邪馬台国は九州南部くさい [転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。 倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山東に依りて国邑を為る。
帯方郡より倭に至るには、
帯方郡
↓韓国
↓【南】海岸水行7000里
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里
津島国(方400里、千戸)
↓海渡1000里
一支国(方300里、三千家)
↓海渡1000里
末盧国(四千戸)
↓【東南】陸行500里
伊都国(千戸)※大率が置かれる
↓【東南】100里
奴国(二万戸)
↓【東】100里
不弥国(千戸)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)
↓【南】水行10日・陸行1月
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)→【東】海渡1000里、国あり皆倭種
↓【南】4000里
侏儒国
↓【東南】船行1年
裸国・黒歯国
◎女王国以北
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、鳥奴国、奴国
その南に狗奴国あり。男王・卑弥弓呼。その官に狗古智卑狗あり。女王国に属せず。
◎帯方より女王国に至るまで12000里
◎倭の地を参問するに、絶えて海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、周施5000里 女王国の北に21国あるのだから、北部九州でないことは明白。
その余の、遠絶にして詳らかにできない某国というのが本州だろう。
そして、女王国の東には海があり、その向こうには倭種が住むという。
そこは四国であり、女王国は九州東部で決まり。
そして、四国の南については書いてあるが、女王国の南については
書いてない。
これは、女王国が九州東南部であり、南には他に国がないことを示している
と考えられる。
西はどうかというと、奴国という、女王国に向けて南下した不弥国の
西にある国(奴国)の南に、女王国と対立する狗奴国があると書いてある。
つまり、女王国の西は狗奴国。
魏志倭人伝は、最小限の文章で、九州全域、女王国の東西南北を
明確に記述しているのだよ。
奴国→不弥国
↓ ↓水行
↓ ↓水行
↓ 投馬国
↓ ↓水行
狗奴国 ↓陸行
女王国(海)→四国
(海) 俺、3カ月前から関心持ち始めたニワカだけど、最近南九州かもと思い始めた。
畿内は99%ない。北九州説も最近疑い始めている。倭人伝を読むカギは投馬国
がどこにあったのかだが、伊都国、奴国、不彌国は北九州でいいとして、そこから
水行20日の投馬国は北九州から外れているとしか思えず、さらに南の邪馬台国は
南九州と考えるのが自然。当時の船で水行20日でどのくらい進めるのかが問題だが。 754 名前:日本@名無史さん :2015/01/15(木) 00:14:06.15
卑弥呼も邪馬台国も、陳寿の頭の中では明確に特定されてる。
陳寿は、倭国は周旋五千里ばかりとし、邪馬台国は不弥国から南へ水行20日、さらに
南へ水行10日、陸行1月とした。
「そのままだと九州を通り越す」と言う奴は馬鹿。保証する。
天才陳寿は、出鱈目を書いたのではない。
彼の地図に矛盾はない。
水行は、河川交通。
魏志において、河川でなく海の場合は、必ず海と書いてある。
川を遡るのは時間がかかる。江戸時代、川越から日本橋の往復で2週間。
上りが多く、整備されていない川だと、20日で数十kmがやっとだ。
道無き道を歩くのも大変で、1日5kmも進めない。
街道が整備された江戸時代の例から、1日20km進めると言うやつはキチガイ。
陳寿が明確に特定した邪馬台国は、東に海がある。
以上を総合すると、邪馬台国は、大分から宮崎の辺り。
それ以外にはあり得ない。 確かに宮崎県は西都、都城等の都がつく地名があるね。
高千穂峡、高千穂峰、どちらが天孫降臨の地であっても
宮崎県内だし、有り得ない話ではないかもね >>15
天孫降臨は関係ないんじゃないですかね。
あれは、朝鮮人による倭国侵略だから。 記紀の「クシフル」伝説は韓国伝説の剽窃か
http://ameblo.jp/kujitsutomu/entry-11617714587.html
記紀など倭国の「クシフル」伝説が、韓国の「亀旨(クジボン)」伝説の剽窃、
あるいは焼き直しであろうことは、その類似した内容をみれば理解できる。その
伝説の解説を試みれば、以下のようになる。
(中略)
ちなみに、『三国史記』の「金官加羅」は「金官伽耶」と同じ国家を表し、単に
「加羅」とも「伽耶」とも表記する。駕洛国ともいった。さらに韓国語の「クシ
フル」は「クソウル」からきており、クは大きい、ソウルは朝鮮を意味し、「クシ
フル」は朝鮮の美称であるという説もある。 古事記にはくしふるの峰ではなくくしふる峰と書いている
これはくしふるを名詞と取るのではなく奇しきの古語と取るべきでは
名詞で考えてるのが高千穂町だがどうせ後付のインチキだし
変なのが湧いてくるんで迷惑だし 亀旨峰(くじポン)ね、これ三国遺事だよ
日本からの輸入じゃね? 三国遺事への日本書紀の影響って、検討した学者がいないんじゃないの?
