食物と酒、嗜好品の歴史@日本史板 3皿目 [無断転載禁止]©2ch.net
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マスゴミにも政治家にも
騙されないんだよな
スゲーなぁ みんなで中国工作サイトを応援しよう
時代は中国様、みんなで韓国を倒そう とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
WV9 嘉永6年(1853)の信濃立沢村(現・富士見町)の百姓、弥左衛門家で行われた結婚式のメニュー
・前菜
お茶
吸い物(花鰹・そうめん・芹)、数の子、蕗
冷酒
肴として、田作、イカ、昆布、
膳を変えて
吸い物、葱の酢味噌和え、玉子焼き、イナゴ、刺身
錦糸玉子、タコ、芹、しいたけの盛りつけ
・本膳
皿料理(千切り大根、刺身、岩茸、鳥、なます)、肴(栗、スルメ、人参など)
汁(田作、大根)、猪口[小さくて深い椀](こんにゃく等)、飯
・二の膳
平[浅くて平たい椀](椎茸、ゴボウ、鱒、スルメ、青板[昆布を干したもの]、ちくわ)、飯
組合(エビ、切り身、イナゴ)、清酒、汁、奈良漬
・三の膳
タコ、ぜんまい、エビ、刺身、蓮根、九年母の果実(みかんの一種)、玉子、羊羹、
はも、しらす、吸い物
今日の俺の晩飯
500円で買った牛サーロインステーキ
70円で買ったホウレン草のバター炒め
700円で買った紙パック2リットル入りの赤ワイン
ご飯 漬け物 コーンスープ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>583
けっこう海産物が多いのが意外
海のものがステータスだったんだろうね 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>585
温泉旅館でも、最近まで山菜やヤマメよりタイやマグロの刺身が上位だったしな ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 邪馬台国畿内教の教条
邪馬台国が畿内に確定すれば
天皇の大陸への臣従史観が証明され
日本が天皇を御旗にあげて再び大日本帝国になり
中国・韓国に侵略戦争を仕掛けるための士気を損なえる
ゆえに邪馬台国を畿内とさせなくてはならない
パヨクは頭おかしいでほんま 邪馬台国畿内教の教条
邪馬台国が畿内に確定すれば
天皇の大陸への臣従史観が証明され
日本が天皇を御旗にあげて再び大日本帝国になり
中国・韓国に侵略戦争を仕掛けるための士気を損なえる
ゆえに邪馬台国を畿内とさせなくてはならない
パヨクは頭おかしいでほんま アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimFEhQrlbtGwAJkGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>587
こっちは食べ飽きたタイやマグロなんかよりも、川魚や山菜を食いたいのにな。
また水菓にもメロンを出す山中の温泉旅館があるけど、俺はアケビや山葡萄や桑の実などの、こっちでは手に入らない貴重な食材を食いたいんだよ。 渋川で呑み屋に入って勧められたのが今朝に新潟から持ってきたという鮮魚
東京から来たので地のもの食いたいと伝えたら
そりゃぁそうねと山菜とか出してくれた 山内一豊が、三木城包囲戦のときに、差し入れられて食べることを拒否した
焼き大根
とは、どんな料理? 当時では御馳走なの? すごい人生だな。
薩摩藩上級士族に生まれ、江戸時代に欧米文化を体験し、戊辰戦争で新選組や会津藩と戦い
北海道では榎本武揚と戦い、戦後は開拓使で北海道を開拓しサッポロビールを創設し、最後は神戸で浮浪者で死亡。
北海道で何が起きたのだ? 黒田清隆による麦酒醸造所を含む開拓使官有物払下事件に失望し、開拓使を辞職して牧畜会社へ
その後家族も捨てて托鉢僧となり放浪の旅へ
消息不明となって10年余、神戸葺合村で行倒れ、肺結核を患っており死去 留学に欠員ができて急遽、村橋にお鉢が回ってきてロンドンへ向かったが、急激な変化にノイローゼになってしまい、一年ほどで早々と帰って来た
感じやすい性質があったようだ 少なくとも永禄2年には、焼酎は庶民も飲めるものとして普及していた。
鹿児島の郡山八幡神社の修復時に発見された、くさび状の木片の裏に日付と書名入りで、焼酎に関する記述がある。
意訳すると、「ここの神主はケチで1度も焼酎をふるまわねえ!」と書いてあり、これが日本における最古の記述。 >>605
アゲ(油揚げ)は室町時代の精進料理から始まる
天ぷらなどと共に揚げ物料理の一つとして出てきたもの そういや日本では油を使って「炒める」という調理法は
結局明治まで一般には広まらなかったようだな
というか油を一般家庭で食用に使うというのがあまり無いな。
天ぷら屋は屋台だし。 炒めるのは火力が要るだろう
中華料理は石炭を使ってた 汁ものとすべく根菜、豆腐等を下拵へとして炒めおく事と、肉野菜でも何でも一気に炒めあげて了ふ中華料理とは些かの違へぞあらむかや
現行の中華料理店の火力や端倪せざるべからず 炒めてるほうが良いってものでもないしぶっちゃけどうでもいい
実際のところ中国も煮る蒸すって料理も多いだろう >>609
筑前煮、きんぴら牛蒡、炒り豆腐、南瓜の炊いたん等々は、明治以降の料理なのか?
足利時代に明国から炒る・炒めるの手法が伝わって、織豊時代までに炒めて煮るのやり方が普及したものと思ってたわー。 19世紀末〜20世紀頭、結球白菜の導入で種をとるのに随分と苦労したのは何故?
在来の菜っ葉類と交雑しやすいというけれど、在来のものは、菜っ葉と蕪と搾油用と同じ地域内で分けて系統維持されていたのに、
なんで結球白菜だけ導入初期に難儀したの? 『料理物語』(1643)
揚げる なし
炒める なし 確か料理物語の鳥鱠って炒めるんじゃなかったか?
炒鳥とも違うようだけど
鴨を炒鳥風に作るじぶ煮は皮を炒りつけてから煮汁や鴨肉を入れるから皮から出る油を使いたかったんだろうか? > 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。 >>609
戦前の平均的な家庭にはナベカマはあっても
フライパンはなかったらしい。
ということは油を使った家庭料理はなかった。
普及したのは戦後の文化運動だか新生活運動だか。 戦記や戦史を解説にいれろよ。一騎打ちネーム名乗りあいや軍師のファッション。 >>609
かるくググったら戦前の婦人雑誌には、チャーハンや魚のバター焼き、てんぷらは紹介されてるな。
流石に江戸時代は分からんがw
多分大正以降なんじゃねぃ?今日的な家庭料理が“平均的な家庭”でも食べられるようになったのは。 >>625
それは、東京の山の手のホワイトカラーの家庭だろう。
日本全国(内地限定)の人口比でいうなら数パーセント未満。
軍隊に入って初めて肉を食ったとかよく聞く。 ガス灯や石油ランプ、電灯の普及で行灯の油の需用が先細りになり、業者が料理用に活路を求めて油料理の普及に力をいれた、みたいな経緯はあったのだろうか 関係ないが戦前のラジオの普及率は50%未満。
よくアメリカと戦争する気になったものだわ。 日本が生産した単発戦闘機(零戦のようなプロペラとエンジンが1つの小型機)より、
アメリカが生産した4発爆撃機(B-29のようなプロペラとエンジンが4つの大型機)の方が多いと聞いた時は驚いたわ。
アメリカどんだけ国力あるんだよ。 これより1年、2年と時がたつにつれて日本はアメリカの武力に太刀打ちできなくなってしまう
アメリカに対して何も手出し口出しできなくなり、対米交渉など夢となる
今なら、最後のワンチャンスあり
で、決断してしまった 本当に、1年、2年と時がたつにつれて太刀打ちできなくなっていったな >>629
米は更にソ連や英に大量に送りつけてたりする。
ソースは忘れたけど、ベルリンに攻め込んだソ連の戦車の半分は米からのレンドリース(発動機等のパーツのみを含む)
>>626
大正以降の社会生活全般の推移を念頭にした“平均的な家庭”の話ね。
昭和の頃に教師から聞かされた話が正しいと思うならそう思い続けていればいいし、大宅文庫の低俗雑誌も全て嘘なんだろうさ、君にとってはね。
教科書から「慶安の御触書」が消えつつあるそうだけど、ガチガチの身分制から解放された戦前でも、統計数字で「貧しい。貧しい」を連呼するむきは未だ減らないが、
低所得者層が月に一度の贅沢で外食習慣をはじめても、こういう連中は「貧しさ」だけを強調し続けるんだろうなぁ。
関西では戦前の食堂が閉店するという話が時折ニュースになるが、大大阪も知らず、東京の山の手のホワイトカラー云々としか言えない程度の奴が何をどう思うかなんて、
こころのそこからどうでもいい。 >>634
その“平均的な家庭”というのは実は都市だけの平均だろう。
人口の圧倒的多数は郡部、農村漁村に住んで一次産業に従事。 >>635
>>609 調理法の話
>>625 食べたことがあるという話
これに対して、戦後を肯定するために否定せねばならない戦前という宗教の教えを信じる信者が
「戦前の日本は貧しい」のみを連呼している
定義じゃないよ、宗教の話だよ
だから話が噛み合わない 日本の家には明治まで、椅子もテーブルもなかったんだろ。
食文化が発達するわけがないだろう。 椅子やテーブルの存在と食文化の発達になんの関係があるんだ? >>641
食事をするテーブルの代わりには箱膳があったね。 四脚で食わないのは机だけ
二脚で食わないのは親だけ 戦前の邦画で見る庶民の家庭の居間
平均身長140p代の婦人が手を伸ばせば届く位置に電球のスイッチがある。
ちゃぶ台の上をかろうじて照らす。
大したものは食べてなかっただろう。 大体、飯を炊くのに手間がかかりすぎる。
余程、余裕のある階層を除けば飯を炊くだけで大仕事であとは漬物でもあれば良し
としなければならない。 >>650
大名の動員力.軍役をコメの石高で産出するくらいだから。 キリスト教では「天国には全員の座席があるから安心しろ」というらしいが
日本に来たら誰の座席もなくてビックリしただろう。
日本人が自動車を発明していたら正座して運転するような車になってなかったか? >>653
西洋も支那も建物に床板を張らない
だから土間に土足で椅子とテーブルの生活をする
日本は床板、敷物、畳があるから直に座れる >>646
四脚で食べないのは炬燵だけ
あれはあたる物だから パタリロ談 春の七草のホトケノザ、なんで中身が入れ替わってるの?
春の七草のホトケノザ 学名 Lapsana apogonoides (キク科)、現在の標準和名 コオニタビラコ
現在の標準和名 ホトケノザ 学名 Lamium amplexicaule (シソ科) >>655
支那はともかく、西洋は、木の板もしくは石材かレンガを床に敷き詰めるだろ。
ローマ時代の民家の遺跡は石材に色タイルのものが多数出てきている。
中世に蛮族になりさがったとしても、たとえば、フィリップドシャンパーニュの最後の晩餐は石、Ex-Voto de MDCLXII は木板の床が描かれているから
少なくとも17世紀には復活していることが判る。 日本の床は床下があって、床には下足を脱いで「上がる」のが西洋と違う 良心のある日本人は支那という差別用語を使わないと認めました。
今ではテレビや本で支那を使う人はいません。
そして従軍慰安婦も彼らは認めました。南京大虐殺もそうです。日中戦争で中国人の2000万人が日本人に殺されました。
日本の軍国主義がそうさせたからです。だから毛沢東主席は軍国主義に日本がこれからならなければ良いとして戦争の賠償をしませんでした。だけど最近の日本はまた軍国主義になってますね。
1中国と呼ぶ良心のある人は台湾は中国であると認めています
2新疆ウイグル自治区やチベット自治区ももちろん中国です。アメリカの内政干渉には呆れてしまいます
3東中国海も中国の海ですここは勝手に航海していい場所ではありません
4南沙諸島や尖閣諸島も中国です
5沖縄も中国ですが日本が奪いました潜在的に中国の領土です
6南中国海もその名の通り中国の領海です自由に航海できる場ではありません
7西沙諸島も南沙諸島もひとつの中国です
あちこちで支那呼称をあえて使おうとするネトウヨは以上の中国の領土を認めず平和な中国を再び侵略しようとする軍国主義勢力です。
我々はこれらのウヨクの活動を断固として阻止します。そのために日本史板では正当な呼称の統制を行いたい支那を使う右翼勢力はこのスレおよび他のスレへの書き込みをしないでください。
以上に同意した良心のある人だけ書き込むのが許されます。 支那人の良識とは、
天下の往来で人目もはばからず糞尿を垂れ
なにかと大声でがなりたて
手に取れるものはなんでも盗む
というようなものだしなあw >>661 は、
中国共産党の工作員なので注意の事。 ここでは支那という名称を禁止します。
支那そば→中国そば 東シナ海→中国海
英語で「チャイナ」も支那と同じ差別語なので同じく禁止します。
チャイナレストラン→中国レストラン チャイナ→中国
欧米人はチャイナを使ってますが彼らはいいです。戦争犯罪国家じゃないから。
支那は日本の軍国主義時代に使っていた名称であり、戦犯旗と同じでここでは使用を禁じます。ネトウヨは 別のスレで支那を使ってね。
ここでは以下の呼称も禁止します
1オリエントとオリエンタル
これは東洋系の売春婦を意味したり、白人男性が性的に搾取できる東洋女性をイメージする言葉で アメリカでは一部の州で使用が禁止されてます。
2チャイナ
これは欧米の人たちだけが使える言葉です。日本人は使ってはいけません。支那(シナ)と同じ差別用語由来です、中国に由来することは中国と直してください 。
ネトウヨはここに来ないでください。食べ物と酒は別のスレがあるのでそこでやってください。
それと台湾は中国です。中国の領土です。これはアメリカも認めています。日本の植民地ではないです。
台湾に関しては揺るぎなく中国です。中国共産党は清朝の権利を受け継いだからです。台湾は清朝に朝貢してたのだから中国です。
良心のある正しい人は中国を使ってください。 支那という呼称はアジアの人々に日本の軍国主義を思い起こさせます。
例として支那の夜、が挙げられます。有名でしょうか?
これはとんでもない映画です。日本人が中国人の若い女性を犯し、その力は中国を救うという映画です。プロパガンダの一種です。これは蝶々夫人やミス・サイゴンのような性的搾取を正当化するための情報操作だったからです。 日本の女は聞いてますか? 支那は古称。
中国は20世紀以降のプロパガンダ用語。
支那がいやなら中華が良い。
本中華とか冷やし中華とか親しめる。
中国は日本の中国が先。
後だしジャンケンはやめれ。
妥協策はチュンゴーかwww >>660
面白いのは中国の宮廷では、臣下は宮殿の玄関で靴を脱いで皇帝御前の広間に集う
特例として靴を履いたまま行ける臣下はいるが、ほとんどそれは皇帝を超える権力者となる
https://youtu.be/W9E6R8CSqe0?t=1824 支那川の支那料理屋で支那そばを支那竹増しで食べたら支那支那 質問が有りますので、よろしくお願いします。
19世紀の或る御坊さんの言行録の中に「江州醒ヶ井のみそすり屋の婆」というのが出てきます。
この「みそすり屋」というのはどんな職業なのでしょうか?
私は、「みそ汁を出す街道の茶店」のようなものを想像しているのですが。 「みそすり」は粒味噌を擂ってすり味噌にすること。
現在流通してる味噌はほとんどが擦り味噌に加工済みだけど
本来味噌には大豆の粒が大量に残っていて
昭和中期くらいまでは使う前に擂り鉢でする作業が必要だった。
大量の旅客をさばく必要のある宿場町だから
味噌を擂るだけでも仕事になったんだろう。 >>670
> 大量の旅客をさばく必要のある宿場町だから
> 味噌を擂るだけでも仕事になったんだろう。
ああ、そうか、と納得が行きました。
本当にありがとございます。 実際に旅行した人物の小説、東海道中膝栗毛の記録では旅館に到着するとたらいで足を洗い、五右衛門風呂に入れられてから部屋に案内されていたが、当時の世界の宿泊施設ってどうだったの?
風呂があったの? ほとんどの宿には風呂はありません
近くの銭湯の割引券を出していた
明治、大正の旅行記でも宿屋で入湯券をもらって銭湯へゆくとある
五右衛門風呂のような小さな風呂釜で客捌きをしていたら追っつかないと思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています