>>965
四国とおんなじで、福岡はなんでも取り込んでしまうのな。
安曇は住之江のタモミ族(津守氏)の分かれで、住之江の隣の難波あたりを支配した。
朝廷の命によってその分家が志賀の現地で綿津見を祀る役目を担った。
そして安曇の姓ができ、志賀で意地を張った分家が阿曇と別字を使ったということだろう。
それでも、阿はア音であり、安曇の一党であることは残した。
まあ、そんなところだ。
ちなみに綿津見は、元々は南九州阿多族が祀ったが、縄文早期末に博多へ移った際にそこで祀るようになったもの。
その阿多族が縄文前期に南九州阿多に戻ったあと、阿多族の支流である奴国系がそのまま志賀で綿津見を祀り続けたもの。
なぜ綿津見だけが志賀に残されたのかというと、朝鮮半島とつなぐ対馬海峡の支配権を保持するためだった。
この頃には、朝鮮半島には阿多族がすでに進出していて、博多などと交流が維持されていたからだ。
綿津見がなぜ志賀で祀られていたのかについての事情は、このようなものであった。