三国史記もそうだけど、記紀なみに史料批判が発達している分野ではない。 日本書紀は半島にわたっていないから
文献的な影響はほぼないと見ているが
口承伝承時代の影響が相互に関係している可能性はあると考えている
済州島にあった耽羅国も倭人系の神話をもっているらしいし
半島南部に属国をもっていた倭が加羅に影響を与えていないとは考えにくい 新唐書あたりから、日本書紀表記の神名がでてくるから、唐に日本書紀は渡来してただろうな
新羅とか高麗に渡来したかは知らんけど 邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 旧ソ連の人類学者、レヴィンの研究
http://www2.cc22.ne.jp/hiro_ko/9-0roots.html
【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文人か弥生人か 2008.08.25 MSN産経新聞
レヴィンは、第二次大戦直後、シベリアに抑留された元日本兵約1万300人を調査。朝鮮半島では、一重まぶたに伴い涙丘がまぶたで覆われる「蒙古ひだ」が多いが、日本では近畿に最も多く、東西へ向かうにしたがって少なくなることを指摘した。
レヴィンは頭の形態や身長、ひげの濃さなども調べた結果、「日本人には、蒙古ひだが小さくひげが濃いアイヌ系要素と、蒙古ひだが大きくひげが薄い朝鮮系要素という二大要素がある」と分析。
「アイヌ系」は縄文人の古い特徴を受け継ぎ、近畿に多い「朝鮮系」は弥生以降の渡来人の新しい特徴を持つという。 ■■■悪の化身『台湾人工作部隊』による二段構造の江南改竄詐欺の手口A■■■
@バカを確実にダマし落とすために、まず朝鮮人のふりをしながら日本人が
朝鮮人と同じ人種かのようなコピペを貼りまくって嫌がらせをしまくる。
(台湾人の自家発電に、おのれ、朝鮮人め!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、ホワイトナイトがごとく何十年も
かけて作り上げてきた、それはそれは高度な改竄用の捏造創作を使って
勝手に自分たちの祖先、長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南ブタ土人」が日本人の祖先になりました。 天孫降臨の地が南九州というのは、確かに邪馬台国との関係を思わせるな。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) 倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。
其國、居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附
之。設官有十二等。
倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。東西に五カ
月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。その国、居住地に城郭がなく、木を以て柵とし、草を以て
屋根とする。四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察させ、
皆はこれを畏怖している。官には十二等級を設けている。
これは九州の話しですね。 倭国は山島であり、日本国は大山で
区切られた国である。
地勢の描写が違う。 倭国は周囲5千里の島で阿蘇山があることになってるが、日本国は東の大山が境界
とされてる。
倭国は九州で、日本国は本州のうち富士山から西だ。 >>34
>倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里
京師とは首都を指すが、ここではソウルのことだろう。畿内説論者が頑固に
固執する1里=400メートルで計算すると5600キロという途方もない数字に
なるんだがw もう長里説は諦めろw 九州説でも1里の長さにはいろいろあるが、
仮に1里=70メートルとすると980キロだ。地図でソウル→木浦→釜山→博多の
距離を調べると800キロ余りでほぼ一致する。
「京師はソウルじゃない。長安(今の西安)だ」という反論はあるだろうが、
それでも西安→博多は、西安→ソウルを黄河で下り、黄海を船で渡ってソウルに至る
約1800キロを加えても2800キロしかならず、5600キロには到底及ばない。
結論: 1里=400メートルは、もはやあり得ない。 >>37
× 西安→ソウルを黄河で下り、
○ 西安から黄河河口まで船で下り、
× 2800キロ
○ 2600キロ >>33
>その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
>東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
東界の大山・・・・南アルプスと富士山
北界の大山・・・・北アルプス(特に立山連峰)
西界の大海・・・・島根沖の日本海?
