木曽義仲と京都幕府の謎 [無断転載禁止]©2ch.net
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1183年11月、木曽義仲は後白河法皇が招集した朝廷軍を急襲し、これを撃滅した。(法住寺殿合戦)
義仲は法皇を幽閉、反義仲派の公卿を一掃する人事を行い、翌1184年1月に
征夷大将軍に任ぜられて京都に幕府を開いた。
だが、歴史家は何故か、義仲の政権を幕府と呼ぶことは無い。これは一体どういうわけだろうか?
京都幕府の存在を認めたがらない闇の勢力でもいるのだろうか? 頼朝を武家政権の創始者にするために
京都幕府は歴史から抹消された 幕府っても影響力のある地域が少なすぎるし、体制も何も出来ていない。まあ単なる占領軍だね。義仲はあくまでも武人で政治力はサッパリだから。配下にも政治的な駆け引きに長けた者がいなかった 木曾義仲は旭将軍に任ぜられたが、統治機構たる幕府は造る暇がないまま、義経に破れ去ったから京都幕府はないのだと、
今際の際に小沢せいえつが言っていた 頼朝も当初は関東一帯に過ぎない
最大領域で見ても関東東海東北くらいじゃないだろうか そもそも平家政権自体、六波羅幕府と見なす人もいるからな、どうなんだろう 平家は征夷大将軍の位じゃなく
公家の位について政治したからなぁ
天皇と縁戚結んで行ったから
どっちかというと藤原氏と同じ政治
武家政権とは言えないような 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) 20代歴女が選ぶ「好きな武将」ランキング
1位 木曽義仲
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1位 木曽義仲
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4位 吉田 羊
5位 榮倉奈々 木曽義仲って教養がない脳筋だったん?
源氏の武士ならそれなりの教育受けてるもんじゃ無いの?ど田舎育ちでも >>14 義親とか為朝 義平 は見た目も脳筋。
平氏には忠度のように一角の歌人がいた。 武家政権を幕府と呼ぶよよぶばったのは江戸時代後半から。征夷大将軍に就いていないからといって
平氏や豊臣政権を幕府と呼ばないのは日本史学界の無知蒙昧ぶりを表している。
安土・桃山時代という用語もかなりおかしい。 豊臣政権の本拠地は大坂なのだから
「安土・大坂時代」とするべきだろう。「大阪」を忌避する理由はなんなのか? >呼ぶよよぶばったのは
ちょ、ちょ、ちょ、ちょいと訂正ww
呼ぶようになったのは ○ 木曽義仲と新田義貞って、なんか似ている。性格は違うんだが、キャラ枠がかぶっている。
義経と護良親王も。 >>14
親父の義賢が甥の義平に殺されて木曽の山奥に匿われて育ったからろくな教育は受けてない。
義賢は父為義の命で、為義と不仲で関東を勢力圏としつつあった兄義朝を牽制するために関東に下った。
これを邪魔と見た義朝は長男義平に邪魔ができないように軽く締めてこいと言いつけたら討ち取ってしまった。
義平はさらに義賢の遺児駒王丸(2歳)も殺そうと手配したがあまりに可哀そうと思った斎藤実盛によって
信州に逃がされた。 >>20
義仲と義貞は死に際が似ているけど、あれは太平記が平家物語の影響を受けているかららしい。 >>20
あ、あと義経と護良親王も。護良の十津川逃避行は義経記から影響を受けてる。
護良の部下に片岡八郎、武蔵坊といった義経の手下の名前が見える。 幕府ってのは統治能力を持った政権を言うんじゃなかったか。
頼朝は守護地頭を使って実質的に統治権力を収奪したから幕府と呼ばれるんじゃないか。 遠征した将軍が占領地統治のために開く臨時政府じゃなかったっけ 将軍の陣所 → 将軍の居館 → 将軍の政権
円喜、これでよろしいか? 木曽義仲は将軍だったけど、政権とは認められていないということかな。
統治機構がなかったから幕府と呼ばれないということか。 頼朝だって政権のために征夷大将軍の地位を望んだわけじゃないからね。
そこんところを理解していない人が多すぎる。 >政権のために征夷大将軍の地位を望んだわけじゃないからね
? >>30
そんなこと書かずに教えてやれよ。
俺も知りたい。 ああすまんアンカ間違えた。
>>31そんなこと書かずに教えてやれよ。
俺も知りたい。 「奥州藤原氏を討伐するために征夷大将軍を望んだ」
と、31が言い出しそうな悪寒 そもそも、幕府って、「開く」ものなのか?
んぢゃあ、
『1333年 後醍醐天皇が鎌倉幕府を閉じる』という表現も誤りではないはずだ。 建前としては奥州藤原を討伐するため、と言っていたけどさ。
頼朝が実際に何を望んでいて、何を目的としていたかはわからんだろ。 >>38
近年は「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」と言わないように、
征夷大将軍=幕府と言う考えではなくなってるのも知らないみたいだね。
武家のトップとしての将軍、という意味も当時は出来てない。
鎌倉に摂関家や親王の将軍がいたし、建武の新政下でも親王が将軍になってる。 頼朝が望んだものは摂関家の家格
右近衛大将も征夷大将軍も本望ではなかった
大姫を入内させ、天皇家の外戚となり日本国総追捕使として国家の軍権も併せ持つこと
清盛も成し得なかったことだ(清盛の場合、後白河の幽閉が悪手だった) じゃあ頼朝は純粋な意味で武家政権を望んだわけではないということか。 摂家将軍を迎えた北条政子は頼朝の理念を受け継いでいたと言える >>37
はずれwww
その説は現在の学界では否定されているんだね。
大体、頼朝の将軍任官は奥州征伐の2年後だし。
やっぱり ゆとり世代はどうしようもねえなw 京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」
『吉田定房奏状』
「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんやwwwww」 将軍任官=幕府成立でないのは知ってるよ。ただ >>31のレス見て、
「コイツ、絶対 奥州征伐のこと持ち出すぜww」と思っただけww >>9
軍権だと清盛の畿内惣官職も幕府とみなしてよいかも >>44
甘いな
>>46
ウィキペディアの記事は間違いではないが、研究者が逃げ道を用意した消極的な論説
正解はズバリ
中国風に言えば「大都督」の地位
日本での唯一の例は藤原仲麻呂(ただし凶例としてこの名称を忌避)
頼朝は流人時代の20年間、写経と漢籍の日々を送っている
それと京下りの大江や中原は紀伝・道文章道の専門家
大都督を手本に独自の地位を創出した 大都督は太政官の統制外に在った
実は近代日本にも都督は存在した
中国大陸に展開した関東軍を隷下に持つ関東都督府である
関東都督府は合法的に日本政府や陸軍の統制外に在ったのだ おおお!
関東都督こそが武門の棟梁か
いいくにつくろう
満州幕府
(ダメリカに壊されたが) 満州事変が関東軍の暴走のように言われるが
関東都督府が軍権を持っていたので当然、法的に交戦権を有する(国際法的には微妙だが)
大日本帝国憲法で最終大権(統帥権)は天皇に有るが >>44
ちゃうちゃうww
征夷大将軍の由来なんか、」どうでもええ。おまえさんの知識よりもっと詳しい事
書いてもいいけど。まあそんなんどうでもいい。
要は>>31(>>37)が薄っぺらいレスを書いたので、
「あんた、知識無さすぎ。やり直し」と書いたまで。
ええか、<<31>>37
何万回でも書いてやるが、奥州征伐と頼朝の征夷大将軍任官は無関係。
奥州征伐の3年後に征夷大将軍になって、どないすんねんww
少し頭を使いたまえ。 >>49
何が 「正解」やねん、アホかw
おまえさんとウイキペディア、言うてること同じやがな。
つーか、 独自解釈書く時は出典出せよw
おれが言いたいのは
奥州征伐と頼朝の征夷大将軍任官を結びつけた>>31>>37は
非論理的で根拠がない、つーこと。わかったか? >>29ほどではないけどな
>そこんところを理解していない人が多すぎる。
何度読み返しても笑いがこみあげる 有り得ない{もしも}だが、義仲が頼朝を倒して幕府を置くとしたら、
やはり京都だろうか? 木曽ということはいくらなんでもないわな。 天険の要塞
木曽谷幕府か?
木曽源氏の巴御前VS越後城氏の板額御前で
女総大将どうしで天下分け目の最終決戦となる。 木曽はなさそうだが、近江とか名古屋、金沢とか小松あたりなら有りかな?
そういう歴史も見てみたい。 さすがに金沢小松はないだろう
北陸へ行くにはどの道を通っても他の地域と行き来するのに厳しい峠がある
閉鎖的だったので文化的にもかなり特殊だしな 加賀藩こそ雪深く敵寄せ付けぬ越し幕府の成功例
木曽氏も北陸にいればいまごろ侯爵だ そりゃぁ、北陸は日本書紀の頃まで日本じゃなたからな
いつの間にか東北の仲間になってた出羽は許せん!
何処にも入れてもらえない越後には・・・ざまぁw 金沢に幕府が開かれていたら、北陸新幹線は50年早く開業しただろう。
他にも 金沢オリンピック 金沢サミット 金沢タワー etc 鎌倉から全国の統治は出来たけど、金沢じゃどうしても地方政権で終わりそうだな。
狭ずぎだし冬は寒いしマイナス要素が多すぎる。 >>67
そうかな? 鎌倉の方が狭いし 当時のk感覚からいえば関東の方が辺鄙だ。
加賀がそんなにいいとは思わんが、相模より悪いとは一概には言えんな。
後知恵で歴史を見ていないか? もともとそこにいた人達を追い払って新政府を作ると後後まで抵抗されて
面倒くさいという事を平安京で学んでいるから
辺鄙な関東の方が都合が良いのではないだろうか 巌本 金沢から人物が出ないようです
勝海舟 出ない 義仲ルート義経ルートで幕府開くとか考えると
頼朝が如何に奇跡的なことを成し遂げたか分かる >>68
関東は潜在的な生産力が高いが、金沢はそれがゼロに近い。
その上雪は降り冬期には軍事行動が出来ず、統治するには全く向いていない。
地方政権を作るには向いていると思うが、全国政権は難しいんじゃない。
出来ても早々と室町幕府化じゃないかな。
地盤が弱いと天領御料所を増やすことも出来ないからね。 >>70
甲信地方は正一位諏訪氏のほうが凄いだろうに。 義経は政治音痴だから無理だろう
あくまでも戦術家だから
頼朝は石橋山の窮地を生還した類稀な強運もある >>73
あんたの言う通りだと思う。
でも、地方政権ってのが義仲には似合ってると思うな。
義仲が全国政権を狙ってたとはとても思えないからね。
「俺が一番強い、俺の言うこと聞け」みたいなのが義仲の短所だけど、好感の持てるところなわけで。
つまりなにが言いたいかというと、金沢あたりで義仲が幕府開いていたら、京都義経、鎌倉頼朝、金沢義仲、欧州藤原と4つの勢力ができて、
まあその後どうなるか、という歴史のifも興味あるな、と思うわけですよ。 >>77
公武合体政権が一つと武家による地方政権が3つが割拠するわけか。
要は室町鎌倉の統一期間を経ずして、300年早い戦国時代に突入していたら?って仮定だな。
多分、京都の義経政権は、本人の政治力的に考えて平家政権をそのまま踏襲するだろう。
そしてそれでいて、多分清盛の様に太政大臣や関白にはなれないだろう。
義経には平家の様に大規模な収入源が無いからな。
畿内惣官職に留まるだろう。
そして徐々に戦国時代の細川のように、貴族化し弱体化。
そんなタイミングで、武力を持つ義仲と頼朝が南と北で天下を相争うことになるのではないかな?
藤原は自ら天下を狙う事は無いだろう。
第三勢力として生き残りを図ると思う。 >>78
勢いだけじゃない地方政権で力を蓄えた義仲と、頼朝の天下の取り合いは、なかなかに興味深いな。
そうこうしているうちに、平家も九州あたりで力を盛り返してきて、瀬戸内海を大船団で東に向かう、とか考えると胸が熱くなるな。
義経は政治的に中央で主導権を握れないだろうから、やっぱり奥州へ亡命する。
義仲が残っているのなら、秀衡の息子たちも義経を裏切らないだろう。
結果として、西国平家、北陸義仲、相模頼朝、奥州藤原(大将義経)の4国戦国状態とかどうよ。 頼朝は甲斐源氏武田とも少なからず確執があったからな
源氏は争い合う運命 道州制を目指す義仲 北陸維新の会
西国と東国と奥州と大陸の統合を目指す欧州藤原氏。通貨はユーロ 62:06/10(金) 20:27
最近さ(信州甲州人)と混ぜる陰湿信州人がいるんだよな
甲州武士>>>信州武士だろ 源氏が身内で争うのはなんでかね。
平氏も将門のころは身内で争ってたけど、平家の仲が良いのはなんでかね。
清盛の人徳かね。
北条も身内争いあまりないね。 そりゃ、血縁で繋がってる前提だったのに
血縁でもない連中に家系図売りまくったらそうなる >>83
北条時政は、政子らと争い伊豆に隠居
時輔は、時宗に謀られた。
他の御家人つぶしで忙しかった。 名越家も幾度も得宗家と反目しているとはいえ、二月騒動以降は大人しいからな 身内で争うのは、何の不思議でもないw
現代人でも、兄弟でも遺産相続で争うしな >>83
源氏将軍と足利将軍は身内で争ってるイメージ
平氏や北条氏は一門で争っても敗者の一族をある程度の役職で登用しているイメージ 野心の達成の為なら手段を選ばないあたり源義光は相当だと思う 2016/6/16 12:02 ブルームバーグニュース日本語版 中国が米国株を大量売却−世界を圧倒的に上回る急ペースで保有削減
【アホノミクス】 中国ナイス! さぁ、始まるぞ、サヨクの時代が! ゲスウヨ土下座?(笑) 【クロダショック】
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。かれらは自分の財産を隠し、犯罪的雰囲気さえも創出しています。
彼らはただ座って待っているだけです。世界に振りかかる負担は莫大です。世界を餌にして生きており、社会に何も負うことなく、何も還元しません。
来るべき株式市場の崩壊は必然的に多くの失業者を出すでしょう。抑制のない成長に基づく現在の経済の終焉を見るでしょう。
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。彼は「匿名」で働いております。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。
竹下雅敏「どうも日本人のレベルの低さというのは、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。」
矢追純一「宇宙人側からの申し入れは、核の利用と戦争をやめ宇宙人の存在を公表しなさい。ロシアという大国の首相がね、2回も言ってるんだからね。」
https://www.youtube.com/watch?v=FIRXKe tUkq8 公家と武家の間での戦争を、仮に「公武戦争」と呼称してみる。
公家と武家の覇権争いは大きなものでは次の4つを挙げてよろしかろう。
@ 法住寺殿合戦 (1182年)
A 承久の乱
B 元弘の乱
C 延元の乱
ここまででは武家側の3勝1敗だが、周知のとおり、延元の乱後に南北朝の争乱と言う長期戦が始まる。
この「公武200年戦争」の結果、公家側が完全敗北し、朝廷は政治権力と経済基盤を喪失。
その後は政治的・宗教的儀礼のみを行う存在に転落した。
公武200年戦争の最初の口火を切った木曽義仲を新視点で捉え直してみるのも面白い。 頼朝は父親の失敗や後白河院の陰謀を見てきて尚更のこと京とは隔絶したかったんだろう 頼朝が鎌倉を動かなかった理由は>>94のとおりだと思うが、考えてみればこれは大変なことである。
京都は室町時代においては産業・金融が高度に発達し、全国各地へ通じる交通網も整備され、
「一極集中」状態にあった。 日本を統治する拠点としてここを外すという選択は
政治論として普通は有り得ない。
室町幕府も豊臣政権も畿内の他に本拠地を置かなかったのは故なしとしない。
方向性というより、そもそもそれが本来自然なのだ。 地方政権としてスタートしたけど承久の乱や元寇などの有事を契機に全国政権となったというかならざるを得なかったんだよな 頼朝が幕府を鎌倉に置いたのは関東から離れられなかったためで、尊氏が京都から離れられなかったのと
同じ構造なんだね。別に好きで関東に骨を埋めたいと思っていたわけではなかったと思う。
「北条氏はなぜ将軍になれなかったのか?」スレでも書いたのだが、寿永の宣旨で東国独立路線を放棄したのがターニングポイントだった。
頼朝はやはり軍事貴族だったんだね。院政の下での軍事・警察を司る家職を世襲し、王家と源氏将軍家が手を取り合って
日の本を統治する姿こそが頼朝の本願だったのではないか?
娘を入内させようとしたり、土御門通親と組んでみたり、頼朝の本質は軍事貴族ではなかったのか?
北条義時やのちの足利尊氏とは明らかに違うニオイを感じてならない。
「京都幕府」は東国武士団にとっては絶対に容認できない代物だが、
頼朝にとっては案外受け入れやすいものではなかったのか?
我々は頼朝の政権を平氏政権と全く違った武士政権と解釈してきたが、少し先入観を外した方が
いいのかもしれない。 東国武士も以外と都との繋がりが深かった連中もいるらしいし、
義時に至っては娘の多くは都に嫁いでる。 三浦などの旗揚げ以前からの重鎮もいることだし少なくとも頼朝にとっては軍事的にも政治的にも関東が基盤だからな 秋山豊寛さんて覚えてる?
木曾義仲は秋山豊寛さんとカブるんだよなあ
秋山さんは正真正銘日本人初の宇宙飛行士でありながら、世間では毛利衛さんが初と思われており、秋山さんは不当に無視され続けている
理由はいくつかある
・秋山さんは当時TBS社員であり、TBSの企画で宇宙に行ったので、他のマスコミから無視されている
・秋山さんは宇宙から帰還後、TBSの上層部と喧嘩し退職しているので、TBSからも無視されている
・日本の正規の宇宙開発コミュニティであるJAXAは、毛利衛さんより先に宇宙に行ってしまった秋山さんを心良く思っておらず、
宇宙関連のイベントなどに秋山さんが呼ばれることは無い
・毛利衛さんが人格者すぎて、ほぼ国民の総意として秋山さんは無かったことにされている 義仲も気の毒だが、頼朝義仲と並ぶ勢力だった甲斐源氏の無視されっぷりはもっと悲しいぞ。
最近は注目されつつあるけど。
そういえば甲斐源氏の中に秋山っていたな。 京師(京都)は高位貴官の在る王城にも似合ず万事軽薄鄙吝を専となし、何事も陰等に事をはかろふ故、遂に弁舌の工みと相成、内大小相違するなり。
それ故近辺のうわさにも「京の弁舌」といひて、人を欺く習ひと相成、歎ずべきの至りなり。
其故男児らしき英偉磊落の気風はさらに無し。うちめうちめと計ろふなれば、少しく侠心のある人々は、とても永住のならぬ地なり。 尊氏はともかく義満はむしろ関東に移るべきだった
ただ鎌倉はないな 甲斐源氏に関しては一条と安田が討たれる一方で加賀美遠光や小笠原長清を与党として厚遇する分断工作があったからな 甲州武士>>>信州武士ヘタレ腰抜けやぶれて敗北武士wwwwww >>102
>木曾義仲は秋山豊寛さんとカブるんだよなあ
成程 ウケた。しかしそれ言い出すと、「無かった事」になっている人物達って
義仲に限らず沢山いるでしょ。 光厳天皇とか、三条実美首相とか。
名前忘れたけど後醍醐天皇が吉野に逃げる前に譲位した親王とか。 >>103
もともと協調路線で戦争に及ぶ前に完全に牽制されたからな
鎌倉に召集されて神前で起請文を書かされてるし >>110
その起請文書かされた時期が実は吾妻鏡の編集の際に操作されたという説もある。
吾妻鏡の記載順だと
武田信義の起請文→甲斐信濃侵攻→一条忠頼殺害だが
延慶本平家物語等の期日に従えば
一条忠頼武蔵守任官(?)→一条忠頼殺害→甲斐信濃侵攻→武田信義の起請文
なのではないかともいわれている。
安田義定なんかは、義仲と一緒に都に上ってその時に任官してるから
頼朝としては甲斐源氏はやっかいな連中と思っていただろうな。 逆に加賀美遠光は御門葉だからな
あれだけ分家が有れば両陣営に分かれるのは当然だけど >>112
逆にそれだけ一門をまとめるのが大変な時代だったんだろうな。
分裂の芽をみつけてそこにつけこむ頼朝が上手いってことだろう。 そういえば義仲も上洛するときは結構人数集めたけど
その人数減るのも早かったよな。
坂東の御家人たちを脱落させずに、まとめつづけていた頼朝ってやっぱり凄いのかな? 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) >>114
上総広常の場合、日和見というかかなり強硬的な態度だったからな 戦に敗れて弱っている時にたくさんの人が助けにくる頼朝と、戦に負けると人が離れる義仲の違いはなんだろう。
軍事力あっての政治力という見方もあるけど、軍事力を背景に味方にした軍勢は、負けて旗色が悪くなると離れていくよな。
頼朝は戦に負けてしょぼんとしているときになぜか仲間が多くできる。
梶原景時しかり、千葉常胤しかり、上総広常しかり。
人望なのか、政治力なのか。 永井路子さんの「北条政子」の中の頼朝のセリフに「俺の運はどんずまりになって開くことがある。いや、どうもそこまで来ないと開かないらしい。」
とあった。
頼朝の人生を象徴するセリフだなと思った。
平治然り、石橋山前後然り。 平賀家があれ程厚遇されたのも平賀義信が義朝の七騎落ちに忠節を尽くした恩義も含まれてるからね
苦労を知ってるからこそ義理堅いのでしょう >>118
相模、武蔵、房総武者と信濃、上野、北陸武者の差 >>123
その差が実際にどういうものか、具体的に教えてくれんかね? 政子が嫁がなかったら三浦あたりが執権になってたんだろうな 出会いにも恵まれ、人生で伊豆の流刑時代が最も平穏だったんだろうな 政子の前に付き合ってた伊東祐親の娘とは引き離されたけどな。
間に生まれた娘も祐親に殺されてる。
祐親次第では伊東が執権だったのに。 しかし頼朝ってほんと等身大の普通の人間だよな
たいがいはさ
こう弟の義経みたいに超人伝説みたいのあんじゃん
そういうのがあんまりないつうか
鮭食って喜んだり
普通過ぎるよな >>129
最後は馬から落ち死んだからな あまり伝説的に書くわけにも 超絶の人たらしだったんじゃないかな
表面的には魅力あってカリスマ性もあるけど
中身は冷徹な政治家 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 義経は戦に於いては鬼神の如くだけど政治面がアレだからな
軍事的にも政治面でもバランス良く揃ってるのは範頼かな 確かに、石橋山の合戦で敗れた頼朝のところに、続々と武士たちが
合流してくるというのは不思議な話だ。
ふつう、あれだけ惨敗してしまえば、政治生命を失うものではないのか?
義仲が粟津の松原で敗れた後、無事に北陸に落ち延びられたならば、
再び武士たちを集めて、再起できたであろうか? 頼朝の売りって軍事力ではないから、戦でボコられてもダメージは無いという、ある意味最強の存在だったんじゃないのか 頼朝の売りは源氏の嫡流(河内源氏の)であるということだよ。
これが大きいんだろう・・・
南北朝でも足利尊氏が源氏の棟梁と認識されてたから味方した勢力も多いだろうしな・・・
じゃあ、新田義貞(源義国の長男系)はどうだったんだ?、って疑問に思うかもだけど、そこはスルーして見逃してくれ! 新田の一門でも山名義範は一番に馳せ参じてその忠義を評価されて御門葉として優遇されたからな 足利と新田は鎌倉時代から扱いに差があったからなぁ。
義貞の責任ではない。 >>137
本人が流刑前に獲得した官位と都との人脈、それと父親を通じて南坂東の武士たちがまんざら知らない顔じゃなかったという点が大きいだろう。
嫡流は勝ったもんが名乗るものだから
石橋山時点では頼朝が嫡流と認識されてたわけじゃないだろう。 頼朝は曲がりなりにも令旨を奉じてたってのが大きかった
義仲もそのあたりは一緒だろう 頼朝は血筋の正当性のわりには誰のツバも付いてないというか、
北条という外戚はいたものの、決起時には北条単体では何の力も無いという状態で、
つまり頼朝のもとに参陣する武士団は平等にスタートアップの権利を有することになる、
というのも頼朝人気の理由の一つではないかな
木曽義仲などは地元の武士団が創業メンバーで、後から参陣してもどうしたって2番手3番手の扱いだろうし、
それではモチベが上がらないよね 千葉と上総が来たのがデカイよね
流れを作るには三浦じゃ身が小さ過ぎる
両総に頼朝担ぐメリットがあったってのが最大の要因じゃないかな ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 上総広常は伊藤忠清との紛争があったからな
平家と確執が生じていた 千葉も重盛縁戚の千田氏にかなり圧迫されて
起死回生の機会を狙ってたし。 木曽殿は京都を放棄して北陸方面へいったん退き、再起を期したほうがよかった。
その際、北陸宮をお連れし、可能ならば後白河院もお連れするのがよい。
北陸宮の行宮を建設して旗印とし、木曽殿ご自身も左馬頭・伊予守の官位が
あるのだから、十分に求心力がある。
辛抱強く平家や奥州と連絡を取って、鎌倉の佐殿を牽制すれば、独立勢力を
維持できたに違いない。 頼朝・義経がいなければ義仲は天下統一ができたのだろうか?
マネジメント 人心収攬術 外交手腕がなさそうな人なので京都幕府は長続きしそうな気がしない。
あるいは南北朝時代の足利幕府のように四苦八苦しながら存続するか。
西国は平氏に、奥州は藤原氏に半独立状態を認め、他の源氏と同盟軍の将として京都幕府は存在。
足利幕府の劣化バージョンだな。 義仲はブサメンというイメージだな
イケメンだったら、京の貴族たちも一目置いたんではないか 源義仲は政権構想がないし、広範な武士団の支持もないので、「幕府」と
言えるような政権は無理だと思う。
後白河院が平家を牽制するための手段として使われるのが関の山ではないか。
後白河院を幽閉して全権を掌握し、「京都幕府」のような状態になったの
だろうが、その後の構想がなく、人脈やノウハウもない。
仮に頼朝・義経がいなくても、院宣を受けた別の武士に追討されてしまう
のではないか。
義仲よりまだ平家のほうがはるかに政権運営力があると思う。 京都を 「姦ってよし。 盗んでよし。 殺してよし。」の街にしたのが
義仲さん 牛車の乗り降りの作法を間違えて顰蹙を買ったんだよな
貴族化した平家とは対照的だが 用事で尋ねて来た貴族に強引に食事を勧め、大盛りのご飯を出して、
困らせたこともあった。
根は善良だが、都の文化を知らない無骨者として描かれている。 古田織部の方が当時の京の貴族より器がでかいということだな ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 「京都幕府」は義経軍との合戦以前にすでに空中分解していた。
平氏の京都奪還も有り得た。
仮に鎌倉幕府が成立しなくとも(頼朝が存在せずとも)、義仲政権は長続きしなかっただろう。
都落ちした義仲は北陸の武士たちにも見限られ、信濃へ逃げ帰ったのではないか? 20 :日本@名無史さん 2015/09/22(火) 17:54:07.17
信濃源氏などは義仲に従ったというよりは、やや義仲に主導権のある同盟ってとこかな?
