美濃攻略以降の信長の動員兵力は異常 [転載禁止]©2ch.net
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肥沃な地とはいえ、たかだか二ヵ国の領主が動員出来る数字か?
熱田とかの商人から納められる収益があるにしても多すぎる
上洛軍で4万、伊勢侵攻では7万とまで言われているがこの数字は正しいかはともかく、どうしてこんなに兵力があるのか NHKのヒストリアで、信長軍団は信長が家柄身分にとらわれず、力士や庶民から大量に武士に取り立てたと、きっちりと紹介してたな。
プラスして、土地を持たないようなものを好んだと言っていた。
結果として現代でいう派遣切りやフリーター、ニートを大量に雇用したからその実数が可能になった。
証明されてんだよ、戦国時代以降の武士こそ、真の雑多出自で、土地ある豪農は、元は真の武士が多い事実 一時的に動員するだけなら可能だよ。
何しろ全国でも統一された勢力としては北条、毛利に次ぐ大大名なんだから。
さらに商業利権も大きいから現金持ってるし。 >>5
織田信成を信長末裔と紹介したような番組を真に受けてんのかw
じゃあ、信長がニート採用したソースあるの?
そんなもん使い物になるとも思えんがね。 ニートはあくまで比喩だが、土地もないような底辺層のあぶれた雑多を大量に雇用して、
そいつらを城下に住まわせ、軍事訓練を徹底して専属軍団化したとキチンとやっとった。
その改革は、当時の列記とした武士層は、城下よりはなれた地元で通常は農業を営んでおり、
戦時徴用の運用が非効率なため、それらの活用は否定されたとやってた。
雑多軍団がw 底辺の流人みたいなのが傭兵やるのは織田家に限った話じゃないだろ。
戦国の世では成り上がったせいで金はあるけど兵が足りてない武将なんて腐るほどいたんだから。 通常傭兵は臨時徴用の扱い。
戦争終えたら解散。
武士団化して直接正規雇用してたのは東海の成り上がりがどもが主
織田のみならず秀吉軍団なんか傭兵が大名に大量になってるレベル
徳川も伊賀、甲賀、根来、雑賀等の雑多の雑兵を御家人として武士として雇用
譜代系の藩士なんてこいつらを大量に藩士にしてるからなあ
信長以降の東海軍団は雑多が武士 >>11
北條や武田ではすでに運用していたしな。
傭兵なんぞ別に信長の専売特許でもなんでもないという。 >>14
運用していても、扱いや待遇が違う。
もっと言えば運用の仕方が違うだろ
武田は少しビミョーなてんはあっても、
北条は傭兵を扱っても運用も待遇も扱いも編成も全く違う。
北条と信長を傭兵というくくりで共通とすることはできない >>16
>>15じゃないけど、
武田二十四将図
まったくのなりあがり物は、山本勘介ただ一人だろう?
しかも山本勘介は実在すら怪しい存在だろう?もっとも今では実在は
していたとの説が有力だが 20
いつ俺が武田武将が成り上がりだなんて行った?
頭も悪けりゃ目も悪いのか?
江戸時代の武士となる東海成り上がり軍団だといってんだよ呆脳
それに高坂も成り上がりだろ NHKなんて創価に汚染されて池田大作様お気に入りの信長アゲばかりだろ。
そんなの信じてる時点でノブヲタが創価予備軍だってこと丸わかり。 都合の悪い部分を信じないのは信ヲタなんだけどな(^^) 俺は信長軍団は、雑多みたいな底辺庶民出自が大量に武士になって雇用されていた事実をディスッてんだが? どっちでもいいからソース出さないと話にならん。
信長がニートを大量雇用したのかどうか。 ニートというより、土木建設系作業員系なんじゃない? >>22
武田の主だった武将は、なんだかんだと言っても親の代から勤め上げてきた
連中が大半だが、
信長の場合
柴田勝家、丹羽長秀くらいで
滝川一益は忍者説が出るくらいだし、
明智光秀も良く分からん流れ者だし(最もカミさんの縁者だったらしいが)
秀吉にいたっては >>29
それが>>5とどう関係あるんだろう。
>家柄身分にとらわれず
は良しとしても、動員兵力には結びつかんぜよ。 蜂須賀って子孫が明治になり先祖は盗賊ではないと証明しようとして、大金をはたいて歴史資料を集め学者に研究させたら、結局蜂須賀小六は盗賊でした、という落ちだったんだよね。 尾張・美濃・北伊勢でしょ?農業収入も流通関係の収入も、うなるほど入ってくる
全国でも摂河泉以外でこんな凄い大名なんてないんじゃない 蜂須賀みたいなんが従えてた奴隷職人どもも、
江戸時代は根こそぎ讃岐藩二十万石の武士だからな
あり得ないわよねw 詳しく研究してるわけじゃないから知らんが、
上洛軍だったら浅井家とかの義秋支持派も混じってるんじゃない?
