邪馬台国は九州南部くさい [転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。 倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山東に依りて国邑を為る。
帯方郡より倭に至るには、
帯方郡
↓韓国
↓【南】海岸水行7000里
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里
津島国(方400里、千戸)
↓海渡1000里
一支国(方300里、三千家)
↓海渡1000里
末盧国(四千戸)
↓【東南】陸行500里
伊都国(千戸)※大率が置かれる
↓【東南】100里
奴国(二万戸)
↓【東】100里
不弥国(千戸)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)
↓【南】水行10日・陸行1月
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)→【東】海渡1000里、国あり皆倭種
↓【南】4000里
侏儒国
↓【東南】船行1年
裸国・黒歯国
◎女王国以北
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、鳥奴国、奴国
その南に狗奴国あり。男王・卑弥弓呼。その官に狗古智卑狗あり。女王国に属せず。
◎帯方より女王国に至るまで12000里
◎倭の地を参問するに、絶えて海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、周施5000里 女王国の北に21国あるのだから、北部九州でないことは明白。
その余の、遠絶にして詳らかにできない某国というのが本州だろう。
そして、女王国の東には海があり、その向こうには倭種が住むという。
そこは四国であり、女王国は九州東部で決まり。
そして、四国の南については書いてあるが、女王国の南については
書いてない。
これは、女王国が九州東南部であり、南には他に国がないことを示している
と考えられる。
西はどうかというと、奴国という、女王国に向けて南下した不弥国の
西にある国(奴国)の南に、女王国と対立する狗奴国があると書いてある。
つまり、女王国の西は狗奴国。
魏志倭人伝は、最小限の文章で、九州全域、女王国の東西南北を
明確に記述しているのだよ。
奴国→不弥国
↓ ↓水行
↓ ↓水行
↓ 投馬国
↓ ↓水行
狗奴国 ↓陸行
女王国(海)→四国
(海) 俺、3カ月前から関心持ち始めたニワカだけど、最近南九州かもと思い始めた。
畿内は99%ない。北九州説も最近疑い始めている。倭人伝を読むカギは投馬国
がどこにあったのかだが、伊都国、奴国、不彌国は北九州でいいとして、そこから
水行20日の投馬国は北九州から外れているとしか思えず、さらに南の邪馬台国は
南九州と考えるのが自然。当時の船で水行20日でどのくらい進めるのかが問題だが。 754 名前:日本@名無史さん :2015/01/15(木) 00:14:06.15
卑弥呼も邪馬台国も、陳寿の頭の中では明確に特定されてる。
陳寿は、倭国は周旋五千里ばかりとし、邪馬台国は不弥国から南へ水行20日、さらに
南へ水行10日、陸行1月とした。
「そのままだと九州を通り越す」と言う奴は馬鹿。保証する。
天才陳寿は、出鱈目を書いたのではない。
彼の地図に矛盾はない。
水行は、河川交通。
魏志において、河川でなく海の場合は、必ず海と書いてある。
川を遡るのは時間がかかる。江戸時代、川越から日本橋の往復で2週間。
上りが多く、整備されていない川だと、20日で数十kmがやっとだ。
道無き道を歩くのも大変で、1日5kmも進めない。
街道が整備された江戸時代の例から、1日20km進めると言うやつはキチガイ。
陳寿が明確に特定した邪馬台国は、東に海がある。
以上を総合すると、邪馬台国は、大分から宮崎の辺り。
それ以外にはあり得ない。 確かに宮崎県は西都、都城等の都がつく地名があるね。
高千穂峡、高千穂峰、どちらが天孫降臨の地であっても
宮崎県内だし、有り得ない話ではないかもね >>15
天孫降臨は関係ないんじゃないですかね。
あれは、朝鮮人による倭国侵略だから。 記紀の「クシフル」伝説は韓国伝説の剽窃か
http://ameblo.jp/kujitsutomu/entry-11617714587.html
記紀など倭国の「クシフル」伝説が、韓国の「亀旨(クジボン)」伝説の剽窃、
あるいは焼き直しであろうことは、その類似した内容をみれば理解できる。その
伝説の解説を試みれば、以下のようになる。
(中略)
ちなみに、『三国史記』の「金官加羅」は「金官伽耶」と同じ国家を表し、単に
「加羅」とも「伽耶」とも表記する。駕洛国ともいった。さらに韓国語の「クシ
フル」は「クソウル」からきており、クは大きい、ソウルは朝鮮を意味し、「クシ
フル」は朝鮮の美称であるという説もある。 古事記にはくしふるの峰ではなくくしふる峰と書いている
これはくしふるを名詞と取るのではなく奇しきの古語と取るべきでは
名詞で考えてるのが高千穂町だがどうせ後付のインチキだし
変なのが湧いてくるんで迷惑だし 亀旨峰(くじポン)ね、これ三国遺事だよ
日本からの輸入じゃね? 三国遺事への日本書紀の影響って、検討した学者がいないんじゃないの?
三国史記もそうだけど、記紀なみに史料批判が発達している分野ではない。 日本書紀は半島にわたっていないから
文献的な影響はほぼないと見ているが
口承伝承時代の影響が相互に関係している可能性はあると考えている
済州島にあった耽羅国も倭人系の神話をもっているらしいし
半島南部に属国をもっていた倭が加羅に影響を与えていないとは考えにくい 新唐書あたりから、日本書紀表記の神名がでてくるから、唐に日本書紀は渡来してただろうな
新羅とか高麗に渡来したかは知らんけど 邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 旧ソ連の人類学者、レヴィンの研究
http://www2.cc22.ne.jp/hiro_ko/9-0roots.html
【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文人か弥生人か 2008.08.25 MSN産経新聞
レヴィンは、第二次大戦直後、シベリアに抑留された元日本兵約1万300人を調査。朝鮮半島では、一重まぶたに伴い涙丘がまぶたで覆われる「蒙古ひだ」が多いが、日本では近畿に最も多く、東西へ向かうにしたがって少なくなることを指摘した。
レヴィンは頭の形態や身長、ひげの濃さなども調べた結果、「日本人には、蒙古ひだが小さくひげが濃いアイヌ系要素と、蒙古ひだが大きくひげが薄い朝鮮系要素という二大要素がある」と分析。
「アイヌ系」は縄文人の古い特徴を受け継ぎ、近畿に多い「朝鮮系」は弥生以降の渡来人の新しい特徴を持つという。 ■■■悪の化身『台湾人工作部隊』による二段構造の江南改竄詐欺の手口A■■■
@バカを確実にダマし落とすために、まず朝鮮人のふりをしながら日本人が
朝鮮人と同じ人種かのようなコピペを貼りまくって嫌がらせをしまくる。
(台湾人の自家発電に、おのれ、朝鮮人め!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、ホワイトナイトがごとく何十年も
かけて作り上げてきた、それはそれは高度な改竄用の捏造創作を使って
勝手に自分たちの祖先、長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南ブタ土人」が日本人の祖先になりました。 天孫降臨の地が南九州というのは、確かに邪馬台国との関係を思わせるな。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) 倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。
其國、居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附
之。設官有十二等。
倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。東西に五カ
月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。その国、居住地に城郭がなく、木を以て柵とし、草を以て
屋根とする。四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察させ、
皆はこれを畏怖している。官には十二等級を設けている。
これは九州の話しですね。 倭国は山島であり、日本国は大山で
区切られた国である。
地勢の描写が違う。 倭国は周囲5千里の島で阿蘇山があることになってるが、日本国は東の大山が境界
とされてる。
倭国は九州で、日本国は本州のうち富士山から西だ。 >>34
>倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里
京師とは首都を指すが、ここではソウルのことだろう。畿内説論者が頑固に
固執する1里=400メートルで計算すると5600キロという途方もない数字に
なるんだがw もう長里説は諦めろw 九州説でも1里の長さにはいろいろあるが、
仮に1里=70メートルとすると980キロだ。地図でソウル→木浦→釜山→博多の
距離を調べると800キロ余りでほぼ一致する。
「京師はソウルじゃない。長安(今の西安)だ」という反論はあるだろうが、
それでも西安→博多は、西安→ソウルを黄河で下り、黄海を船で渡ってソウルに至る
約1800キロを加えても2800キロしかならず、5600キロには到底及ばない。
結論: 1里=400メートルは、もはやあり得ない。 >>37
× 西安→ソウルを黄河で下り、
○ 西安から黄河河口まで船で下り、
× 2800キロ
○ 2600キロ >>33
>その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
>東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
東界の大山・・・・南アルプスと富士山
北界の大山・・・・北アルプス(特に立山連峰)
西界の大海・・・・島根沖の日本海?
南界の大海・・・・太平洋
毛人の国・・・・・フォッサマグナ(糸魚川〜静岡)の東側
東西南北に各数千里・・・・1里=70メートルとして、5千里なら各350キロ
奈良を中心にして、北は糸魚川、南は串本、東は沼津、西は石見あたりか。
東西方向は五千里では足りず8千里くらいか。
>>39
日本国は倭国を征服してるから、西は九州まで含まれると思う。 日本国と倭国が一緒になる前は、倭国は九州、日本国は本州だったということだね。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) >※「筑紫」=北九州
筑紫嶋というのは九州島のこと。よって、北九州とは限らない。 筑紫城は旧筑紫国の城だろうね。
今で言えば、九州城とか本州城
という用法はあまりなさそう。 基本的に筑紫といえば福岡県辺りを指す。
島が付けば九州を指す。
島が無ければ、ほとんど福岡だろうな。 お前ら分国令前の国割りやらその地の名前知らないの? 古くから名前がついてその地が確定してるのは
筑紫、日向、吉備、古志、毛野、陸奥、紀、出雲など >>42
それ明確に答え出てるだろ、筑紫にいたのは男王。
つまり北部九州は女王国ではないという事だから。
倭人伝の男王が国内を司ったという記述とも合致してるしな。 倭国と日本国は別で、倭国は日本に滅ぼされたんだが。 天孫降臨は4世紀に北九州へ。
神武東征が、畿内の銅鐸が破壊・隠滅された5世紀。 一口に北九州と言っても西からヒ、ツクシ、トヨと三カ国あったわけやん
人口面でも面積でもヒが一番大きい国だったのに、なぜツクシの方に主体があったとするのか 記紀では筑紫(福岡)なんぞほとんど話題にもなっていない。 有明海周囲は、ヒの領域と思われるが、
久留米が筑紫なのは、ヒが負けたんだろうね。
ただし、チクシも大牟田を越えて
侵攻するだけの体力はなかった。
肥前と筑後の国境の吉野ヶ里、
安永田遺跡は戦で亡くなった
兵士の痕跡。
筑後と肥後の国境の大牟田周辺からは製鉄遺跡や鉄器武器が多く出る。 おいおい、冷静に!
筑紫は普通に博多だよ♪
後漢書:倭奴国は倭国の極南界である。
(つまり、倭国は博多湾岸に都を置き、朝鮮南部から九州北部を支配する国)
倭奴国とは金印「漢倭奴国王」の金印をもらった国。
(つまり倭奴国は当時の倭国の覇者)
倭国の覇者は博多湾岸を中心に、倭奴国、邪馬台国、大国主命、天孫族がそれぞれその時代その時代に覇者になっていた。
(博多は古代中国では「覇家臺」と書かれ、意味は代々皇帝が家を置くところ、都するところの意。)
旧唐書:倭国とはいにしえの倭奴国なり。
(つまり倭国=倭奴国=都は筑紫)
元(モンゴル)の書:倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
その昔唐が百済を攻めた時百済は 倭奴 の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも(半島から)撤退した。
今の 倭奴 は昔の(唐に負けたような)倭奴ではない・・・
(つまり元軍は日本を侵略するのが目的だったが、何故か全軍を博多に集結させた。それはなぜか??
そう、博多は古より 倭国=倭奴国=筑紫 の都 覇家臺 だったからだ♪)
もういい加減あきらめな♪
中国記述、日本の記紀、考古学、統計学、その他遺跡や文献等々、日本のいにしえの舞台は 博多=筑紫 だったのだよ♪
統計学でも福岡がほぼ100%に近いと言われるのも納得だ♪
次点の佐賀ですら0.01%
奈良に限ってはほぼ0にちかい0.00%
文献にしろ文献に順ずる遺跡にしろ出土品にしろ筑紫=福岡は他を圧倒してるんだからな♪ おいおい、冷静に!
