質問だけど水行10日って何キロなの? [転載禁止]©2ch.net
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修験道を極める為、滝に打たれ山中を日に10里を歩く事10日と言う >>1
日本史・スレッド立てる前に質問をPart36 [転載禁止](c)2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1431960606/
まじめな答えがほしいのならこのスレでなく上のスレで、
質問することをお勧めするよ。 520 名前:日本@名無史さん [age] :2015/01/23(金) 16:58:43.06
>>518水系が違っていても、近くまで川が来ている場合、山越えの必要はない。
少なくとも宝満川と衣笠川は徒歩数分圏内
595 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:44:38.96
この川か。
筑紫野市紫2丁目付近だけど、思ったより水があるな。
http://i.imgur.com/zH9Ooir.jpg
一般に、川の水は昔の方が豊富だったそうだけど、これなら
今でも小舟が通れるぞ。
582 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:13:55.51
>>539
御笠川の源流か支流なんだね。
この辺りがあやしい。
http://i.imgur.com/MLlBZJK.jpg
664 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 22:52:40.12
>>661
ここか。
http://i.imgur.com/3tJHuyy.jpg
3から真南、モロに道になってる。これだなwww まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >陸行1月についてまとめ
>畿内説
>@河内湾→奈良 35km 1.5km/日
>A舞鶴→奈良 120km 4km/日
>九州説
>@日田→佐伯(大分) 130km 4.6km/日
>A日田→日向(宮崎) 150km 5.5km/日
>B有明海→熊本 60km 2km/日 卑弥呼が実際、景初2年の6月から12月までの6ヵ月かけて、帯方郡から洛陽まで行って、金印を授与されてるだろ。
ソウルから洛陽まで、黄海から黄河を遡って1600km水行するのに6ヵ月かかるんだから、単純な割り算で答えが出るだろ。 >>14
サンクス。水行10日で87.67キロやな 大河と海と、小さな川では、速度は全然違う。
九州に着いてからの水行は、船を乗り換えてるよね。それで川を遡上だ。
1日あたりの距離は短いね。 水の上は日付感覚おかしくなる
海軍は金曜カレーの日と決めていたけど
まさか半島からでたときキムチの日とか決まっていたのか 出雲⇒敦賀⇒琵琶湖⇒淀川⇒木津川⇒大和
10日間
約400km
海流や川流に乗ると速いよ 実際に1600kmに半年かかってるのに、その4分の1の距離に10日とかないから 水行は河川交通ということだけど、川を乗り換えてる。
最初の20日は、ある川を10日+違う川を10日程度の意味だろう。
水行の起点となった不弥国は博多付近というのが有力だから、
最初は宝満川、次が衣笠川。乗り換えるのに500mほど歩く
けど、この二本の川で久留米に着く。
つまり、5万戸の大規模集落である投馬国は久留米。
そこから水行10日は、久留米から日田だろう。
日田の川が尽きる場所で止む無く舟を降り、陸行になる。 >>22
一日40km
8時間移動したとして、時速5km
無論、休息日は含まない、含む意味が無い 旧日本陸軍の作戦行軍目安は25km
人数が多いと余計に時間がかかるのと、
野宿する場合には野営の準備などが必要なため。 ★警告★
邪馬台国専門スレがいくつかありますので、そちらに書き込んでください。
あるいは、質問スレに書き込んでください。
以後このスレへの書き込みはしないでください。 当時の徒歩を、今の道路歩くのと同じに考えてる馬鹿がいるな。 だから書き込むなと言ってるだろう。
こんなことでスレを立てていたら、20日は何日なのか、南はどっちなのか、
とかしょうもないことでスレを立てる人間が出てくる。
邪馬台国スレがすでにあるんだから、そっちに書き込めよ。
案の定スレを立てた張本人はトンズラかましてるし 削除依頼出しとけよ。糞すれ立てんなボケが。
水行何日がはっきりわかってたら邪馬台国論争なんて起きとらんわ。
常識的に考えたら分かるやろが 6月に邪馬台国の使者が来て、12月に詔書が出た。
すごいね。詔書って行ったその日に出るのかぁ。
帯方郡から洛陽まで水行したとは書かれていないけど、水行したんだね。
6月の何日から12月の何日かまでかわからないけど、6か月で計算するんだね。
支離滅裂にもほどがあるわww >陸行1月についてまとめ
>畿内説
>@河内湾→奈良 35km 1.5km/日
>A舞鶴→奈良 120km 4km/日
>九州説
>@日田→佐伯(大分) 130km 4.6km/日
>A日田→日向(宮崎) 150km 5.5km/日
