全国の八幡宮の総本社は応神天皇陵に隣接する誉田八幡宮ではなくなぜか豊前の宇佐神宮になっている
その祭神は八幡大神(応神天皇)に加え、比売大神(宗像三女神)、神功皇后
いづれも筑紫に縁が深い
治世の大部分を畿内で過ごさなかったからだろうか

特に宗像三女神に関しては日本書紀の履中天皇五年に「何奪我民矣、吾今慚汝。」と言って筑紫の民を奪った大和朝廷を咎めている
この記述から、履中天皇を戴いた大和の権力は宗像氏に認められなかったことが伺える

また、日本書紀での応神天皇の崩御した場所も明宮なのか大隅宮なのか釈然としないことも気になる
「既而率其三婦女、以至津國及于武庫而天皇崩之、不及。」の部分だけを読むと天皇が三婦女を連れてくる途中に武庫で死んだとも読めてしまう

本当は応神天皇こと倭王賛は古事記に記された推定没年394年よりも後も生き続け、
この年に息子たちに大和朝廷の運営を任せ自らは九州に本拠を置いて朝鮮半島と畿内両方を監督したと考えるのはどうだろう?