だろ >>374
萱野茂みたいな田中要次タイプはロシア系じゃなくまぎれもなく縄文系だろ。ゴリとか北村一輝だって白人の血は引いてないだろ アイヌをアメリカのインディアンのような白人から差別や虐殺の被害を受けてきた先住民だと思ってる奴がいたら今すぐ恥じろ
北海道の本当の先住民は縄文(日本)人でありアイヌはシベリアから渡ってきて縄文(日本)人を虐殺しまくった白人のような存在 日テレ、「スッキリ」の放送内容で謝罪「アイヌの方を傷つけた」
https://news.infoseek.co.jp/article/mainichi_20210312k0000m040289000c/
日本テレビは12日、情報番組「スッキリ」で、アイヌ民族を傷つける不適切な表現が
あったとして、同日夕方のニュース番組でおわびした。
日本テレビによると、同日午前放送の「スッキリ」内で、アイヌ民族の女性をテーマにした
ドキュメンタリー作品を紹介。これを受けて、お笑い芸人の脳みそ夫さんが「この作品と
かけまして動物を見つけたととく。その心は、あ、犬」と謎かけを披露した。番組終了後、
視聴者から「アイヌ民族を犬とかけるのは不適切だ」などと批判が寄せられたという。
日本テレビは「当該コーナーの担当者にこの表現が差別に当たるという認識が不足しており、
放送前の確認も不十分でした。その結果、正しい判断ができないまま、アイヌ民族の方々を
傷つける不適切な表現で放送してしまいました」としたうえで、「アイヌ民族の皆様、
ならびに関係者の皆様に深くおわび申し上げるとともに、速やかに事例を社内に周知・検証し、
研修を通じて再発防止に努めてまいります」とコメントを出した。 >394
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1616145434/143,145-147,150-153,155,166-169,174,177,180,181,184,189,311,334,347,348 https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1616145434/143,145-147,150-153,155,166-169,174,177,180,181,184,189,196,214,304,311,334,347,348 >>243 様々な北方の先住民は、
新参の、アイヌ諸民族(オホーツク文化人と交雑し12-13世紀※に成立 ) により制圧・同化された
この件、「オロンコ岩」伝承にも残る {「オロッコ」…アイヌがウイルタを指すときに使う蔑称}
(元ページ){北海道斜里町オロンコ岩チャシのドローン写真測量と3次元モデル作成の予備実験
2.オロンコ岩チャシの概略}
> アイヌに伝わる伝承が残されている。
> 昔この島の上にオロッコ族(トナカイ遊牧を生業とするサハリン北東部の先住民族5))が住んでおり,
> 下を船で通るアイヌ目がけて石や木を投げて邪魔をしたが,
> 急崖で囲まれた島の地形を利用して防ぎ,なかなか追い払うことができなかった。
> そこで
●> アイヌはオロッコ族をこの島から下りさせるように,
●> 海草や魚を鯨のように積み重ねておき,見に下りてきたオロッコ族を皆殺しにした6)。
※千島アイヌは成立が遅く、15世紀以後と考えられる
〔理由〕千島列島に先住していたオホーツク文化人を、アイヌが漸次同化・征服し成立したため★ リービー英雄
遠国では、東北の蝦夷が日本化の重圧と収奪のもとにおかれ、300年の地獄を見た。そこに旅した芭蕉の『奥の細道』は一種の植民地遊覧の紀行文で、古代の武人が詠んだ国誉め歌の伝統を踏襲したものである。
徳川時代のフロンティアは北海道の蝦夷地で、そこではアイヌとの交易と交戦が300年続き、アイヌは絶滅の危機にさらされた。和人はアイヌに米・刀・酒・病気をもたらし、かわりに唐絹・熊の胆・昆布・ニシンを得た。
この交易で商人の町大阪が繁栄した。諸藩からの米・堺の刀・灘の酒が蝦夷地に送られた。幕末には東北の諸藩が北海道を分割統治し、明治に入ると天皇領と宣言、本格的な植民地化が始まった。同じころ、南の琉球列島は薩摩藩の統治下に置かれた後、日本領土と宣言された。
沖縄は、台湾を始めとする、帝国日本の南方進出の前哨基地となった。 戦争が始まると、アイヌも沖縄人も「皇国に奉仕する機会だ」と言われて、戦争にかり出された。 知らない方が多いので再掲