南界の大海・・・・太平洋
毛人の国・・・・・フォッサマグナ(糸魚川〜静岡)の東側
東西南北に各数千里・・・・1里=70メートルとして、5千里なら各350キロ
奈良を中心にして、北は糸魚川、南は串本、東は沼津、西は石見あたりか。
東西方向は五千里では足りず8千里くらいか。
>>39
日本国は倭国を征服してるから、西は九州まで含まれると思う。 日本国と倭国が一緒になる前は、倭国は九州、日本国は本州だったということだね。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) >※「筑紫」=北九州
筑紫嶋というのは九州島のこと。よって、北九州とは限らない。 筑紫城は旧筑紫国の城だろうね。
今で言えば、九州城とか本州城
という用法はあまりなさそう。 基本的に筑紫といえば福岡県辺りを指す。
島が付けば九州を指す。
島が無ければ、ほとんど福岡だろうな。 お前ら分国令前の国割りやらその地の名前知らないの? 古くから名前がついてその地が確定してるのは
筑紫、日向、吉備、古志、毛野、陸奥、紀、出雲など >>42
それ明確に答え出てるだろ、筑紫にいたのは男王。
つまり北部九州は女王国ではないという事だから。
倭人伝の男王が国内を司ったという記述とも合致してるしな。 倭国と日本国は別で、倭国は日本に滅ぼされたんだが。 天孫降臨は4世紀に北九州へ。
神武東征が、畿内の銅鐸が破壊・隠滅された5世紀。 一口に北九州と言っても西からヒ、ツクシ、トヨと三カ国あったわけやん
人口面でも面積でもヒが一番大きい国だったのに、なぜツクシの方に主体があったとするのか 記紀では筑紫(福岡)なんぞほとんど話題にもなっていない。 有明海周囲は、ヒの領域と思われるが、
久留米が筑紫なのは、ヒが負けたんだろうね。
ただし、チクシも大牟田を越えて
侵攻するだけの体力はなかった。
肥前と筑後の国境の吉野ヶ里、
安永田遺跡は戦で亡くなった
兵士の痕跡。
筑後と肥後の国境の大牟田周辺からは製鉄遺跡や鉄器武器が多く出る。 おいおい、冷静に!
筑紫は普通に博多だよ♪
後漢書:倭奴国は倭国の極南界である。
(つまり、倭国は博多湾岸に都を置き、朝鮮南部から九州北部を支配する国)
倭奴国とは金印「漢倭奴国王」の金印をもらった国。
(つまり倭奴国は当時の倭国の覇者)
倭国の覇者は博多湾岸を中心に、倭奴国、邪馬台国、大国主命、天孫族がそれぞれその時代その時代に覇者になっていた。
(博多は古代中国では「覇家臺」と書かれ、意味は代々皇帝が家を置くところ、都するところの意。)
旧唐書:倭国とはいにしえの倭奴国なり。
(つまり倭国=倭奴国=都は筑紫)
元(モンゴル)の書:倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
その昔唐が百済を攻めた時百済は 倭奴 の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも(半島から)撤退した。
今の 倭奴 は昔の(唐に負けたような)倭奴ではない・・・
(つまり元軍は日本を侵略するのが目的だったが、何故か全軍を博多に集結させた。それはなぜか??
そう、博多は古より 倭国=倭奴国=筑紫 の都 覇家臺 だったからだ♪)
もういい加減あきらめな♪
中国記述、日本の記紀、考古学、統計学、その他遺跡や文献等々、日本のいにしえの舞台は 博多=筑紫 だったのだよ♪
統計学でも福岡がほぼ100%に近いと言われるのも納得だ♪
次点の佐賀ですら0.01%
奈良に限ってはほぼ0にちかい0.00%
文献にしろ文献に順ずる遺跡にしろ出土品にしろ筑紫=福岡は他を圧倒してるんだからな♪ おいおい、冷静に!
