藤原道長 [無断転載禁止]©2ch.net
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日本史の中で超重要人物でありながらあまり語られない
藤原道長について語ってください。
道長が天皇の臣下のままでいたから後の頼朝も家康も
天皇を倒そうとしなかったと思うんですが。どうなんでしょう?
あと、具体的に何をしたのかあまり知られてないですよね。
紫式部のパトロンとかは知られてますが。どういった人だったのでしょうか? スレ主がユウロッパ人であることはバレているズラ。
藤原氏は日本人という事実は揺るぎない。 道長の権威ってどこまで届いてたんだろうか?
関東は当時、道長の命令とか聞いてたのかな? 地方はどうやって収めてたの?
地方に軍隊かなんかを置いておいたの? えげつないのは、在日(藤原氏)が日本人の振りをして日本人と結婚し、日本人の子供を苛めるという図式だ。
摂関政治とはそういう事だ。 >>250 基地外かよ。
藤原氏が製鉄系の朝鮮人というのはバレてる。
滋賀はもともとは、和邇氏の居住区だったしな。 道長の母の時姫って、兼家の正室と書かれているものがあるけど、その父の藤原中正って、
従四位上左京大夫とかで、道綱母の父の藤原倫寧の方が正四位下で位が上までいったわけ
ですよね。それなのに、何で時姫が正室になれたのか、わかる方いますか?
この差って、身分じゃなくて、兼家の寵愛が深いから時姫が優遇されて正室に成れたのか、
同じぐらいの身分だけど、后がねになれる娘を産んだことを配慮して正室にしたのか、そも
そも実は正室では無かったのか、とかいろいろ想像するのですが、詳しい方教えていただけ
ますと幸いです。 >>253
「蜻蛉日記」などを読むと道綱母は時姫を認識はしているものの
兼家は妻問い婚であり最初から大きな扱いの差があったようにも見えないですね
当初は道綱母に夢中になっている時期もあり道綱母を兼家の自宅横に住まわせたりもしています
決定的なのは藤原超子が冷泉天皇に入内するときに藤原兼家の本邸・東三条殿が超子の里第に定められたこと
この時に超子に同行して生母の時姫や時姫腹の子供たちが東三条殿に移っています
同じく時姫腹の藤原詮子が円融天皇に入内したときにも東三条殿を里第にしました
大鏡では時姫を「北の方」と表現して他の妻たちと区別
時姫死後、外孫の一条天皇が即位、時姫は帝の外祖母として正一位を贈位されています
ただ時姫の扱いについては不明な点も多いです
例えば兼家は時姫の死後ですが、内親王(村上天皇第三皇女・保子内親王)と結婚しているんですよね
そのうちに仲が絶え、内親王は嫁いでから4年ほどで亡くなってるんですけど
こちらのほうは身分から言えば正室でしょうが大鏡でも扱ってない とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
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