鈴木宗男氏曰く
「アイヌを日本の先住民族したのは私!これでアイヌを利用した北方領土交渉をプーチン大統領に持ちかけられる。
サハリンの天然ガス等の資源も手に入る」と
https://twitter.com/onoderamasaru/status/1502457997448351745?cxt=HHwWgsDUvdPl5tkpAAAA
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) アイヌ語の南限が岩手県や秋田県というのは信用ならない話しだ
何故ならば仙台平野以南は倭人が支配してより何度かの言語交代が起きているからだ
分かっている範囲でも古代の東国方言から西日本方言への上書きが起きており基層言語の痕跡は消滅してしまっている
似たような話として先史時代のギリシアの例が上げられよう
ヨーロッパの先史時代のギリシアクレタ文明は最初ギリシア語イオニア方言話者に制服され、更にその後にドーリア方言話者の征服を受けた結果、クレタ文明の言語は完全に消滅してしまい、彼らの使っていた線文字Aの発掘物は大量にあるのに、今でも全く解読できていない
恐らくアイヌ語は古くは縄文人の言葉として広く日本を覆っていた
韓半島から日本に移住していった無文土器文化人が未開の縄文人を征服して縄文アイヌ語は消滅したのだろう
特に韓半島に近い西日本ほどその傾向は強かった
かろうじてアイヌの痕跡が見られるのは関東地方
例えば利根川のネなどはアイヌ語のナイの転訛だろう
幾度に渡る言語交代で基層言語としてのアイヌ語の痕跡はほぼ完全に隠されてしまったのだ
一部のネトウヨは縄文文明などと馬鹿な発言をしているが今の日本人は弥生人の末裔であり縄文アイヌは日本人の先祖によってジェノサイドされていたのである アイヌは、自ら進んで和人の支配下に入り続けたのだから、自業自得だろ。 北海道民って、ホントクソだから、アイヌに一切謝罪してないよなw
国に謝罪させて、犯人の自分らはすっとぼけ
教師の組合も、JRの労組を見てもホント、人間性丸出し
実は新幹線もアイツらでホント大丈夫か?安全神話を壊すのはあいつらじゃないかって相当くすぶってた >>378
朝鮮人はアイヌ組織の理事だかになってたでしょ
本国を見れば分かる通り、批判利権は金になる >>402
>関東地方
千葉だかの貝塚もアイヌの文化という考え方がある
あと、ヤマトタケルは貝塚を粗末にして殺されたという話も一部に伝承されている >>390
アイヌ認定の利権を朝鮮人が入り込んだ理事会で独占
DNA鑑定は差別ニダって叫んでる連中に信用が集まるわけが無い 幕末の蝦夷地を十数年間も探検・調査し,アイヌ民族の風俗・文化を記録する中で和人による虐待を告発した松浦武四郎.大地に根を張り,固有の習俗を育んできたアイヌ民衆の輝きとは何か.なぜ彼らは抑圧の下で呻吟することを強いられているのか.記録者として自己変革を遂げていく松浦を描き出す入魂の力作評伝.池澤夏樹解説.
■内容紹介
本書は1988年に単行本として岩波書店から刊行され,1993年には同時代ライブラリーの一冊になりましたが,長らく品切れとなっていました.このたび,池澤夏樹さんの解説を付して,岩波現代文庫の一冊として刊行することが出来ました.
岩波現代文庫版あとがきでふれられているように,1990年代以降にはアイヌ民族をめぐって国際的にも国内的にも注目すべきことがありました.1992年には国際連合「国際先住民年」開幕式典で,野村義一北海道ウタリ協会理事長が先住民族の代表として演説しました.1994年には萱野茂さんが参議院議員に繰り上げ当選し,
アイヌ民族初の国会議員としてアイヌ新法実現のために尽力しました.1997年には「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が制定され,アイヌ民族を同化させるための「北海道旧土人保護法」が廃止されました.また昨年九月には,国連が「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択しました.
このように見てくると,先住民であるアイヌ民族について社会的な理解が深まりつつあるようにも見えますが,果たして現実はそうでしょうか.そして私たち自身,どれほどアイヌ民族の歴史的現在について正確に認識してきたでしょうか.本書に出会って,そのことを強く意識させられました.