筑紫は普通に博多だよ♪
後漢書:倭奴国は倭国の極南界である。
(つまり、倭国は博多湾岸に都を置き、朝鮮南部から九州北部を支配する国)
倭奴国とは金印「漢倭奴国王」の金印をもらった国。
(つまり倭奴国は当時の倭国の覇者)
倭国の覇者は博多湾岸を中心に、倭奴国、邪馬台国、大国主命、天孫族がそれぞれその時代その時代に覇者になっていた。
(博多は古代中国では「覇家臺」と書かれ、意味は代々皇帝が家を置くところ、都するところの意。)
旧唐書:倭国とはいにしえの倭奴国なり。
(つまり倭国=倭奴国=都は筑紫)
元(モンゴル)の書:倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
その昔唐が百済を攻めた時百済は 倭奴 の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも(半島から)撤退した。
今の 倭奴 は昔の(唐に負けたような)倭奴ではない・・・
(つまり元軍は日本を侵略するのが目的だったが、何故か全軍を博多に集結させた。それはなぜか??
そう、博多は古より 倭国=倭奴国=筑紫 の都 覇家臺 だったからだ♪)
もういい加減あきらめな♪
中国記述、日本の記紀、考古学、統計学、その他遺跡や文献等々、日本のいにしえの舞台は 博多=筑紫 だったのだよ♪
統計学でも福岡がほぼ100%に近いと言われるのも納得だ♪
次点の佐賀ですら0.01%
奈良に限ってはほぼ0にちかい0.00%
文献にしろ文献に順ずる遺跡にしろ出土品にしろ筑紫=福岡は他を圧倒してるんだからな♪ 筑紫が久留米を獲った痕跡が景行天皇の
高良山への仮宮の構築。
ここでおそらくヒと不戦提携して、
背後の危険が収まったあとで、
熊襲への侵攻。
ヒも肥後の方から侵攻したかもしれない。 宋書に出てくる 筑紫の日向宮 ♪
これももちろん 福岡の日向宮 の意味だよ♪
宮崎はクマソだからあきらめなされ♪
「天皇、筑紫日向より豊州箕島に入られた・・・」
これも宮崎の人からしたら
「神武天皇が九州島の日向から豊国箕島に入られた・・・」
になるんだろうね♪
いやまてよ!同じ九州なのに(笑)
筑紫の日向の橘の小戸
(筑紫国の日向の岬の小戸)
筑紫の日向の高千穂のクシフル岳
(筑紫国の日向の山のクシフル岳)
これが正解♪
宮崎は日向だけで都合よく解釈しないようにね♪
クマソの都さん♪ 筑紫がそのまま島の名前になっている時点ではもう大和に征服された後だろ >>58
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 天皇、筑紫日向より豊州箕島に入られた・・・
豊国ではなく豊州となってるあたり、このころは福岡県東部の旧豊国は
天孫族が治める地域、支配下になったんだろうね♪
神武東征は福岡平野の天孫族による筑豊等の旧豊国侵攻の可能性もあるしね。
神武か天孫族が豊国を奪い、その後機内へ東征する際に豊国箕島に寄り箕島神社を建立した♪
「いにしえ天孫ここより発ち、日向の旧都へ向かった。ここは天照大御神の・・・」
行橋や京都郡に伝わる話しだけど、神武は豊国を天孫族の将軍として制圧したあと京都郡あたりに
居してたのかもね♪
そして、今だに現福岡県域の天孫族が治める地域でも、今だに天孫族に従わない豪族が多いと嘆き、東征を決意する。
そして京都郡から発ち筑紫の日向に向かったと言う話しなのかもね♪
邪馬台国は行橋あたりも怪しいね♪
それか卑弥呼が行橋あたりの邪馬台国をおさめていたが博多湾周辺の中心豪族に推薦され、伊都国で女王として君臨したとかね♪
まあ基本は博多湾周辺からの話しでしょ♪ 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) いつまで工作してんの?
日本史板機能しなくなってんじゃん >>27
おおむねこういう感じなんじゃねーかと思うけど、
証拠がな… 天皇家の先祖は、阿毎とういう氏だったんだろう。
済州島にいた騎馬民族だよ。 半島で賭け事とか禁止されてそれから逃れたやつらが今じゃ済州島に訪れて
ギャンブルにこうじる場所になってるぞ ラスベガスみたいな感じになってたりあるいはカジノみたいに
発展したりしてるのはマカオ、済州島、香港、あとどこがある? カジノって〜のはよ〜するに公営ギャンブルではない
完全な民間ギャンブルのことな
上がりなどはほとんど投資家のフトコロに入る 日本でも昔は寺院あたりを中心に賭博が行われていた時代もあるみたいだが
江戸時代あたりの博打打ち〜ってのは今のヤクザの起源な
ショバ代だの吹かすのは賭博の場所を貸した家賃みたいなものの語源 さ〜それを参考にしてるのかど〜かは分からないよな〜
893だの吹かしてるやつらは自分が被害者てかに重ねてるわけ? 短里があり得ないって言っているアホは、今の地図を見ながらおよその距離を地図上で物差しで測ってみろよ。
1里=400メートルなんて500%あり得ないんだよ。こういう地道なことを一切しないで、「学界の権威が
信じているんだから間違いない」と思っているのは、新興宗教の盲信と同じだよ。歴史を読めば、中世ヨーロッパの
カトリック教会がいかに間違っていたかわかるはずなんだけど。「倭人伝に書かれているのは直線距離じゃない。
だから短里説などあり得ない」と言うような反論をするくらいならまだマシだが、ここにいるドアホは
「とにかく違うはずしか言えない」 自分の頭で考える力がゼロ。オレオレ詐欺にひっかかるなよ www >>75さん。他のスレでも荒らしてますね。ご苦労様です 【5月5日 AFP】日本語の方言の多くは約2200年前に朝鮮半島から移住してきた農民たちに由来する
「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」
もう1つの説は、紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を及ぼしたとするもので、
先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語もほとんどが置き換えられたと考える。最近の考古学上およびDNAの証拠は、
いずれもこちらの説が有力であることを示している。
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2798334/7175562 大和言葉古語を朝鮮から探して来いよw
大和朝廷の支配者言語は大和言葉今の京都弁でも日本語でもない何度言えば
理解できるんだよw まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 62を見て、そうなのかと納得しました。
アマチュアレベルな自分ですが。 まぁ普通に読めば九州南部
大陸から海を渡ってくる船と倭国内を移動する船は違う船だったろうし
国内は視察、接待を受けながらの旅だったと思う。だから
水行○日はかかった日数というより、かけた日数とみた方が良いと思う。
陸行も同様。
邪馬台国は川の氾濫する宮崎より、盆地の都城が一番可能性が高い。
経済の中心部は北部だったろうけどね まぁ素直にめば九州北部有明海東岸。
「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
洛陽を出発した魏使は、船で淮水を下り(淮水行)、
淮水河口から黄海を渡り、帯方郡徳積群島で乍南し、珍島で作東し、
韓地西岸南岸の諸韓国を歴して、狗邪韓國の南岸に到着する。
帯方郡を通って、狗邪韓國の南岸までのその水行は、七千餘里。
「(從郡)南至投馬國、水行二十日」
帯方郡を通って、不彌國の南の投馬國に至る道程は、水行で二十日(約2万里)。
「(從郡)南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」
帯方郡を通って、不彌國の南の女王の都する所である邪馬壹國至る道程は、
水行で十日(11400餘里)と陸行1月(1月行=約1000里=80km)。
陸行の起点は末盧國であるから、邪馬壹國は不彌國の南400里(約30km)。
邪馬壹國の位置は八女(広川町・八女市) 当時の魏では太陽方位角測量は既に行われていて、距離の記述は測量値 27 名前:日本@名無史さん :2015/03/19(木) 18:56:29.55
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 神功皇后は余計だな
卑弥呼や台与の事績と神功皇后の事績とでは、まるで共通点はない
むしろ、「卑弥呼や台与に相当する人物が、日本史上どこにもいない」ことを根拠にしたほうが論理整合する >>1
邪馬壹國は筑紫平野の東部(北野地域、筑後平野内陸部)
女王國は筑紫平野の大部分(肥前国庁址付近の伊都國地域を除く)
伊都國は女王國成立以前の倭國の首都、 伊都國(倭都であった國の意) まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 奴国の東百里に不弥国があり、不弥国から水行と陸行を兼ねて、
「南」へ下って邪馬台国がある
南だからねえ
瀬戸内海は東なので 邪馬台国が大和王権でないなら、滅ぼされて奴隷になった被差別部落だろうな。 南九州はむしろ天孫降臨の地だ
クマソは熊本南部から鹿児島北部 27 名前:日本@名無史さん :2015/03/19(木) 18:56:29.55
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 いや、邪馬台国が大和王権でないならの話だから、クマソの南熊本、北鹿児島あたりが邪馬台国になるわけで
そのさらに南に位置する南九州は狗奴国だったことになるよ 熊本から、どんどんどんどん東へ行けば間違いなく海に出る
何の問題があろうか 熊本だったら西の海のこと書いてるわ。
阿蘇山超えて東の海には行かない。 ・計其道里、当在会稽東冶之東。
・女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種。又有侏儒国在其南。
だから、西の海のことも、東の海のことも、書いているではないか。
上の二文は、対をなしているのだ。
、 >>113
>・計其道里、当在会稽東冶之東。
これ、百余国の倭国全体のことだよ。
倭人在帶方東南大海之中
依山島為國邑
舊百餘國漢時有 分からん奴だ
つまり会稽から、遥か海を越えた先の倭国ことを書いているのだ。
同様に、女王国からはるか先の東の海を渡る・・・、で何の不都合もないのだ。 >>112
邪馬台国女王之所都は、日向と肥後の中間の高千穂町にあったのだ。
これなら女王国は東の海に面してるで文句有るめえ。 ま、日向の東は日向灘、そのまた先は太平洋で陸地はありやせんぜ。
東九州に有るとしても、邪馬台国は福岡県・大分県どまりだからな。 1-1で、邪馬台国の所在地は、九州島内しか考えられないことが分かった。
では、邪馬台国は九州のどこにあったのだろうか。
まず検討すべきは、1-1に書いた倭人伝の12である。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり」
とある。つまり、
「女王国の東側は海に面しており、東に千余里(約七五〜九〇キロ)ほど海を渡ると、また国があって、倭人と同種の人が住んでいる」
と言うのである。
ここで女王国というのは、倭国全体であろうか。または倭国の中の女王のいる邪馬台国のことであろうか。それを決めるのは、10と11である。まず、10には、
「女王国より以北は、その戸数・道里、得て略載すべきも、其の余の旁国は遠絶にして、得て詳かにすべからず」
とあり、つまり、
「女王国の以北にも、その他の地にも国がある」
ことを、示している。また11も、
「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ」
となっており、女王国が決して倭国全体を示す言葉でないことを、証明している。
つまり「女王国は、倭国の中の一国であり、女王の都する所、つまり邪馬壱国」なのである。したがって、
「邪馬台国の東側は海に面している」
ことになる。
http://www.b-net.kcv.jp/~ryhei/1-2yamakokuiti.htm >>115
>分からん奴だ
>つまり会稽から、遥か海を越えた先の倭国ことを書いているのだ。
>同様に、女王国からはるか先の東の海を渡る・・・、で何の不都合もないのだ。
邪馬台国からはるか陸行した先の東の海を渡るという記述があるか? >記述があるか?