反三好として上洛軍に加わったのもいるだろうし
上洛なんて大イベントなんだから、そこら中に声は掛けてると考えるのが妥当かと なるほど、上洛軍は信長の軍だけではないからだというのはまあわかる
しかし伊勢侵攻で7万という数字はちょっと凄すぎないか?
もし誇張であったとしても何故こんな無茶苦茶な数字にまで誇張したのかが気になるところだ 伊勢侵攻で七万は誇張があると思うが…その半分くらいは動員してるかも
信長公記の記述だと、浅井家の援軍と、新たに傘下になった蒲生や山岡といった名前も見える。
時期的には、義昭の御座所を襲った三好三人衆を撃退した後
つまり義昭にベタ惚れされてて、対外的にも喧嘩をふっかけられる理由が見当たらない。
まぁ、最大動員出来ただろうね。
誇張する理由は義昭とそれを担いでる織田家の勢いを喧伝するためだろう。
自分がやったみたいに、新将軍候補を担ぎ上げようとする輩も
いないとも限らないしな
ま、あくまで想像なんですけどね 兵力の誇張は常套手段とのことですが、誇張されたと証明された事例はあるのでしょうか?
奥ゆかしい日本人的感覚(現代的)だと、むしろ過小評価されるように喧伝しそうですけど。 >>40
時代はまったく違うが、明治時代の秩父事件で数万人蜂起と新聞に書かれたが、実際は1万人以下だった。 日本人が奥ゆかしくなったのは江戸時代以降の徹底したトップだウン式の支配構造により、虐げられていたものの拡大解釈が奥ゆかしいという表現になただけ。
別に奥ゆかしくなんかはない 尾張57万石と、美濃54万石を合わせ得たのだから当然
濃尾平野に行ってみればわかる
ここを全部取ればもう天下は半分制したようなもの
濃尾平野全部を信長に取られた時点で、武田信玄すら、もう信長に勝ち目はなくなったと思う 奥ゆかしいとかどうでもいいので、誇張したと証明された事例があるのかを教えてけれ。 大軍に見せかけようとした例は軍記物読んでれば出てくる。
軍記物が正しいかどうかは問題ではなく、
大軍に見せかけようとするのが兵法の常ということだ。
「大軍が来た。やべー逃げよう」「あっちに味方したほうが得でね?」となるだろ。
で>>45こそ、その過少評価されるように宣伝した事例をあげたらどうなんだ? >>1
ちなみに、「上洛軍で4万、伊勢侵攻では7万」というのは
どこから引っ張ってきた数字なの? >>47
7万はおそらく信長公記
上洛軍も信長公記の記載だったと思うけど今調べたらそっちは6万との記載だったみたい・・・orz >>46
え?
兵法の常だから、誇張したに違いない?
正しいかどうかは関係ない? >>48
信長公記はその性質上、信長の功績を誇示する部分もあるからな…
信長死後の思い出補正が入ってたりね
信長公記に限らず、記録を残す者には事実をそのまま
書き残そうというつもりは無いんじゃなかろうか?