信濃以外に義仲についてたのは(同盟的立場)
北陸豪族 → すぐ離れる
源光長(美濃源氏)→法皇につき敵対
葦敷義隆(尾張源氏)→距離を置く
安田義定(甲斐源氏)→離れて頼朝につく
源行家→ 敵対
山本義経(近江源氏)→最後まで義仲につく
志田義広→最後まで義仲につく
頼朝のような強力な主従関係によって構成された(といっとも後世より拘束力ははるかに弱い)家人をあまりもたない
同盟者頼みの義仲は同盟者に去られると
軍事力はすぐにガタ落ちする 治承寿永の乱(源平合戦)蜂起勢力
伊豆→南坂東 源頼朝 (河内源氏義家流)
甲斐→駿河・遠江 武田信義・安田義定他甲斐源氏 (河内源氏義光流)
信濃→越後 源義仲 (河内源氏義家流)
尾張 源重隆他尾張源氏(清和源氏満政流)
美濃 源光長他美濃源氏(清和源氏頼光流)
近江 山本(源)義経他近江源氏(河内源氏義光流)+園城寺
若狭・越前 反平家在庁官人勢力(当初は義仲とは無縁に挙兵)
大和 興福寺他寺社勢力
紀伊 熊野三山のうち湛増など反平家勢力
伊予 河野通信ら河野水軍(源平両氏に関係なし)
土佐 源希義(河内源氏義家流)
肥前・筑後 菊池氏など反対平家勢力(源平両氏に関係なし) 頼朝・義経が攻めてこなかったとしても、源義仲は平家に都を奪還されて
いたのではないか?
「京都幕府」の末期は、義仲よりも一の谷に拠点を作った平家のほうが
軍事的に優勢であるように見える。
後白河院は平家による報復を恐れて、平家の再上洛をためらうかも
知れないが、無教養な義仲による狼藉より、中央貴族としての教養が
あり、統治経験のある平家を、最終的には選ぶだろう。 義仲と頼朝の差は政治能力の差であることは論をまたないが、具体的には
組織のマネジメント力、人心収攬術の差に顕著に出ている。
義仲入京時の反平家軍は美濃源氏 甲斐源氏、北陸の豪族などの混成軍で、
入京後の狼藉三昧を義仲一人に責任を負わせるのは聊か可哀そうではある。
しかし、「頼朝だったら・・・」と考えるともう少し上手く処理できただろう。
対朝廷政策も稚拙であったし、実際史実においても、宇治川の戦い直前には
京都幕府は事実上空中分解していた。 義仲は自身の勢力圏が頼朝よりはるかに京都に近かったため、頼朝より先に上洛できた。
清和源氏の嫡流を自任する頼朝にとっては忸怩たるものがあったろう。寿永の宣旨の要請は、
実は頼朝の焦燥から為されたものであることに注目するべきである。
しかし、義仲は先に「幕府を築いた」ことによって、様々な諸問題を一気に背負いこんでしまい自滅した。
頼朝はこれを反面教師に、入京前の事前学習が出来た。常にピンチをチャンスに変えてきた
頼朝らしさがここでも発揮された。 大蔵合戦の件で頼朝の一家とは少なからず因縁があるんだよね 木曽義仲は日本人好みの悲劇性 英雄性は十分持ちながら 同時期の義経においしい所を
全部持っていかれて マイナー武将になってしまった。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」
『吉田定房奏状』
「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんやwwwww」 火牛の計について教えてください。
義仲勢は加賀の百姓武士どもを叩きのめすのは簡単だったのでしょうか? 吉川英治の新平家物語を読んでる。とても面白い。
木曽義仲が京にのぼったところまで読んだ。
名作ですな。 古典も現代版も読んだことが無いので誰かに訊きたいが、大夫房覚明はなぜ義仲のもとを離れたの?
やっぱり 「こいつは天下取る器ではない」と見限ったから?
>>170
火牛の計は『源平盛衰記』の作者が『史記』からパクった創作と言われてるよね。 なるほど。
勇猛果敢な加賀武者が義仲などに簡単に負けるわけがないと考えていました。
火牛の計は作り話ですか。やはり加賀の百姓武者とはいえ、百万石のルーツ。
田舎源氏の義仲などに負けるはずがない。 百万石のルーツっても武で切り開いた100万石でもないし >やはり加賀の百姓武者とはいえ、百万石のルーツ。
誰のこと言ってんの? 誉れ高き加賀びとたちのなかで平家追討の旗揚げをする武者はいなかったのでしょうか?
政治が得意の加賀武者なら都を静かに治めることなど容易だったはず。
文武両道に長けた加賀武者が静かに征夷大将軍になり幕府を開くのが筋のはず。
謎は深まりますね。 源氏は
鬼退治(源頼光)・オオカミ退治(義家・義仲)などの武名・伝説が多い
・(八幡太郎)義家の、軍勢でのオオカミ退治の手柄で「狼坂(おいぬざか)」
源義家の狼退治伝説 - 地元あちこち
kacco.kahoku.co.jp/blog/m-katono/53770
> 「医学部北門から南に延びる旧新坂通りのこの辺りのゆるい坂道は、
> 八幡太郎源義家が後三年の役に奥州下向の折(1083年)、
> 万民を悩ます狼を退治し埋めた所と言い伝えられている。」
> 昔は中山の辺りには狼が多く住んでおり、 この辺りまで下りてきて
> 住民に危害を加えていたそうです。
>>167
義仲は、オオカミ数頭相手に一人で立ち向かい斬殺
人形劇『平家物語』vol.5 - 22〜24話
http://kiratemari.exblog.jp/4627472/
> 駒ヶ根の牧が狼の群れに襲われ、愛馬が餌食にされたことに腹を立てた義仲が、
> たった一人で狼数頭に立ち向かい斬殺する光景を目の当たりにして、
> 将来天下にはばたく武将の相を見て取り、その教育係を引き受けた… <鎌倉幕府> 源頼朝 −北条政子ー北条時政ー大江広元
<京都幕府> 源義仲 −巴御前 ー中原兼遠ー大夫房覚明
こう見れば相似形で義仲も悪くないんだが、どこで差がついたのか? >>180
ブレーンというより嫁ハンの手綱の違いではないか ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>173
木曽義仲は、個人の勇猛さでは子供時代の狼退治があるな>>178 頼朝って
義仲はころすし義経も殺した。
だから3代で滅んだ。
これといった戦績も残していないのに
幕府を築けたことが不思議。 だからこそ、幕府開けたんだろうし
んな腐れ儒者みたなこと言われても困るだろう 鎌倉幕府は、二代目の頼家が京都の公家から正室を迎えて嫡子を設けていれば
比企の乱を防止できて、源氏将軍を継続できていたのではないか?
関東の御家人を外戚にするのは、源氏将軍にとってリスクが大き過ぎる。 比企と梶原も足並みが揃ってないからな
頼家も梶原を見捨てたし ちょっと長いけど
1180年、以仁王の令旨が義仲のもとにも届けられました。義仲は木曽周辺
の軍勢をまとめ、旗挙げし、平氏に味方する豪族を討ちつつ、新たな本拠
地、依田城(長野県丸子町)に移り、軍事的後見役・根々井行親の勢力圏
内の武将達を従えました。兼平も根々井行親の領地の近くに館を構えまし
た。そして、義仲に従う軍勢は長野県から群馬県北部に及びました。
横田河原の合戦で勝利の後、越後国府に入った義仲は、北陸を固めるため
に、兼平を各地に赴かせました。兼平は新潟県糸魚川市、新潟県中魚沼郡
津南町、福井県丹生郡清水町にそれぞれ「今井城」を築き、義仲の期待に
応えました。
1183年、頼朝と対立した義仲のおじ義広と行家が、義仲の元にやってきま
した。その事をネタに頼朝は義仲に兵を送って「二人のおじか、息子の
義高を鎌倉に差し出さなければ、兵を信濃に進める」と脅しました。義仲
は家臣達と話し合いましたが、なかなか答えは出ませんでした。
義仲は自分を頼ってきたおじたちを見捨てる事はできず、「ここで鎌倉と
戦うのは得策ではない。おじが無理なら義高を鎌倉に送るべきだ」という
小室光兼と「どうせいつか頼朝とは決着をつけなくてはならないのだから
ここで戦うべきだ」という兼平が対立し、義仲は小室の意見を採って、息
子の義高を鎌倉に送りました。これにより頼朝は満足し、義仲は鎌倉から
脅かされることなく北陸道へ兵を送る事ができました。
義仲軍は、倶利伽羅峠の戦い(五月)の圧倒的な勝利をはじめ、北陸道を
義仲軍は連戦連勝で進みました。兼平は木曽四天王の随一として、各地で
戦いました。特に倶利伽羅峠の戦いの前哨戦であった般若野(富山県)の
戦いでは六〇〇〇騎を率いて平氏側の先鋒部隊をけちらし、倶利伽羅での
勝利を導き出しました。(続く) (続き)
義仲は勝利におぼれることなく慎重に兵を進め、平家の都落ちを見定めて
から京都へ入りました。平氏は幼い天皇を連れ西国に逃れ、再起を図ろう
としました。御白河院は義仲に平家追討を命じましたが、義仲はそれに従
わず、都の治安を守ろうとしました。しかし、一一八一から二年にかけて
の飢饉のため、京では食糧不足に直面していました。そこに義仲軍が入る
という変則的な出来事が起きたため、都の混乱は続き、義仲軍の名をかた
って乱暴狼藉を働く者も現れました。また御白河院進めていた新天皇の
人選についても、義仲が北陸の宮(以仁王の子)を推して介入したため、
次第に院は義仲を疎ましく思うようになっていきました。院は「平家追討」
を名目に、義仲を遠ざけ、密使を送ってきた頼朝に接近しました。
義仲は山陽道に進軍しましたが、先鋒隊が水島(岡山県)で平家に破れ、
また、院が頼朝に関東・中部地方の支配を許可する「十月宣旨」を出した
事を知り、急いで京に戻りました。しかし、院の近臣は兵を集め義仲を挑発
し、義仲は院に弓を引く事を決意しました。
兼平はそれをとめようとしましたが、義仲の意志がかたい事を知り、兼平
は自ら院の御所に火を放ちました。 その結果、義仲は政権を握り、征夷
大将軍にまでなりましたが、頼朝が送った義経らの軍に追われる身となり
ました。
兼平は義経の軍に立ち向かうべく義仲と別行動をしていましたが、死を前
にして、二人は奇跡的にめぐり合い、そして、共に粟津で果てたのでした。
http://kyaro.nikita.jp/jinbutu/siten/imai.htm 兼平は
「どうせいつかは頼朝と戦わなければならないのだから」
って思っていたんだね。
いつから、どうしてそう思ったんだろう。 後白河法皇ってやつが歴史を引っ掻き回しているな。
どんな顔してたんだろ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>195
>後白河法皇ってやつが歴史を引っ掻き回しているな。
俺も昔はそう思ってたけどね。朝廷は自前の武力を持ってないから身を守るために
使える者を常に求めているのだ。平家は大きくなりすぎて言うことを聞かなくなったから
源氏に声をかけた。義仲も言うことを聞かない暴れん坊だから義経に目をつけた。 それを引っ掻き回すって言うんだろ。
民はいい迷惑だな。 しかし武士の武力無しには京の治安も守れないんだぞ。
武士がちゃんとやれば民のためにもなる筈だ。 自分は動かない麻呂の為にちゃんと働くわけは無いだろう。
まぁだからこその承久の乱なんだが。 百万石の武士団は何をやっていたの?
加賀の武士団が勢いよく都を制圧して幕府を開けばよかったのに 軍事貴族連合盟主としての河内源氏と
それを下支えの暴力装置とした摂関権力を破壊するため
白河上皇は、軍事奴隷階級を自らの直卒として掌握し
全国の国衙郡衙を軍事管制した。
その総司令部が法勝寺の北面であり
総指揮官が平家である。
この革命的権力を継承したのが後白河であり
武装皇権というべきもの。
皇家がやんちゃなので他家もならい
勝手に外交していたのが平家
勝手に幕府を建てたのが源氏 >>202
院政期が中世の始まりだから
単に武士対貴族という階級闘争的な史観ではなくて、貴族社会に中世の発祥を求めるのが最近の考え方だからね しかしその貴族社会は社会のてっぺんから程なくドロップアウトしてしまう。
だから中世=武士って感覚なんだろ。
それに貴族は封建制を敷いてないからな。
半中世?的な感じか。 一応、鎌倉末までは公家は膨大な所領を有する支配階級の最上層部だろ。
中世も南北朝の真ん中あたりで二分化されるんjyないかな。応安の半済令あたりで。
前期中世・後期中世みたいな。 摂家や宮家から将軍を迎えたり協調しつつも、京と鎌倉は隔離してたから
ジレンマを完全に克服したのが室町で単純に権限自体は守護領国制の方が大きいからな > 義仲は、オオカミ数頭相手に一人で立ち向かい斬殺
> 人形劇『平家物語』vol.5 - 22〜24話
> http://kiratemari.exblog.jp/4627472/
> 駒ヶ根の牧が狼の群れに襲われ、愛馬が餌食にされたことに腹を立てた義仲が、
> たった一人で狼数頭に立ち向かい斬殺する光景を目の当たりにして、
> 将来天下にはばたく武将の相を見て取り、その教育係を引き受けた…
木曾義仲の興亡と越中国の伝説
http://ettyuukyoudoshi.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=299381386
> ・平治二(永暦元年、1160)年 7歳 狼退治
えっ・・・義仲が「7歳で」オオカミ退治って、ものすごい武人では? >>182 183
「便女」(びんじょ)
「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。」平家物語 「狼数頭に立ち向かい」てあるが
それに狼が逃げる気なら人間の脚じゃ追いつけないだろ 大勢の先頭に立って相対したくらいの話じゃないのかね 江戸時代には人食いも多くて駆除用の落とし穴「狼落とし」の遺構も残ってるが
義仲の時代にはどうだったのだろうか
【長野】オオカミ被害防ぐ江戸時代の遺構「狼落とし」発見 富士見町内2例目[11/12]
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1447944512
>江戸時代、乙事などの村々では畑仕事や草刈り中などに
>大人や子ども、馬がオオカミに襲われて命を落とした記録が古文書に残っている。
>被害に悩んだ村々が藩に駆除を願い出たほか、
>1822(文政5)年には藩の指導を受けて村々で狼落としが造られたという。 うちの御先祖が義仲の討死後に落ち延びた遺児か郎党だったらしい。
自分は関東の山村出身だが、前に自分の姓について調べてたら、三重と岡山という全く縁もゆかりもなさそうな土地に同性が集中してる所があったんだが、
どちらにも義仲絡みの落武者伝承があってビクーリしたよ。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ >>77
義経と平泉の同盟を警戒した頼朝が義仲を誑かして京に乱入させて概ね同じ筋書きになりそうな気がする
義経と義仲の順番が入れ替わるだけというか 木曽義仲は個人的に好きな武将なのでスレ上げておく。
しかし、 マイナー感は正直あるよね。 歴女とかああいったオタクらはやっぱり戦国武将に行くわな。
南北朝時代や源平の内乱自体がマイナーだし。(奈良・平安前期よりはメジャーだがw)
木曽のど田舎から出てきて世の中変えたんだから、もうちょっと注目してあげてほしい。
俺のこの義仲愛に感じ入った人は、ちょっと↓にコメント書いてみて。 人間ドラマとかそういうの含めて平安末、鎌倉初期が一番好きだわ 今は石ころ程度の武将でも戦国時代ってだけで持て囃されるから 今は石ころ程度の政治家だらけなのに自民党所属というだけで持て囃されるから。 今も昔も石ころ程度の政治家だらけなのに立憲民主党所属というだけで持て囃されるから。 立憲民主って昔からあったっけ?
チョンは日本のこと知らないから適当なことしか言わないのなw 義仲に関係のない自分勝手な不満を吐き出すのは遠慮願いたいものです。
賢しがってるつもりかもしれませんが馬鹿にしか見えません。 自民党=平家だが?
平家に非ずんば人に非ず=自民党に非ずんば政治家に非ず。
安倍ゲリゾーは平家の長州閥。
こうして考えると木曽義仲の源氏は野党だろうな。 >>227
立憲民主党の議員って ほとんど元民主党出身なのを知らないの?w
どうしたら>>226を>>227のように読めるのかね? まあ、スレチだから 中坊へのレクはこの辺で。
>>228>>231
すまん。>>225がうざかった(スレチ)ので ちょっと捻って>>226投げたら文盲から誤爆されちったwww 反省 >>232
わかったから早く北朝鮮に帰れよキチガイ 誤読を指摘されたからといって、そんなに照れるこたあない 安倍のゲリゾーは統一教会だし創価と仲良しだしフジチョンテレビと親しいし
やっぱり自民党は朝鮮人の集まりだったか どうみたって長州閥が支配してる自民党は平家だろ?
実は平家全盛時代の源氏は今の野党勢力と同じく野合の集団だった。
そこに源頼政と木曽義仲が捨て身の攻撃で平家打倒の先駈けになったのだ。 googleMaで見ただけだが
木曽谷ってのも狭いよな とんでもないど田舎だそ(木曽谷住民の方 ごめんちゃい)
あんな山奥から義仲や義仲四天王が生まれ育ち、 短命ではあったが、天下を取り、 歴史を変えた。
上の長州バカではないが、 木曽谷は「平安末期の萩(藩)」だね。 人国記 巻之上
信濃国
百姓・町人の風儀もその律儀なること、伊賀・伊勢・志摩の風俗に五畿内を添へたるよりは猶も上なり。
所以は義理強くして、臆することなく、百人に九十人は律儀なり。
東武士は大方強敵どもなり
筑紫の奥は奥州衆により申候
上方の弓矢すえになりたる国ども、(中略)五畿内中国の町人に相似たる侍ども、(中略)弱敵の国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
関東の敵馬上の戦ひよくして、馬を入乗きり、足軽上手なれば
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
三河国、日本六十余州にて、人のかぞゆる侍の、武篇かせぐ国なれば
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)
内村鑑三
私は幸いにも、未だかつて信州人に奸物を見ない。長州人の場合は、奸物でない者は稀であることに較べて、信州人の場合は、奸物である者は稀であるようである。
これが、私がこの明治の偽善政府の治下にあって、望みを信州人に託す所以(ゆえん)である。
それにもかかわらず、信州人が伊藤侯を戴き、大隈伯を仰ぐに至っては、言語道断である。私は信じて疑わない。浅間山麓は、狐狸族が繁殖すべき所ではないと。 >>238
木曽義仲は源氏だぞ
なんで源氏の徳川を打倒した平氏の長州と一緒にするんだよ? 自民党を平家だと意地でも認めたがらないバカがいるんだよな 勢いだけは日本史上最強だったが政治力が欠如して消えていった木曽義仲。
選挙で史上最多議席獲得という爆勝して政権を取ったが政治力が欠如して消えていった民主党。
皇室をも恐れなかったあたりも含めて小沢一郎が木曽義仲ですかね?
源氏=旧民主党系
平氏=自民党 朝廷と全面戦争になった木曽義仲末期の暴走グダグダ感と民主党政権末期の暴走グダグダ感は似てるわな どうせ若いやつのレスだと思うが、自分ではオモロイと思ってるんやろな
連投自演してガッツポーズしてるんやろうなあ どうでもいいが木曽義仲は源氏やぞ。
平氏の長州閥の安倍ゲリゾーと一緒にすんなよ。 スレタイも読めないんだから仕方がないが
お前ら底無しに頭悪そうだな 朝廷 vs 武家 というと大抵は承久の乱や延元の乱を想起するが、その嚆矢は法住寺合戦である。
義仲は数倍の法皇軍を破り、政局の主導権を手にした。
義仲は法皇派の公卿を朝廷から一掃し、親義仲派の松殿師家を関白にし、事実上の義仲政権を築いた。
やがて、征東大将軍に任ぜられ京都幕府を開いた。
鎌倉軍の上洛、攻撃によって京都幕府は短命に終わったが、 この政権は鎌倉幕府のような緩やかな封建制度ではなく、
非常にドラスティックな転換を志向していたかもしれない。
清盛 頼朝 北条氏が出来なかった王家・公家・大寺社などの旧支配勢力の一掃である。
義仲は「未完の革命家」と考えてよい。 たしかに日本史上初を達成する行動は勇気がいるよな。 スレ違いだからこれで最後レスにするが
あの短命の民主党政権もやがて未来の自民党消滅のためには必要悪だったのかもしれないねえ 今井四郎兼平の末裔の者です
平家物語を書斎に置き臥薪嘗胆しております 薪の上で寝て胆をつるして舐め、
会う人会う人に屈辱を忘れたか!
と言われるようになってから言え 日本史より謎な金儲けできる方法とか
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Z94C5 頼朝より先に幕府を開いた義仲は過小評価だよな。
教科書では扱い小さいし。 >>252
樋口次郎兼光、落合五郎兼行の末裔の方は知りませんか? 義仲とフン族のアッティラってそっくりだな
田舎から出てきて大軍となり、ヒャッハーって都会を荒らしまわった
もちろん、後白河法皇に相当するのが法王レオ1世 清盛の「脱・京都」志向と頼朝の「親・京都」志向も考える必要がある。
京都を離れたかったが完全には離れられなかった清盛
京都に還りたかったが鎌倉を捨てるわけにはいかない頼朝
それぞれ政権の成立過程と権力構造が違うので優劣を論ずるのは無意味。
ただ、この「六波羅モデル」と「鎌倉モデル」の内 長期政権として成功したのが後者であり、
後世 このモデルを採用した徳川幕府も成功したもんだから、頼朝>清盛に見られてしまうのは清盛の不幸ではあるな。
承久の乱で鎌倉方が負けておれば頼朝も北条も一発屋扱いであったろうし、
石橋山の合戦後、梶原景時が「頼朝、ハケーン!!」と叫んでいたら頼朝は源三位頼政以下の扱いであったろう。 義仲と義経が目指したのは京での軍事貴族だったけど、頼朝だけは完全に違ったな
平家の畿内惣官職を幕府とする見方もある 頼朝はかなりの強運の持ち主だが、北条時政も運が良い。娘の結婚も政子にせがまれて仕方なく許したらしいからな 「武士の世の中」を作ったのは、実は以仁王だということを
忘れてはいけない。 以仁王の存在が鎌倉の政権のきっかけになったのは認めよう。
しかし以仁王が作ったと言うのは語弊があるぞ。 令旨がなかったら頼朝は動かなかっただろうからな
流人生活自体は平穏無事だったらしいが 行家は兵法のオタク的な知識は豊富にあったが、実践となると百戦百敗という
ダメダメっぷりだった
今の世のオタクにも通じるものがある 山伏に変装して苦労して各地を廻り、源氏の決起に貢献したのにね・・・悲 烏合の衆というか、源氏は各々が目指す方向が全く異なっていたからな 武田兄弟や新田義重は何を目指していたのだろうか?
少なくとも頼朝の配下というのは本意ではないだろう、 武田は複数の分家で親鎌倉派と反鎌倉派で分かれていたからな >>278
甥っ子どもも、行家おじさんには冷たかったな 墨俣川では義円がかなり無茶な作戦に出て戦死してるね 叔父といっても義朝の末弟の行家は頼朝とあまり年は違わず、義平より年下だったな
昔の武将は子だくさんだったから、まだ父が種付け終わらないうちに長男が長子を設けることも珍しくなかった
平家でも忠度(清盛の末弟)も重盛より年下だった >>285
そら昔は一夫多妻で金持ちの男は自分は爺になっても
いくらでも若い側室を娶ることができたから
徳川家康なんて72歳の大坂の役に曾孫より若い
18歳の側室お六を同伴して楽しんでるし
家康の初孫の登久姫は1576年生まれ、初曾孫の万姫が1592年生まれ
家康の未子・市姫は1607年生まれ
曾孫よりも子のほうが年下 >>786
スレチだが、登久姫って、16歳で万姫産んで、6男2女も産んでるのね。
ほんで31歳で亡くなってる。 なにげに凄い女性。 父親(信康)の成せなかったことを
別の形でやり遂げたといえるかも。
しかし、登久姫もそうだが、家康は孫の奥平家昌 奥平忠政より長生きしてるというのが凄い。 >>288
登久姫の母は織田信長の長女・徳姫だから複雑だ
信康の血を残すために多産したわけでもないだろうが
短期間に大勢の子を産んだので母体ボロボロで早世したんだろう
珠姫(徳川秀忠と江の次女、2歳で前田利常に嫁ぐ)なんかも
15歳から産み始めて三男四女、24歳で亡くなっている >>6
新宮行家の大河ドラマも希望w
あの、しくじりっぷりと波乱万丈さはなかなかないw 近年は、さほど大ヒーローでない人にもスポットライトが当たるようになってるよね、大河ドラマ もし何かの気まぐれで義仲の大河があって、
行家の出番があったらラッキーくらいのものでしょう
行朝ならまだチャンスが多いけど 普通に行家出るだろ 砺波山倶利伽羅峠戦だって副将扱いなんだし 京都幕府が永く存続したのなら、執権は中原氏一族でお願いします。 今井四郎兼平、樋口次郎兼光に比べ、落合五郎兼行ってイマイチ地味? とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
GP3 >>250
政権交代を実現可能にするという目標を達成できただけでも価値はあったかもしれない。
木曽義仲の三日天下=3年間の民主党政権 NHKは いだてんを打ち切って来月から「木曽義仲」やれ マジで面白そうだな、義仲の人生を描くの
波乱万丈すぎて 全盛期の平家を都から追い出した義仲
弱って和睦するつもりの平家を奇襲した義経
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