本書の主人公は幕末の探検家,松浦武四郎です.探検家のみならず学者,文人としての顔も持ち,明治初期には北海道,樺太,千島の行政にも短期間関わりました.松浦を変えたのはアイヌ民族との出会いでした.幕末の「蝦夷・樺太」を十数年間にわたって探検調査した松浦は,アイヌ民族の風俗・文化を克明に記録すると共に,和人による虐待を告発するようになりました.アイヌの心の輝きと苦悩に深く共感して自らを変革していった松浦武四郎の足跡が,いきいきと本書では再現されています. 静かな大地 (朝日文庫 い 38-5) 文庫 2007/6/7
池澤 夏樹 (著)
短い繁栄の後で没落した先祖たちのことを小説にするのは、彼らの物語を聞いて育ったぼくの夢だった--明治初年、淡路島から北海道の静内に入植した宗形三郎と四郎。
牧場を開いた宗形兄弟と、アイヌの人々の努力と敗退をえがく壮大な叙事詩。著者自身の先祖の物語であり、同時に日本の近代が捨てた価値観を複眼でみつめる、構想10年の歴史小説。第3回親鸞賞受賞作。〔解説・高橋源一郎〕 新田次郎文学賞
北の海明け (新潮文庫) 文庫 1996/8/1
文化元年、幕府は対露政策の一環として蝦夷地に官寺建立を決定。命を受けた文翁、智弁らは、アイヌ教化のためにアッケシに赴任した。
文翁の布教は困難を窮め、若い智弁はアイヌを虐待する和人に慣りを募らせていく、やがて、文翁は幕命を果せぬまま横死、智弁は苛烈な運命に呑まれてゆく
。二つの文化の間で苦悩する二人の僧を通して歴史の暗闇に光を当てる新田次郎賞受賞の巨編。 庚午事変(こうごじへん)は、明治3年(1870年)に当時の徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。稲田騒動(いなだそうどう)とも呼ばれる。
結果的に淡路島の帰属をめぐる重要な事件となり、この事件の影響で淡路島は再び徳島県から離れ、兵庫県に編入された。
当時の日本は版籍奉還後もかつての藩主が知藩事となっているだけで、旧体制と何ら変わらない状態だった。政府にとって、この問題は中央集権化を推進していく上で是非とも
克服してゆかねばならなかった。だが下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねないため、慎重な対応を余儀なくされた。
稲田家側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で、
兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。この静内移住開拓については船山馨の小説『お登勢』や、映画『北の零年』でも描かれている。
司馬遼太郎『街道をゆく<32>阿波紀行・紀ノ川のみち
船山馨
お登勢〈上〉 (文庫コレクション―大衆文学館
1967年 「石狩平野」で第14回小説新潮賞を受賞する
北海道におとずれた維新の夜明け…。大地の子・鶴代が辿るひたむきな愛と苦難の青春を、
激動の明治史と民衆の鼓動を背景に描く、感動の大河小説。
1980年 「茜いろの坂」で第15回吉川英治文学賞を受賞する 李相日監督 『許されざる者 主役には渡辺謙
舞台は幕末の北海道へと移り、主人公の十兵衛は幕府軍の残党という設定だ。そして十兵衛は北海道の奥地へと逃げ、アイヌの妻と暮らしていたことになっている。
和人(日本人)に支配されるアイヌという民族の存在が重要だろう。李監督は在日コリアンである自らの存在と、アイヌの存在を重ね合わせているところもあるようだ。この映画のなかでも、北海道にもとから住んでいたアイヌは、
後から現れた和人の屯田兵などに武力で虐げられている。屯田兵に反抗的な態度を示したアイヌの若者は、たまたま通りかかった十兵衛(渡辺謙)に助けられるのだが、十兵衛は無謀な抵抗をして命を無駄にしようとするアイヌのほうをたしなめる。
同時に李監督は、町の権力者である一蔵(佐藤浩市)には「生き残った者が正しい」とも語らせている。十兵衛や金吾(柄本明)はたまたま幕府側について敗れたわけだが、たまたま政府側だった一蔵たちは官軍の名のもとに権力を手中にしているのだ 赤い人 (講談社文庫) 文庫 – 2012/4/13
吉村 昭 (著)
囚人たちの北海道開拓裏面史
「脱獄」か「死」か 苦役から逃れる方法は他にない
明治十四年、赤い獄衣の男たちが石狩川上流へ押送された。
無報酬の労働力を利用し北海道の原野を開墾するという国策に沿って、極寒の地で足袋も支給されず重労働を課せられる囚人たち。「苦役ニタヘズ斃死(へいし)」すれば国の 火怨 上 北の燿星アテルイ (講談社文庫) 文庫 – 2002/10/16
高橋 克彦 (著)
辺境と蔑まれ、それゆえに朝廷の興味から遠ざけられ、平和に暮らしていた陸奥の民。8世紀、黄金を求めて支配せんとする朝廷の大軍に、蝦夷の若きリーダー・阿弖流為は遊撃戦を開始した。
北の将たちの熱い思いと民の希望を担って。古代東北の英雄の生涯を空前のスケールで描く、吉川英治文学賞受賞の傑作。(講談社文庫) 街道をゆく 38 オホーツク街道 (朝日文庫) 文庫 – 2009/5/7