或いは事実として認識してたものが事実と違ってるとか。
マスコミの無い時代だからね…大本営発表が事実として伝えられたり、
庶民レベルだと色んな噂やデマで溢れかえってそうだわ。
牛一だってその戦に何人動員されたかなんて知る必要のない立場だったし、
自分の知り得ない部分は人からの伝聞でしょう。
または、「上様が上洛あそばされた折には、何人の兵が付き従った」…とか
「あの負け戦の時は寡兵の味方に対して、敵の数が多すぎた」…とか、
自分が属してたグループの美化だね。
数の誇張ってのは、そういう心理の下で自然に起こるんじゃないかね… 記録としての誇張であれば、むしろ少数で多数を打ち破ったって方が名誉になると思うが。 >>50
確かに牛一の立場になって考えてみれば
そもそも信長公記そのものが側近の回顧録のような側面があって牛一自身は信長の事跡が風化してしまわないように書いたわけだから
戦国後期の軍勢の動員数や武将の動向を正確に伝えるためのものではないのは当たり前で
今日当たり前のように語られてる織田家の動きというのも老いた牛一の思い出補正や思い込みが入ってるんだよな・・・
太田牛一本人、ここまで戦国後期の研究が信長公記に依拠したものになるとは思ってなかっただろうし 将軍供奉によるところが大きいのでは?
上杉謙信の小田原攻めも10万集まっているし。
全ての軍勢が信長配下の兵ではないだろう。 ☆ 総務省の『憲法改正国民投票法』のURLですわ。☆
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、日本人の悲願である
改憲の成就が決まります。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。お願いします。☆ 美濃攻略した段階で信長は111万石だろ。
3万くらいは楽に動員できるんだから4万とかは実数に近い数字だろ。
誇張して倍とかなんだから7万もおかしな数字ではない。
信長の場合家康との同盟があるので押さえの戦力が少なくて済むのもアドバンテージ。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 兵力の定義によるのでは
当時はほぼ成人男性=兵力だし まだ、信長公記はまともな方。太平記なんか、千早赤坂を100万で囲んだとか。
新田義貞の兵の増え方は異常。 信長の兵は専業の足軽とかだったようだから日本全国とひょっとしたら
海外の人々を金などで雇っていたんじゃ?
いわゆる半農半民とは違うところもあんでしょ 女も含んでの数だろうな
戦国時代の軍隊なんてどこもそんなものだったらしいが
http://watachiblog.blog.fc2.com/blog-entry-164.html
>1580年の武田と上杉の合戦が行われた茨城県江戸崎の古城西遺跡、さらに永禄年間(1558〜1570年)に起こった武田信玄の箕輪城(みのわじょう)、
>安中城(あんなかじょう)攻略戦のものと見なされている群馬県安中市、八幅平の首塚等も調査した結果、見つかった骨のうち、
>いずれも約3割が女性のものだというから驚きだよね。」 天下とろうなんて当時としてはキチガイじみた目標があったから強引に動員した まあでも当時全国的に武家による一円支配が進行中だったからな。
理屈からいったら最終的に武家による全国一円支配になるんだよね。
ただ、これはあくまで歴史を知った上での理屈のお話しで、当時の人間にとっては全然当たり前じゃないだろうな。
やっぱり信長は基地外だw 戦国時代だから定住地を持たない流民が多かったんだろうな。
それを経済力で取り込んだと。
定住地持たないから、直ぐに逃げちゃう。
だから合戦ごとに各地に砦や城を築いたり、最新装備を整えたりで戦い易い環境を作る。 お前らぜんぜん専門的じゃないよな
2chからしか情報得ていないのかな? >>67
このスレの内容を本を購入して得ようとしたらどれくらいの金がかかるか
見当が使いないからな。
図書館に行くにしても、どれくらい手間がかかるものやら
手間隙を考えると2ちゃんの専用スレッドは効率がいい 学問板だけど畑違いでもふらっと来る人多い方の板だろうしそんなもんかもね 楽市楽座と関係してくる
商人は全国を練り歩く足腰の強さがある
岐阜とかに行きついて足軽になるやつもいるだろ
商人でも楽市楽座に居着いて子だくさんになれば、次男、三男あたりは足軽から武士を目指す奴もいるだろう
近隣諸国で飢饉があったりすると農民の子が流れ流れて岐阜に行きつく場合もある
飯と金のあるところに人は集まる。7万動員といっても不思議ではないな
ただし練度は低いだろうけどな 尾張と美濃で当時なら111万石くらい。
33300人くらいはふつうに動員できる。
当時の信長には東方に敵はいないから、フル動員できる。
実働30000として、誇張して倍掛けで60000とか70000とかは現実的な数字じゃね?
