【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
・日本史板ですので、科学的な議論を心掛けましょう。
・荒らしは慎みましょう。
・相手に対して敬意を持ってレスしましょう。
前スレ【新田楠木】後南朝スレ★2【北畠小倉宮】
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1409313168/ 太政天皇の称号は、後南朝が先手を打って贈ればよかった。
そうすれば、後南朝の存在感も増すことになった。 吉野山中を転々とするのではなく、地方の有力者の支援を継続的に受けられる形で
運営すれば、後南朝はもっと長続きしたように思う。
伝説上の存在ではあるが、美作後南朝のようにしておけばよかった。 支援を十分に受けられなかったから転々とせざるを得なかっただけだろ、好んで転々とするはずがないんだよ >>857
定着してたら、支援者ごと足利幕府に攻められるだろ
根無し草みたいに漂ってたからこそ、応仁の乱までなんとか生き残れた アニメの一休さんは義満が南朝復活を気にしてる描写けっこうあるな
同じ寺の小坊主が後南朝ゲリラに参加するために寺を出るエピもあるし。
なお、その小坊主は次の話だと寺に戻ってた。 一休さんは南朝子孫じゃなく持明院統の一員だから後南朝に含まれません
>>860
後南朝の前半時代は京都在住の南朝系皇族が連れ出されて蜂起してるから、吉野山中を転々としてたわけじゃないし、そもそも存続してなくて断続してるんだよな
応仁の乱を目前にした後半時代ってか足利義政時代に入ってからか、地方生まれの後南朝皇族が出てきたのって。 アニメの一休さんでは、旧臣が一休さんを呼び止めて、足利義満と戦うように
促す場面があった。一休さんは北朝の御小松天皇の皇子だが、反幕勢力に
担がれる要素もあったのだろう。
安国寺の先輩小僧・周念さんは後南朝に参加して戦うため、寺を出奔した
こともあった。 そりゃ、一休さんの実兄である崇光天皇が死んだ際、後小松の実子たる一休さんをさしおいて遠縁の伏見宮の子をを養子にして天皇にしてるから、
差し置かれた一休さんを担ぎ出したい勢力はいただろうさ
南朝支持でなく反幕府を目的にしてるなら一休さんのほうが後南朝系より役に立つ立場だから、
一休さんの同意が得られてたら担ぎ出してただろうよ
後南朝皇族は一休さんほどの有用性はないけど候補者が多いのと遠縁すぎて一休さんほどには監視されてないのとで
担ぎ出しやすかったんだろうな 一休生母が南朝遺臣花山院某の娘で
怨みを晴らさんと後小松天皇に女官として近侍し
寵愛を受けながら機会を伺っていたが
常に懐剣を所持しているのがばれたため御所追放
この時一休を懐妊中で一休は寺に入れられた
という話じゃなかったか >>866
一休宗純は後小松天皇落胤説だろ
崇光天皇は兄じゃないぞ
崇光天皇は後小松天皇の祖父・後円融天皇の実兄
一休が後小松落胤なら一休の異母弟が称光天皇
称光天皇没後、曾祖父後円融天皇の兄崇光天皇の曾孫にあたる伏見宮家の王が
後小松天皇の養子に入り後花園天皇になった ああ、ごめん、思いっ切り間違えてるな
崇光天皇じゃなくて称光天皇だった 後南朝に参加して戦う鉄斎さんのような僧もいたんだろうな
アニメといえども、時代背景をよく描いている
幕府、旧臣にかつがれた一休さん、後南朝についた鉄斎さんが
三つ巴になって戦う回もあったら見たかった >>868
崇光は後光厳の兄だろ
後円融は甥
あと
https://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11489858466.html?frm=theme
ここのブログの
>出家した宮は、践祚できない
>践祚できないということは、即位できないことを意味し
>継承権を失うことを意味します。
>これは仮に還俗しても一度でも出家すると践祚できません。
↑ってのが本当だとすると一休を担ぎ出したとしても天皇の資格が無い以上無意味って事になるが
(もっとも大昔大海人皇子が出家後壬申の乱で大友皇子を倒して”天武天皇”となった例も有るが) 後南朝の蜂起で担ぎ出された皇子の多くがそれ以前に一度は出家してるわけで、還俗しても即位できない風習がすでに廃れていたとしか解釈できないんだが 多いか
尊義王くらいじゃないのか
義有王は皇位じゃないし
それに北朝側で出家前に皇位に就いた人間は一人もいない
それどころか南北統一後でもそんな人間はいない
上で出てる大昔に天武天皇って例外はあるがそれくらいだしそれ以降は一人もいない
別に廃れてる風習でもないだろ
あれがルールにまでなってると言い切れるかどうかは別として
正統性が怪しいって言われる後光厳だって出家する寸前に皇位になったし 数年前のユダヤの陰謀スレ
漫画やアニメばかり観ているから、こんな事になってしまった
と言ってる人がいたんだけど、北斗の拳、ドラゴンボールとか?
北朝、南朝・・・北斗、南斗、南都? 311後だったかな、
どうした聖人でも殺したのか?と言ってる人がいたり
どのスレだったかな、
そのような事を言ってる人がいた そもそも、大海人皇子は戒壇が無い時代の出家だから、出家(自称)だし。
吉野に嫁さん連れて行ってるし。
後世の出家とは別物だろ。 大海人皇子の出家が偽装だとしたら日本国内で出家後に天皇なった人は一人もいないって事で
それこそ上の言ってる出家した者は天皇の資格を失うってのがますます成立するな
もっとも尊義王は実は出家してないって説も有りそれだと皇位自体は受ける資格は有るようだが つ称徳天皇
孝謙天皇は一度譲位し太政天皇となってから道鏡を戒師として出家
しかしその後、恵美押勝の乱に勝利して称徳天皇として重祚した 天武にせよ孝謙にせよ相当時代の違うものを前例として認めるかどうかかな
後光厳のだって義詮が継体って前例が有るんだーって滅茶苦茶な強引さで天皇させたが
こうなると前例云々じゃなくて結局担ぐ人間が強いかどうかって言う問題が重要だわ 皇族の出家=皇位継承権の剥奪のためなのは明確だが
上皇の出家はそうじゃない
同列には語れない 聖武や仁明のように在位中に出家した例もあるのに、
花山は出家即譲位だったんだから、この間に転換点がある 花山の辺りからそのルールみたいなものが成り立ったとみるべきか 皇族であれ、武士であれ、出家すれば家督相続を放棄したことを意味する。
だが、足利将軍家で出家していた人が還俗して将軍になった例が出てくる。
大名でも今川義元は出家していたが、還俗して家督を継いだ。
だから、流れによっては、出家していた皇族が還俗して皇位に就く可能性は
あったと見るべきだと思う。
一休さんも後南朝も皇位に就く余地は、可能性としてはあった。 >>884
花山より後の天皇でそういう存在が皆無な時点で
天皇は将軍や大名とは明らかに格が違うって証左だろ 臣籍降下したら即位要件を失う、皇位継承権はなくなるという不文律だって、
いざ皇位継承者が乏しくなれば容易に反故にされたように、
僧籍に入れば即位できない風習も反故にされる可能性は高かっただろうがな >>886
そもそも後光厳の即位だって不自然にも程が有るがそれでも強行したしな
一応前例主義の強い世界では有るが何か有ったら案外あっさりぶち破る事有ってもおかしくない 皇族以外から選ばれて即位できても
一度出家した者は皇位継承からずっと排除されていた事実を見れば
両者には越えられない壁があって
絶対的なルールが存在していたことを認めざるをえないと思う 一度は前例があっても臣籍降下した元皇族からの即位が一度で終わったあたり、よほどのタブーだったことは確実だね
それで即位した欠格天皇が、よりによって伝説的名君の一柱に数えられるに至ったから、非難しようにも非難しがたい状況でもあり。
再発防止が徹底された状況を見るに、臣籍降下と出家の間に質的な差があったとは考えがたいね
たまたまその時代が、出家するのではなく臣籍降下で皇位継承権を無くす時代だったから出家者じゃなかっただけで、臣籍降下も同等の、「壁のむこうがわ」だったと考えざるを得ないな とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
IV2 皇族、足利将軍家など高貴な人が出家するのは、「後継者からはずされた」
「後継者から離脱する」ことを示す場合が多い。
だから、出家するということは、もはや後継者ではないというのは明らかだ。
だが、足利将軍家で出家者が還俗して将軍になった例があるように、
「やっぱりこの人を後継者にしよう」ということになれば、復活する可能性も
あるということだ。それはその時代のケースによるだろう。 権力さえあれば先例などどうにでもなる
先例が問題になるのは権力が充分ではないから 大海人皇子は出家して吉野に隠遁してから挙兵して近江朝廷を破り、天武天皇として即位に成功した
吉野は奇遇にも南朝と縁があるから、後南朝の出家した親王たちが大海人皇子の先例を 意識しても無理はない >>891
足利義教と今川義元が還俗の代表格だな
義元の場合、花倉の乱っつって後継争いが起きてるけど、
争った相手も還俗する予定で争ってる
状勢次第では天皇だって還俗皇族が駆り出される可能性があったとしか考えられないな
皇位を狙う皇族が多すぎたから、たまたま駆り出されなかっただけだろう 足利将軍家も将軍を継がない人は出家する傾向にあったね
義満の弟の満詮、義教、義視、義昭がそうだ
そして、義教、義昭は還俗して将軍になったし、義視も還俗して将軍になろうとした >一度は前例があっても臣籍降下した元皇族からの即位が一度で終わったあたり
宇多天皇、醍醐天皇。 【皇室】秋篠宮妃“紀子さま”と“美智子さま”の『異常性』〔心理学悪用編:小室眞子さま〕★2
ICU大学時代、山守さんも小室さんも同じスキー部員だったとの話。
そのスキー部に眞子様もいた事実。
少ない人数のスキー部内で男を、とっかえひっかえの眞子様。
しかも小室さんに乗り換えた後、山守さんも居るスキー部で活動継続。
小室さんに騙されたとかいう風潮は、あまりにもおかしい。
2012年の留学中に英国で知り合ったアジア人や日本人とも関係を持って・・・(以下略)
詳細は、以下のスレッドでどうぞ!!
〔2chのスレッド〕:https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1532735877/
〔記事元〕:http://www.laf.im/yahoo_co_jp-news-20180703 南北朝時代って考えてみれば、東西ローマ帝国みたいに東日本国、西日本国分裂時代と解釈していいのか? ローマの東西分裂の始まりは4分割試案のときだから、東西分裂ってわけでもない
ただ、4分割は一代限りで一旦終わってて、東西ローマへの分裂までにしばらく時代が空いてるけども。 >>900
その考えとなるとむしろ室町の本家と関東東北山梨伊豆の鎌倉公方の分け方になるな
西側の本家と東側の鎌倉古河流 鎌倉時代に足利氏の通字だった「氏」を引き継いだのが鎌倉公方家で京都の将軍家では初代尊氏以外誰も「氏」の文字を使ってないんだよな
基氏、氏満、(満兼は氏を使ってないから飛ばして)、持氏、成氏、(成氏以後は古河公方)政氏、(これまた使ってないので高基も飛ばす)、晴氏、義氏、藤氏
いや、高基も元服当初は高氏だったから含むのか。
足利将軍家が二代目以後の通字とした義は義家流の嫡流と自称すべく用いたのかな? 鎌倉時代から流通しだした為替の流通範囲が、鎌倉時代には全国規模だったのが室町時代になると東国と西国に二分されて排他的に流通するようになったらしい
幕府の範囲と鎌倉公方の範囲境界あたりが境目とか
経済的にも東西分裂なんだよな 室町殿が滅亡した後も鎌倉公方家は関東では一定の権威を持っていて、豊臣秀吉や
徳川家康もその存在に配慮した。
江戸時代になってからも、徳川将軍家に対する客将としての処遇を受けて、
「御所」の称号を用いることもできた。
一方、南朝の後裔はそのような処遇を得ることもなく、民間人の地位に甘んじた。 >>907
一応官職を得ていたのもいたから、民間人呼ばわりはどうかと思うが >>907
南朝の後裔としては、美作後南朝が津山藩から厚遇を受けて、御所号の使用も
認められていた
元禄年間まで続いた >>909
応仁の乱よりあとには南朝の子孫なんて確認されてないのに誰が官位をもってたんだよ まがりなりにも後南朝が帝位に就いていたのは西陣南帝まで
美作後南朝は確たる史料に乏しいので、参考記録にとどめるべき 西陣南帝は南帝とは呼ばれてるけど帝位についてないぞ というかそもそも後南朝では誰も即位してなくて、南朝の後亀山が最後 南朝の残党を便宜上「後南朝」と呼んでるだけで、中身はその辺の山賊と変わらないからな 鎌倉公方家は明治維新後も子爵に叙爵されて、華族になった。
もちろん、鎌倉公方(小弓公方)の地位はなくなっていたが、それでも「公方」と
公称して、大名たちからも「公方様」と呼ばれた。
後南朝もこのくらいに地位で存続するチャンスはなかったのだろうか? 南帝の行宮は北山御所と呼ばれていたから、鎌倉公方家と同様に、事実上、
御所号を使用できていたのでは?
廷臣や女官からは「主上」と呼ばれていただろうし、「朕」を自称していただろう >>918
いや、お前、自称でよければ熊沢だって天皇だろ 本来なら皇居や行宮を呼ぶ言葉のはずの御所が、室町後期とかになると将軍御所とか、
単なる貴種の意味(土佐一条家など)で使われてるからな、
そんな時代に御所と呼ばれてたところで天皇扱いとは言えないよ
単なる皇族でも御所と呼ばれる可能性があった 源頼朝の居館は「大倉御所」と呼ばれ、頼朝をはじめ源氏将軍は「御所」と呼ばれた。
頼朝の孫で藤原頼経の夫人も「竹御所」と呼ばれている。
頼朝の弟の源範頼の居館は「吉見御所」と呼ばれた。
天皇以外の貴人の居館を御所と称するのは、鎌倉初期にはすでに見られることであった。 自称南朝系の子孫と語り、子に教える。
教えられた子は、薄々気付きながらも 虚勢を張って南朝系の子孫だと言い張る。
その子が親になり、自分の子に南朝系の子孫の称号を伝授…。
死んだ祖父の嘘を孫は鵜呑みにして胸を張る。
が、いずれ歴史に詳しい知り合いに出会い 矛盾ばかりの話を笑われて恥をかいて終了。
↑基本はこんな感じです。 奥州藤原氏も居館を御所と称していたな。その地方の最有力者であれば、御所と称する
のは平安時代の後半には存在したと言ってよい。
平清盛も神戸にあった邸宅は御所を称していた。 涼しくなって気候がよくなってきたから、後南朝の史跡めぐりツアーとかを
やったら、行く人は多いのではないか?
歴史好きには魅力的なツアーになりそうだ 後南朝の史跡って中には根拠のない奴も混じってるだろ
三之公とか 後南朝好きなら大河原はぜひ訪れて欲しい
いい場所だ 南朝の三大秘境
宗良親王の信州大河原
良成親王の筑後矢部大杣
後南朝の奥吉野三之公 教尊の遺跡を訪ねる隠岐の島ツアーも企画してほしい
みんなで船に乗って、教尊に会いに行こう 教尊は女性の人気が出そうだ。教尊女子とか出現するかもな
男性にはやはり金蔵主とか自天王とか勇敢なキャラクターが人気だろう 奈良の山岳地帯を旅して色づいた紅葉を見ると、後南朝を思い出す
これこそ日本人の心かも知れない 研究者と旅行会社でコラボして、後南朝史跡ツアーとか企画してほしいな
関西・・・川上村・朝拝ツアー
中国・・・隠岐の島・教尊ツアー
関東・・・浪岡御所・出羽王ツアー >>936
大赤字になったらお前が赤字補填しろよ それなら旅行会社も企画してくれるだろう 自分は2年前に後南朝ツアー行ったよ
回数は少ないけど、地方のバス会社が時々開催する 史実にないフィクションの聖徳を顕彰するとか、マンガを教科書がわりにするようなふざけたガキと同レベルだな
空想と現実の区別が付かない。どうしようもないよ 後南朝の研究がもっと進むといいんだけどな
呉座さんの「応仁の乱」にも後南朝の記述はあるが、まだ少ない そもそも興味を持つ人が少ないから、研究しようと思う人も少ないし、
研究費を出す人がいない
南朝贔屓の人たちが集まって募金で研究費を捻出しないと話が始まらないだろう >>944
あらたな史料は無いから研究のしようが無いのでは 富山大学に後南朝の講座があるし、地道な研究は着々と進んでいる
研究成果をもとにして、室町期における後南朝記述を増やしていってほしい >>946
直接は新たな資料が出てこなくても、同時代の資料と突き合わせてみると、新たな事実が判明することはよくあるよ。
後南朝伝説は誰が何のために作ったのか、ってことすら分かってないんだから、研究する気になればいくらでも
テーマがあると思う。 1月20日(日)に大阪で後南朝講座あるよ
ttp://www.nara-u.ac.jp/research/pdf/Web-kintetsu2018.pdf 後南朝自体が血統が怪しい上に、西陣南帝は更に怪しいからな 大阪の後南朝講座を受講する方、ぜひレポートして下さい。
西陣南帝や出羽王について、どのくらい解説があるのか興味があります。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。