邪馬台国畿内説を論理的に潰すスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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憎き畿内説を潰すための有意義な情報を交換しましょう 倭人伝を信じないと!といいながら都合のいいところだけチェリーピックするのが九州説のデフォ 九州説だと倭人伝の内容は全て正しいとの立場ですよ
畿内説の様に南と東を間違えたとか里数と日数の行程を続いて読んで目的地が何処だか分からないとかありませんからw で明記もされていない距離の単位をでっち上げたり
歴史学考古学的成果を無視してあらぬ方向に進むのなw >>853
すべて正しいと思った時点で、それは学問ではなく、宗教になる >>853
史料の記述が正しいかを確認するところから歴史学の研究が始まる >>855
どうしたら全て矛盾無く説明出来るかを考えるのが学問です
書いた人は矛盾なく書いたつもりなんですから
正しくないなんて考えてしまって自分の好きな様に理解したら妄想です。 >>856
その為にも記述が正しい事を前提にすべきです。 >>857 >>858
やっぱり歴史学の方法論を全く理解できてないんだな サッカーの試合をみて
「なぜ球を持って走らない!」
と騒いでるバカと一緒だなw 伊都クズの主張が歴史学的に受け入れられることはあり得ないことが確定 >>857 >>858
あんたの考え方は日本史の考え方とは全くの別物なんで
この板から出ていくことを強くお薦めしておくよ >>857
>書いた人は矛盾なく書いたつもりなんですから
そこんところは同意するよ
矛盾なく書いた「つもり」
でも、現実に地理とは合ってなかった
不十分な報告と、中華世界の世界観に照らして
「矛盾なく」書いた「つもり」ってだけだからね >九州説だと倭人伝の内容は全て正しいとの立場ですよ
全て正しいと仮定すると、帯方郡-不弥国逐次読み合算でも10700里しかなく、「自郡至女王國 萬二千餘里」には足らない。
陳寿の認識では、伊都国はもちろん不弥国までは未だ「女王国の範囲外」ということだな。
一大率が置かれている事から考えると女王国外の属国的ポジションであろう。 >>864
女王の範囲は帯方郡から七千里の狗邪韓国からですよ。 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif 狗邪韓国は「大海之中」には無いので女王国はおろか、倭地ですらないよ。
倭人伝の内容が全て正しいとするならね。 畿内という事は決定している。九州の高千穂、高天原は経由地。 >>868
畿内という事は決定している。
九州の高千穂、高天原は神話での話、経由もしてないし歴史と無関係。 そんなザマじゃ
畿内説を論理的に潰すなんて
夢もいいとこだよ 倭人伝の内容は全て正しいとの立場だと、陸行一月は文字通り「一月」であって、「一日」への勝手な読み替えは許されない。
そんな都合のいい改竄が許されるのなら、「萬二千餘里」は「二萬千餘里」の誤記だ!いや、「二千萬餘里」だ!なんて主張も否定できなくなる。 どんな史料にも、史料の限界はあるんだから、「内容は全て正しい」なんて
いう原理主義に陥ったら何も分からないのと同じなんだけどね
女王國まで萬二千余里が「陳寿にとって正しい」というのと、
現実の地理に合致するかどうか、は別問題 ここまで妄想が激しいと気味が悪い。
こういうやつらが新潟の事件みたいのやらかすんだろうな 周囲が異臭に気がついた時にはもう…
ってパターンだなー 文学作品じゃないんだから、淡々と普通に読めばいいんだがね。あくまで歴史地理記録なんだから。
放射読みとか変則的な解釈も必要なければ、文中で断りなく起点を戻す珍行も考慮する必要もない。
現に、帯方郡からの行程を示す場合は「帶方東南大海之中」「從郡至倭」「自郡至女王國」とちゃんとわかりやすく書いてくれてる。
「伊都国から」の記述が必要な場合はその旨注釈を入れるだろう。
記録者の誤認識や誤記はあるか?
それはあるだろうよ。そもそも、距離や方位をどうやって知り得たか?すら定かでない。
現存する写本は編纂時から800年以上前の宋本が最古。人力で転記を繰り返してりゃ、誤記も起こるわ。
「誤り」があることを頭に入れつつ、注釈のある部分以外は順次読み。ただこれだけ。 魏の使いが伊都までしか来ていないのに卑弥呼にあっているのだから、結論は出ていると思うけどね。 魏の使いが伊都までしか来ていないのに卑弥呼にあっているって誰が決めた
w 「傳送文書賜遺之物詣女王」
国書と下賜物を伊都国から女王に「傳送(伝送)」させる為だね。
不弥国から水行20日+10日・陸行1月の「女王之所都」にね。
文書賜遺之物は伝送するシステムだと書いてるんだからしょうがないだろ。
謁見したとはどこにも書いてないがね。 港から荷揚げするときに確認して、きちんと王宮まで届けているということだよ。
九州で荷揚げしたのだから、本州になんて運ばない。 >九州で荷揚げしたのだから、本州になんて運ばない。
倭人伝のどこにそんな記述あるの? 決して出ることはないだろうけれど、出土したら一発で邪馬台国論争が終わるもの
魏皇帝の詔勅を開封した時の封泥
これは、倭王の手元でなければ開封されてはいけないものだからね
で、これを魏使が手元から離して倭人に委ねたら、途中で開けられてしまうかも
しれないし、皇帝の使者としては失格
魏使が邪馬台国まで行っていない、というのは考えなくてよい >>888
伊都国で受け取る倭人がどのくらいの高官なのかによるね。
代理受領が中華でいうところの丞相や、天皇制での摂政レベルであれば何の問題もない。
倭人伝でいうところの「男弟」とかね。
卑弥呼は宗教的祭祀として「自為王以来少有見者」ではあるが、男弟は政務外交実務者だったかもね。
いずれにせよ卑弥呼に直接謁見した記録は「無い」。
謁見した「はず」は単なる希望的観測。 >>889
>卑弥呼は宗教的祭祀として「自為王以来少有見者」
延喜式内明神大社
・天石門別八倉比売神社(社名自体が荘厳だね)
・一宮神社
・上一宮大粟神社
卑弥呼が「自為王以来少有見者」だったのは、↑の神山奥の院「上一宮大粟神社」建立地に引き籠っていたから。
葬られたのは、民が大勢暮らした弥生末期集落遺跡群の聖山「杉尾山」。 @阿波 >>889
>卑弥呼は宗教的祭祀として「自為王以来少有見者」
延喜式内明神大社
・天石門別八倉比売神社(社名自体が荘厳だね)
・一宮神社
・上一宮大粟神社
卑弥呼が「自為王以来少有見者」だったのは、↑の神山奥の院「上一宮大粟神社」建立地に引き籠っていたから。
葬られたのは、民が大勢暮らした弥生末期集落遺跡群の聖山「杉尾山」「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。 @阿波 いわゆるオラが邪馬台国の一つだな。
考古資料が貧弱すぎて地元の「自称」研究家以外に相手にされることは無いが、主張するのは自由なんじゃない。 >>889
>代理受領が中華でいうところの丞相や、天皇制での摂政レベルであれば何の問題もない。
>倭人伝でいうところの「男弟」とかね。
その男弟はどこにいるのかね?
一大率の居るところには居ないだろ?
>>888での「魏使が邪馬台国まで行っていない、というのは考えなくてよい」が
>>889では「謁見した「はず」は単なる希望的観測。」に化ける不思議
「魏志が九州島から出ていない」というのは「九州説の命綱」であるけれど
立証困難、というより「水行20日+10日、陸行1月」を素直に読めば、
その時点で破綻している >>893
水行部分は「南」「東」の間違いだろう、というのが一般的だな。
これなら破綻しない。
九州説論者でも松浦・唐津=末盧国→糸島=伊都國 と比定する者が多いが、これも「東南陸行 五百里 到伊都國」とは合わんので90度読み替えてるわけ。
だが、誤認識・誤記の可能性を認めるということと「書いてない事実があったと決めつける」のとはまったく違うぞ。
魏使は卑弥呼と会ったかも知れないし、会わなかったかも知れない。
確実なのは「直接会ったという記録は無い」ということと、
「直接会わなくても特に問題はない」という事実だけだよ。
>その男弟はどこにいるのかね?
>一大率の居るところには居ないだろ?
なんでそう思うの?
「特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國」と書いてあるね?
男弟が伊都国に派遣されて、九州方面総合統括官を務めてたりしたら具合悪いの?
女王之所都は邪馬台国と明記されている以上、伊都国は首都ではあり得ないが、外交・軍事のホットゾーンではあるだろうしね。
伊都国に常駐するのは男弟以外の高官で、国賓来訪時のみ邪馬台国から男弟が出張ってくる、って可能性もあるね?
卑弥呼の
「自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處」
という描写を見ると、政治的統治者としての実務…例えば「常治伊都國」は難しいように思えるがね。 >>894
男弟とは「月読尊」
卑弥弓呼とは「素戔嗚尊」
卑弥呼とは「天照大御神=大宜都比売」だよ。 @阿波 >>894
「天照大御神=大宜都比売」と「月読尊」は粟国側
「素戔嗚尊」は長国側 @阿波 邪馬台国畿内説を論理的に潰すなんて
到底無理のようだね >>894
>なんでそう思うの?
>「特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國」と書いてあるね?
>男弟が伊都国に派遣されて、九州方面総合統括官を務めてたりしたら具合悪いの?
男弟のことを議論しているときに、ここを引用しなくてどうする?
「有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。」
男弟は「佐治國」 国を治めるを佐(たす)く だよ
国を治めるを佐く=実務担当者であれば、
遠地に出向いているというのは考えなくていいだろう
一大率と男弟の職務は重ならないし、伊都国に出向いたと考える必要もないだろ >>898
だから、
男弟とは「月読尊」
卑弥弓呼とは「素戔嗚尊」
卑弥呼とは「天照大御神=大宜都比売」だよ。 @阿波
「天照大御神=大宜都比売」と「月読尊」は粟国側
「素戔嗚尊」は長国側 >>894
>魏使は卑弥呼と会ったかも知れないし、会わなかったかも知れない。
年増だったと書いてあるのだから、会ったんだよ。
>「直接会わなくても特に問題はない」という事実だけだよ。
皇帝の代理で来ているのに、合わなかったら大問題だよ。
アホだろ。 >>898
>国を治めるを佐く=実務担当者であれば、
>遠地に出向いているというのは考えなくていいだろう
男弟は常に卑弥呼のそばにいたのだろう。
伊都にいた使いが卑弥呼もしくは男弟に会うためには、彼らが伊都の近く、つまり九州にいなくてはいけない。 >>91
だから、
男弟とは「月読尊」
卑弥弓呼とは「素戔嗚尊」
卑弥呼とは「天照大御神=大宜都比売」だよ。 @阿波
「天照大御神=大宜都比売」と「月読尊」は粟国側
「素戔嗚尊」は長国側 >「魏志が九州島から出ていない」というのは「九州説の命綱」
なのは九州説だけの事情で、魏使が邪馬台国に到達していようがいまいが、卑弥呼に謁見してようがしてまいが、畿内への比定に影響はないんだがな。
日数表記が「倭人の距離」なのは明らかで、里数記載の行程記述に突然割り込んで来るのは「倭人からの伝聞」と考えるのが一番合理的なだけで。
伝聞情報しか得られなかったのは、魏使が記録できなかった=魏使は邪馬台国には行ってないかも?と考えるのは自然ということ。
邪馬台国に到達していたところで不弥国からの水行記載が消えるわけではないのだから、畿内にとって不利な事は何もない。 >皇帝の代理で来ているのに、合わなかったら大問題だよ
どこにもそんな根拠はない。おまえ、アホだろ。
梯儁訪問時の下賜物の返礼は
「倭王因使上表 答謝詔恩」
と、卑弥呼は使いの者に因って謝辞を上表で済ませている。謁見の描写はない。
狗奴国抗争についての卑弥呼の訴えには
「遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之」
と、檄文を難升米に預けて処理してる。謁見の描写はない。
卑弥呼死去後の乱に際しても
「復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與」
と、壹與にも檄文で処理してる。謁見の描写はない。
いずれも、魏使が直接謁見してもおかしくないケースだが、そのような記述は見られない。 >国を治めるを佐く=実務担当者であれば、
>遠地に出向いているというのは考えなくていいだろう
>一大率と男弟の職務は重ならないし、伊都国に出向いたと考える必要もないだろ
いや、すいません、意味わかりませんわ。
洋の東西を問わず、帝や高位政務官が遠地に出向くことは普通に行われてますんで。 >>905
>洋の東西を問わず、帝や高位政務官が遠地に出向くことは普通に行われてますんで。
遠方(直方)の一大率は筑紫忌部が務めるので、男弟の「月読尊」は卑弥呼の補佐に専念しているよ。 @阿波 下賜物でもありえないが、
畿内にいる卑弥呼への金印を九州で渡すとかw
そんな考えだから成り立つ説ってこったw なぜあり得ないか、論理的に否定してごらん?
思う思うじゃなくて。 鉄器ゼロの毛人の地に3世紀倭女王卑弥呼様がいるはずも無いから 五斗長垣内遺跡を見てもわかるように、近畿地方はむしろ鉄器の先進地。
当時の九州は紛争地だから、兵器の出土が多い。
沖縄には日本最大の軍事基地がある!だから沖縄が日本の首都だ!とはならんだろ。
むしろ、国境線や紛争地からは離れた平穏な地に首都は置かれる。 五斗長垣内遺跡の目の前の大阪湾沿岸にすら鉄器はほとんど出ない。
鉄原料は朝鮮半島から北部九州経由。
鉄製品も北部九州。 アホやな。鉄器は摩耗しても炉にかけてリサイクルするんや。当時の鉄はまだ貴重品やからな。廃棄されるわけないから、出土しないのはあたりまえ。
武人の象徴として副葬されたら、墳墓がタイムカプセルになるけどな。 鉄鏃を全管理して
最後の一本が見つかるまで全軍で這いつくばって探し続けるのが大変だから
木鏃や石鏃を使ったわけだな。 ちなみに、鉄は磨いてもキレイにはならんからな。実用品としての強度は劣っても、祭祀器や宝物としては青銅の方が珍重されたんや。
青銅言うても、青くはないからな。磨けば結構なキンピカなるしな。銅鏡が長く「宝物」としての意味を持ったのはこのためや。
鉄鏡とか、無いやろ。 卑弥呼がシャーマンなら、邪馬台国は宗教都市やからな。軍備は最低限で良かったんや。
国境でもなければ紛争地でもないからな。
九州は南に狗奴国を抱え、北の朝鮮半島も不穏。女王国としてもじゃかすか軍備を増強せざるを得んかったんやな。
本土防衛の防波堤やからな。
戦略シミュレーションやったことあるやろ。
遠隔地攻撃兵器のないシナリオやったら、国境線に主力軍投入して、内地は内乱を防げる程度にしとくやろ。
限られたリソースでは、当たり前の戦略や。
九州の兵器出土の群を抜いた多さが、「首都を置ける地ではない」という事を証明しとるんやな。 >>908
>なぜあり得ないか、論理的に否定してごらん?
金印もそうだけれど、梯儁は詔勅を運んでいる
>>888でも書いたように
「魏皇帝の詔勅を開封した時の封泥 」が出れば邪馬台国の位置は確定
これは、魏使の梯儁も開封してはいけないんだよ
それを倭人に託すなんてのは、ない
梯儁は邪馬台国まで行かないといけない >>917
だよね。狗奴国についちゃったわけだね。 >>905
>洋の東西を問わず、帝や高位政務官が遠地に出向くことは普通に行われてますんで。
それ、いつの時代だ?
まず第一、そのために一大率を置いている
一大率が倭国の高位政務官だよ
そして、現代の常識だと盲点だが、畿内と九州との間の連絡手段がない
知らせが来てからで迎えに行っても片道二ヶ月、往復4カ月かかる
さもなければ来る前から待つしかないが、いつ来るか分からない魏使を、
本国で女王の国政をたすける立場の男弟が、九州でぼーっと待って
いる訳にはいかないだろ?
男弟が遠地まで出迎えに行くのは無理だよ >「魏皇帝の詔勅を開封した時の封泥 」が出れば邪馬台国の位置は確定
そんなもん出てないですけどw
>それを倭人に託すなんてのは、ない
>梯儁は邪馬台国まで行かないといけない
だから、お前の願望語ってどうすんの?
倭人伝に、梯儁が邪馬台国に行った記述も直接謁見した記述も無いんだから。
ちなみに、現行憲法でも摂政は「国事行為に関する権限は天皇と全く同等」な。
厩戸皇子以降、女性天皇を理由に摂政を置いた事は何度もあるし、邪馬台国にそれに類する非常任職があっても不思議ではあるまい。 >一大率が倭国の高位政務官だよ
それ、どこの史料にあるの?初耳だわw だから、お前の願望語ってどうすんの?
>邪馬台国にそれに類する非常任職があっても不思議ではあるまい。 >>923
男弟に関しては「佐治國」とあるんだから、明確に国政代行者だね。「女王」であるが故の非常職か、卑弥呼が宗教祭祀専業であるが故の非常職なのかは不明だが。 >一大率が倭国の高位政務官だよ
倭人伝では於國中有如刺史と、「刺史のようなもの」と記している。刺史は州長官クラス。将軍級待遇もあったが、高位官かと言われると???
丞相、右大臣、左大臣の類と比べると遥かに下。
まぁ、地方都市でしかない伊都國には州長官クラスで十分だったのかも知れないけど。 >さもなければ来る前から待つしかないが、いつ来るか分からない魏使を、
>本国で女王の国政をたすける立場の男弟が、九州でぼーっと待って
>いる訳にはいかないだろ?
魏帝は卑弥呼の朝貢(238年)に対して、難升米・牛利を先行して帰国させてる。銅鏡100枚はこの時な。
この時に、金印授受の旨は予告してある。
梯儁派遣はその後(240年)。印綬の類はこの時。
梯儁派遣予定は難升米が知ってるんだから、合わせて待つことはできる。
当時のことだから、数カ月の待機期間はあったろうが「いつ来るかわからない」なんてことはない。 >>926
つまり、
銅鏡100枚は魏に既にあった銅鏡をかき集めて渡したわけだ。
金印は、特注で「親魏倭王」を刻まなければならないから、240年。
銅鏡100枚と
たった1個の小さな金印
どちらの方が製作に時間がかかるかは、わかるよな? キナイコシ
シャドーボクシングしていたら鳥居に引っかかって
一人でノックダウン 乙www >>910
>五斗長垣内遺跡を見てもわかるように、近畿地方はむしろ鉄器の先進地。
淡路島は倭国(阿波)の領分。 近畿に取り込んじゃ遺憾だろ。 @阿波 >>911
>鉄原料は朝鮮半島から北部九州経由。
鉄原料は朝鮮半島から北部九州経由して、倭国(阿波)へ。
鉄製品も倭国(阿波)。 @阿波 >>99
紀元前からずっと絹製品が出土
って証拠は? >>928
>銅鏡100枚と
>たった1個の小さな金印
>どちらの方が製作に時間がかかるかは、わかるよな?
ごめん、わからん。なんで製作時間が関係あるの?
238年の魏帝制詔の段階で既に「今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬」
と、金印紫綬は帯方郡預かりになってる。
政治にはいろいろと段取りが必要なもんだから、正式授受が240年になっただけだろ。
アポ無し直撃とか、倭も困るしな。国賓出迎え準備とかもあるんだから。 >>925
>まぁ、地方都市でしかない伊都國には州長官クラスで十分だったのかも知れないけど。
一大率は筑紫忌部(州長官クラス?) @阿波 >>922、>>925
一大率はのちの太宰府長官くらいだと思えばいいんじゃないの
遠地で本国政府を代表するんだから、十分高位だろ
現代でも大使級外交官の敬称は閣下だよ >>926
>梯儁派遣予定は難升米が知ってるんだから、合わせて待つことはできる。
>当時のことだから、数カ月の待機期間はあったろうが「いつ来るかわからない」なんてことはない。
片道2ヶ月、往復4カ月かかるんだよ
そこに数ヶ月も待機期間があったら、半年以上本国を留守にすることになる
佐治国は、国事の代行や摂政ではなく、彦姫制のヒコ王なのだと思う
つまり、政務に関しては「王そのもの」
それがおいそれと、九州くんだりまでは行ってられないよ >>903
>日数表記が「倭人の距離」なのは明らかで、里数記載の行程記述に突然割り込んで来るのは「倭人からの伝聞」と考えるのが一番合理的なだけで。
つまり里程は九州北部までで終わり、邪馬台国は九州北部 >936
いや、倭人伝には「刺史のようだ」ってちゃんと書いてあるから。
魏使の認識では州長官・監督官級と捉えたということ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%BA%E5%8F%B2
ただ、中華とはは比較にならないくらい規模が小さいから、位階的なものより「監察官」としての職能をイメージして例えたのかも知れない。
「特置一大率檢察 諸國畏憚之」とあるしな。
倭人伝の記述からは政府を代表するとか、大使館的な意味に捉えるのは難しい。 >>908
>なぜあり得ないか、論理的に否定してごらん?
>思う思うじゃなくて。
九州で渡して畿内に届けさせて終わるなどということがどうしてあり得るのか、説明してよ。 >>914
>鉄鏡とか、無いやろ。
無知なキナイコシ >>99
まず、自分で言ってることの証拠をだすといい
でないと、畿内説を論理的に潰すことなど不可能だ >>940
邪馬壹國 女王之所都は
「南至投馬國 水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」
と、不弥国から最低1カ月以上の遠方にあり、
伊都国は
「郡使往來常所駐」
と、郡使が常に駐するところとあり、
「傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」
と、文書賜物はチェックのち女王に「伝送」する
と、明記されており、なおかつ卑弥呼直接謁見の記述がまったくないことから。
「女王の都はめっちゃ遠いよ!郡使は伊都国で駐在するよ!文書や賜物は伊都国から女王宛に送られるよ!」
って明確に書いてある。
使者が女王に謁見して手渡しするなどどこにも書いてないんだから、それを前提とするのは空論に過ぎない。 >>943
>使者が女王に謁見して手渡しするなどどこにも書いてないんだから、それを前提とするのは空論に過ぎない。
直接謁見するのが外交上の常識。 >直接謁見するのが外交上の常識。
あほか。古代倭人の常識を現代の常識に当てはめてどうすんだ。
現代の常識では、受け入れ相手国の諸事情を最大限に尊重するのが常識。
尊重しないのは宣戦布告に近い挑発行為。
倭側のシステムが謁見不可になってるんなら、魏もそれを尊重するだろ。 >>945
>尊重しないのは宣戦布告に近い挑発行為。
中華帝国は、地上において唯一の文明なんだから、他国の諸事情なんて気にしないよ
それが中華思想の本質
そして、宣戦布告と受け取られても構わない、まったく意に介さない、
のが大陸王朝皇帝のあり方 >>945
>倭側のシステムが謁見不可になってるんなら、魏もそれを尊重するだろ。
中華皇帝を相手に通用するわけない。 >>943
>「郡使往來常所駐」
>と、郡使が常に駐するところとあり、
多分ここに誤解があるんだと思う
郡使が常に「駐する」ところ、というのは、そこにとどまって
その先に進まないってことじゃないよ
スキップせずに、必ず寄ることを義務づけられている、というくらいの意味 >>948
>スキップせずに、必ず寄ることを義務づけられている、というくらいの意味
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、出入国管理局だからね。 @阿波 >中華皇帝を相手に通用するわけない。
ばかなの?断言するなら根拠を示したら?
>スキップせずに、必ず寄ることを義務づけられている、というくらいの意味
そうだね。だから、その先の奴国、不弥国には(正しいかどうか別として)里程も記載してるでしょう。
駐在して、自由に動ける範囲が不弥国までだった、ということ。
繰り返すけどな、女王謁見があったか無かったかは邪馬台国比定地の障害にはならんのよ。
畿内説にとっては「謁見してなくても問題ない」ってだけの話。
「邪馬台国は不弥国から水行が必要で、かつかなりの遠方にある」という事実は消えないわけで。
逆にこの時点で北九州の各既述国は全て候補から消える。
邪馬台国に到達し卑弥呼に会ってたところで
「不弥国〜邪馬台国は倭船に乗って、倭國お任せコースだったから自由に寄港地も選べず、行程詳細も記述できなかったんだろうなぁ」
ぐらいに思うだけで。 >>948
そこから先に進んだという記事がない。
日程は明らかに別情報。
同じ元資料を用いたと思われる後漢書では帯方郡から一万二千里で邪馬台国と明記しているし。
郡使は伊都までしか来ていない。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。