このような考え方そのものがおかしい
倭人伝は、(おそらく割り当てられた)2000字ほどの中に、詰め込めるだけ詰め込んで書かれた。
当時の学者数人がかりで、省略できる部分は徹底的に省略されたことだろう。
であるから、その省略された部分を如何に補って読めるか・・・、それが勝負どころなのだ。 戦国時代に島津は九州南部の熊本も宮崎も領有している
九州の西側の国が東側をも領有していたとして、なんらおかしな点はない 宋書における倭国には阿蘇山があるが、魏志倭人伝にはない。
男女の多くが臂(肩から手首まで)、顔、全身に刺青をし、水に潜って魚を捕る。文字はなく、
ただ木に刻みをいれ、繩を結んで(通信)する。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて得、
初めて文字を有した。卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている。
阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀
を執り行う。如意宝珠があり、その色は青く、雞卵のような大きさで、夜には光り、魚の眼の
精霊だという。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm 宮崎の「崎」は「ひがし」の意味である。
つまり宮崎とは「宮の東」という意味なのである。
ではこの場合の「宮」とはなんぞや?? それは、云うまでもなく女王国の宮殿のことだったのであろう。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 「邪・馬台国」
邪は、よこしま・ずるい、などの意味を持つ。
ゆえに「よこしま馬台国」とは、
善良な馬台国を乗っ取った「よこしま野郎たちの国=邪・馬台国」、という意味を込めているのであろう。
邪・馬台国は共立女王で良く衆を惑わしてはいるが、
そのもとに、征服された「馬台国」という国があったに違いないのだ。 従・自を伴う記述は、従〜到または自〜至間の国々と、
それらをつなぐ政治経済生活のための交流に必要な道(街道)をセットで表わしている。 いわば点と線で構成されている。
以下のように、従や自を伴わないケースは、
街道の概念を含まず、単に国々等の地理的な所在ないし方角のみ示す。
例えば狗奴国との間に、日常交流のための街道はなかったのであろう。
・其南有狗奴国(女王境界南有狗奴国)
・女王国東渡海千余里、 <祖母山>
宮崎県の最高峰である祖母山は(そぼさん)は、標高1,756mの麗峰で、
別名、姥岳(ウバタケ)と呼ばれる。
山域は、熊本県、大分県、宮崎県の3県にまたがっており、
山頂部は、大分県豊後大野市、同竹田市および宮崎県西臼杵郡高千穂町の境にある。
祖母山一帯は銅、錫、鉛、マンガン、水晶などの鉱物資源が豊富で、
有史以来、昭和中期まで採掘が行われていた。
なかでも祖母山山麓の尾平鉱山は、元和3年(1617年)に開鉱され、
昭和29年(1954年)に閉山されるまで、日本有数の鉱山として栄えた。
このほか大分県側に九折鉱山、木浦鉱山、
宮崎県側には見立鉱山、土呂久鉱山など多数があった。 なお熊襲征伐のため、景行天皇が日向へ下ったおりには、
この尾平鉱山脇を登って、祖母山へ繋がる尾根の鞍部を越える尾平峠(尾平越え)を通り、
宮崎県側へ入ったと伝えられる。まことに由緒ある峠道ではある。 台地(ウィキペディアより)
台地(だいち)とは、地形学用語の plateau や tableland 、あるいは地質学用語の platforme に対応する訳語である。山や丘陵より高度や起伏が小さいものを指す。
てことで、>>131は明らかに誤り
「台地」という訳語は、「台」のような「地」という意味で考案されたものであり
その「台」とは、邪馬台国の時代においては、天帝の代理人として地上を委ねられた天子の居所という意味 ちなみに、その「台」から「台地」への意味の変遷過程は
台=「天子の居所」→「神聖な場所」→「命をつなぐ食事の場所」→「食卓」
tablelandを食卓の地ととらえて台地と訳すに至る 投馬の国が久留米ということまでは、共通理解なんだよな。
名前的にも何か符合するんだっけ? >>135
それに台を当てたのは、通じるからだろ。 >九州西岸説は、陸行1月を説明できない
>>124
陸行(水行10日陸行16日合計26日約)1月
( )の部分が省略されてる。漢文は結論しか書かない。
前原伊都国から日向の西都原まで26日(約1月) 久留米から熊本だと、水行10日は分かるんだが、陸行1月が全く説明できない。
そのまま海を行けばいいんじゃね?
久留米から西都原なら、川で日田まで行って、そこからどうしても陸行になる。
一月くらいかかっただろ。
東に海があって、その向こうは四国だ。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり <天才伊作読みをベースに、ついに全解読された倭人伝の行程!!>
帯方郡
↓【乍南乍東】 海岸水行 到 7000里 狗邪韓国
↓【南】 渡三海3000里 至
末盧国 (四千戸・佐賀県唐津市)
↓【東南】 陸行500里 到
伊都国 (千戸・小城市船塚)郡使所駐 世有王 置一大率 →→ 【東南】 至 奴国100里 (二万戸・佐賀市)
↓【東】 行 至
不弥国100里 (千戸・神埼市/吉野ヶ里)
↓ ↓
↓ ↓【南】 至
↓ 邪馬台国女王所都 (帯方郡から)水行10日陸行1月 (七万戸・熊本県山鹿市/菊池市/阿蘇市等)
↓
↓【南】 至
投馬国 (帯方郡から)水行20日 (五万戸・宮崎県宮崎市/西都市等) >>144 の脚注
・ 但し、行程が「動詞+到・至」の場合は順次読み、「至」のみの場合は分岐式(行止り式)読み とする
・ 但し、自女王国以北其戸数道里可得略載、故に、里数なき投馬国は女王国の南に有る
・ 但し、自郡至女王国万二千余里、故に、不弥国〜女王所都間は1400里なり
・ 但し、女王の境界尽きるところの南に不属の狗奴国有り 末盧国東南陸行500里の伊都国から、道は奴国と不弥国へ分かれる。
邪馬台国へ向うには、東南の方角(東南至)の奴国へは寄らず、直接東行して不弥国(佐賀県神埼市・吉野ヶ里)へ至る。
この吉野ヶ里(不弥国)から見ると、
南の方角(南至)に(帯方郡から)水行20日の投馬国がある。
また同様にして南の方角(南至)に、(帯方郡から)水行10日+(末盧国上陸後)陸行1月の邪馬台国女王之所都がある。
吉野ヶ里から見て、
南の方角に、投馬国(宮崎市・西都市)と邪馬台国(山鹿市・菊池市・阿蘇市等)があるという記述は、いかにも不自然と思われるかもしれない。
しかし、ここから南(正確には南南東)に伸ばした直線の約80km先に熊本県山鹿市・菊池市・阿蘇市等があり、
さらにその直線の先、吉野ヶ里から180kmほどのところに宮崎市・西都市があるのである。
まさに、「南至る投馬国」、「また同様にして南至る邪馬台国」なのである。 放射読みなんて、こじつけのための屁理屈だよ。
それでは、魏に行程が伝わらない。 >>146
この説では伊都国は糸島ではないんだよ。
伊都国は佐賀平野西部の小城市船塚遺跡の辺り(久留間)。
そこから東南方向(100余里)に奴国・佐賀市は有る。 ぷhさああああああああああああああああああ
ひゅああああああああああああああああああ
た、たしゅけてえええええええええええええ 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 伊都国は糸島以外あり得ん。
糸島の、それも中央付近でないとな。 末盧国 四千戸(佐賀県唐津市)、東南陸行500里 到伊都国
唐津市から東南陸行500里なら、誰がどう読んでも佐賀平野である。
そしてその伊都国の位置は、小城市船塚古墳辺りだろう。
(糸島なんか、間違っても気違っても行くわけがない) 末盧国から東南ではないんだがな。
伊都国=糸島から東南だよ。
奴国は福岡西部しかあり得ない。
末盧国
↓陸行五百里
伊都国
↓(東南)百里
奴国
↓(東)百里
不弥国
↓(南)水行20日
投馬国
↓(南)水行10日・陸行1月
邪馬台国
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり >>154
いや、末盧から伊都も東南だよ。
それでも、唐津の先端から糸島だけどな。 唐津市中原(松浦港)から糸島は北東の方角だ。
半島先端の呼子からでも、糸島は東の方角にあたる。
(糸島は末蘆国の東南などという論は信頼性に欠ける、まったく説得力無し) 唐津の先端から糸島は東南だよ。
伊都国が佐賀なら、そこから東南へ、そして東へ行って、何川を水行するね? いくら「こうだ」と言い張っても、遺跡がなけりゃ
間違いでしたとなるわな 520 名前:日本@名無史さん [age] :2015/01/23(金) 16:58:43.06
>>518水系が違っていても、近くまで川が来ている場合、山越えの必要はない。
少なくとも宝満川と衣笠川は徒歩数分圏内
595 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:44:38.96
この川か。
筑紫野市紫2丁目付近だけど、思ったより水があるな。
http://i.imgur.com/zH9Ooir.jpg
一般に、川の水は昔の方が豊富だったそうだけど、これなら
今でも小舟が通れるぞ。
582 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:13:55.51
>>539
御笠川の源流か支流なんだね。
この辺りがあやしい。
http://i.imgur.com/MLlBZJK.jpg
664 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 22:52:40.12
>>661
ここか。
http://i.imgur.com/3tJHuyy.jpg
3から真南、モロに道になってる。これだなwww 日本@名無史さん:2015/10/05(月) 10:48:06.30 >>146
この説では伊都国は糸島ではないんだよ。
伊都国は佐賀平野西部の小城市船塚遺跡の辺り(久留間)。
そこから東南方向(100余里)に奴国・佐賀市は有る。
150 :日本@名無史さん:2015/10/05(月) 10:50:01.59 ぷhさああああああああああああああああああ
ひゅああああああああああああああああああ
た、たしゅけてえええええええええええええ
151 :日本@名無史さん:2015/10/05(月) 10:50:28.72 ■■■悪の化身『台湾人工作部隊』による二段構造の江南改竄詐欺の手口A■■■
@バカを確実にダマし落とすために、まず朝鮮人のふりをしながら日本人が
朝鮮人と同じ人種かのようなコピペを貼りまくって嫌がらせをしまくる。
(台湾人の自家発電に、おのれ、朝鮮人め!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、ホワイトナイトがごとく何十年も
かけて作り上げてきた、それはそれは高度な改竄用の捏造創作を使って
勝手に自分たちの祖先、長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南ブタ土人」が日本人の祖先になりました。 隼人の反乱の際に、今の霧島市国分姫城にある姫城跡
(比売之城(ひめのき)、比売奴城、比売妓城、熊襲城とも呼ばれる)
に女性領袖の桂姫がここに立て籠もったりしているから、
過去に遡っても女性領袖がいた可能性はあるかもね。 土蜘蛛紀行 筑後編
其之壱、山門─イ、蜘蛛塚 八束脛門へ戻る
http://jyashin.net/evilshrine/gods/tsuchigumo_shrine/tsuchigumo_trip_chikugo_0101.html
大山田女:日本書紀によると、神功皇后が、かつて「山門(やまと)」と呼ばれた
この地の土蜘蛛・田油津媛(タブラツヒメ)を討ったとのことです。また、その兄
である夏羽(ナツハ)が軍勢を従えてやって来たのですが、妹が討たれたと知り、
逃げ去りました。こちらに詳しく書いてあります。
http://jyashin.net/evilshrine/gods/tsuchigumo_shrine/tsuchigumo_ancient_01.html#7 倭人伝の通り顔に朱を塗った遺骨は、南九州からバンバン出てる。
畿内ではどうですか?
南九州の風土と歴史、伝承を中心に書きつづっていこうと思います。 季節ごとの風景や
祭りを画像でお届けしますのでどうぞお楽しみに。
http://kamodoku.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-557a.html
http://kamodoku.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2014/05/31/cimg8916.jpg
人骨の主は「男性・40歳代・身長155センチ」とのこと。頭蓋骨だけ真っ赤だが、
これは皮膚に塗っていた朱が白骨化したあと、顔だけは皮膚が薄いため骨に付着した
のであろうとのことである。 糸都国は邪馬台国の関所、城の役目があった今の小城市。
久留米から水行20日で5000戸の国熊本、水行10日で八代、
球磨川沿いをクネクネと歩き、山を越えて陸行1月で
邪馬台国に着くと書いてあるようにしか思えない。
西都原のオサホ塚の下を掘ってみればわかると思う。 唐津から、船があるのに山越えして糸島に行くのか?
それも南東と書いてあるのに、何故北東に行くのか? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 東南陸行五百里到伊都国って、東南の陸を行くこと500里で伊都国に到達するってことだと思う
だから末廬国は島国で、壱岐だと思う
とすると一大国は壱岐ではなく対馬の南部で、対海国は対馬の北部
その間の陸地は当時海面上昇して海だったんだろう
そう考えれば方角の問題は全く無くなるから、あとは書かれている通りの方角に邪馬台国があることになる 中国の歴史書で、単なる水行は河川交通で、それが海上交通を意味する例は1つもないそうです。
その証拠に、このスレの畿内説信者も、そういう例を1つも出せません。
これで、九州であることが明らかな不弥国から南へ河川交通を利用してたどり着く邪馬台国は、
九州島内であることは明らかです。 本来「水」という文字は、川の流れを示す3本の縦スジだからな
今のようにH2Oの液体全般を水と呼ぶようになったのは、物質の性質を科学的に見るようになった近代以降だろう あの天才ブロガーがブログを更新されたぞ!
http://kssn216.cocolog-nifty.com/blog/
我々雑魚は天才の前にひれ伏そうではないか!
あぁ・・・ >>179
なんだよ、卑弥呼は初代皇后だったスレのスレ主はこいつかw 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 大変だ。
あの大天才がブログを更新なされた!
http://kssn216.cocolog-nifty.com/blog/
この有難きお言葉の数々を、我々ザコは平伏して聞こうではないか!
あぁ… 移動に二十日なり十日なり掛かる河川なんて九州の何処にあるの? >>186
江戸時代、川越と江戸だって往復に1月かかるんだぜ。 >>189
荷物を船で運べるメリットが大きいんだよ。 >>188
>江戸時代、川越と江戸だって往復に1月かかるんだぜ。
1日で往復出来そうな距離だがw
往復に1月のソースは何? 520 名前:日本@名無史さん [age] :2015/01/23(金) 16:58:43.06
>>518水系が違っていても、近くまで川が来ている場合、山越えの必要はない。
少なくとも宝満川と衣笠川は徒歩数分圏内
595 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:44:38.96
この川か。
筑紫野市紫2丁目付近だけど、思ったより水があるな。
http://i.imgur.com/zH9Ooir.jpg
一般に、川の水は昔の方が豊富だったそうだけど、これなら
今でも小舟が通れるぞ。
582 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:13:55.51
>>539
御笠川の源流か支流なんだね。
この辺りがあやしい。
http://i.imgur.com/MLlBZJK.jpg
664 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 22:52:40.12
>>661
ここか。
http://i.imgur.com/3tJHuyy.jpg
3から真南、モロに道になってる。これだなwww 中国の歴史書で、単なる水行は河川交通で、それが海上交通を意味する例は1つもありません。
海を行くときは、必ず文には「海」と明示します。
これで、九州であることが明らかな不弥国から南へ河川交通を利用してたどり着く邪馬台国は、
九州島内であることは明らかです。
★畿内説論者が、海を水行する例として出てきた文
>沢散王属大秦、其治在海中央。北至驢分、水行半歳、風疾時一月到。最与安息安谷城相近。(魏志注魏略西域)
「海」の明示あり
>赤土国、扶南之別種也。在南海中、水行百余日而達所都。土色多赤、因以為号。(隋書南蛮)
「海」あり
>流求国、居海島之中,当建安郡東、水行五日而至。(隋書東夷)
「海」の明示あり
>注輦国東距海五里、西至天竺千五百里、南至羅蘭二千五百里、北至頓田三千里。
>自古不通中国、水行至広州約四十一万一千四百里。(宋史外国)
>(※数字からして明らかに海)
「海」の明示あり
>佛逝国東水行四五日、至訶陵国。(新唐諸蛮)
>(※シュリヴィジャヤから東なので当然ながら海)
これだけないように省いてるけど、実は、
「又五日行至海z、蕃人謂之質、南北百里、北岸則羅越国、南岸則佛逝国、佛逝国東水行四五日」で、
「海」の明示あり 316 名前:名無しさん@1周年 [sage] :2016/03/06(日) 03:26:02.77 ID:FJAjL+Fv0
とりあえずやっつけで地図を作ったよ。
http://i.imgur.com/w4SCY6b.jpg
水行は、海岸水行ではないのだから、不弥国(大野城市)から御笠川とその支流、そして豊満川を使う。
久留米(妻郡)が投馬国だ。
そして、久留米から水上交通が発達した日田まで行き、そこから陸行。
邪馬台国は、阿蘇山の東、佐伯付近から鹿児島までを支配する広大な地域で、
陸行1月は日田から西都原付近まで、約250kmの行程という説だ。
全ての方角が概ね合ってる。 最近おかしな話ばかり
テレビを見ていると
九州のチンピラは消えろ
この事を言ってる人がいたり テレビというか、
そういうのに出ている芸能人?
そのチンピラの関係者ではないの? 邪馬台国や倭国が九州南部だと良かったのにネ
鹿児島県は野蛮粗暴の薩摩藩のイメージで臭い臭い
文化ゼロ もう少し薩摩について勉強しなおせ
鹿児島の南国風土で人情味あふれるところなんて邪馬台国くさいけどな
それに大隅宮崎側もあるし 南九州では米が育たない
そもそも大きな権力が纏まる素地がないのだ
>>193
関門海峡を川だと思ったと考えれば本州で何も問題はない
そもそもあの狭い海峡をちょっと見て本州と九州が別の島だと認識するのは難しいことだろう >>198
その通り。
53 名前:日本@名無史さん :2016/02/29(月) 02:12:26.02
そもそも鹿児島なんぞは、古来から人も物も何も産み出さず
やった事と言えば、虐殺とレ○プ婚と犯罪者の産出のみ。
そして未だ全都道府県断トツの低学歴県であり
日本の癌である。
65 名前:日本@名無史さん :2016/03/04(金) 03:07:18.43
>>64
そう。それにプラスして>>61の人も語っている通り
・敬語の概念がない = 日本人的な奥ゆかしさ、
協調性が皆無
・本邦に類を見ない「ステガマリ」などの自爆戦術を使っていた
・統計開始以来、4年性大学進学者が全都道府県断トツで
低比率である = 低学歴 = バカの巣窟
・そもそも、曽於市と志布志湾沿岸を除いた
鹿児島県出身者は、古来より他の日本人とは血液指数、
指紋指数が全く異なる。(変死体判別に有効であり、
法医学関係では有名な話)
上記を鑑みれば、日本民族ではないとしても差し支えない。 ・木崎原、泗川を始めとする島津の戦果は全て捏造
・古代3陵墓偽造(ただの丘)
・熊襲関連艤装(熊襲は本来熊本県に盤踞したものであり、鹿児島は関係ない)
・
53 名前:日本@名無史さん :2016/02/29(月) 02:12:26.02
そもそも鹿児島なんぞは、古来から人も物も何も産み出さず
やった事と言えば、虐殺とレ○プ婚と犯罪者の産出のみ。
そして未だ全都道府県断トツの低学歴県であり
日本の癌である。
65 名前:日本@名無史さん :2016/03/04(金) 03:07:18.43
>>64
そう。それにプラスして>>61の人も語っている通り
・敬語の概念がない = 日本人的な奥ゆかしさ、
協調性が皆無
・本邦に類を見ない「ステガマリ」などの自爆戦術を使っていた
・統計開始以来、4年性大学進学者が全都道府県断トツで
低比率である = 低学歴 = バカの巣窟
・そもそも、曽於市と志布志湾沿岸を除いた
鹿児島県出身者は、古来より他の日本人とは血液指数、
指紋指数が全く異なる。(変死体判別に有効であり、
法医学関係では有名な話)
上記を鑑みれば、日本民族ではないとしても差し支えない。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>200
食物もマズイものしかない。
鹿児島支店のやつに「森伊蔵を50本買ってこい」
と言って持ってこさせて、目の前で全部叩き割るのは楽しいぞ。 発狂しそ〜だなw
ちょっとやばいなこれ
何がやばいかは教えないけど〜 薩摩 = 卑劣な野蛮人の巣窟
最も旅行に行きたくない都道府県
九州で南の方は熊本と宮崎見たら帰ろうw >>207
まあそれは極端だが、徳之島に行くときは気をつけろ。
まかり間違えて、地元民の車にクラクションでも鳴らせば
鎌で腕を切り落とされたり、宿舎に猛毒蛇のハブを
大量に投げ込まれたりと大変な事になる。
これは真面目な話しだからよく覚えておいてくれ。 てことは、狗奴国は都城付近、天孫降臨の高千穂の峰のあたりだね >>213 狗奴国は、都城か志布志湾辺り。
高千穂峰は、単なる崇拝の対象だけで国がある訳がない。
富士山に国がないが如し。
俺、宮崎に高校までいたけど、何故高千穂峰に天孫降臨したなんて話を作ったんだろうと不思議でならなかった。
何もないところだよ。
しかし、西都原に邪馬台国があって、高千穂峡が通り道で邪馬台国に入ってきたのなら、高千穂が神聖な地名となっただろうし、霧島連山の噴火を見てそこを高千穂峰と名付けて崇拝したのはわかるようになってきた。 狗奴国は熊本だな。
其の南の其は、邪馬台国じゃないよ。 >>215 もしそうだとしたら薩摩はどこに行ったんだ?
縄文時代から貝文土器の様に高度な文化を持ってた国が話に出てこない訳がない。 >>217 それはない、古代から鹿児島の影響範囲は宮崎の南の方だけ。
方言が全く違う。
都城とかは鹿児島の勢力範囲内 >>220
日向国【ひゅうがのくに】
旧国名。日州とも。西海道の一国。現在の宮崎県。713年大隅(おおすみ)国を分置。8世紀初めに
薩摩(さつま)国を分置したとの説もある。《延喜式》に中国,5郡。国府は現在の西都市。 >>220
日向国は7世紀中期以降、律令制の成立に伴って成立した[3]。成立当初は現在の宮崎県と鹿児島県
の九州本土部分を含む広域に渡っていた[3]。
大宝2年(702年)頃に鹿児島県部分の西部が唱更国(後の薩摩国)として分立した。和銅6年
(713年)4月3日に肝杯郡、贈於郡、大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4郡が、移管し
大隅国として分立した。以後、明治初期まで日向国の領域(臼杵郡、児湯郡、宮崎郡、那珂郡、
諸県郡の5郡)に変化はなかった。ただし、米良・椎葉地域が肥後との間で近世初期まで曖昧で
あった等、領域の変化はあった[3]。 ハヤト平定以後の新しい話だろ?
邪馬台国は関係無い 西都原にも、隼人の墓といわれてる地下式の墓があるよ。 >>224
地下式横穴墓は、宮崎県の方が多いぞ。
地下式横穴墓(ちかしきよこあなぼ)とは、地面に竪穴を掘り、そこから更に横穴を掘って地中に
墓壙(玄室)をつくり、その中に被葬者を葬る墳墓である。
地上には何らの標示物もなく、田畑の耕作や農地改良の際、偶然発見されることが多かった。最近
では地中レーダー探査によって発見されることもある。西都原古墳群を北限に、一ツ瀬川、大淀
川、川内川の各流域地帯や、宮崎県中央内陸部から霧島山麓の諸県盆地にかけて分布しており、
宮崎県側で約600基、鹿児島県側で約100基が確認されている。特に、宮崎県の最西端の市えびの
市地域において、300基以上が確認されている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/地下式横穴墓 魏志倭人伝に記載の、水行10日、水行20日、陸行一月の言っても、
シナ人の貴族の使節が今の日本人のように一生懸命歩くはずがないし、
不弥国から水行何日という表示になるのは、部下に行かせたため部下の
報告を記録したため曖昧になっているのだろう。魏史和人伝には北に
多くの傍国があったが、南には敵の狗奴国があると書いている。
位置関係から、邪馬台国は西都原しかない。 距離で記録残されても、それ読んだ人はたどり着けないよ。
何日歩きましたなら、だいたい分かる。 宮崎は鉄器と鏡が不足しているような気がするんだが、その辺どうだい? >>222 日向の国府は、日向市では無く、西都市に置かれていた。 西都原古墳群の近く。
この事からも古代の西都原は押しも押されぬ政治の中心地だったんだろう。 西都原の円墳を造っていた邪馬台国が、吉備出雲の方墳を造っていた奈良を
侵略して大和国になり、その後一部が西都原に戻り方墳と円墳を合体させた
前方後円墳を造ったのではないだろうか?その方が時代的にも合う。 >>232 違うと思うな、西都で始まった纒向型前方後円墳が大和に行って2倍の大きさで作られたという所では?
細かな時代考証は知らんが 西都原は奈良に住む人から見て、先祖が住んで西にある昔の都として
付けた名前ではないのか?
ついでに想像すると、宮崎という地名は先の都の意味ではないのか、
都城は都の城があったから付いた名前ではないのか?
そうすると狗奴国は鹿児島県になる。 邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
日向国
http://komatsu0513.heteml.jp/hyuga.html 神主さんは、お祓いで
筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸の阿波岐原でイザナギの大神が禊祓いをされた時に生まれた大神たちよ。
いろいろな災難や罪や穢れを祓ってください、清めて下さい。
記紀の最初に、神がうまれる。
黄泉国から帰った伊邪那岐命は、筑紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)で禊祓いをした。
身に着けていた杖や帯、衣などを投げ捨てると、そこから神々が生まれた。
この伝説は、事実だろう。 魏志倭人伝に
”葬儀が終われば、家人は皆が水中で水浴び(禊だと思うが、原文の入浴に従った)をする。”
とある。 つまり誰かが死んで、イザナギが実際にみそぎをし次の王達の時代が始まったという話だろう。
筑紫の日向という表現は、筑紫と言う言葉が九州全体を指す言葉として使われていたんじゃないかな。
筑紫島=九州
つまり、九州の日向(後の国府が置かれたのが西都市だから今の日向市ではない)
日向の橘の小戸と言うのは、宮崎市の大淀川の川べりが橘と言う地名で、その下流に小戸と言う地名があり小戸神社がある。
阿波岐原(あわきはら)は、現在も宮崎市にある。 一ッ葉のシーガイアがあるあたり。 Google Mapで見てみるとよい。
宮崎市 橘 (現在 橘公園)
宮崎市 小戸 (現在 小戸町 小戸神社はこの辺りにあったが現在は少し上流に移転している)
宮崎市 阿波岐原 (小戸町の少し北)
で実際に地図上に出てくる。 これらの名前は後からつけた臭いが。 >>240 100年前から西都原古墳群の発掘は続けてるが、まだまだ手つかずの古墳が多い。
奈良や京都みたいに予算がふんだんじゃ無いからね 西都はもともと斉殿なんだから字面で考えたら
斉からの移民の土地だよね -----------
大辞林 第三版の解説
いみどの【斎殿】
「 斎館(さいかん) 」に同じ。
いわいどの【斎殿】
神をまつる建物。また,潔斎のため神職のこもる建物。
----------
江戸時代の国学者児玉実満は「笠狭大略記」という著書の中で斎殿原にサイトノハル、斉殿神社にツキドノという振り仮名をつけて次のように述べている。
御崎より寅方十五丁余御社地檍木に鎮座在座すなり。此ノ本邑を調殿邑と称す…
帝都は[木患]木斎殿 (くしきさいとの) 原と称へ、児屋根命御事は檍木斉殿(つきどの)神社と崇敬し奉る…
------
この文中に出てくる調殿(つきどの)邑は「建久図田帳」に宇佐宮領の調殿十六町とあって、西都原地方では最も早く宇佐の神領になった所である。
調殿という地名は既に平安末期から存在しているのであるが、この地名と斉殿または斎殿原とがどのような関係にあったかは明かでない。
「笠狭大略記」には斉殿神社とあるが、従来、一般には調殿という文字を使つている。何れにしても、斎殿原(さいとのはる)という呼び名は明治になっても聞かれたそうである。
では西都原という名称は何時頃から呼ばれるようにをったのであろうか。
私は以前、恐らく明治時代になってからだろうと考えていたところ、偶然にも、最近になって男狭穂塚の附近から二ケの石碑が発見された。それには、それぞれ
謹造樹萬基燈 寺原西都原 若衆中
文化十四 丁丑 稔 小陽初旬日
(hy注:寺原西都原は双行細字)
と記されてあり、既に文化十四年(1817年)に西都原という名称で呼ばれていたわけである。 >>241
なるほど!これから何か発見されるかも知れないのか。 志布志湾の唐仁古墳群は渡来人系の狗奴国の遺跡ではないか?
志布志湾は自然条件が良いため、今でもタンカー原油備蓄基地になっている。
渡来海洋民族の居住地になってもおかしくない。 邪馬台国なんてどうでもいい
どうせ熊襲とか土蜘蛛とかの酋長の国だろ >>245
渡来人系って、狗邪韓国だろ。それが伽耶、日本だよ。 魏志倭人伝には、対馬に行く前の朝鮮半島に狗邪韓国という国があると
書いてあるが、それは無視するのか? >>249
天照大神は、日本列島にはいなかったけどな。 >>247
大和国の先祖は倭面土だよ
邪馬台国はそれとは別 >>247
朝鮮人が邪馬台国になりすましたのが大和国。
本当は大嫌いな名前だから、すぐに元の名前、朝鮮半島にあった「日本」に変えた。 九州南部説はアリだと思うな。魏志倭人伝の風俗や漁労生活なんかも九州南部説を裏付ける。
それに日本神話のかなりの比率が日向神話。海洋民族である日本の風景に南九州はよく合う。 自分もクナ国東遷説に一票。
ただし、少数の移住程度。 漢の時代から三国志まで日本ではなぜ文字がなかったの!?
残ってなかったが正解なのかな?
この時代でもシナ人は来てただろうに 硯は出てるんだから文字はあっただろ
出土してないものは存在しなかったと思い込むのは危険 文字があれば土器や石器に刻むはずだろうがカス。
硯なんかただの楽浪文物。
実用性の無い、単なる宝器なだけ。
魏使のようなシナからの来賓はあっても、シナ人が定着した証拠遺跡も
その生活痕たる証拠土器・石器も一切無い。 福岡県糸島市の弥生時代中期の三雲遺跡からは土器に刻まれた文字も出土しているなw 文字の出土状況
3〜4世紀は墨書土器などで文字の痕跡がある。
一文字だけ書かれていることが多い。田の字が多い。
5世紀は金石文の痕跡が残る。鉄刀などに彫られた文字である。
文字の形をみると、彫りの職人は書き順やとめ、はらえなどを
意識していない、でたらめな彫り方になっており、
彫り職人は文字を使い慣れていないことがわかる。
6世紀は木簡が出始める。手習いの細片が多く、文字を習うという習慣が
始まっており、文字が下級役人に浸透し始めてきている。
7世紀には戸籍が出始める。文字を文化行政に実用的に
使用し始めていることが推測できる。
8世紀には万葉仮名など日本独自の使用法に、
魔改造が始まる。 楽浪郡と交易してたから上層部は漢字の存在をBC1C頃から知ってたと思われ。
3C頃から加羅人の帰化人が少数あったみたいだから、朝鮮語、中国語、日本語の
3ヶ国語と漢字を使いこなす帰化人もいて、卑弥呼や台与に仕えて朝鮮や中国との
交流に勤めた者もいたのではないか?
ただ漢字を本格的に普及させたのは百済からの帰化人の王仁だとされている。 西暦57年には「漢委奴國王」の金印を漢から倭奴国が賜っているから
これ以前から倭人の支配層は漢字を知ってただろうな。 中国からの渡来人を抱えていれば
いつの時代でも国書くらいはどうにかなる。
しかし、輸送タグ木簡や手習い木簡のように
多くの人間が関わる文字の痕跡は
6世紀以降と考えて良い。 中国から渡来定着した集団の痕跡は日本には無い。
先進文化は全部半島からの帰化人です。 出土品の貴重さからいうと女王国は金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土した日田辺り。
なお半島からは金印、鉄鏡ともに出土していない。 当時の半島は楽浪郡、帯方郡が置かれた中国の領土だから、
金印を与えるほどの国家の存在が無かったんと違うか? >>256
入れ墨いれて漁労生活してたのは宮崎だけじゃないよw
天孫族=天族は、海人族とも言われるくらい、海洋と関係が深い。
九州では特に船の遺構など沢山出ている。それに対して畿内は、天下り当時
から時が経ってその伝統と隔絶してしまったのか、優秀な船など皆無。
遣唐船なんかおもちゃw
祝詞の「筑紫の日向(ひむか)の高天原」というのは、普通に考えれば筑紫に
あったと考えるよな。宮崎には、国名以外「ひゅうが・ひむか・ひなた」地名は
皆無。筑紫には一杯あるけどね。
遺構としても、戦前何度も大発掘して神武の痕跡を探したが結局何も出てこず、
筑紫の弥生王墓に匹敵するものも皆無。巨大古墳の時代以後だろうね。そもそもが
長年の宿敵熊襲=隼人族のエリアだしさ。征服の度に多分被征服民を使って作られた
のが巨大古墳だから、その墓では古さは競えない。
装飾古墳も、北部九州から筑後川、有明海沿岸に集中していて、宮崎は少ないよね。
>>273
近攻遠交策って知ってる?直接楽浪帯方と接する敵に金印を与える理由は何ですか?
倭国の場合は、漢は勿論魏も直接攻めることが出来ない、必要も無い僻遠の地で、一方
三国時代には領域の拡大としては非常に重要だった。
だから魏志の掉尾を飾っているわけ。
でもまあ実際は金印も与えられてて、ただ戦乱が続いたから無くなったんじゃね?
日本だってたまたま出土しただけだしさw 確か刺青の世界最古の証拠遺物は日本で、しかも北海道じゃなかったかな。
刺青は縄文人の文化だよ。
弥生人は日本に来てから縄文人から取り入れただけ。 縄文弥生の分類では無く、漁労生活してたかどうかだよ。
鮫よけのためにする。
まあ縄文人も海を越えて来たかも知れないしね。 縄文人も弥生人も沿岸部の人は漁労してるでしょ。
縄文時代に弥生人の故郷の沿海州から朝鮮東岸経由で骨製の釣り針が
伝わってるし。
弥生人は朝鮮経由してないけど。 金印を貰ってから200年も経ち、漢も滅びて魏になっている。
九州の主導権が博多の奴国から宮崎の邪馬台国に移っていることは
十分あり得る。 金印は魏に最初に使いを出すときに、正統性を示すために必要だったはずです。
その金印は江戸時代まで伊都国の細石神社ありました。
よって、南九州は倭国の代表を名乗ることはできませんでした。 卑弥呼の使者は金印がなかったので、
委奴国ではなく邪馬台国とされ、
別の金印が下賜された。
日本国の使者も金印がなかったので
疑われ、日本国となった。
隋書では倭国は遂絶と書かれているが
日本国の使者は引き続き朝貢している。
漢委奴国王印の使者が来ないことを
遂絶としたのかもしれない。 それなら
邪馬台国は倭国またはその一部と認識があったんだから
邪馬台国の印が来ないからだよな >>283
邪馬台国の親魏倭王印がないから
以後の漢籍では邪馬台国の名前は
出てこない。
いずれかの時期に滅んだか
吸収合併された。 筑紫勢力 漢委奴国王(107年 後漢書)->九州王朝
肥国勢力 親魏倭王(238年 魏志)->邪馬台国->九州王朝に吸収合併
畿内勢力 元小国で倭国を併合 印綬不明(703年 旧唐書) ->大和朝廷 宮崎の都城という地名も、多くの歴史の謎が隠されていそうだ。 邪馬台国は山彦で、狗奴國は海彦。
博多の海神族の娘の豊玉姫の子供だろう。
兄弟喧嘩をしていたが、外に敵があれば協力する。
神武東征では海神族と一緒に協力していたのだろう。 対馬、壱岐、末盧(唐津)、伊都(怡土)、奴国(福岡)でいいのでは?
不彌国から南に水行だから距離よりも東の海岸として行橋あたりでは?
ここから南で、投馬国。次の陸行1月は、起点国名、方位がないので
南へ水行なら十日、南に陸行なら1月。
ということは九州の東海岸で海岸が南北になってるとこの北が投馬国で、
南が邪馬台国。現代の地図見ると、延岡から宮崎市の日南海岸がある。
この距離を計ると75km。
つまり、水行十日は、陸行1月でそれは75kmということ。
邪馬台国は宮崎市と簡単にわかる。 『隋書』に次の記述がある。
「不知里数但計以日其国境東西五月行南北三月行各至於海」
奈良から西が統一されていたみられる。福岡から奈良への直線距離は
約500km。南北は紀伊半島より、九州の南北距離が長い。
九州の南北距離は約300km。
すると1月行は、100kmとなる。
1月行は陸行1月と同じかは断定できないが。 『魏志』にもどる。
陸行1月は、30日とすると水行と陸行は、1:3になる。
まあ、妥当と思えるが陸行30日が75kmは小さいと感じる。
ところで伊都国の戸数は『魏志』では千余戸。『魏略』では「戸万余」
千と万が同じになってる。
対馬 有千余戸 (中国)
一大 有三千許家 (中国)
末盧 有四千余戸 (中国)
伊都 有千余戸 (中国)
奴 有二万余戸 (倭)
不彌 有千余家 (?)
投馬 可五万余戸 (倭)
邪馬台 可七万余戸 (倭)
倭国では数が10倍になってるのでは?