>B有明海→熊本 60km 2km/日 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>1
「水行」とは「水」を行くこと。
「水」とは「淮水」のことである。
すなわち、「水行」は淮水流域の湿地帯の水域を船で行くことである。
広義では、河川湖沼海等の岸辺を見ながら水域を船で行くことを「水行」と言う。
水行10日=水行1日×10
≒1000里×10
≒76.4km×10
≒764km >>9
>古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河)
古代の中国語で、
「水」とは「淮水」のこと。
「河」は「黄河」、
「江」は「長江」のこと。 >>41
水行二十日や、水行十日陸行1月の記述もありますが、
九州から北海道まで1500km位なんですけど、
それでいいんでしょうか? 水行10日陸行(16日合計26日約)一月
( )の部分が省略されてる。漢文は結論しか書かないから 水行十日:帯方郡西端(京畿湾徳積島)〜末盧國(唐津)
陸行1月:約1000里=約80km。
陸行1月=海行1月=1月行≒80km(隋書より)
水行二十日:帯方郡西端(京畿湾徳積島)〜一大國(壱岐)〜平戸〜島原湾〜有明海東岸
船行1年=海行12月≒1万2千里≒920km どのような説を採るにしろ、距離と日程が両方とも確定している同時代の行程記事は>>14しかないんだから、その説で考えれば>>14はどういう内訳になるのか整合的に説明できなければならないね 陸行一月と言うが一日30キロ歩いて一月で900キロ
博多から九州最南端まで行って戻ってもきてもまだ余るだろ >>51
邪馬台国畿内説の立場ではないので。
>>14
>ソウルから洛陽まで、黄海から黄河を遡って1600km水行するのに
ソウルから洛陽まで、黄海から淮水を遡って2100km水行
ソウル→漢江→黄海→淮水河口→淮水→北汝河→北汝河支流→汝陽市→陸行6km→白降河→伊河→洛陽
汝陽市部分の陸路6km以外は全て水行である。 520 名前:日本@名無史さん [age] :2015/01/23(金) 16:58:43.06
>>518水系が違っていても、近くまで川が来ている場合、山越えの必要はない。
少なくとも宝満川と衣笠川は徒歩数分圏内
595 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:44:38.96
この川か。
筑紫野市紫2丁目付近だけど、思ったより水があるな。
http://i.imgur.com/zH9Ooir.jpg
一般に、川の水は昔の方が豊富だったそうだけど、これなら
今でも小舟が通れるぞ。
582 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:13:55.51
>>539
御笠川の源流か支流なんだね。
この辺りがあやしい。
http://i.imgur.com/MLlBZJK.jpg
664 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 22:52:40.12
>>661
ここか。
http://i.imgur.com/3tJHuyy.jpg
3から真南、モロに道になってる。これだなwww >>51
>>54
>>57
「邪馬台国畿内説」の人は、邪馬台国畿内説スレに移行してください。
「邪馬台国畿内説」でない人は、このスレを続けて行きましょう。
1里=75m〜80mの短里説の人達は、このスレにドンドン書き込んでね。 >>59 正しくは畿内説の人は畿内説スレへ。九州説の人は九州説スレへ移動してくださいだな。 短里というのは狗邪韓国から不彌国までの行程の前提だから、畿内説でも九州説でも同じだよ
畿内説と九州説との対立は、不彌国から先の、里程の記載のない部分の対立 >>61
水行20日は、水行の起点(帯方郡)から終点(投馬國)までの道程2万里。
水行1日≒1000里(短里)。
魏志倭人伝では、水行1日=1140餘里となっている。
水行10日は、水行の起点(帯方郡)から終点(末盧國)までの道程11400餘里。
陸行1月は、陸行の起点(末盧國)から終点(末盧國)までの道程1000餘里。
陸行1月≒1000里(短里)。
隋書倭國伝では、陸行1月=1月行≒80km≒1000里(短里)。
>>1
水行20日=76.4m/里×1140里×20≒1742kmと計算できる。
水行10日=76.4m/里×1140里×10≒871kmと計算できる。
陸行1月=1000里=76.4m/里×1000里=76.4kmと計算できる。
帯方郡から投馬国まで道程は1742kmとなる。
帯方郡から邪馬台国まで道程は、871km+76.4km=947kmとなる。
以上より、
投馬國は筑後平野有明海沿岸部、
邪馬台国は筑紫平野東部内陸部(筑後平野内陸部+北野地域(筑後川中流域))、
と推定される。 帯方群がソウルだか平壌だか知らないが
有明まで1000kmも無いだろ >>64
行くのに半年かかることが文献上明らかな洛陽までの距離の半分ぐらいだな >>65 行くのに半年かかるなんてどこにも書かれてないけど? >>67 どこをどう読んだら、半年かかると確実に言えるの?
失礼だが、日本語の勉強と一般常識の勉強をし直したらどう? >>67 いや、それ以前に。これは一番基本的なことだけど、
あなたは魏志倭人伝の原文を読んだことがありますか? 確実に言えることは、実際に半年かけていることであって、その間どこかで休んでるかもしれないとか、先に着いてるかもしれないとかいうのは確実には言えないこと
確実に言えないことを主張するのであれば、当然、それを主張する人が立証すべき >>70 いや、そういうことではなくて、もっと基本的なことなんだけど。
倭人伝読んでてその基本的なことに気付かないの? 倭人伝には6か月でこの区間を移動したとは一切書かれていません。
大まかに言ってしまえば、6月に倭人が帯方郡に到着し、12月に詔書が出たと
あるだけ。これでこの区間の移動日数が6か月だとどうして言えるのでしょうか。
また、詔書というのは到着したその日に出るのでしょうか。
さらに、6月と12月という記述だけからどうして6か月だと言えるのでしょうか。
6月1日でも6月だし、6月30日でも6月。同様のことは12月にも言える。 > 景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏、將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼、
はっきりと「太守劉夏遣吏、將送詣京都」と書いてある。
6月何日なのかの問題は最大1か月の誤差の問題にすぎないから結論への影響は少ないとは思うが、どうしても長い期間、ないしは短い期間を主張したいのであれば、自ら立証すべきはいうまでもない。 「半年」を「約半年」に言い換えれば文句ないのか?
クレーマーみたいだなw というかこの話題って邪馬台国スレ(畿内・九州)でやればいいんじゃね。
すれ立てた佐藤とかいうやつはもういないし。 ★お願い★
このスレにはもう書き込まないでください。
畿内説の方は畿内説スレに移動してください。
九州説の方は九州説スレに移動してください。
ご協力お願いします。 >>78
南への水行の起点は、帯方郡
不彌國の城柵は、吉野ヶ里遺跡。 吉野ケ里は弥生中期から平安初期までの痕跡があります。 吉野ヶ里が衰退したのは倭國乱が始まる頃のAD130頃。
しかし、其の後も縮小して継続している。
吉野ヶ里は帥升王統の倭國である倭面土國(倭米多國)と考えられる。
「米多」の地名::米田郷、米多郷、筑志米多國、米多、前牟田、目達原、三田、豆田
帥升王統の倭國の都である倭面土國(倭米多國)が縮小又は滅亡した頃に倭國乱が始まったのである。 帯方群より出雲 20日間
出雲より大和 10日間
(完) まさか
使者が実際に陸行1月したなんて思ってる糞は居ないよな? 5 名前:日本@名無史さん :2015/01/27(火) 12:42:13.33
女王国の北に21国あるのだから、北部九州でないことは明白。
その余の、遠絶にして詳らかにできない某国というのが本州だろう。
そして、女王国の東には海があり、その向こうには倭種が住むという。
そこは四国であり、女王国は九州東部で決まり。
そして、四国の南については書いてあるが、女王国の南については
書いてない。
これは、女王国が九州東南部であり、南には他に国がないことを示している
と考えられる。
西はどうかというと、奴国という、女王国に向けて南下した不弥国の
西にある国(奴国)の南に、女王国と対立する狗奴国があると書いてある。
つまり、女王国の西は狗奴国。
魏志倭人伝は、最小限の文章で、九州全域、女王国の東西南北を
明確に記述しているのだよ。
奴国→不弥国
↓ ↓水行
↓ ↓水行
↓ 投馬国
↓ ↓水行
狗奴国 ↓陸行
女王国(海)→四国
(海) ☆ 総務省の『憲法改正国民投票法』のURLですわ。☆
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、日本人の悲願である
改憲の成就が決まります。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。お願いします。☆ 魏志倭人伝より
水行十日≒870km
水行二十日≒1500km
隋書百済傳&倭國傳より
陸行一月≒80km 本土日本人と韓国人は、遺伝距離ゼロ
全く同じ人種ってこと。
日本人の起源 〜遺伝学電子博物館
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html
特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で
も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった
のである。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif
つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系
統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か
れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統
のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ
が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人
が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2014/05/21/dna.jpg
http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/report02/s-IshidaFig1.jpg 陸行は一日20km程度、水行はヨットレースじゃないんだからやっぱり20km程度。
浅瀬の有る川を遡ったり、漕ぎ手も飯を食わないといけない。
そういう意味では、無人地帯を行くことは出来ない。
食料の補給が出来ないからね。
ポリネシアの漁民が漁をしながら遠方へ移住するのとは訳が違う。
一気に行けるのは、潮と風のいいあんばいの限られた時期。 >>89
海行一月は約80km・・・隋書百済伝より
海を行くから「海行1月」
陸を行くなら「陸行1月」
海陸の区別がないときは「1月行」
故に
陸行1月=1月行=海行1月≒80km=1047里=100餘里
又
80km=80km÷76.4m/里=1047里=1000餘里
一方
帯方郡から末盧國までは、
循海岸水行七千餘里+渡海千餘里×3回=一万餘里であり
水行十日でもある。
故に
水行1日=水行十日÷十日=10000餘里÷10≒1000餘里=80km まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河)
のように、もっぱら河川を指すものであり、海は、「海」なのです。
従って、水行は、河川航行との主張は合理的と考えます。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/691129/578086/79470453 古代の中国語で「水」とは、「淮水」のことです。
淮水流域である北緯35度以南の河南平原を船で移動することが「水行」です。
淮水本支流湖沼を船で1日移動することが「水行1日」で、
その移動距離は約千里(80km)です。
淮水本支流湖沼の岸に沿って移動することが「水行」なので、
海を含めた水域の沿岸を移動することは「水行」とされています。 >>94
淮水を「水行」したという用例を挙げてください。 >>94
海岸を航行するときは、「海岸水行」と書いてますよ。
単なる「水行」は、川。 「孟賁,古之勇士,水行不避蛟龍,陸行不避豺狼,發怒吐氣,聲音動天」史記-卷百一十七‧司馬相如列傳第五十七
蛟龍が生息できるのは、淮水流域と長江流域である。黄河流域は蛟龍生息不可。
長江流域ではないので、水行するのは淮水流域となる。
「水」が「淮水」を意味する実例は失念。今は実例を忘れて見つからない。
「彭城要兼水陸,魏人南寇,水行自清入泗,陸行自歷城、瑕丘, 皆湊彭城,故云要兼水陸。請以皇子撫臨州事。」資治通鑑-卷一百二十五
彭城(徐州)は淮水流域にある。
>>96
海岸を航行するときは、「海岸水行」です。
単なる「水行」は、岸に沿う淡水域航行。
水域「水行」の概念に水域としての海も含まれている。 「水行」
水辺(淡水域・海水域)を岸に沿って(循岸)舟(船)で行くこと
「陸行」
内陸を(徒歩・車で)行くこと
「馬行」「草行」「泥行」「山行」「擿行」 >>98
明らかに間違ってる。
「水行」が岸に沿って進むだと、「海岸水行」は、海岸を岸に沿って進むになってしまい、
岸が重複する。そんな無駄な表現はしない。
また、川なら常に岸に進んでるわけで、言わずもがな。
「海岸水行」は、「海岸に沿って進む」だけど、単に「水行」と書いたら、川を進む
か、あるいはまったく逆に、大海の中を岸を見ずに進むという意味だよ。 >>99
>大海の中を岸を見ずに進むという意味だよ。
上記は、「海行」である。「水行」ではない。
「水行」は「岸辺に沿って水域を進む」の意味。
「循海岸水行」の「循」と「岸」は、進行している水域が海であることを重ねて強調しているだけ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています