邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]©2ch.net
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今のところマイナー派ですが、神懸かりして語りましょう。 阿讃山脈に大坂峠があるが、もしかして大阪のルーツなのか? >>757
古志だぞ
越前は後の時代の名前だからな ↑
他説を凌駕する、倭国(阿波)の圧倒的考古資料 @阿波 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 阿波から奈良大倭への遷都(7世紀後半〜710年)によって、忌部の本家は阿波に留まる一方、その一部が奈良大倭に渡り、
やがて諸国の忌部を統括することになる。これが中央忌部である。阿波に残った忌部の本家は、同家の本源的職掌である
麁布・木綿及び高天原の山の幸を由加物として、践祚大嘗祭の度ごとに新都に送った。母国からの調進である。
忌部の本家が阿波に残った理由は、天照大神以来、天孫(天皇)の祭祀に必要な神具は「高天原で採取調整されなければならない」という、
天岩屋戸神話に由来する神典を墨守したからである。
「由加物使」一行が阿波から京に向かうに、通過する国々の道路は掃き清められ、国司らが出迎えるという『延喜式』の別格規定は、
高天原から新都に向かう「宗国からの使」という意味からである。また、「麁布」がすべての貢進物の中で、唯一神祇官扱いになるなど、
超絶した扱いとなっているのは、記紀神話で、天照大神が高天原において機織女を召して織らしめ、また大神自らも織られたとする
「神御衣」と見立てているからであり、それを忌部の本家(阿波忌部)が、畏れ多くも代行厳修し、麁布として織り上げたものを、
新天皇が践祚大嘗祭に奉奠して天照大神にお示しし、大神から、日嗣の認承を賜る「物実」(正当な皇位継承者であることを大神の御前で証明するための品)
と観念されたからである。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
麻といえば、阿波忌部。
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 倭人伝にも「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり」とある。
縄文時代晩期末より、主に倭国(阿波)の海人族の大人らが東は関東、西は九州、北は北陸まで全国を移動し、
子孫や一族らによる新地開拓や移住・婚姻によって、列島全域に勢力を伸ばした。
また同時に、石器、青銅器、鉄器、朱、農耕技術や軽量薄型土器、墳墓築造などの先進文化・技術を全国に広めていったのである。 @阿波 阿波忌部って大和朝廷から派遣されたんじゃないのか?
忌部のルーツが阿波の根拠は何 >>768
>阿波忌部って大和朝廷から派遣されたんじゃないのか?
それは古語拾遺(斎部広成)の誤り。
>忌部のルーツが阿波の根拠は何
それは、古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団(広義の忌部一族)が「阿波」に居た痕跡から。
ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 「倭国(阿波)の最先端文化・技術」 九州や畿内などとの圧倒的な文化・技術の差ですね。 @阿波
@勾玉
A軽量薄型土器
B前方後円墳
C水銀朱
D緑色片岩製柱状片刃石斧
E泥質片岩製石棒
FT類鉄鍛冶炉
その他いっぱい 弥生人にとって、「阿波」はまさに理想の土地。
温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み
県北部(邪馬台国)には、銅、泥質片岩、緑色片岩、翡翠、蛇紋岩、紅蓮石
県南部(狗奴国)には、辰砂が採れる。
阿波に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、当然といえば当然。 @阿波 >>18
ブラタモリ
とうとう残すは徳島だけ
避けられていたのか、大トリ扱いなのか 白鳳地震の記録が残ってること自体が答えじゃないの
よその国の地震の記録なんて残さないだろうし >>775
>白鳳地震の記録が残ってること自体が答えじゃないの
そうだね。東海・南海・西海諸道〔白鳳地震〕からして、九州や奈良はあえなく落選。 @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 四国88か所の寺の下が怪しいわ
やばいもんでてくるだろう 倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を倭国(阿波)内各地で実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
また、朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧も出土している。
「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。 @阿波 『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。
この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。
この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。 @阿波 /_________ヽ
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|| ||彡⌒ ミ|| 札幌ひばりが丘病院を
|| ||(´・ω・)|| 麻薬取締法違反で送検
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>>781足利茶々丸
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
麻といえば、阿波忌部。
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 「田上郷戸籍断簡」は日本で最初の戸籍。
この中に「建部」と見えますが「建部」とは景行天皇御宇に日本武尊命の功名を記録しようと定められた御名代部です。
「建部」は日本武尊命の西討東伐の道筋に置かれました。
この「田上郷戸籍断簡」には11名の「建部」が見えます。
阿波に日本最古の戸籍。
阿波に「建部」
阿波ってなに? @阿波 奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
http://awakouko.info/modules/webphoto/index.php/photo/203/ 阿波って綿のことだったのか
綿花の畑が広大にあったとか
哀れみ、生口とか思ってたよ
綿花の方が美しくていいな 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 徳島の農業生産力を疑っている人がいるようだが
今年3月に四国山脈(徳島及び高知の東側)の高地農業が世界農業遺産に登録されたのを
知らないのかね? 徳島の高地集落の写真をネットで検索してごらん
30度以上の傾斜地でも作物を生産しているよ
中世に京都の食料を供給したのは徳島がダントツであるのは文献研究で確認されている
平野部が少ないというだけで判断してたら落第点だね 県西部の急傾斜地農法 「世界農業遺産」に認定 徳島新聞朝刊 平成30年 3月10日
傾斜地農耕システムは、斜度40度にも及ぶ急斜面の畑で急斜面を水平に利用するのではなく、急斜面のまま作物を育てる独自の農法で、
美馬・三好・つるぎ・東みよしの各市町で雑穀や野菜を生産している。 日照量に応じて作物を選び、カヤを土壌流失の防止に役立ててきた。
カヤ場と呼ばれる採草地を確保し、秋にはカヤ刈り、「コエグロ」を作る。先人たちの知恵と技術、工夫が今の剣山系の傾斜地に詰まっている。
急傾斜の畑は、雨などの影響で土が流出しやすいことから、カヤを土にすき込んだり、畝と畝の間に敷き詰めたりする工夫が生み出された。
大型機械は使用できないため、流れ出た土をかき上げる6本刃の鍬「サラエ」など独自の農具も開発された。
栽培されているのは、ソバやアワなどの雑穀やジャガイモ、ハクサイといった野菜のほか果物など少量多品目の作物。
シコクビエやタカキビなど地域固有の品種も生産している。 乾燥させるために刈り取ったカヤを円錐状に束ねて肥料や飼料を保存する「コエグロ」は、
「カヤグロ」とも言われ、地域の冬の風物詩にもなっている。
阿波では古来より、県西部の剣山系山岳集落を指して「空・ソラ」と呼ぶ。 まさにそこは、高天原「空・ソラ」の地なのである。 @阿波 福井県にある「織田剣神社」の事、知ってますか?
TVでも放映されましたが、織田信長の本家筋ですよね。信長の氏神様です。
福井県知事による当神社の由緒書には「先祖は当神社に代々奉職した神官忌部氏である」と
と書かれています。
中央忌部と阿波忌部の上下関係に誤解があるようですが記録として文書で確認できる
範囲では、阿波忌部の長の位階は中央忌部よりも上位にあります。
長い歴史の中で阿波忌部の長の最高位階は「従4位の下」のようですね。
7位までが天皇に謁見できた高位の貴族たちですが、これら貴族の人数は70〜110人ぐらいですね。
当然、阿波忌部の長は当時の阿波国に住んでいました。多い時は、阿波に住んでいた
忌部族殿上人は10人を超えてたようです。
「中央忌部」なる名称は後世の学者どもが勝手に作った造語で、歴史認識を
誤らせる所業だと思います
忌部族は四国山脈内で力を蓄えた「もともとの阿波人」ですよ。
忌部の祖先である「太玉命が忌部族を阿波に遣わした」ような構成になっていますが
四国山中(高天原)から阿波国(今の阿波市:徳島西部の狭い地域)に送り出したのであって
奈良大和から徳島全県を意味する「阿波国」へ派遣したのではありません。
騙されないように気をつけましょうね。 仮に奈良からの派遣だとして
四国の山奥に天皇家の重要出入り業者を置くかね?
今でこそ日帰りできるが、当時は何日もかかるし、命がけじゃないのか ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 阿波は粟であり大宜都、大きな2つの戸の意味で、大分・浮田・讃岐・都月・新月満月・青根・阿殘山脈・楽浪・二つの大きな波・二つの月とも言えるけど
確か、綿花裁倍も盛んだったような歌があった。眉山に干した白い衣の様子を歌った ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 吉野川で翡翠が取れたんだってよ
邪馬台国に一歩近づいた 今年7月に、来年の新天皇即位に際しての践祚大嘗祭に供される「アラタエ」の
準備進捗状況を確認いたしたく徳島木屋平の三木氏の館を訪問しました。
三木氏は阿波忌部の直系子孫の家系の方ですね。
標高600M程の山上にあります。
新たに麻を植える畑の造成工事の最中でした。
私は県外居住の者なので県外ナンバーの車で乗りいれたのですが、作業を行っていた
方々から親しくお話を聞くことができました。
皆さん方は多分忌部族系統の人たちのようです。
その時に伺った話の一部です。
6月に皇太子殿下が徳島を訪問されていましたが、宮内庁・県庁の説明は県南にある
大津波の記念碑の視察だそうです。
然しながら、殿下は「来年の天皇即位の前に是非とも徳島を訪れたい」との強い意向にての
日帰りの訪問でした。
その近在に矢鉾神社があります。殿下が皇太子になられたとき公式訪問をされた
神社ですよね。立派な記念碑があります。
この神社にお忍びで再度訪問されたような話を忌部系統と思われる木屋平の人が教えてくれました。
矢鉾神社のご祭神はわかりますよね?
日本全国にこのご祭神を祀る神社は数多ありますが、何故わざわざ殿下が徳島の小さな矢鉾神社を
訪問されるのでしょうね。ガタイの大きい、矢鉾神を祭祀する、神社は他地域に沢山あるのにね。
公務でお忙しい身の方が、津波の記念碑視察だけを目的に日帰りで訪問されるなど考えられません。
あからさまに出来ない理由があるのでしょうね。日本にも様々な人たちがおり利害関係もありますからね。 どこそこ、誰々は、偽の〜〜〜〜を祀っている
と
有名な話みたいだし テレビとか観ているの?
なぜ人(他人)の家の話を、自分の家の事かのように語っているんだ?とか
そういう話 >>797
>日本全国にこのご祭神を祀る神社は数多ありますが、
「八鉾神社」は大国主神を祀る、全国唯一の延喜式内社ですよ。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。 @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR まず、お前たちの言う天皇というのは何なんだ?
説明してみて
テレビに出てくる人? >>803
>まず、お前たちの言う天皇というのは何なんだ?
「忌部はん」 @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 三木家の存在が証左だろうな
天皇は四国の山脈から降りてきた部族
かっこ悪いから天孫降臨と呼んだ 山の民と海の民との交流―水運
三木 信夫
道が整備されていない古代迄の交通路は,水運が徐々に発達し,すでに縄文時代には鳴門市からこの阿南市・海陽町にかけて海運交通のあったことが遺跡からみられます。
阿南市の若杉山遺跡は,弥生時代に赤い顔料の水銀朱をつくるため,全国唯一の辰砂(しんしゃ)の原産地遺跡でした。
辰砂=水銀と硫黄化合物の鉱石,辰砂を粉砕して水銀朱を取り出す。
弥生時代から古墳時代を中心に,遺骸や棺に朱色を塗る風習が盛んに行われて,水銀朱は朱・丹等と呼ばれ使用流通したのです。
この遺跡をみますと,板野郡板野町の黒谷川郡頭(こうず)遺跡や名東遺跡などから朱の精製用具等が発見されており,弥生時代終末期(西暦200年頃)の若杉山辰砂が,海や河川を利用して運ばれております。
若杉山遺跡にある土器類も,吉野川流域土器や鮎喰川上流の結晶片岩の混在した土器,また畿内的土器など各地の土器が混在しており,河川や海を通じて運び込まれています。
すでに若杉山遺跡には,辰砂を運び出す人や食料等を運び入れる人等の組織化された海上交通に関わる集団がいたとも考えられています。
古代に下りますと,都を起点に諸方に陸上交通である宿駅が整備され,駅路すなわち国道がつくられていきます。
阿波でも鳴門の撫養から讃岐・伊予・土佐に抜ける南海道と呼ばれる国道があり,それ以外に阿波国から土佐国へ通じる駅路の国道が,おおよそ現在の国道55号線沿いに阿南市から海陽町までの海岸沿いを,
奈良時代初期の養老2年(718)設置され,平安時代初期の延暦15年(796)廃止されるまで,水上交通路と並行して多くの港や津を経て延びていたのです。
「津」とは陸上交通路と水上交通路が交わる人の集まる交通の要衝に,物資の集積拠点として形成されたものです。 平安時代972年の延喜式大嘗祭式には,阿波国より麻植郡の忌部氏と那賀郡が由加物すなわちお供え物を調進する事になっていました。
この事は古代より忌部の山の世界と那賀郡の海の世界との「人・物の交流」があり,拠点が水運を利用した吉野川中流域山崎の津であったと考えられます。
大分すたれてきましたが,吉野川中流域の人達は,南西の方角,剣山(つるぎさん)を中心とした四国山地の方向を指して「ソラ」または「ソラの人」と呼んでいました。
この場合の「ソラ」とは「山」の事です。旧麻植郡山地部の大半を占める旧種野山内にある三木山の頂上近くにある三木家周辺は,
古くより「空地(そらのち)」と呼ばれ,地名も「大字三ツ木字空地」となっていましたが,近年の国の地名編成で大字が削除され「字」が「貢」に変更された為,地名から「空地」が消えたのです。
この「ソラノチ」への入り口が,吉野川中流域の旧忌部神社がある山崎の地で,山への入り口でもあり,古代より中世まではこのソラ(山)への交通路の起点となっていました。
その為古くからこの山崎は忌部神社の門前市(いち)を通じて吉野川を経由した海の民・平野の民とソラ(山)の民との物産の交易の場として津が形成され,ソラの世界の発展と共に成長してきております。
船を自由に操り水運にたけた海の民が,交易の場に情報や文化を共に運んで麻植の忌部やソラの民を支えてきたのかもわかりません。 美馬は美しい馬
邪馬台国はよこしまな馬
に、匂うぞ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 銅鐸の使用方法と銅鐸衰退の理由を述べよ
周や三国時代に海外と直接交流したと言える物証は? 中国と直接交渉したのは帥升が初だろうな。
中国皇帝は謁見してくれなかったけど。
次が卑弥呼やろね。 おはようございます
四国って
伊都国か耶(韓国カヤ)の末裔じゃないかな
まえに韓国カヤ時代の城壁みて
どこかで見たなあと思ってたら
四国の古墳の石の積みかたと似ていた
韓国カヤ→伊都カヤ→四国かも
韓国と似た地名もある
ただし、私の妄想ですけど。 >>818
>韓国カヤ→伊都カヤ→四国かも
朝鮮半島まで鉄鍛冶素材を取りに行ってるから、運搬ルートはそうだろうね。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 忌部はいつ中臣に負けたの?
んで四国で立場を失って、黒潮に乗って関東を開拓したんだ? >>821
>忌部はいつ中臣に負けたの?
中臣氏も蘇我氏も元はすべて「忌部はん」 。 「忌部はん」 の内、忌部氏が中臣氏に負けたのは中臣鎌足の頃だろう。
>んで四国で立場を失って、黒潮に乗って関東を開拓したんだ?
関東や日本海を開拓したのは、古墳時代のお話。 @阿波 倭人伝にも「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり」とある。
縄文時代晩期末より、主に倭国(阿波)の海人族の大人らが東は関東、西は九州、北は北陸まで全国を移動し、
子孫や一族らによる新地開拓や移住・婚姻によって、列島全域に勢力を伸ばした。
また同時に、石器、青銅器、鉄器、朱、農耕技術や軽量薄型土器、墳墓築造などの先進文化・技術を全国に広めていったのである。 まあ、いろいろあちこち読んでみると
「魏志倭人伝に書かれた邪馬台国」は
やっぱ九州だったんだろうな。
でも当時出雲から近畿
四国にもなんらかの勢力はあった。
それを全部
「ウチが邪馬台国じゃあ」って言ってるのが
邪馬台国論争。
ど素人の俺の見解w。 >>824
>まあ、いろいろあちこち読んでみると
>「魏志倭人伝に書かれた邪馬台国」は
>やっぱ九州だったんだろうな。
「やっぱり九州」と思う理由、聞かせてPlease。 @阿波 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. いやそれが正論だと思う
真実はどこなのか考えるのが楽しいな >>830
今でも十分だよ。 少し分けようか? @阿波 「徳島県阿南市水井町若杉山遺跡」・「丹波坑口」・「長生町奥ノ谷遺跡」
出土遺物
@石器(石臼・石杵)
A土器
甕・広口壺・二重口縁壺、小型丸底鉢、鉢、高杯、器台=生活用具のほとんどがそろっている
小型丸底坩(弥生X様式後半〜布留式まで)庄内式並行期がほとんど
土器胎土(結晶片岩・石英・雲母)
B玉類
蛇紋岩製勾玉
C鉄製品
刀子・不明鉄製品(やりかんな?)
D自然遺物
貝片・獣魚骨・人骨片
想定される生産形態
・土器以外の生活用具が少ないが、生活用具のほとんどが揃っている
・籾痕の付いた土器や鹿・猪・貝類=一定期間生活
・岩盤直上に営まれる→近くの集落の人間が農閑期に行う特産的生産レベルのものではなく、
分業化された専門工人集団の生産
・ハマグリ・オキアサリの成長線分析→採取時期は夏期後半から秋期後半
若杉山遺跡の採掘作業は、夏季後半から秋季後半に行われていた可能性
(徳島県立博物館1997・岡山1998) 鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津
・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。
板野・鳴門古墳群
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 俺は徳島阿波の人間なんだけど
昔から居たよ邪馬台国阿波説のオッサン
小中学生の俺は何をトンデモ説を言ってんだこのオッサンと思ってたが
知識を蓄えた上でこのスレの阿波さんの話聞いたら
教団に入会したくなった >>835
>阿波は状況証拠ばかりで決め手が無い
もしかして、その「決めて」って、みなさん得意の「トンデモ妄想」のこと?
それにはとても太刀打ちできません。 @阿波 「蓮華谷古墳群」
当物件は、平成2年に四国縦貫自動車道建設に伴い発掘調査された板野郡板野町犬伏所在の蓮華谷古墳群(U)二号墳の出土品である。
調査により古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の粘土槨を持つ円墳であることが判明し、本県の粘土槨の始原を考える上で重要な古墳である。
副葬品には銅鏡1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄鉇1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、徳島県立埋蔵文化財総合センターで展示されている。
前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は仿製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
蓮華谷古墳群(U)二号墳出土品
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/renge.html 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>843
>阿波が脚光浴びないのはやっぱり宮内庁のせい?
いや、それよりも徳島県歴史教育関係機関のせい。 @阿波 明治天皇が眉山に神武天皇像を作らせたってマジ?
なぜ? 「私は眉山(以の山)が古代天皇、古代皇族所縁の聖なる山であるからと考えています。」
天皇家はその真実を知っているから・・・
因みに宮崎は個人建立の営業用だとかw @阿波 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 阿波は存在ごと隠さないと皇族とユダヤの関係がバレてしまう 大嘗祭の三種の御前のソースって道は阿波より始まる だけ? 林 博章(はやし ひろあき)
平安時代972年の延喜式大嘗祭式には,阿波国より麻植郡の忌部氏と那賀郡が由加物すなわちお供え物を調進する事になっていました。
この事は古代より忌部の山の世界と那賀郡の海の世界との「人・物の交流」があり,拠点が水運を利用した吉野川中流域山崎の津であったと考えられます。
大分すたれてきましたが,吉野川中流域の人達は,南西の方角,剣山(つるぎさん)を中心とした四国山地の方向を指して「ソラ」または「ソラの人」と呼んでいました。
この場合の「ソラ」とは「山」の事です。旧麻植郡山地部の大半を占める旧種野山内にある三木山の頂上近くにある三木家周辺は,古くより「空地(そらのち)」と呼ばれ,
地名も「大字三ツ木字空地」となっていましたが,近年の国の地名編成で大字が削除され「字」が「貢」に変更された為,地名から「空地」が消えたのです。
この「ソラノチ」への入り口が,吉野川中流域の旧忌部神社がある山崎の地で,山への入り口でもあり,古代より中世まではこのソラ(山)への交通路の起点となっていました。
その為古くからこの山崎は忌部神社の門前市(いち)を通じて吉野川を経由した海の民・平野の民とソラ(山)の民との物産の交易の場として津が形成され,ソラの世界の発展と共に成長してきております。
船を自由に操り水運にたけた海の民が,交易の場に情報や文化を共に運んで麻植の忌部やソラの民を支えてきたのかもわかりません。 新天皇の即位後、最初に行う皇室の重要儀式「大嘗祭」では、阿波の氏族「阿波忌部」が麻で織った反物「麁布(あらたえ)」を調進してきた歴史がある。
阿波忌部の子孫として大嘗祭に関わった旧家の古文書や貴族の日記から、阿波と朝廷祭事のつながりを紹介する。
阿波忌部の子孫と伝わる旧家は、美馬市木屋平の三木家住宅(国指定重要文化財)当主の三木信夫さんだ。
大嘗祭の祭祀具である麁布との関りを示す古文書(県指定文化財)を所有している。
古文書からは、三木さんの先祖が13〜14世紀の亀山・後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明の各天皇に、麁布を調進(朝廷から頼まれて作り納める意味)したとされる。
どの文書にも、天皇の命を受けた都の役所が、阿波忌部に麁布の制作を頼むため、阿波国司に天皇の使者、勅使を送るという内容が記されているそうだ。
「大嘗祭の儀式は、平安時代の法令集『延喜式』でわかる。しかし、麁布を調進する際の手順は古文書でしかわからない」と三木さん。
大嘗祭は、南北朝〜江戸時代の政情不安時は中断したほか、行われた時も阿波の麁布が調進されないことがあっという。
「そうした時は、朝廷の役人が阿波忌部の代行を務めたことを示すため、麻布に『忌部所作代』と表示した」
また、南北朝時代の光明天皇以来、577年ぶりに阿波忌部の麁布調進を復活させたのが大正天皇の大嘗祭だった。
信夫さんの祖父宗治郎さんが携わり、昭和天皇にも調進。信夫さんも1990年11月、地域住民の協力を得て今上天皇の大嘗祭で奉仕した。
阿波忌部と麁布を巡る文献では、大和朝廷の初期から51代平城天皇まで麁布を調進したと記している平安時代の「古語拾遺」(807年)もある。
「これら2点が出た後、しばらくは資料が見つからない。そして11世紀になると、貴族の日記から分かるようになる」と言うのは、中世史研究者で県埋蔵文化財センターの福家清司理事長。
後鳥羽天皇に関する「山槐紀」(1184年)には「阿波の荒妙神服(あらたえかむみそ)の事だが、平家が四国に居て交通が途絶。期限のあることについてどうするのか」などと書かれているという。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. せっかく遊びに来てやったのに、三年経って1スレ消化してないって舐めてんのかよw
マイナーっていうかトンデモだろw
畿内説カルト以下w 阿波には真っ黒い顔した汚い坑夫の
寂れた集落があっただけ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています