倍暦の根拠
 @敏達天皇の立太子時期
 『日本書紀』欽明紀:欽明天皇15年春正月戊子の朔木上午(7日)に
後の敏達天皇を、皇太子にした
『日本書紀』敏達紀:欽明天皇二十九年皇太子になる
 A継体天皇の没年
 『日本書紀』継体紀:継体天皇春2月丁未(7日)死亡、82歳
 『古事記』継体記:43歳((丁未年4月9日脂肪)
 ところで、継体天皇の治世を、百済系史料では25年ではなく、28年としている。
 で、継体紀の82歳に3年足せば、85歳となり、継体記の43歳の倍数となる

 後仏教公伝の時期の2説、338年と552年説のずれも、じてゃ倍暦からの換算ミスで説明可能だが、
これは、継体没後の安閑・宣化朝と欽明朝の二王朝並立問題とも絡み、ややこしいので、省いたが、
元興寺露盤銘や聖徳太子即位説とかとも関連し、説明が面倒になるので省いたガ、
これも倍暦の根拠になり得る。

 いずれも、記紀の近現代史とも言うべき、継体欽明朝の話だ。
従って、倍暦、元嘉暦、干支などが、儀鳳暦中心に切り替わるのは、推古天皇の次代になる。