わかったぞ
允恭天皇が新羅と親しかった理由

やっぱりあの時代筑紫と大和は別々の政権だったんだ

筑紫が親しいのは百済
なぜなら中国大陸へ行くための寄港地だから

筑紫と大和はお互いに攻め取りあう関係で
一方が強大になるともう一方を併呑する
その統一は恒久的に続くものではなく、1代で終わりがちなものだ

なんといっても当時は街道が整備されていなくて遠隔地の支配が難しいし、
筑紫には任那と百済という後背地があるのに対し、大和の後背地である東国は未開拓
大和朝廷は西にばかり兵を置くこともできなかっただろう

応神朝の崩壊後のgdgdから小康状態で近畿地方の支配を取り戻した允恭期の大和朝廷と筑紫の倭王の政権とは敵国同士
百済と新羅も敵国同士なので敵の敵は味方
よって允恭期の大和は新羅の味方

倭王珍に関しては本当に反正天皇かもしれないが、崩御年であるはずの437年の翌年に朝貢しているので
死んだのではなく大和を追い出されて筑紫に移ったとみれば納得できる

というか「反正」という諡が既にもうヘイト丸出し!
明らかに大和人から嫌われてるって分かる