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邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2016/03/19(土) 21:14:14.21
今のところマイナー派ですが、神懸かりして語りましょう。
0606日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 19:01:14.39
>九州には、弥生銀座を始め、大量の遺跡が十分にあるが、

大量の遺跡が十分にあるが、取るに足らない、パッとしない遺跡ばかりなんだよね。  @阿波
0607日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 19:35:10.87
>郡使がいた九州北部にしか邪馬台国はあり得ない。

「其山有丹」で九州北部は邪馬台国はあり得ない。  @阿波
0608日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 20:53:07.07
>倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。


「其山有丹」で筑紫、現在の福岡県は倭国の都はあり得ない。  @阿波
0609日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 21:20:51.99
>「真剣に、真剣に、広く、広く、深く、深く」考えていくと「理性的な人であれば、九州島に到達せざるを得ない」と思いますね!


「其山有丹」で、即アウト!  @阿波
0610日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 07:18:10.79
>今月末から宮内庁は、
>仁徳天皇陵の内堤の一部を堺市と共同で発掘調査・・・するらしいな



仁徳天皇陵も倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓。  @阿波

「子安観音古墳」

徳島県小松島市・子安観音古墳から、金銅製の甲冑の破片4点が出土している。これは、金を施した希少なものである。

5世紀中ごろの制作と推定され、金銅製の甲冑は1872(明治5)年に国内最大の前方後円墳大仙凌古墳(旧称仁徳天皇凌)の出土例があるだけ。

大仙凌古墳の前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられる点から、子安観音古墳が大仙凌古墳より古い可能性が高い。

よって、大仙凌古墳の被葬者は、倭国(阿波)中央政権から極めて高い地位を与えられたことを示している。

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0611日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 07:39:21.37
>渡辺義浩・早大教授(中国古代史)は、魏の文帝が「寿陵は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」などと定めたことを紹介し、
「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。


少なくとも初期の天皇陵は、山の尾根や丘を利用して築かれた。

初代〜第五代天皇の陵墓の記事(『古事記』『日本書紀』『延喜式』)には

まず神武陵が畝火山の北方白檮尾上、綏靖陵は衝田岡、懿徳陵は畝火山の真名子谷上、孝昭陵は掖上の博多山上とあるように、

初期の天皇陵は、 山の尾根や自然の丘陵の一部を利用して築かれている。  @阿波
0612日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 08:13:34.68
「大仙古墳」の石棺水銀朱は、まず間違いなく和泉忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波


「大仙古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw   @阿波
0613日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 08:40:51.24
>卑弥呼の都なら、弥生銀座地域が最も可能性が高いし、


その「弥生銀座地域」は、取るに足らない、パッとしない遺跡ばかりなんだよね。  @阿波
0614日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 08:43:50.25
>卑弥呼の都なら、弥生銀座地域が最も可能性が高いし、


その「弥生銀座地域」は、取るに足らない、パッとしない遺跡ばかりなんだよね。  

倭国(阿波)の爪の垢を煎じて飲むとよい。   @阿波
0615日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 10:04:06.56
>「会稽東冶之東」一発で
>九州説が致命傷負ったから

そんなことより、九州説の致命傷は「其山有丹」。  @阿波
0617日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 10:11:36.31
>将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった

「将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった」のは、
倭国(阿波)の発掘成果によるところが大きい。  @阿波
0618日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 11:31:20.06
>平原1号墓のガラス製品は、卑弥呼の即位後の年代のものであり、つまり平原1号墓は卑弥呼の墓のものである可能性が高い。


ガラス製品など、倭国(阿波)の遺跡からいっぱい出てるよ。

たとえば、「矢野遺跡」や「加茂宮ノ前遺跡」等々。  @阿波
0619日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 12:19:48.03
>平原遺跡以外の卑弥呼の墓の候補は、現状では見つかっていない。


「井の中の蛙大海を知らず」

「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。  

天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。

御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。

また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)です。

大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われています。

※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」   @阿波

「八倉比賣神社」
https://bqspot.com/shikoku/tokushima/569
http://kamnavi.jp/en/awa/yakura.htm
0620日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 16:01:57.18
>…倭…在海中洲嶋上…周旋五千余里


まさに、倭国(阿波)だね。  @阿波
0621日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 16:18:48.48
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0622日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 16:20:03.47
>超大型内行花文鏡は副葬品としては永久欠番となり、天皇家と伊勢神宮に継承されるだけとなったのだろう。


その九州が、宮中最高祭祀「践祚大嘗祭」でお呼びがかからないというお粗末。  @阿波
0623日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 18:17:02.62
>佐々木先生ははっきり書いていないけれど、畿内から派遣された一大率の居所の可能性がある


倭国(阿波)から派遣された筑紫忌部だよ。  @阿波
0624日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 18:26:47.90
>桜井茶臼山古墳一つで、200キロ以上の水銀朱が使われてるんだけど?