司馬 遼太郎 (著)
日本人の先祖の一派で、5~10世紀に北海道を拠点に活躍したオホーツク人。幻の海洋民族の痕跡をたずね、著者は稚内、枝幸、常呂、網走などを歩いた。少年時代からの考古学ファンで、さらに雄大な北海道考古学の世界に魅せらせる。「雪の季節に北海道に行ってみたかった」という一行そのままに、ゴム長姿で雪を蹴散らし、地元に溶け込んでいく。
すぐ隣のカラフトはロシア(ユーラシア大陸)と近く、流氷の時季は氷上交通も可能だった。
そういう点でも北海道と大陸との交流の古さが想像できるし、北から人も物も入ってきていただろう。
網走のモヨロ貝塚や常呂町(現北見市)の常呂遺跡は代表的なオホーツク文化遺産である。
オホーツク文化が終わると、アイヌ文化がスタートする。
この地域にはかつて「オホーツク人」が活動していたという。アイヌ民族ではなく、樺太の民族とも微妙に違う、独特の民族らしい。著者の「オホーツク人」へのあこがれは強く、その情報を追い求めてさまざまに考察をめぐらせている。
「オホーツク人」の遺跡であるモヨロ貝塚を発見したのは、米村喜男衛氏 街道をゆく 15 北海道の諸道 (朝日文庫)
函館を出発点に札幌、旭川、陸別へ──古代から幕末維新までの長い道のりをたずね歩く旅。
原野を切り開いた開拓使や劣悪な環境で労働を強いられた囚人、屯田兵の時代を振り返り、アイヌとの抗争から台頭した松前氏の京風文化を思う
函館から札幌、陸別へ至る道のりが今回の「街道」です。稲作が根付かなかった―すなわち「中央」と
文化的根源を共有しなかったために(「おかげで」と言うべきか)、本州と一線を画して歴史を歩んだ北海道。その足取りを、時に軽やかに、時に丹念にたどっていきます。
近代の開発にあたり、米国の農務長官を招聘するという荒業に及んだ、開拓史次官黒田清隆。一夜にして住処を嵐の中に失い、新天地に懸けざるを得なかった新十津川の人々。70歳を過ぎて、
未開の陸別に夢を託した関寛斎。文字通りに風雪に耐え抜いた彼らの気概が強く強く伝わります。一方で、開発にあたって人を「モノ」同然に投下した、明治政府高官たちへの筆者の激しい憤りもまた心を揺さぶります。。 秋雨前線が日本付近に停滞しているところへ、台風が南海上から接近、8月18日から19日にかけて和歌山県から奈良県南部の範囲に大雨をもたらした
洪水となり、また各所で山崩れが発生し、崩落した土砂が川をせき止めてダム湖を形成、その水位上昇で低地の家屋・田畑は水没し、またダム湖の決壊によって新たな洪水も起こりました
1889年 - 十津川大水害により168人が死亡、村落の大部分が壊滅状態になり、約2500人が北海道へ移住。新十津川村を開拓
和歌山県中部を南流する富田川では、県の調査によれば過去の記録には全く見られない水位18mの大増水が生じた。河口近い現・白浜町域では、19日午前2時頃、堤防が一斉に決壊、濁流により「人家はほとんど流失、人間や多くの家畜・木材や砂や岩石と共に上流から流れてきて海に向かって音をたてて注いでい」ったという。
富田川流域全体で、死者565人、負傷者52人、家屋流失749戸、半流47戸、全壊459戸、半壊148戸、牛馬の死亡136頭、堤防は各所で壊れ、手入れの行き届いた水田も河原のようになっていた、などの被害が伝えられている。この地域から、十津川村のように屯田兵や一般住民として北海道へ渡っていった人々もいた[18]。
他に、紀の川、有田川、日高川、会津川、日置川など県内の主要河川が激しく氾濫し、山崩れも引き起こされ、河川沿いの集落や田畑は壊滅的な打撃を受けた。浸水町村数は2町178村にわたり、死者総数1247人 ゴールデンカムイで興味もって調べたら反日集団でびっくりした
今後絶対アイヌには騙されないとこうと思った >>223
18世紀の中ごろ、ロシア船に売るために
千島アイヌがラッコを乱獲して、絶滅寸前にしたって話だな
エゾオオカミも似たような経緯>>384 アイヌ民族は、北海道の先住民族とされていますが、今やアイヌの子孫と自称するだけで、国から手厚い支援が受けられるスキームが出来上がっています。
アイヌ利権を確立させた黒幕は、創価学会とその司令塔である中国共産党であり、彼らは、政府から毎年莫大な公金を得つつ、北海道の乗っ取りを推し進めています。
70年代の運動草創期、アイヌ青年らがまず『交流』した相手が、当時国交のない共産中国の人々だった。
71年、当時の日本社会党の2人の議員の手引きで、アイヌ青年らが中国当局者と日本国内で接触、74年にアイヌの訪中が実現している。
ある学術論文には、この訪中・交流の目的が『アイヌは、中国の民族政策に倣(なら)って日本における少数民族としての
諸権利を展開させていこうとした』と書かれているが、当時すでに何百万人のチベット人を虐殺していた『政策』のどこに倣おうとしたのか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています