二唐書の記述でも魏志の水行記述を説明できず、切り捨てることになる。
こちらの方がよほど馬鹿…というか、二唐書は「邪馬台国」について言及された文書ではない。

邪馬台国比定に持ち出すこと自体が馬鹿。


魏志、隋書、二唐書すべてに整合性を持たせて説明すると、以下のようになる。

●大和=邪靡堆=則魏志所謂邪馬臺であり、女王国の首都「邪馬台国」は畿内にあった。
●倭奴=伊都=は女王国統治下、九州方面監督国であり、九州方面では優越的地位にあった(『丗有王』官も居たが王も居た、もしくは伊都国王が女王国の官に任命された)
●一大率は女王国の統治下、伊都国が主体として設置した(警察庁-各都道府県警の関係に類似)
●九州勢力指導層は、女王国崩壊後〜古墳時代初期に大和に移動し、地位を得た

「九州王朝」「九州勢力の武力侵攻による大和東遷」は考古的資料からは蓋然性が認められないが、穏健的移動、ヤマト王権中枢での地位獲得ならばあり得るか?