「桜井茶臼山古墳」や「下池山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波

桜井茶臼山古墳も下池山古墳も黒塚古墳も
倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波
0625日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 18:41:14.70
>大型建物群は3世紀半ば以前には解体撤去されていたとされている


倭国(阿波)の古墳造営前線基地だから。  @阿波
0626日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 18:59:26.22
>「内行花文鏡」39.8センチ 柳本大塚古墳出土
>「内行花文鏡」39.6センチ 下池山古墳出土

「柳本大塚古墳」と「下池山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波

「柳本大塚古墳」も「下池山古墳」も
倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波
0627日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 21:20:03.90
>そもそも、モモソ姫という人物がおったかどうか、怪しい。

「倭迹迹日百襲姫命」は徳島市国府町(旧黒田村)の第七代孝霊天皇「黒田廬戸宮跡」で幼少期を過ごし、
阿波市市場町「箸供養」からほど近い「奈良坂」より阿讃山脈を越え、讃岐地方に移動した。

そして、その類い稀な能力を駆使して水を利用した農業の神として祭祀されている。
阿讃山脈を越えて留まった地域が「水主神社(香川県東かがわ市水主1418)」付近。
「水主神社」から北上すると倭迹迹日百襲姫命が海岸に舟を留めて休息したとき、
船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けたとの伝承がある「鱸懸神社(東かがわ市馬篠440番443番)」。
「鱸懸神社」を少し北上すれば「袖掛神社(東かがわ市小磯)」。そして西へ移動して高松市内に鎮座する「船山神社(高松市仏生山町大字百相神宮寺)」。
船岡山は倭迹迹日百襲姫命が水主神社からこの周辺に移動して来て住んでいた地。
船岡山は古く百相(もまい)郷に属し船山と称し、地名の百相(ももそ)は倭迹迹日百襲姫命の名に由来すると伝わる。
当地は田村神社の別当寺であった神宮寺(百相廃寺)のあった場所である。
次は讃岐一宮の「田村神社(高松市一宮町286)」。倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(別名 吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命を祭神とし、
これを「田村大神」と総称する。  @阿波
0628日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 21:24:30.86
倭迹迹日百襲姫命の父にあたる第七代孝霊天皇の陵墓と黒田廬戸宮跡は、旧黒田村であった徳島市国府町芝原の蔵殊院あたり、

百襲姫の弟君にあたる日子刺肩別命は、蔵殊院から東に5km隔てた徳島市不動町の式内天佐自能和気神社で祀られている。

王族らによる阿波(倭)から讃岐(山背・難波)への進出は、孝霊天皇の御子時代から盛んになり、

第十五代応神天皇の御宇に至って、ついに香川県さぬき市津田の前期難波宮」に皇居を営むことになる。  @阿波
0629日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 21:39:55.07
>葛城の土蜘蛛は脛が長かったと言われているね


だから、鳴門萩原のナガスネヒコと何度言えばw  @阿波
0630日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 21:40:44.29
葛城神社も鳴門市  @阿波
0631日本@名無史さん
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2018/10/17(水) 07:33:49.10
>弥生時代の倭国は農業国。

「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。
阿波忌部は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。
0632日本@名無史さん
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2018/10/17(水) 07:48:33.81
阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様だが、

オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神

豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。

元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だった。  @阿波

大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。

また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。

穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。
0633日本@名無史さん
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2018/10/17(水) 09:12:37.64
>【稲作の分布】

弥生時代の稲作分布じゃないと意味ないよ。  平安時代じゃ、意味なし。

弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。
灌漑水田稲作は壊滅です。 
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。  @阿波
0634日本@名無史さん
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2018/10/17(水) 11:59:02.79
>大きさがまちまちだから一概には言えないが、300くらいか。
>まあ、畿内では多いほうかな?

だから 「椿井大塚山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波

「椿井大塚山古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波
0635日本@名無史さん
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2018/10/17(水) 12:02:06.06
>大きさがまちまちだから一概には言えないが、300くらいか。
>まあ、畿内では多いほうかな?

だから 「椿井大塚山古墳」の鉄器は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「倭国(阿波)産」だよ。  

「椿井大塚山古墳」も倭国(阿波)の鉄器を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波
0636日本@名無史さん
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2018/10/17(水) 12:07:29.17
>古墳時代に大土木工事をやっているのは畿内
>古墳時代に一番鉄が出土するのも畿内


古墳時代に大土木工事をやっているのは倭国(阿波)

古墳時代に一番鉄が出土するのも倭国(阿波)  @阿波
0637日本@名無史さん
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2018/10/17(水) 15:12:53.49
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0638日本@名無史さん
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2018/10/17(水) 17:51:07.28
高尾山古墳は、「蛇紋岩製勾玉」から、倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓に決定済み。  @阿波
0639日本@名無史さん
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2018/10/17(水) 19:57:04.11
>倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
>皆、徒跣。屋室有り。
>父母、兄弟は異所に臥息す。
>朱丹を以ってその身体に塗る。
>中国の紛を用いるが如し。

まさに倭国(阿波)だね。  @阿波
0640日本@名無史さん
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2018/10/17(水) 20:05:58.82
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰
0641日本@名無史さん
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2018/10/17(水) 20:10:28.20
>女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
>常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。


その一大率は「筑紫忌部」だよ。  @阿波
0642日本@名無史さん
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2018/10/17(水) 21:31:35.78
>忌部さんの名もみえるが、服部さんの名もみえる。


「服部さんは帰化人」だよ。

『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。
この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。

この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。  @阿波
0643日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 07:03:20.25
「田上郷戸籍断簡」は日本で最初の戸籍。

この中に「建部」と見えますが「建部」とは景行天皇御宇に日本武尊命の功名を記録しようと定められた御名代部です。

日本武尊命の西討東伐の道筋に置かれました。

この「田上郷戸籍断簡」には11名の「建部」が見えます。

阿波に日本最古の戸籍。

阿波に「建部」

阿波ってなに?  @阿波
0645日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 16:00:19.33
「あらたへの藤原かうへに」

御殿(藤原宮)は、藤原のほとりに造営されたが、枕詞からそこは「あらたへ」と関係する土地であろう。鴨島町は和名抄にいう旧「麻植郡(おえぐん)」である。


いうまでもなく麻植郡は阿波忌部の本貫地である。紀の神代一書にも天石窟(あまのいわや)の神事に、粟国の忌部の遠祖天日鷲が作(は)ける木綿(ゆう)を懸(とりし)でて」とみえる。

この阿波忌部の職業は天皇祭祀中、最も重要な大嘗祭において如何なく発揮されており、その調進物の中で、大嘗祭内陣に奉供される「麁布」が最も重要とされている。

このように阿波麻植郡の鴨島の地は、阿波忌部が麁布をつくるまさに聖地である。この麻植郡の聖地を説明するのに、枕詞「あらたへの」が用いられたのである。

しかも天皇にとって最も神聖で、最もめでたい品、皇祖天照大神が織らしめたという衣(あらたへ)を最上の賛辞として、柿本人麻呂が持統天皇に捧げたというのがこの歌の神髄である。

持統天皇は、持統6年、新益京の造営が奈良盆地で進む中、自らの治世中は、皇祖神から授けられた百敷(ももしき)の倭(阿波)にとどまりたいと決意し、鴨島の地(藤原宮地)で地鎮祭を行った。

これを天神地祇あらゆる民がことほぎ、御殿の造営に我を忘れ奉仕した様子がこの歌である。  @阿波
0646日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 16:52:37.28
『藤原宮の役民の作る歌』 この歌は柿本人麻呂の作であろう。

「もののふの 八十氏河(やそうじがわ)に」

これは先に挙げた阿波国田上郷戸籍がすべてを語っている。32氏のうち武人の姓をもつものとしては、「物部」「久米」「佐伯」「大伴」が確認できる。

またこの32氏には、孝元・開化・垂仁・景行・応神・仁徳・欽明の各天皇の後裔氏族や、御名代の姓のほか、倭朝廷の有力豪族の子孫の名を持つ氏人が揃っている。

まさに、阿波吉野川下流域は、八十氏の居住する地域で、そこに流れる川(吉野川下流域)を、八十氏河」と呼んだ。

対岸の吉野川南岸の徳島市に「矢三(やそ)旧矢三村」という地名が遺っているが、これも八十氏に関係すると思われる。

民(たみくさ)は、檜の丸太を川に浮かべ、綱をつけて岸辺から引き、檜村から上流へ河川を利用して泉の河まで運んだのである。  @阿波
0647日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 17:38:31.34
『藤原宮の役民の作る歌』

歌は持統天皇の宮室(おおみや)造りを称え、これに天つ神、国つ神も寄り添い、賛同し、民(たみくさ)も我を忘れて奉仕し、他国も賛意を表すという、すべてを祝詞(ことだま)でうたいあげた讃歌である。

また、この歌は、田上山から藤原宮まで宮材を運ぶ搬路が順次語られ、通過するそれぞれの土地神と民とが祝意をもって参画するという歌になっている。

「石走(いわば)る 淡海(あふみ)の」

海岸の荒磯に押し寄せる波、その波が岩の表面をさざめいて走る、その淡海の国の、という意味であろう。

「石走る」という枕詞は、滋賀県の琵琶湖では生まれようがない。

「淡海」は原義どおり阿波の海のことで、東と南を海で囲まれた地形故に、海に浮かぶ国、阿波の海に囲われた国(土地)の意味である。  @阿波
0648日本@名無史さん
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2018/10/19(金) 00:11:28.93
歴史的根拠とか全く考察してないけど
四国より九州の方が平野部が多くて生産力が高い
すると商売人が台頭する
商売人から貴族に転職するのも多い
しかし日本人の特徴として必ず上を尊重しながら出世する
0650日本@名無史さん
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2018/10/19(金) 17:27:03.94
天長2年(825年)に空海が

「磯輪上乃秀真国之阿波国也」(しわがみの ほつまのくにこれあわくになり)

と断定した文章が太龍寺に修められて残っているそうだ。  @阿波
0651日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 07:26:20.55
416: 千葉県人:2015/02/22(日) 13:20:34.54 ID:.net  

土器のことに関心があるようなので専門家の見解を少し書き込みます

東阿波式土器とは、厚さ2〜3ミリと、他地域の土器と比べ極端に薄く材料の粘土には

細かくすり潰された阿波の青石(結晶片岩)が含まれている

桜井市埋蔵文化センター著「ヤマト王権はいかにして始まったか」(平成19年編の)の中で

「纏向では、近年阿波系の土器が調査が進むにつれ増加しておりその傾向が研究者の間で

脚光を浴びている」とされている

大阪府文化財センター技師の方が書かれた「大阪府出土の讃岐・阿波・播磨系土器」では

「淀川以北摂津東部の6遺跡で阿波系が17個、摂津中部11遺跡で阿波系16個、旧大和川

周辺沖積平野の41遺跡で阿波系208個、和泉市11遺跡で阿波系19個など」

阿波系土器が圧倒的に多いことが明かされている       千葉県人さん投稿転載  @阿波
0652日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 07:06:03.04
「名東遺跡(縄文時代)」

縄文時代晩期の土器「突帯文土器」が出土

1987年(昭和62)年徳島市教育委員会によって、天理教国名大教会の建設地点の調査が行われている。

調査区からは溝状の窪地が検出されており、縄文時代晩期終末の「突帯文土器」がまとまって出土している。

その他に石鏃・石棒などの石器類も出土しており、徳島の縄文時代の終末期を考える上で重要な資料である。  @阿波
0653日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 07:38:21.23
「芝遺跡」
http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/sibaiseki.ronnbunn.html

3、旧河道出土資料について
旧河道からは弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての外来系土器が多く出土した。

報告書では旧河道をそれぞれ溝12164、溝33239〜溝33241、溝33244とし、主に上層と下層に分けて、
遺物の取り上げを行った。

特に溝12164は幅5m以上、深さ1.1mを測り、大きく上層・中層・下層の3層に分層できた。

下層から布留甕1個体が出土し、上層からは東阿波型土器や布留式土器がまとまって出土しており、時期差の可能性が
考えられる出土状況が確認できた。

図3は旧河道出土土器の内、実測し、報告書に掲載している個体総数の内訳を表したものである。

この割合が遺跡全体の割合を表しているわけではないが、参考として提示した。

実測総数196個体に対して、

阿波97個体で48%、畿内39個体で20%、在地36個体で18%、讃岐7個体で4%、土佐3個体で2%、
吉備3個体で2%、産地不明が12個体で6パーセントである。

約半数が阿波(東阿波型土器を含む吉野川下流域)の土器で占めており、次いで畿内系土器、在地時の出土数が多い。

讃岐や土佐、吉備の出土数は数%に留まる状況を示している。
0654日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 08:11:05.04
芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められるが、
特に吉野川下流域土器は弥生時代を通じて恒常的に出土すると考えられる。

弥生時代終末頃になると吉野川下流域時の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになるものの、
普遍化した出土状況は見られない。

古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められる
ようになる。

以上のような搬入土器の出土状況や共伴関係の検討から、
吉野川下流域の搬入時を主体とし、複数地域からの搬入土器が混在する第一段階(弥生時代終末頃〜古墳時代初め頃)。

吉野川下流域地域の土器・畿内系土器が主体となる第二段階(古墳時代前期前半頃)に分類することができると考えられる。

第一段階は伝統的な交流からの脱却の揺籃期、第二段階は交易ルートの確立を意味し、この現象は吉野川下流域、
なかでも鮎喰川下流域集団の影響が大きく、朱を媒介として交流が盛んに行われていたものと考えられる。

朱の搬出や食料供給に阿波南部地域集団が関係(菅原1992、岡山 2002)していたことを示す資料である。
0655日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 08:47:37.68
吉野川下流域地域で、あまり搬入土器が見られない現段階では、吉野川下流域地域を主体とし、

間接的に阿波南部地域が関わっていた場合と阿波南部地域が直接的に交流・交易を行っていた場合が考えられる。

そして、土佐のタタキ甕や布留式土器などが本遺跡で出土したことは、吉野川下流域地域を主体とした間接的な交流・交易を行いながら、

他地域との直接的な交流・交易も行っていた可能性を示していると推定される。
0656日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 08:56:04.61
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0657日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 09:20:55.27
4、周辺の遺跡の様相

本地域は発掘調査がほとんど行われていないため、資料数が少ないが、海部川河口砂堆に所在する大里松原神社遺跡において若干の土器が採集されている。

東阿波型土器や下川津B類時が出土しており、在地産土器と外来系土器が混在する状況を示している。

時期は大きく弥生時代後期後半と古墳時代前期初頭の2時期に分かれ、

この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、海人の存在が想定されている。(菅原1992)

この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに限られ、

出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。
0658日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 09:42:04.27
5、まとめ
芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。

県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、

本地域の集落形態の一様相が確認できた遺跡である。

また、弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、
出土状況・共伴関係の検討を行い、各搬入土器の搬入時期のピークを探った。

土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、一連の動きに若杉山遺跡(岡山1997)の朱が関わっていると考えられる。

本地域の発掘調査事例が芝遺跡に限られる現状では、搬入土器が普遍的に出土するのか、

芝遺跡の特異性なのか、判断しがたいが、

大里松原神社遺跡においても搬入土器が認められることは、
本地域に一定量の土器が搬入される状況があったことの傍証になるものと考えられる。

芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿いルートを想定できる遺跡であり、
海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。
0659日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 10:39:55.70
「弧帯文土器」

楯築繋がりとして

徳島県内では、銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる思想を表現した弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)

が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土した土器にみられる。
0660日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 11:49:30.21
「樋口遺跡」

弥生時代終末期の集落遺跡

眉山の南西の麓、園瀬川の自然堤防上に営まれた集落遺跡。1983年(昭和58年)以降数次にわたる発掘調査により、弥生時代の終末期の竪穴住居跡や奈良時代の掘立柱建物跡などが見つかっている。

竪穴住居跡からは土器や石器など多数の遺物が出土しており、中でも東阿波型土器が多く含まれる点は遺跡の大きな特徴である。

そのほか注目すべきは、赤い顔料である朱が付着した土器が多数出土していることである。これらの土器の分布範囲は広く、人々の交流が活発であった様子がわかる。

樋口遺跡の集落内には、幅広い交易に関わった人々が暮らしていたのであろう。

http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%C8%F5%B8%FD%B0%E4%C0%D7
0661日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 12:40:29.96
黒谷川郡頭遺跡:東阿波型土器 弥生時代後期の土器編年の標識遺跡

庄内式、布留式土器は畿内第X期東阿波型土器(薄型軽量土器)の技法伝播を示唆する。
0662日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 17:58:06.06
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。

中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。

企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。

類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。
0663日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 18:55:14.56
全国ニュースにならないような無駄な発掘ばかりやってるね
0664日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 21:02:13.98
神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。

西山谷2号墳は 標高74mの尾根上、
南北径20m、東西径18m・高さ2mの円墳
中央に南北方向の結晶片岩石積の竪穴式石室がある。
竪穴式石室は全長4.72m、北幅1.05m、南幅0.83m
墓壙は南北6.5m、東西4.8mで全体が結晶片岩で覆われている。
石室には粘土でつくられた棺台があり、刳抜式木棺があったと考えられている。
石室の床には水銀朱が塗られていて、特に北側が多量だった。
棺内北側から鉄鏃、ヤリガンナ、鉄剣、鉄斧、鉄片、青銅鏡など多くの副葬品が出土
棺外からは鉄槍や土器が出土した
3世紀半ばの築造と推定されている。
0665日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 21:06:30.55
神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、吉野川北岸阿波市の「建布都神社」で祀られている。

一方、長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。

長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。
0666日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 21:09:45.68
「天河別神社4号墳」 

以前は前方後円墳といわれていたが、径20〜25mの円墳と訂正されている。

埋葬部もほとんど消滅していたが、礫敷きの粘土槨に割竹形木棺があると考えられている。

舶載斜縁二神二獣鏡片・鉄剣・鉄槍・鉄鏃が副葬されていた。
0667日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 21:18:12.73
「蓮華谷古墳群(U)二号墳出土品」
当物件は、平成2年に四国縦貫自動車道建設に伴い発掘調査された板野郡板野町犬伏所在の蓮華谷古墳群(U)二号墳の出土品である。

調査により古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の粘土槨を持つ円墳であることが判明し、本県の粘土槨の始原を考える上で重要な古墳である。

副葬品には銅鏡1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄鉇1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、

徳島県立埋蔵文化財総合センターで展示されている。

前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は仿製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。

http://www.isekiwalker.com/iseki/149716/
0668日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 21:27:55.07
粘土槨絡みで

「四国初の並列粘土槨」  「石井の山ノ神古墳 墳丘と同時造成」 徳島新聞朝刊 平成30年3月1日

石井町教委は28日、古墳時代前期とみられる前方後円墳「山ノ神古墳」(同町石井)の後円部の墳頂で、木棺を粘土で包んだ埋葬施設「粘土槨」が2基並んだ状態で見つかったと発表した。

粘土槨が墳丘と同時並行で築かれたことも判明し、いずれも四国で初めての出土例。 専門家は「全国的にも珍しい事例で、古墳研究の基礎資料になる」としている。

粘土槨は、墳頂部の地表面から約50〜70cm下で発見された。箱形木棺(幅約1.15m)と割竹形木棺(約1.2m)とみられ、約1.1mの間隔を空けて置かれていた。

全国の豪族は長辺を南北に向ける配置が多いが、県内の他の古墳に見られる特徴と同じく、東西に向ける形で埋められていた。

先に墳丘を完成させ、後で土を掘って木棺を埋め戻す方法が一般的だが、山ノ神古墳では盛土の堆積状況から、墳丘と粘土槨が同時に造られたことが分かった。

同様の事例は国史跡の和泉黄金塚古墳(大阪府)など近畿地方にみられるが、四国では見つかっていなかった。古墳調査に詳しい兵庫県立考古博物館の石野博信名誉館長は「墓を造り、葬送儀礼をしてから墳丘を仕上げる過程が分かる珍しい事例。

徳島の古代文化の独自性や、近畿政権との関係を考える材料にもなる」としている。

山ノ神古墳は2014年に発掘調査を開始。全長57mで、前方後円墳としては県内3番目の規模であることが分かっている。17年には、前方後円墳に隣接する円墳周辺で、県内2例目となる筒型銅器が出土している。

この「山ノ神古墳」は、東隣に鎮座する「白鳥神社」と合わせて、「日本武尊」の陵墓とみられている。  @阿波
0669日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 21:47:02.26
「寺山3号墳は弥生の墳丘墓 邪馬台国期の特徴備える/徳島」

4世紀後半〜5世紀(古墳時代)の前方後方墳とされていた海陽町野江の寺山3号墳が3世紀初頭(弥生時代終末期)の墳丘墓とみられることが、県埋蔵文化財センターの菅原康夫専務理事の調査で分かった。

邪馬台国の時代に、県南部に大きな墓を築ける勢力があったとみられる。

寺山3号墳を含む寺山古墳群は、1977年にほ場整備計画が持ち上がり、79年の発掘調査後に水田の客土として削り取られて消滅した。

菅原専務理事は当時の写真や図面、出土品を基に、鳴門市大麻町の萩原墳丘墓に代表される弥生時代後期〜終末期の県内墳丘墓と比較した。

その結果、寺山3号墳(直径約12メートル)は規模は小さいものの、萩原墳丘墓(約20メートル)と同じ円丘で

▽頂上に石を並べて四方を囲んだ埋葬場所がある ▽墳丘の表面を積石で覆っている ▽徳島市の鮎喰川流域の集落で造られた「供献土器」が出土した−など七つの共通点を確認。「弥生墳丘墓と理解すべきであろう」と結論付けた。

破片が出土した中国鏡「内行花文鏡」の流入経路についても考察。「内行花文鏡」は萩原墳丘墓からも出土しており、「阿波枢要地域からもたらされた可能性が高い」とし、県北部の勢力とのつながりが深かったとみている。

兵庫県立考古博物館(同県播磨町)の石野博信名誉館長(81)=奈良県橿原市=は「邪馬台国の時代に、墳丘墓を造れるだけの勢力が徳島県南部にあったとは驚きだ。近畿と四国を結ぶ海路の拠点としての役割を担っていたのかもしれない」と話している。  
0670日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 23:03:34.55
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0671日本@名無史さん
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2018/10/24(水) 22:00:42.01
第10代 崇神天皇

御間城入彦五十瓊殖尊 (“みま”きいりびこいにえのすめらのみこと)

阿波には、昔、北の粟国と南の長国があったが、古代には西部にもう一つの国があった。

それが旧美馬郡(三好郡含む)の範囲で、元の「倭」国。

高天原(剣山地)から長の国に天下った天孫族が、粟の国に侵攻し(神武天皇)、

崇神天皇が初めてミマ地域に入り、磯城瑞籬宮を造営。

「ミマ城・入り彦」を名乗り、阿波国内を統一、これにより、

神武天皇は、『日本書紀』で 「始馭天下之天皇」 (はつくにしらすすめらみこと)

崇神天皇は、『古事記』で 「所知初国之御真木天皇」 (はつくにしらししみまきすめらみこと) と記された。
0672日本@名無史さん
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2018/10/24(水) 22:08:31.51
四国説は畿内説より優位だと思う
0673日本@名無史さん
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2018/10/24(水) 23:15:55.92
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0674日本@名無史さん
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2018/10/25(木) 05:56:32.81
>>672
>四国説は畿内説より優位だと思う


申し訳ないけど、倭国(阿波)は九州説よりも断然優位です。 優位というよりも、倭国(阿波)以外は有り得ません。  @阿波
0676日本@名無史さん
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2018/10/25(木) 09:58:18.98
「天河別神社古墳群1号墳 県内最古の古墳を確認」

鳴門市教育委員会では県指定史跡である天河別神社古墳群1号墳の二次発掘調査を今年7月から行った結果、墳丘墓の特徴を残す県内最古の古墳であることがわかりました。

1.尾根上に青石を多用し石室を築造

大津町から板野郡板野町にかけての阿讃山脈からのびる尾根には、弥生時代末期から古墳時代前期の墳丘墓や古墳が数多くみられます。
天河別神社古墳群は、この地域の中央部にあたる大麻町池谷の低い尾根上に築造されています。
天河別神社古墳群1号墳は、以前の調査で存在が確認された11基の古墳のうちのひとつで、天河別神社本殿の背後にある直径約25m、高さ3.5m、幅4mの周壕(堀)をもつ円墳です。
昨年の調査の結果、石室には吉野川南岸で採取される結晶片岩(青石)が使われていることがわかりました。
当時、天河別神社古墳群周辺には入り江が入り込み、この石材は吉野川南岸の地域から船で運ばれてきたと考えられます。
0677日本@名無史さん
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2018/10/25(木) 09:58:52.54
2.側壁が二重の竪穴式石室

石室は古墳の中心部に良好な状態で残っており、右の模式図のように内側の大きさは、南北に約4.9m、東西に約1.1mで高さは約1.2m。被葬者は、頭を北側に向けて埋葬されていたと考えられます。
古墳の構造は、墳丘の上半分が頂部を平坦に削りだした後、墓壙(墓穴)を堀り、平坦面から上部は盛り土を施した後に内部を被覆土で充てんしています。 
墓壙の平坦面の上には石室が築かれています。石室の底(床面)の下部構造は一番下に、断面が台形状の土の「基台」があり、それを覆い隠すように粘土に小ぶりの川原石を混ぜた礫混粘土をはり付けて、「礫床」をつくっていました。
その上の棺を置くため粘土棺床は約40cmと厚く、2回に分けられてはられていました。その上には、やや大きめの河原石を使った礫混粘土が積み上げられ「礫混粘土帯」ができていました。
上部構造としては、礫混粘土帯の上に結晶片岩(青石)の「板石積み」の側壁があり、側壁はやや内側に傾斜を持たせながら積み上げられ、持ち送り状に積まれていました。
また、側壁の外には結晶片岩と砂岩でできた石囲いが石室を囲んでおり、二重構造になっています。石囲いに接する西側には「板石敷き遺構」が見つかりました。天井は石室上面の配石状況の高さから木のふたによって閉じられていたことが想定されます。
木棺や遺骨などはすでに腐食してしまい見つかりませんでしたが、石室内からは鉄剣と古墳時代最初期に作られたとみられる土器の破片が見つかっています。

3.近畿地方の竪穴式  石室の起源とする説も

これまでは平成12年に発掘調査された大麻町大谷の西山谷2号墳が県内最古の古墳であり、国内最古級であるとされてきました。
しかし天河別神社1号墳は(1)西山谷2号墳では一部しか見られなかった石室側壁の二重構造が石室を全周していること(2)副葬品が少ないことなどから、さらに数十年古い3世紀後半に築かれたものであると推定されています。
また、この2例の築造年代は土器の破片などから近畿地方で見られる同様の竪穴式石室よりも古い時代であることがわかってきました。
これは近畿地方の竪穴式石室の起源が現在の徳島県と香川県にあたる阿讃地域にあるとする仮説を裏付ける発見であると考えられています。
0678日本@名無史さん
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2018/10/25(木) 12:12:05.89
萩原墳墓群は古墳時代以前の築造なので「古墳」と呼ばずに墳墓群と呼ぶので、県内最古の「古墳」とはならず、天河別神社古墳群が県内最古の「古墳」となるそうです。
0679日本@名無史さん
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2018/10/25(木) 16:42:46.07
阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。

「石棒」

石棒は縄文時代を代表する石器である。実用品ではなく儀礼に用いられたと考えられている。

縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県

にいたるまでの今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。

この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡が、その一大製作遺跡であると考えられている。   
0680日本@名無史さん
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2018/10/25(木) 16:53:00.78
石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡・名東遺跡付近に接してそびえる眉山には、紅簾片岩の露頭が確認でき、

この紅簾片岩製石棒と神戸市戎町遺跡・同市大開遺跡・八尾南遺跡・滋賀県米原町磯山城遺跡の出土資料とを比較検討すると、それぞれが非常に類似している。

また、各地に分布する石棒の時期が、ほぼ縄文時代晩期末〜弥生時代前期初頭の土器型式で2型式間にも満たない短期間に集中することが明らかになり、

三谷遺跡・名東遺跡の存続期間とほぼ一致することが確認された。さらに、石棒が近畿地方最古の環濠集落である神戸市大開遺跡をはじめとする初期の弥生集落でも出土することをうけ、

近畿・東部瀬戸内地域における「弥生集落」の形成は、「渡来人」「移住者」のみならず、在地の人々による積極的な関与があったと考察される。
0681日本@名無史さん
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2018/10/25(木) 17:01:57.31
石棒は縄文時代を代表する石器である。実用品ではなく儀礼に用いられたと考えられている。縄文中期の東日本において盛行し、中期末以降西日本にも流入する。

縄文後期中葉以降、新たに石刃・石剣・小型石棒などの、刀剣型石製品が盛行すると、石棒はやや衰退する。近畿地方や中国地方においても、刀剣型石製品は盛行する。

近畿地方では、概ね1県に1遺跡程度の製作遺跡が確認されている。石材は多様で、頁岩・粘板岩・フォルンフェルス・結晶片岩などが使用される。

これらは、縄文晩期の中葉〜後葉にさしかかるころ、一度衰退するが、縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。

この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、徳島市三谷遺跡が、その一大製作遺跡であると考えられている。
0682日本@名無史さん
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2018/10/25(木) 18:39:58.56
「柱状片刃石斧」
弥生時代前期から中期のはじめにかけて、緑色片岩製柱状片刃石斧が、大阪湾から東部瀬戸内沿岸地域に流通する。

弥生中期後半、青色片岩製の柱状片刃石斧が近畿〜東部瀬戸内地域一帯に多量に流通する。

この青色片岩は、三波川帯でも、とくに眉山と高越山において、特徴的かつ大量に産出することが知られている。

この生産・使用を始めたのは、弥生中期前葉・中葉の吉野川中流北岸の河岸段丘上に住む人々である。阿波市日吉谷遺跡、同桜ノ岡遺跡、同赤坂V遺跡などで未製品が出土している。

弥生中期後葉にいたって、これらは下流域の徳島市南庄遺跡でも生産されるようになる。

南庄遺跡での生産が活発化して以降、藍閃石―塩基性片岩製の柱状片刃石斧は、広域に流通することが知られている。

東かがわ市池の奥遺跡、同成重遺跡、善通寺市旧練兵場遺跡、和泉市池上曽根遺跡などに多量にもたらされており、これらの遺跡を起点に、さらに流通していったものと考えられよう。

現時点で確認できた分布範囲は、奈良(磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡)・大阪(茨木市東奈良遺跡、岸和田市畑遺跡、同下池田遺跡、東大阪市巨魔遺跡など)

・和歌山(和歌山市太田黒田遺跡、みなべ町青蓮谷遺跡など) ・兵庫(神戸市玉津中遺跡、同伯母野山遺跡、姫路市丁・柳ケ瀬遺跡、同大山神社遺跡、

三田市奈カリ予遺跡、同有鼻遺跡など)・岡山(赤盤市用木山遺跡など)・香川(三豊市紫雲出山遺跡)におよぶ。

愛媛県でも、点々と見かけることがある。沿岸部だけでなく、内陸部の奈良、兵庫県の三田盆地などにも流通する。
0683日本@名無史さん
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2018/10/26(金) 09:28:52.26
徳島市は古代はすっぽり海
多くの人は住めないし
どこで農業やってたんだって話
0684日本@名無史さん
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2018/10/26(金) 16:57:23.84
>>683
>徳島市は古代はすっぽり海

たしかに、徳島市はすっぽり海だよ。
倭国(阿波)の中心は徳島市より内陸側の国府町・石井町・板野町・鳴門市・小松島市など。
そして、倭国(阿波)の大河流域には古代集落遺跡ばかりだよ。
もうすこし、倭国(阿波)の自然・地理を勉強しようね。  @阿波
0685日本@名無史さん
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2018/10/26(金) 17:22:02.02
「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。  @阿波

※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡

【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・深瀬遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡          

【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡
0686日本@名無史さん
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2018/10/26(金) 20:21:38.67
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0687日本@名無史さん
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2018/10/26(金) 22:20:18.48
>>683
そもそも日本は漁業の国だよ
0688日本@名無史さん
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2018/10/26(金) 22:31:41.33
原始漁法の素潜りなどは、やはり温暖な海に限るね。  @阿波
0689日本@名無史さん
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2018/10/26(金) 22:40:15.78
息長一族は素潜りが得意な倭国(阿波)の海人族だったんだろうね。  @阿波
0690日本@名無史さん
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2018/10/27(土) 08:12:50.07
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0691日本@名無史さん
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2018/10/27(土) 12:42:05.67
>>787
魚だけで七万戸が生活できるのか?
0692日本@名無史さん
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2018/10/27(土) 18:05:51.13
そんなの広さによるだろ
0693日本@名無史さん
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2018/10/27(土) 19:22:10.56
農地がほとんどないのに粟国
オオゲツヒメ(農業神)とは摩訶不思議
0694日本@名無史さん
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2018/10/28(日) 06:35:07.14
>>693
>農地がほとんどないのに粟国
>オオゲツヒメ(農業神)とは摩訶不思議

それは、倭国(阿波)の自然・地理を知らないからくる不思議だよ。  
古代人にとって倭国(阿波)は生活する上で最良の土地なのである。  @阿波
0695日本@名無史さん
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2018/10/28(日) 08:14:41.86
広さ的に香川も含めて邪馬台国ならわからないでもない
0697日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 12:00:27.48
七万戸を食わすには相当食料が必要
0698日本@名無史さん
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2018/10/28(日) 14:09:42.17
邪馬台国が阿波だとして後の阿波国と全く同じ領土と考える方がおかしい
どこからどこまでが邪馬台国なんてわかるわけがないんだから
人口的にあり得ないと考える方があり得ない

反論するならちゃんとしよう
0699日本@名無史さん
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2018/10/28(日) 20:48:08.13
>>698
>人口的にあり得ないと考える方があり得ない

そうですね。
まぁ、倭国(阿波)にケチをつけるとしたら、人口ぐらいしか思いつかないから仕方がないんだろうがw  @阿波
0700日本@名無史さん
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2018/10/29(月) 12:23:36.25
弥生人にとって、「阿波」はまさに理想の土地。

温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み

県北部(邪馬台国)には、銅、泥質片岩、緑色片岩、翡翠、蛇紋岩、紅蓮石

県南部(狗奴国)には、辰砂が採れる。

阿波に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、当然といえば当然。   @阿波
0701日本@名無史さん
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2018/10/29(月) 12:57:24.91
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0704日本@名無史さん
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2018/10/29(月) 17:51:53.17
>>703
>讃岐は当時何国?

卑弥呼の時代は讃岐・淡路島ぐらいが倭国(阿波)の範疇だろう。  @阿波
0705日本@名無史さん
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2018/10/29(月) 20:42:54.27
「土製仮面」はこれまでに全国で約120点見つかっているが、出土地点は阿波国の矢野遺跡が最西端に位置する。

同遺跡は縄文時代から中世にかけての県内有数の複合遺跡で、調査の結果、「土製仮面」は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。

この「土製仮面」作成時期も国内では最古のクラスにあたる。「貝製仮面」は5000年前の物が九州からも発見されているようだが、土製のモノはこれが最古級である。

「土製仮面」の使われた時期と地域の偏りから、今の状況では四国東部から発生し、近畿・中部・東北方面へと伝播していったことが明確である。

用途としては、土偶、石棒などが同時に出土している事を考えると、祭祀の時に使われたと考えるのが妥当である。

また、仮面表面の多数の穴の跡は、後年の魏志倭人伝にも「男子無大小,皆面黥面文身」とあるように入墨(文身)を表したものであろう。

さて、神武東征の際に活躍した「大久米命(おおくめのみこと)」が黥面だったことが古事記に記載されている。 「大久米命」は神武東征に随行した久米一族の祖神にあたる。

久米一族については、石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。

一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。

一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。

さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。

まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。






「矢野遺跡」
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%CC%F0%CC%EE%B0%E4%C0%D7
0706日本@名無史さん
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2018/10/30(火) 12:22:38.78
倭迹迹日百襲姫命の父にあたる第七代孝霊天皇の陵墓と黒田廬戸宮跡は、旧黒田村であった徳島市国府町芝原の蔵殊院あたり、

百襲姫の弟君にあたる日子刺肩別命は、蔵殊院から東に5km隔てた徳島市不動町の式内天佐自能和気神社で祀られている。

王族らによる阿波(倭)から讃岐(山背・難波)への進出は、孝霊天皇の御子時代から盛んになり、

第十五代応神天皇の御宇に至って、ついに香川県さぬき市津田の「前期難波宮」に皇居を営むことになる。
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