>>522
土器としての縄文末は山陰から瀬戸内海四国、つまり後の銅鐸地域にまづ広がった。
水稲耕作を伴った、渡来人とは関係ない、と言うことですね。

>九州北部に伝わったときには次の段階の山ノ寺式になっている。
これは、伝来が前1000年から900年あたり、50年で と言うことですから
上記地域の伝搬中で既に山の寺式に変化していた、と言うことではなく
水稲耕作の九州に入って山の寺式に変化した、ということですよね?

日本海ルートの九州縄文人が、縄文祭祀の無用性を取り込んで、
山陰発祥の弥生土器化を受容した、ってことで良いんじゃないでしょうか?
水田は逆に山陰に持ち込んだか?

この地域で、DNA調査すべき縄文人と弥生人の
サンプルに必要な、年代と場所は確定してるように思います。

青谷上寺地みたいな時期違いの予測し得る
大量外国人の調査をなんで優先したんでしょうかね?

この先、ちゃんと目的に沿った調査する気が、無いのかもしれません。
お勉強になりました、ありがとう