筑紫は普通に博多だよ♪
後漢書:倭奴国は倭国の極南界である。
(つまり、倭国は博多湾岸に都を置き、朝鮮南部から九州北部を支配する国)
倭奴国とは金印「漢倭奴国王」の金印をもらった国。
(つまり倭奴国は当時の倭国の覇者)
倭国の覇者は博多湾岸を中心に、倭奴国、邪馬台国、大国主命、天孫族がそれぞれその時代その時代に覇者になっていた。
(博多は古代中国では「覇家臺」と書かれ、意味は代々皇帝が家を置くところ、都するところの意。)
旧唐書:倭国とはいにしえの倭奴国なり。
(つまり倭国=倭奴国=都は筑紫)
元(モンゴル)の書:倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
その昔唐が百済を攻めた時百済は 倭奴 の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも(半島から)撤退した。
今の 倭奴 は昔の(唐に負けたような)倭奴ではない・・・
(つまり元軍は日本を侵略するのが目的だったが、何故か全軍を博多に集結させた。それはなぜか??
そう、博多は古より 倭国=倭奴国=筑紫 の都 覇家臺 だったからだ♪)
もういい加減あきらめな♪
中国記述、日本の記紀、考古学、統計学、その他遺跡や文献等々、日本のいにしえの舞台は 博多=筑紫 だったのだよ♪
統計学でも福岡がほぼ100%に近いと言われるのも納得だ♪
次点の佐賀ですら0.01%
奈良に限ってはほぼ0にちかい0.00%
文献にしろ文献に順ずる遺跡にしろ出土品にしろ筑紫=福岡は他を圧倒してるんだからな♪ 筑紫が久留米を獲った痕跡が景行天皇の
高良山への仮宮の構築。
ここでおそらくヒと不戦提携して、
背後の危険が収まったあとで、
熊襲への侵攻。
ヒも肥後の方から侵攻したかもしれない。 宋書に出てくる 筑紫の日向宮 ♪
これももちろん 福岡の日向宮 の意味だよ♪
宮崎はクマソだからあきらめなされ♪
「天皇、筑紫日向より豊州箕島に入られた・・・」
これも宮崎の人からしたら
「神武天皇が九州島の日向から豊国箕島に入られた・・・」
になるんだろうね♪
いやまてよ!同じ九州なのに(笑)
筑紫の日向の橘の小戸
(筑紫国の日向の岬の小戸)
筑紫の日向の高千穂のクシフル岳
(筑紫国の日向の山のクシフル岳)
これが正解♪
宮崎は日向だけで都合よく解釈しないようにね♪
クマソの都さん♪ 筑紫がそのまま島の名前になっている時点ではもう大和に征服された後だろ >>58
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 天皇、筑紫日向より豊州箕島に入られた・・・
豊国ではなく豊州となってるあたり、このころは福岡県東部の旧豊国は
天孫族が治める地域、支配下になったんだろうね♪
神武東征は福岡平野の天孫族による筑豊等の旧豊国侵攻の可能性もあるしね。
神武か天孫族が豊国を奪い、その後機内へ東征する際に豊国箕島に寄り箕島神社を建立した♪
「いにしえ天孫ここより発ち、日向の旧都へ向かった。ここは天照大御神の・・・」
行橋や京都郡に伝わる話しだけど、神武は豊国を天孫族の将軍として制圧したあと京都郡あたりに
居してたのかもね♪
そして、今だに現福岡県域の天孫族が治める地域でも、今だに天孫族に従わない豪族が多いと嘆き、東征を決意する。
そして京都郡から発ち筑紫の日向に向かったと言う話しなのかもね♪
邪馬台国は行橋あたりも怪しいね♪
それか卑弥呼が行橋あたりの邪馬台国をおさめていたが博多湾周辺の中心豪族に推薦され、伊都国で女王として君臨したとかね♪
まあ基本は博多湾周辺からの話しでしょ♪ 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) いつまで工作してんの?
日本史板機能しなくなってんじゃん >>27
おおむねこういう感じなんじゃねーかと思うけど、
証拠がな… 天皇家の先祖は、阿毎とういう氏だったんだろう。
済州島にいた騎馬民族だよ。 半島で賭け事とか禁止されてそれから逃れたやつらが今じゃ済州島に訪れて
ギャンブルにこうじる場所になってるぞ ラスベガスみたいな感じになってたりあるいはカジノみたいに
発展したりしてるのはマカオ、済州島、香港、あとどこがある? カジノって〜のはよ〜するに公営ギャンブルではない
完全な民間ギャンブルのことな
上がりなどはほとんど投資家のフトコロに入る 日本でも昔は寺院あたりを中心に賭博が行われていた時代もあるみたいだが
江戸時代あたりの博打打ち〜ってのは今のヤクザの起源な
ショバ代だの吹かすのは賭博の場所を貸した家賃みたいなものの語源 さ〜それを参考にしてるのかど〜かは分からないよな〜
893だの吹かしてるやつらは自分が被害者てかに重ねてるわけ? 短里があり得ないって言っているアホは、今の地図を見ながらおよその距離を地図上で物差しで測ってみろよ。
1里=400メートルなんて500%あり得ないんだよ。こういう地道なことを一切しないで、「学界の権威が
信じているんだから間違いない」と思っているのは、新興宗教の盲信と同じだよ。歴史を読めば、中世ヨーロッパの
カトリック教会がいかに間違っていたかわかるはずなんだけど。「倭人伝に書かれているのは直線距離じゃない。
だから短里説などあり得ない」と言うような反論をするくらいならまだマシだが、ここにいるドアホは
「とにかく違うはずしか言えない」 自分の頭で考える力がゼロ。オレオレ詐欺にひっかかるなよ www >>75さん。他のスレでも荒らしてますね。ご苦労様です 【5月5日 AFP】日本語の方言の多くは約2200年前に朝鮮半島から移住してきた農民たちに由来する
「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」
もう1つの説は、紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を及ぼしたとするもので、
先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語もほとんどが置き換えられたと考える。最近の考古学上およびDNAの証拠は、
いずれもこちらの説が有力であることを示している。
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2798334/7175562 大和言葉古語を朝鮮から探して来いよw
大和朝廷の支配者言語は大和言葉今の京都弁でも日本語でもない何度言えば
理解できるんだよw まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 62を見て、そうなのかと納得しました。
アマチュアレベルな自分ですが。 まぁ普通に読めば九州南部
大陸から海を渡ってくる船と倭国内を移動する船は違う船だったろうし
国内は視察、接待を受けながらの旅だったと思う。だから
水行○日はかかった日数というより、かけた日数とみた方が良いと思う。
陸行も同様。
邪馬台国は川の氾濫する宮崎より、盆地の都城が一番可能性が高い。
経済の中心部は北部だったろうけどね まぁ素直にめば九州北部有明海東岸。
「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
洛陽を出発した魏使は、船で淮水を下り(淮水行)、
淮水河口から黄海を渡り、帯方郡徳積群島で乍南し、珍島で作東し、
韓地西岸南岸の諸韓国を歴して、狗邪韓國の南岸に到着する。
帯方郡を通って、狗邪韓國の南岸までのその水行は、七千餘里。
「(從郡)南至投馬國、水行二十日」
帯方郡を通って、不彌國の南の投馬國に至る道程は、水行で二十日(約2万里)。
「(從郡)南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」
帯方郡を通って、不彌國の南の女王の都する所である邪馬壹國至る道程は、
水行で十日(11400餘里)と陸行1月(1月行=約1000里=80km)。
陸行の起点は末盧國であるから、邪馬壹國は不彌國の南400里(約30km)。
邪馬壹國の位置は八女(広川町・八女市) 当時の魏では太陽方位角測量は既に行われていて、距離の記述は測量値 27 名前:日本@名無史さん :2015/03/19(木) 18:56:29.55
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 神功皇后は余計だな
卑弥呼や台与の事績と神功皇后の事績とでは、まるで共通点はない
むしろ、「卑弥呼や台与に相当する人物が、日本史上どこにもいない」ことを根拠にしたほうが論理整合する >>1
邪馬壹國は筑紫平野の東部(北野地域、筑後平野内陸部)
女王國は筑紫平野の大部分(肥前国庁址付近の伊都國地域を除く)
伊都國は女王國成立以前の倭國の首都、 伊都國(倭都であった國の意) まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
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