倭の五王の正体についてじっくり検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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自分の考えとしては倭の五王のうち讃=『褒』田別と武=大泊瀬幼『武』以外は当てはまる天皇はいないと思う
この説を説明するために前提として
天皇の在位年は古事記における干支が正しいのだとしておく
問題の時代における天皇(大王)は恒久的なものではなく、複数並立したり空位時代があるものであるとする
万世一系の演出のため、空位時代を埋める目的で追尊されたり、
はたまた大王としての実力があるにも関わらず認定されない権力者が多くあったことだろう
そのため即位年数を厳密に記述して空位時代がないようにしてある日本書紀の紀年は後の創作だと断定できる
三国史記との一致から推定した応神天皇ことホムダワケの没年は394年。だが倭王讃の記述は413年〜425年
これは矛盾している様だが、実はカラクリがある
(続く) 倭の五王を、2〜300年後の、創作の記紀の天皇に比定するんじゃなくて
実年代で存在した倭王、讃珍済興武を実在する、大王古墳で比定した方が良いと思う。
古墳の実年代が最大の鍵。
記紀の天皇制の世襲一統は推古天皇には遡れそうもない。 >>901
おまえの100年前の先祖の話を聞かせて >>901
>そこで間違うかなあ?
ほんの少し前の民主党政権なんてなかったも同然の扱いだし、今年の桜を見る会の出席者もわからない。
100年も前のことなら当事者がいないから創作し放題。
わからなくなったのではなく、わからないようにしたんだよ。 倭の五王は北朝にはなんで朝貢しなかったんだろう?百済や新羅は南北両朝に朝貢しているのに。 >>976
山東が南朝に支配されたからだぞ
山東勢力に気付かれないように北朝に向かうのは無理だからな >>973
支那が日本の事情なんてちゃんと理解してんだろうか?
正使を送ってやり取りしていた隋唐の時分のことを晋や宋の王様が知らないんだし。
最後の遣唐使が帰ってきたのが839年、晋が唐に取って代わったのが936年、晋の編纂した唐書の日本の記載はデタラメ放題。
宋の二代目の王様、使節が隋の煬帝にナマイキこいた時代から日本の王統が途切れず続いていると知るのが、即位から18年後。
兄貴の初代皇帝の即位から24年後だぞ。兄貴が王様になったとき33歳だぞ。オヤジの生きていた時分は学問を好む本の虫だったと
伝わってるくらいなのに、45歳まで日本の国体がどんなふうなのかしらんかったんだぞ。
市舶司とか置いて船が盛んに往来するような新しめの時代でもそんな調子だぞ。
倭の五王と記紀の天皇とは無関係
どのように頑張っても比定は不可能ww
つか日本側の名前なんて後付じゃんw
ヤマトはもともと山門だしw 当時の記録として実在していた。
ただ、後世の記録からは抹消されている? 413年 東晋 義熙9 ? 高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。 (『晋書』安帝紀、『太平御覧』) 421年 宋 永初2 讃 宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。「安東将軍倭国王」。(『宋書』夷蛮伝) 425年 宋 元嘉2「 讃 」司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝) 430年 宋 元嘉7「 讃?」 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀) 438年 宋 元嘉15 珍 これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、
自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、
正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝)
4月、宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』夷蛮伝) 443年 宋 元嘉20「 済」 宋・文帝に朝献して、「安東将軍倭国王」とされる。(『宋書』夷蛮伝) 451年 宋 元嘉28「 済 」宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」
を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)
7月、「安東大将軍」に進号する。(『宋書』文帝紀)
また、上った23人も宋朝から将軍号・郡太守号を与えられる。(『宋書』夷蛮伝) 400年〜500年で日本の王は漢名を名乗った。
記紀は後付けの偽史。
比定できないなら、漢名の倭の五王の方が史実なんだが?
記紀が日本史だと、事実、史実には絶対到達しないよ。 460年 宋 大明4 「済?」 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。 462年 宋 大明6 「興」 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝) 477年 宋 昇明1 「興(武)」 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)
これより先、興没して弟の武立つ。
「武」は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」
と称する。(『宋書』夷蛮伝) 478年 宋 昇明2 「武」 上表して、自ら「開府儀同三司」[注 5]と称し、叙正を求める。
順帝、「武」を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。
(『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて) 479年 南斉 建元1「 武」 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」
(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝) 502年 梁 天監1 「武」 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。(『梁書』武帝紀) このスレッドは1000を超えました。
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