北伊勢を攻略したらさらに人数増えるしな。 >>70
確かに、尾張兵のひ弱さと雑魚ぶりは異常だからなあ 牛一てのは織田家でかなり上の方の人なんですかね?
信長のそばにいつも居られるような人なら記述の信憑性も上がると思うのですが 1570年頃の推定では、美濃、尾張だけじゃなく、伊勢、志摩、近江、山城、摂津が支配下。
1600年頃のこの地域の人口推定は約290万で、伊勢と浅井を除いても250万くらいになる。
この時代、近畿〜東海は先進地域というか高度成長というか、他の地域に比べて
1200年頃との人口増加が激しい。
平安、鎌倉は、東国の人口増加が激しい。
幕末は、九州と中国地方が激しい。 古墳時代ー近畿〜東海(北陸)の増加が激しく、国家成立の中心地となった
平安鎌倉ー関東地方の増加が激しく、関東武士団成立の端緒となった
室町期ー播磨〜東海に至る地域の増加が激しく、信長による国家統一過程の原因となった。
江戸時代前期ー関東〜東北の増加が激しく、江戸幕府の安定をもたらした。
江戸末期ー九州、中国の増加が激しく、明治維新の薩長政権の基となった
現代から比べて、古代の人口が多いと見える旧丹波、吉備、出雲周辺、北陸は
おそらくは当時の先進地域であり、国家成立の契機を作ったのであろう。
開発のし易い中小河川の地域で、逆に言えば河川の氾濫による大規模な沖積平野の
成立がなく、開発の余地がなく、後の時代には他地域に主導権を奪われた。 南朝の代表公卿の一つ
北畠将軍の家督を継いだのも大きい
あまりドラマでも触れられないが
伊勢を制したことで北朝の足利将軍に比類する権威を得た >>73
信長の側近だよ。
親衛隊員兼側近官僚みたいな存在。
今なら総理官邸の上級職員。 >>79
信孝は四国支配後は三好を名乗らせる案あったと聞いたことあるな この時の島津って何万石?沖田畷の戦いのときらしいけど
フロイス「日本史」 第四五章
そこで薩摩の国主島津殿は、自国に危険が切迫しているのを見ると、国内の全地方から人々の招集を 図り、老若男女を問わず、ついには武器を手にし得る者はことごとく、
いかなる逃げ口も許さず、領国の自由のために参集するように命令した。
その際彼は、各人はただ四、五日分の米を帯に入れて携えよ、その糧食が尽きる時までには、戦の勝敗は決していなければならぬと伝達した。
このようにして、人々が確信するところによれば、薩摩の国主は五万人近い人を招集した。
それは何も驚くには足 りぬことである。日本では国主または大名が他と戦を始める時、彼は兵士たちになんら支払いはしない。
彼はせいぜい特殊な家臣に対して費用を払うくらいであって、軍隊にはほとんど費やさない。 まあ信長公記は甲陽軍鑑に比べれば誇張具合はマシだからなあ >>84 甲陽軍鑑でも太平記の千早攻城軍の100万には負けるだろう。。 >>72
でも駿河の兵もそんなに強くないんじゃないか? 身体能力って意味で
山があるからそうでもないのか? 日本は自虐文化というが、実際そんなことないゾ 事実であっても都合の悪いことは認めない
まぁ、これが人間の普通なんだけど 大田牛一は信長の側近より丹羽長秀にの下にいる方が長いやろ 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
G3C2F 太田牛一の履歴(織田家仕官以後)
信長近侍衆 1554〜1569
丹羽長秀与力1569〜1582
丹羽長秀家臣1582〜1585
丹羽長重家臣1585
豊臣秀吉家臣1587〜1598
豊臣秀頼家臣1598〜1613 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
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