「仙台戊辰史」は、総督の九条道孝は嘆願を受理してもよいと言う立場に変わっていくが、
参謀の世良には嘆願の受理の意思はまったくなかったと見ている。

それどころか、4月25日付のお達しのあと、
米沢藩執政の木滑要人らの嚮導で会津の降伏使節が若松を出発したと言う情報が入ると、
露骨に談判を妨害する行動を取り始める。

仙台藩は4月26日付で次のような届出を行っている。
「会津容保謝罪嘆願のため、家来ども別紙名元書立の通罷越候由、米沢より申入候につき、
陣門へ相通じ承申候間、先以てこの段お届け申し上げ候、以上 4月26日
仙台中将内 但木土佐 米沢中将内 木滑要人
(以下会津側使節の名前)」

ところが、この届出を受けた総督府参謀からは次のような指示が届いている。

「今般、会津藩人が仙台表に来たいと申し出ているそうだが、
右は朝敵天下に入るべからざるの罪人ども、仙台藩においては征討の勅命を蒙っているのだから、
決して国内に引き受けてはならない」

「仙台戊辰史」は
「この達しが届きたるは、関宿の会見を終わりたる後なりしかど、これによりて略略参謀らの意見のある所を察したれば、
会津嘆願の趣旨を貫徹するは容易の業ならざるを知りたり」

と記している。要するに、4月25日に寛典の余地を示しながら、
実際に降伏使節が来ると言う情報がもたらされると「引き入れてはならない」と厳命したので、
参謀たちが何を考えてるか分かりましたと言う記述だな。