少数点がないため10倍にしてのでは。
水行10日、陸行1月は現代の表示では
水行1日、陸行3日になるのだろう。
これが75kmなら納得がいく。 放射式は成り立つか
『倭人伝』から、
(1) 始 度一海 千余里 至 対海国
(2) 又南渡一海 千余里 至 一大国
(3) 又渡一海 千余里 至 末盧国
(4) 東南 陸行 五百里 到 伊都国
(5) 東南 至 奴国 百里
(6) 東行 至 不彌国 百里
(7) 南 至 投馬国 水行 二十日
(8) 南 至 邪馬台国 水行十日陸行一月
2番目が 又南 とあるので、1は南と解る。3に又とあるので3も又南が又で南と解る。同じ事でも3つ全部文を変えている。繰り返しを嫌うのが陳寿のクセだ。いわゆる、これが美文というものである。
海を行くので水行である。次の三つは陸行である。最初は陸行とあるが、次は何もなく6番目には行のみである。東行である。これも三つ全部異なる表現を取っている。
この次は、里数表記から日数表記に変えている。ここでも、くり返し表記を嫌っている。
7は、水行の日数表示。次は、予測できる。陸行の日数表示と考えられる。
しかし、違う。八個全部異なる記述である。
全部で八個ですが、半分は四つで、4までは、
方位 距離 至 国名
5からは、
方位 至 国名 距離
4番目が伊都国であるが、一つの書物の中で、ここだけ特殊な解釈があるとするには無理がある。
ここのわずかな量の文で、解釈を変えるように書いたらほぼ全員が誤読すると思う。そのような文章は下手な文章である。正史にそのような書き方は用いない。
ただ、陳寿がくり返し記述を嫌い前と後で変えたとみていいと思う。二重にしたのである。 奴国は今の福岡県、筑紫国で、西は糸島から東は北九州、
南は久留米、柳川までの範囲だった。
奴国が玄海灘から有明海まであったことを考えるべきだ。
玄海灘では出雲と有明海では邪馬台国と交流があった。
奴国は南北に分裂していたのではないか? 「小学生より学力が足りないで賞」受賞
↓
「テンプレの誤字も直した方が良いで賞」受賞
↓
「まだわからないで賞」受賞
↓
俺は悔しくて泣いた。
↓
だが、ボキャ貧キウスの知らない単語な線もある。
↓
「無教養露見で賞」受賞
↓
❓❓❓
. /テンプレ\ 誤字ったってキウスやサイキバみたいは
/ \ 単なるタッチミスもある
. / (゚) (゚) \ ❓❓❓
| )●( | キウスが笑い者なだけ❓
. \ 廿 / 誤字って何❓
. ノ \ ❓❓❓
👆「自分で発見しないと笑いもので賞」 >>293
それなら、奴国と呼ばずに筑紫または倭国と呼べばいいんじゃないかな? 漢委奴国の王家の伝統を引き継ぐから、倭人伝でも(傍の)奴国なのだろう
ただし、卑弥呼ー台与の時代に、傍の奴国がどのはんいだったかは問題だな。
(注:漢倭奴国と書くと、漢王朝の漢と下賤の倭が隣同士になるので、それを嫌って委としたのであろう)
周知のとおり、倭人伝には2つの奴国が出てくる。
また、奴の字を含む国名もわんさとある。即断はできない。 0025 1 ◆cmsiBNFbAs 2017/04/17(月) 17:32:00.65
なお、コテハンは変えました。
似非スレで解読されましたので変えました。
さあ勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
648 名前:日本@名無史さん 2017/04/24(月) 16:18:45.12
>>25
コテハンを解読した奴が似非スレを乱立させているということか?
2ちゃんねるの会社に訴えられるレベルの悪行だな。 水行10日は陸行1月で75km。
周の1里は75m。水行10日は1000里。
倭は10倍なので中国表示は100里。
不弥国から投馬国までは水行20日なので200里。
倭は端から端までが5000里。
半島から対馬まで1000里。壱岐まで1000里
末盧国までが1000里。伊都国までが500里。
奴国までが100里。不弥国までも100里。
狗邪韓国から邪馬台国まではたすと5000里になる。 倭種は、「東渡海千余里復有国皆倭種」とある。
倭種も倭国なのでこの千里を足すと5000里になる。
忘れました。 方位
東南大海之中
乍南乍東、
行程記事をみても、方位は、南と東しかない。陳寿の筆法?
伊都国への方位は間違っている。記述を重視して伊都国を探しても間違える。
大局観で東南にあるので、南と東で現されるということか。
こういう見方では21か国がユーターンすることは理解出来ないと考える。だから間違えた。
他の方位の記述は、
乗船南北市糴 対馬、行程記事ではない
亦南北市糴 一大国 行程記事ではない
自女王国以北 旁国 行程記事ではない
其南有狗奴国 狗奴国への行程記事 南
東冶之東 ここは東北が正しい
自女王国以北 一大率 行程記事ではない
女王国東渡海千余里 行程記事 正しくは東北
又有侏儒国在其南 行程記事 南
黒歯国復在其東南 行程記事 東南 1 ◆q8leUXpsw. こいつが邪馬台国スレを乱立させているのか?
日本史板になんの恨みが???
日本の歴史が嫌い?? 倭種へは、渡るなので倭国。国境のときは、度 になる。 さんずいの有無で意味は変わらないと思うけどな
金印に倭のことを委と彫っても意味変わらないし >>305
動詞の問題じゃないだろw
内容を考えろよ
倭人=倭国+倭種だろ 倭国(30国)=対馬、一大、末ろ、伊都、奴、不弥、投馬、
邪馬台、20国、狗奴、倭種。
狗邪韓国の南岸は、倭の北岸で南に対馬があるが、
対馬へのここのみ 度 になってる。他は 渡。
字は使い分けてる。 こんなことより、292で放射式は間違いである。
と書いたけど、九州説なら放射式 支持者多いと思う。
反論ないのかな? 説文解字によれば、
「渡」は、横?水面:〜船。〜?。〜河。?〜。?〜。?〜重洋。
とあるが、
「度」にこの意味はない。つまり誤字。 >>309
放射式なんてのを唱えてるのはごく一部だろ
たまたまそいつが九州説なだけ
それ以外の大部分の九州説は笑ってるよ 度 は、誤字ですか。
文献も注意しないといけないな。
いずれにしろ、天孫降臨が宮崎となってるのは
宮崎に邪馬台国があったとすれば、納得いく。
話とぶけど、NHKのEテレ火曜日22時から
邪馬台国してる。9日もやるけど、2日もしてた。 >>313
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) 高天原をデカン高原だと考えて、天孫降臨を、インドのアユダ国から植民に来たことを示すという説があったな
だから日本語はタミル語に似てるんだとか
ちなみに新羅の初代王の王妃はインドのアユダ国から来たそうだ 中国の古代の地理書である山海経によると、朝鮮の隣に「天毒」という国があって、倭人が住んでるんだそうだ
ちなみに古来、中国ではインドのことを「身毒」と呼んでいたが、張騫の西域探検によって「天竺」という呼び名が伝えられ
この時代には、「天竺」と「身毒」が併用されていた時代だった
後に、三蔵法師玄奘が、その「天竺」を訪問し、「印度」が正しいと伝えたため、以後「印度」に改められた >>317
山海経・海内経にあるのは朝鮮天毒
朝鮮半島でも北部の国とされていて倭国とは関係ない >>318
倭国とは関係なくても、同じデカン高原由来の国があったというのは傍証になると思う
高句麗の言語も日本語に近かったらしいから、位置的なことも考えると、天毒は高句麗だろうな 「名は朝鮮天毒。この国の人は水に住む。ワイ(人偏に畏)・愛人がいる。」
というんだから、?人でいいんじゃね。
?が高句麗・扶余を作ったんだろうし 宮崎市郊外に生目古墳群があるけど、
邪馬台国の官の 伊支馬 と関係あるの?
こういう語呂合わせは意味ないかな? 意味なくはないだろうが、それを補強する証拠が欲しいところ。 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home 箸墓は、ここの地名とかの説もあるらしいけど、
単純に考えれば、ホトを箸でさしてなくなったとか?
魏志には、卑弥呼の時代は 手食 と書いてある。
箸はまだないので箸墓は卑弥呼よりズート後 では? 食事用の箸は無くても葬式用の箸はあったかもしれない 日本では、弥生時代末期の遺跡から一本の竹を折り曲げピンセット状の形にした「折箸」が発見されているが、
食べ物を口に運ぶためではなく、神に配膳するための祭祀・儀式用の祭器として使われたものであろうと言われる 邪馬台国の問題が解決しないのは2つの大きな間違いのためと思う。
1つは、国名のみの21か国は、邪馬台国の北にある。
南、南と進み、邪馬台国でUターンして奴国まで戻ったとすればいい。
狗邪韓国までの7000里と倭の端から端までの5000里を足すと
12000里になる。
別記事で邪馬台国まで12000里がある。
つまり倭の最南端に邪馬台国がある。
もう1つは狗奴国は、邪馬台国の南ではなく、奴国の南と考えられる。
奴国は、福岡で確定してる。その南は熊本である。ここらもいじらずに
邪馬台国をさがしてもいいのでは? >>324
うんうん、その視点は気づかなかったけど、面白い。
でもね、いくら畿内はあれもこれも魏志の記事と合わないよねと言っても、畿内説は聞く耳持たないんだよね。 >>328
あー、邪馬台国筑後説ですね。
常にくすぶっているけど、物証が伊都説よりやや弱いんですよね。
遺跡もないわけじゃないのだけれど、平原と比べちゃうとどうしても見劣りするから。
もう少し発見があるといいのだけれど。 >>324
箸墓というのは8世紀の文献にそう呼ばれていたと書いてはありますが、
作られた当時からそう呼ばれていたかどうかはわからないでしょう? >>332
8世紀に畿内政権が律令制による全国支配を確立する中で、数百年分の歴史をさかのぼって捏造していった一部だよ。
だから"8世紀"なんだ。
それまでの筑紫倭国が7世紀中頃に白村江で大敗して滅んでしまったから。 >>333
いや、8世紀の日本書記に箸墓のことが書いてあっても、
それが8世紀にそう呼ばれるようになったかどうかはわかんないでしょう。
6世紀かもしれないし、5世紀かもしれない。 >>332
「あとで捏造したのかも」という可能性を認めると、もうどの説も成立しなくなるよ
そもそも日本書紀が捏造だったら、畿内説は終わり >>335
捏造したのかも、とかそんなのあんまり興味なくて、
畿内説がどうとかも今はまあ特にどうでもいいんだけど
日本書記に書いてあるからそうなんだ、というだけの話なら、
もう文献批判の全否定じゃん。馬鹿馬鹿しい 仮に日本書記を全面的に信じても、邪馬台国なんて書いてない。 >>336
箸墓が女王墓だと主張する根拠は箸墓伝説のみ。
>>324が指摘した通り、
箸墓伝説はその内容そのものに箸が出てくる。
その箸墓伝説が捏造だというのなら、
箸墓が女王墓であるという根拠も崩れ去る。
いいとこ取りはよくない。 re330
>あー、邪馬台国筑後説ですね。
違う説ですが、わざわざ味方されてくれてるのに、こんなこと
書くと立腹されるかもしれないけど。
このことが邪馬台国論争が起きた原因なのです。
前にも書いたけど、狗奴国は魏志を読むと奴国の南で邪馬台国の
南ではないのです。
次有奴国此女王境界所盡其南有狗奴国
其がどこを指すかですが、魏志では直前の奴国と
考えるべき。普通は邪馬台国としてるが、邪馬台国は
はるか前に出てくる。ここを指すのは無理。
奴国は女王の南の端とある。ここが間違いの原因。
奴国は南端であるが、最南端ではない。
ーーーーーー
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ーーー| |
| |
ーーーー
図が表示されるかわからないけど、
最南端は1つですが、最南端より、北に
南端はある。階段状を増やせばいくらでも
北に南端は存在する。
狗奴国と邪馬台国は南北ではなく東西で対立
してた。 ーーーーーー
| |
ーーー| |
南端| |
ーーーー
最南端
北九州と東九州の逆L字型に女王連合。
熊本を中心に西九州に狗奴国。
九州中央の山が東九州と西九州の国境。
狗奴国の北の吉野ヶ里などが北九州との国境。
ここが前線なので物見櫓やホリ、ヘイ。 >>336
文献批判というのは、思いつきであとからの捏造(箸の逸話が8世紀ごろでっち上げられたウソ伝説だ、とか)を認定することではなく
他の文献を多角的に総合(「〇〇記」には全然違う××という伝説が記されているから、本来箸ではなく△△だ、とか)して認定することですよ >>338
いいとこ取り、ってのがよくわからないんだけど、
箸墓が女王墓かどうかは別に、どっちでもいいの。
箸墓って名前が造成当時からだというのを説明する、
おれの知らない根拠があるんだったら聞きたいと思っただけよ。
無いなら無いでしょうがないよね。資料がないんだから…。 『古事記』は何故あるのか?
『日本書紀』があれば『古事記』は必要ないのでは?でも存在してる。
何故あるのか?
また、『日本書紀』は720年にでき、第41代持統天皇まで、
一方『古事記』は712年にでき第33代推古天皇まで。
何故『古事記』は33代で終わってるのか?これを調べるには
同時代にできた『日本書紀』の33代までの記事と34代以後の記事の違いを
みつければいい。
何が違うかというと日食の記事があるか、ないかである。
推古天皇は病気になり、数日後に日食が起きその数日後に崩御されてる。
この日食を除いて34代から41代までに10個の日食の記事がある。
しかし、推古天皇の晩年の日食より前には1つも日食の記事はない。
日食の記事があるのは記録であることを意味する。では日食の記事がないのは?
記録ではない。物語であることを意味する。
つまり33代推古天皇までは創作された天皇であり、
それを伝えるために『古事記』を作ったのでは?
『隋書』には600年代の推古天皇の時代が書かれているが、
これには「王の妻」とある。推古天皇は女帝である。
また、『隋書』には「後宮に女6から700人」。
大奥があることも書かれている。了 「古事記」はもともとなかったんだよ
日本書紀に古事記編纂の記録はないし、公の朝廷からは無視されて、民間に伝わっていただけのものだった
だから江戸時代には、偽書説が有力だった
古事記が偽書ではないことは、近代になってから、日本書紀の研究で明らかになった古代日本語の八母音の書き分けが、古事記にもなされていたことによってやっと立証されたものだ re343
>いいとこ取り
例えば、夜神が造る、というのがあると、
私は作り話と思うが、考古学者は、これこそ卑弥呼の
鬼道だという。こういうののみ集めて箸墓は卑弥呼の
墓とする。
モモソ姫が蛇みて腰をぬかし、その時、箸がささり
亡くなった。
箸のある時代でなければささるはずない。
また、箸がささる形をしてるというのも箸がある時代を
意味する。
箸墓と何時からよばれているかは私は知らない。
また、箸墓が何時造られたも知らない。モモセ姫が
生存してるときに造られたものかを含め私はわからないが。
モモセ姫が亡くなったとき、箸はあったのでは? >>347
ならばそこは邪馬台国の候補から外れるね
どこの事かは知らんが、邪馬台国に描かれた様子と矛盾する以上、そこが邪馬台国ではないことが確定する >>346
ごめん、ちょっと書き込みの意図がよくわかんない
バカにもわかるように説明してくれ re349
ごめんごめん。
>いいとこ取り
この言葉のほうがよく言い得てる。
私の例が悪くて解りにくいですね。
次の、日本書紀に書いてあることを引用した部分にその
注を書かなかったのでわかりにくいですね。
姫の名前はもっと長いから誰か解らなかったかも。
日本書紀によれば箸墓に眠ってる姫はホト(陰部)に
箸がささって亡くなったとある。
卑弥呼の時代は魏志には手食とある。だからこの姫は
卑弥呼でないと言いたかったのです。
古墳を何時から箸墓と言ったか資料あるかとのことですが、
資料はないけど、死因から箸のある時代と言えるのでは?
ということ。
re347
re350
>折箸
確かに、穴は2つあるからこれでもいいのかもしれない。
でもホトだけに刺さったみたい。
ホトのみに全部はいるかな?実験もできないだろうな。
折箸は、刺さるような形? >>351
理解した。
箸墓は卑弥呼よりずっと構成の遺跡。 >>351
わざわざすまない。でもやっぱ何がいいとこ取りなんだかわかんないな。
それはともかくとして、モモソ姫とお箸のお話は、
セヤダタラヒメと丹塗矢のお話の変奏、劣化、だと思うなあ。
箸墓との関連は、伝説を附会しただけのような気がする。 >>353
仏教伝来より前だから、火葬しないので箸はいらない。 ハシは弥生時代からあったと思われ。
ただし飛鳥時代から使われる中国から導入した二本セットの箸ではなくて、
大きな楊枝のような一本だけのものだったと思うが。
フォークのように突き刺して惣菜を食べていたんじゃないかな。
ご飯はサジか、アイスのスプーンのようなヘラみたいなもので食べていたんじゃないかな? >>355
葬式用の箸は殷の時代からあるぞ
仏教は関係ない >>356
ならば、それは明らかに手食ではないから、そこは確実に邪馬台国の候補から外れるね 隋書では当時の倭王は、男。記紀では推古天皇(女帝)。
男と女で一致しない。
倭の五王は、系図が一致しない。
卑弥呼の時代は手食だが、記紀にはこの時代、箸がでてくる。
何故、こんなことが起きるのか?
日本では記紀を信じ中国遠いので間違えたとされてる。
隋書では大奥の記事もあり、中国の書物の方が正しいのでは。
記紀編纂者も中国書物は読んでいると思われる。何故、一致
させなかったのか。
多分、一致させると記紀の歴史は正しいとされてしまうからだろう。
記紀は、魏志、宋書、隋書を骨子に、説話は、藝文類聚から引用して
作られた物で記紀はそのタイトルからしても歴史書でなく物語にすぎないと
思う。
モモセ姫は実在してないと考えたほうがいい。 あれでもある程度はすり合わせをしたつもりらしいよ。
古事記は国内向けだが、日本書紀は唐に提出するために漢文で書いたものだからね。
なぜ書いたか?
白村江で敗戦した筑紫倭国を畿内政権が継承するために、筑紫倭国と畿内日本国の関係を明らかにする必要があった。 伝説では箸の奨励は聖徳太子
事実かどうかはわからないが時期としてはその辺りという事だろうね >>359
>記紀編纂者も中国書物は読んでいると思われる。何故、一致
>させなかったのか。
思われるどころか、引用してるもんね
一致させなかったというか、できなかったんじゃないの 宮崎に天孫降臨しているのは、邪馬台国が宮崎に
あっためと断定していいと思う。
宮崎にあった邪馬台国と近畿の王権をつなげるために
神武天皇東遷話をつくりだした。これによって
日本の支配は1つの血統によるとした。
邪馬台国は高天原とし地上と異なるのは、本当は血統がつながってないことを
しめしてるのでは?
もともと日本は血による王の継承はないようだ。
トヨが始めてだと思う。トヨは中国の使者が中国の考えで王にしたものと
考えられる。 >>365
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) >>365
宮崎にあった邪馬台国と大和朝廷を接合したいなら
魏志倭人伝の引用を神功皇后のとこに入れたりしないんじゃないの
まあ単純に編集意図が混乱していたとするのでも説明にはなるけどね 天孫降臨は宮崎が舞台ではない。
筑紫の日向は伊都国のこと。
倭国の都はずっと筑紫だった。
宮崎にするのは誤読。 薩摩半島は、古墳時代の遺跡遺物からみた畿内との関係性が九州東部(日向大隅)に比べて薄すぎないかね
九州東部は、花弁状住居の分布から弥生時代の頃から何等かのまとまりがあったことも推測できる
薩摩は最初に日向から外されるわけだし >>368
たしかに、二世紀までは筑紫の天下な
しかし三世紀になると、
帯方郡の支援を得た肥国・日向国勢力に負け、涙をのんだ
そして、神武東遷後は大宰府に一大率を受け入れることになる・・・、これが太宰の率の始まりさ >>367
おまい高校1年生か、大学1年生か、まことに純情なお人だねえ
社会人になってから騙されないよう、修行しろよな >>371
どう純情なのかを教えておくれよ。素人考えだとこうなるだろ。 >>369
神武東征というが記紀で書かれていることですら少人数での旅の末であり
やれ遺跡がどうのとかの大量移住ではない
記紀が書かれた頃大和朝廷と最も親しい関係にあったのは大隅隼人である
それは豪族に与えられた職名でも判る
だが天皇家と同族とされたのは阿多隼人
そして日向(日当たりの良い)や大隅(隅っこ)が大和朝廷が名付けた地名なのに
阿多は吾田すなわち我が田と自らが名乗った地名
このことからも実利から天皇家の故地が定められたのではなく
何らかの伝承により阿多(薩摩半島南部)が神武天皇の出身地だとされたのだろう 神武天皇は小泉純一郎の父、小泉純也(旧姓鮫島)に例えると分かりやすいかもね
鮫島純也は加世田市の出身だし都会に出てきて政治家になり成功し
子孫はもっと成功した >>373
もちろん移住だとは思っていないし
畿内との関係性というのは、
記紀が史実として記しているであろう時代(古墳時代)の支配者レベル同士の話。
東九州が記紀に示す天皇家の故地であるなら、弥生時代の東九州と瀬戸内との関係性、
さらに古墳時代の畿内と(特段実利のない)東九州との関係性の説明もつく。 邪馬台国こそ、サメの国じゃね?
住民は全身に刺青をして、海に潜ってアワビとかとってたって書いてあるじゃん
天皇家はその外にいて、サメの国から妃をもらったりして続いていたのが、神武の時代に東征したんじゃないかな
だとしたら、それは狗奴国で、倭人伝の時代のあとサメの国邪馬台国との長年の戦争解決の証として、妃をもらったんじゃないかな 今日の深夜、NHK総合で0時5分から歴史秘話 高松塚の
再放送あります。 >>376
えーと
単純に関係が深いのは地理的要因
昔は瀬戸内海を通っていたため
まぁ解説しとくと鹿児島県大崎町(志布志湾の中)からは兵庫県の土から出来た縄文式土器が出土している
もし神武天皇の出身地がどこかわからないなら
今現在仲が良い大隅隼人の出としたかもしれない
だが天皇家の縁者とされたのは海幸彦の子孫である阿多君
関係性が薄くとも天皇家に故郷は阿多と伝わっていたのなら無理に変える必要もない
余談だが隼人族には大隅直、曽於君、薩摩君、阿多君と4つの大豪族がいた
曽於君(曾君)は熊襲の末裔と思われるし隼人の乱もその支配地域で起こっている
隼人の乱の時も阿多隼人は大和朝廷側に付いた 地理的要因は同時にそのまま東征のきっかけとなる。
神武のモデルとなった一族が日向出身だった。ゆえに古墳時代の日向と畿内は関係が深い。
その前段階では吉備とも関係が深かった。
古墳時代、畿内から遠く離れているにもかかわらず日向からは4人の后を出している。
これら全ての后も薩摩半島出身とするのか?
仮に記紀のいう阿多が薩摩半島にあったとして
別に薩摩に神武一族の縁者がいたことを否定するわけでもない。
現に東九州は、比較的文化的関係の薄い薩摩半島も日向の一部としていた。
天皇家の祖先が神話時代から近隣の薩摩半島の豪族とも縁故があったという話
それだけをもって、神武の出身は日向ではなく薩摩半島と言い切るには無理がある。 ひどい誤解と妄想のスレだ。
邪馬台国畿内説も顔負けの。 >>380
なら素直に大隅なり諸県なり書けばいいでしょ
何か書けない理由があるの?
>その前段階では吉備とも関係が深かった。
大和朝廷は瀬戸内海沿いに勢力を伸ばしたけど縄文の昔から行き来する人々はいたんだよ
逆に考えて目が見えなくなっているかのようだ
大隅が隅っこなら諸県も国の役所という意味か
君だから諸県牛諸井も地生えの豪族だと思ってたけど植民の子孫かもね 神武が日向出身であることを記紀は隠してるかな?
弥生時代中期後半、縄文から弥生中期までの列島内における交易とは明らかに一線を画すモノとヒトの移動が行われている。
瀬戸内から日向への搬入土器の種類の推移をみると初めにモノがきて、間をおいてヒト(労働力)が来ている。
なので瀬戸内側に主体性がある入植の可能性は低い。
地理的要因もあって日向は北部九州と同様に本州四国に進出していたんだよ あと瀬戸内側の土器の搬出地域が、時代が下るにつれて西部から東部へと拡大しているというのもある
つまり、九州側が時間をかけて瀬戸内を西から東へと交易範囲を広げている状況が推測できる 九州東部の発展はわかるけど、邪馬台国や記紀の日向三代とは関係ないだろうね。
九州の中では北部がずっと中心勢力で、邪馬台国も九州北部。 大帝国というものは、得てして周辺部から発生する
アレクサンダー帝国しかり、モンゴル帝国しかり、大英帝国しかり 神武は北九州に行った後、広島に7年、岡山に8年いたが、東征のために
親戚の海神族の力を借りて勢力を結集していたのだろう。
その後淡路を前線基地にして、住吉から大阪に上陸し、
生駒ルートで奈良に攻め入ったが撃退されたため、
すぐに作戦を変えて那智新宮方面から攻め入っている。
広島と愛媛の間の大三島には海神族の拠点の大山祇神社があり、
大阪には東征の道案内をした海神族オリオン座の住吉大社がある。 >>387
これの元は倭人伝。
最初の南を東に変えて
東に水行20日で大阪。次に、南に水行10日で
熊野。次に、北へ陸行一月で奈良。 神武東征では年単位の時間がかかってるのになんで邪馬台国だと日単位で済むんだ?
距離が圧倒的に短いからだろ 邪馬台国は温暖でサメのいる地域。九州北部や機内ではない。九州南部〜沖縄の間でしょう。
神武東征、宮崎県の美々津から出航となっているがこれは誤り。出航は鹿児島県東串良町柏原から出航。
鹿児島湾奥の霧島市福山にも出航も碑あり。
なぜ、このような間違いが起こったか?神武天皇が生まれ育ち東征した日向(ひむか)を宮崎県と思っているからです。
ひむかの国は宮崎県、鹿児島県、熊本県の一部で中心は志布志湾近辺と思われます。700年代にひむかの国から
薩摩の国、大隅の国が分立。新日向がいつのまにか旧日向も含めて日向国とみられています。
この分国も大和政権が歴史の改ざんのために行った可能性大です。
高速道の建設でここ最近、重要遺跡が数多く出土し学者は困っています。歴史を覆しずらいのでしょう。
大崎〜志布志〜日南、この間からも今後重要遺跡が出土するでしょう。 刺青は元々は呉の民の鮫避けだったが
今は飾りとなって倭人がしているのだろうと
書かれている ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」
つまり邪馬台国は東が海に面してる。
「水行10日陸行1月」を水行10日後陸行1月では海に面して
いないのでは?この読み方誤りといえる。
ここは、水行なら10日。陸行なら1月と読むのが矛盾しない正しい解釈と
思う 常識的に考えて格上の国から来た使者を一か月間船に乗せっぱなしにしたり10日間も歩かせ続けたりするわけない
毎日飲めや歌えの宴会をやりつつ進んだと考えれば九州内に十分おさまるでしょ 落ちこぼれ馬鹿の歴オタが、当時の国家レベルの方針を想像しても無駄 国家レベルの方針も何も>394みたいな事は古来から変わらんだろ 神武東遷は作り話だろうが、何故、
近畿政権の発生を宮崎にしたのか?
南九州の有力者とは何か? 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
4FZ41 宮下文書では、
日向霧島に都があったとされてるな。 >>404
完全に後代の魏書であることを白状してるなw >>405
そうかな、出口おにザぶろうも深見東洲も、正史として評価してるけどな そこを笑っただけで、
お前がどんな背景か想像できるな で、お前はどんな古代史にしたいの?
どんな日本に貶めようとしてるの? 俺は、個人的推測では
昔誰かがいってた
神武天皇とその妻が日本を統一したと思ってる。
なんせ、古事記に神の子としるされているからね。 神武天皇が統一とは書いてないけど、
神武天皇の妻が神の子とは書かれてるよ。 あ、ごめん、
古事記じゃなかったかな、日本書紀だっけかな ああ、それは
当時のスレの流れ知らないと理解できないよね。 >>416
時々、5chがすごいこと言うときあるでしょ?
古事記が偽書だって言う人いるから 神武や饒速日が天神の子であると言う記述は出てくるよ。
天照の末裔という意味らしいけど。 関西に降臨した饒速日と九州に降臨した邇邇芸は兄弟で、どちらも天照の孫。 頭の病院に行け、
そのまま収監されるだろう
天孫、天神〜??????不明、
そんな言葉、聞いた事がない 何か言われるのが嫌なら、
書き込みをするな
それか他の国へ行け
無理して日本に住む必要はないと思う、
他にもあるでしょ、あなたの住む国 九州南部とかありえないからw
大嘗祭を目前にして近畿や九州で争ってる馬鹿が
まだ存在してることに驚愕 素直に解釈すると九州南方の海上になるから説が別れてる、というのに
九州北部がありえて九州南部がありえない、とか意味不明すぎる 素直にも何も、目上の国から来た使者を一か月もの間移動させっぱなしって考えてる方がどうかしてるだろ 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 宮崎の都城という地名の意味も研究してみるべきではないか。 >>429
新疆で、それまでの写本よりも古い、最古の三国志が出土した 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 畿内説を論破されてしまった既知害キナイコシが、必死に荒らしているね。。。 天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの延べ何百時間にも及ぶ大規模調査が実施された2013年以来、箸墓古墳を卑弥呼の墓とは、誰も言い張らなくなってきたね。。。 そもそも形が違うのに卑弥呼の墓のわけがないだろ
卑弥呼の墓は円墳だ 径っていうのは差し渡しくらいの意味だから、
方墳なら長辺、前方後円墳なら墳長が径として書かれるよ
円墳とかいうのは、根拠がない その小道の起点はどこだよ?
「大いに冢を作る」の後ろに「小道は百歩」って書いてあったら、
誰でも「何言ってだ、こいつ?」って思うだろw >>446の「どうして?」は>>445に対してのものなのか?
だとしたら、頭おかしいぞ?
平原1号墓から、小道が百歩分あったとして、どこに行けるんだ?
どこにも行けないだろ?
伊都国の中心、三雲遺跡群までは1キロ以上あるから、
百歩=140メートルちょいでは着かない >>449
>墓までのアプローチが百歩あっただけなんだろ
その「墓までのアプローチ」が、「どこから」のアプローチなんだ?って訊いてるんだが?
そもそも、そちらの主張どおりに和訳すると
「そして卑弥呼は死んだ 大いに塚を作る 小道は百歩」
意味が通らないと思わないのか?
標準的な通釈では
「そして卑弥呼は死んだ 大いに塚を作る 差し渡しで百歩」となり
塚の大きさの説明として素直に読めるだろ?
素直に読めない時点で、誤読だよ >>451
「そして卑弥呼は死んだ 大いに塚を作る 小道は百歩」
これを、「余分な情報を『憶測』で足さずに」分かりやすく説明してくれ
「余分の情報を『憶測』で補わないと読めない」時点で「意味が通らない」んだよ とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
ZLL >>451
「そして卑弥呼は死んだ 大いに塚を作る 小道は百歩」
これを、「余分な情報を『憶測』で足さずに」分かりやすく説明してくれ
「余分の情報を『憶測』で補わないと読めない」時点で「意味が通らない」んだよ 中国の文化では王に準ずる地位の人の墓地の大きさは
数十メートルから数百メートルはある。
その墓の入口までの距離が数百歩ということだろ? 横からだけど
実際のところ、異言語のやりとりは難しい。
しかも、辞書も無い時代だ。
当時、100%の意思疎通が可能だった
なんてのは幻想にすぎない。
現代ですら、
「私は一般的な成人男性です」と言おうとして
「私はアダルトマン将軍だ」になる訳だ。
https://eow.alc.co.jp/search?q=general
冗談みたいなミスも普通に起こる。
卑弥呼の時代の魏人とやりとりするとして
はたして、通訳をまじえても
自分がミスしないといえるか想像してみると良い。
(古語かどうかなんてのは、大した違いじゃない。
てさぐりな事に変わりはないんだから)
むしろ、ミスしてるとしたら
なにをミスしてるか想定した方が良いだろう。
https://dotup.org/uploda/dotup.org1602923.png >>461
>鳥居と御神体の間には、参道が必要だな
平原1号墓で、鳥居とされているものがどこに立っているか知ってるか?
しかも、二つ並んでいるのに向きが違うんだぜ?
片方は周溝の中に立ってるし、鳥居としての役割はない
それを鳥居を呼ぶのが間違いだろう >>458
>中国の文化では王に準ずる地位の人の墓地の大きさは
>数十メートルから数百メートルはある。
>その墓の入口までの距離が数百歩ということだろ?
それは地下墓に続く墓道だろ?
地上の方形集溝墓にそんなものはいらない
平原遺跡の、何処から何処までを百歩の小道だと言い張る気だ? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ >>5
東西逆
後漢書
(里は400m)
自女王國東度海千餘里,至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王
魏志(短里)で二つの奴國が出てくる。
東南至奴國百里
次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國
別ものである
上記よりは女王境界が九州、山陰、近畿北
の範囲(鉄の産出や貿易)。
狗奴國が大和政権なる。 至投馬國,水行二十日,南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。
帯方郡から日数説以外に3点
不彌國起点
@誇大誇張説
A地元民説
日数のみだから、昼間を1日(12時間)と考えて水行10日、5日、陸14日
B換算忘れ
短里だから日数も1/5
水行4日、2日、陸5〜6日
B換算忘れが妥当と思う >>484
間違いだから成り立たくてよい
放射読みは魏志倭人伝に書いてあること 魏志倭人伝では伊都国の紹介のあとすぐに全ての郡の使いがここに駐留すると明確に書いてある。
駐留すると言ってるんだから、それ以降を伊都国を基点として放射読みするのは
あったりまえ。
郷土愛に狂う岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。
女王国は伊都国(のちの怡土懸や怡土郡)の南になければならない。
根拠
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
解説
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。 魏志倭人伝では伊都国の紹介のあとすぐに全ての郡の使いがここに駐留すると明確に書いてある。
駐留すると言ってるんだから、それ以降を伊都国を基点として放射読みするのは
あったりまえ。
郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。
無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。
以上。 魏志倭人伝では伊都国の紹介のあとすぐに全ての郡の使いがここに駐留すると明確に書いてある。
駐留すると言ってるんだから、それ以降を伊都国を基点として放射読みするのは
あったりまえ。
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最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. ババババババババババババ
_______ ________
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄干 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ̄ ̄ ̄ ̄_) __皿_
 ̄ ̄\ \_// λ ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
‐=≡ \ / l \ < 日本史に絡みつこうとすんな伊都ちょん
‐=≡ / | (^o^) 丶 \___________
‐=≡ ( \ γ(つ¶ つ¶__|
‐=≡ \  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ )
‐=≡ _/,へ ________/
(_∴) (∴) ズガガガガガガガガ!
ヽ\ ヽ\
\ ヽ \ ヽ
ヽ丶 \ ヽ丶 \
丶 \\\ 丶 \\\ ギャーーーーーーーーーーー!!
ヽ丶 \ ビシュ!! ビシュシュシュシュシュシュ!!!!
\\\ヽ ビシュ!
丶 \\\ 伊都は:;:,∴ん<ヽ`;ζД´> o;;*∴;ウリナラマンセー・・・
丶 \\\ 女王コ / :*;>490 \
ヽ丶 \ :;:,∴⊂ );:,*∴ :;:つ))
ヽ丶 \ 丶 (_⌒ヽ
。;:,∴ ヽ 。;:,∴ ヘ }
ε≡Ξ ノノ J:*;:,∴`J .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>761
早くから、稲作の起源が長江中・下流域にあると主張してきた北京大学の厳文明教授は、
一九八八年に静岡市で開かれた「日本における稲作農耕の起源と展開」のシンポジウムで、
遺跡から出土した資料による栽培稲の年代と分布からみて、北回り説が最も可能性を
持ったルートだと講演しました。
中国・朝鮮・日本の水田跡や出土した農耕具にみられる個性、共通性から稲作伝播の様子を
解明したのが愛媛大学の田崎博之教授でした。
田崎教授は、中国・長江流域(馬家浜文化後期・紀元前約四〇〇〇年前)、
朝鮮半島(無文土器前期・紀元前七〇〇年前後)、
日本(縄文晩期終末=弥生早期・紀元前五〇〇年ころ)の水田跡の形、水利施設の有無、
水田が造られた地形、土壌などを比較しました。
また、掘り棒やクワ(鍬)、スキ(鋤)などの農耕具の共通性と個性を検討。
弥生時代の農耕具の主役であるクワが、長江中・下流域にはなく、
クワの系譜が山東半島―朝鮮半島―九州であることを調べました。
「農耕具の流れ・系譜からみて稲作伝播は北回りルートしか考えられません。
そうでないと、日本でのクワの成立はありえません」と同教授はいいます。
http://www.nouminren.ne.jp/dat/200205/2002050621.htm
. .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>497
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、朝鮮ヒトモドキどもは
通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に
「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが愚の骨頂です
松菊里遺跡は1975年に発見され、1977年に命名されました
板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の研究者が先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
松菊里遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです
松菊里に水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンニ)遺跡の「紀元前300年」です
朝鮮ヒトモドキどもは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を意図的に行わず隣国からの共同研究を頑なに拒んだ上に理由もなく埋め戻すという隠蔽工作を行いました
韓国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として、すでに歴史学の恥部となっています
しかも松菊里型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明し、証拠として北緯36度線より北にあるにもかかわらず炉の形跡がない、一柱支から三柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキどもを指導し支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは日本人特有と言えるY染色体O2b1で朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. 九州民のみなさん
台風10号上陸において
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