秀吉は秀次に、子種のない自分に代わって高貴な娘との間に子をもうけたり、
有力な大名の娘との間に子をもうけるという成果を期待していた。
それによって豊臣の血が高貴になり、豊臣一門の子孫繁栄がもたらされ、
大名との紐帯が強められる。

秀次は、この期待に半ば応え、半ば反したといえる。
大勢の女を集め、子をどんどん作るということはやった。
しかし、生まれた子の母親は大した女たちではなかった。
たとえば長男千千代丸の母・於和子は日比野下野守の娘である。
家臣筋の身分であり、豊臣の血を高貴ならしめたとはいえない。
次男百丸の生母も尾張国星崎城主山口少雲の娘で家臣筋。

一の台との間に子ができることを期待しただろうが、一の台は処刑時に34歳。
当時としては子を産むのは困難な年齢。
秀次はそういう年上女に夢中になっていた。

秀吉は自分たちの孫(継子の子だから一応孫だが)の血筋を考えて
これらの者が豊臣の屋台骨を支えていくのは無理と考えたのかも知れない。
(たとえば生母の実家が大大名なら豊臣を支える支柱になる。)
あるいは、自分が生涯かけて築いたものが、たいした血筋でない者たちの
ものになり、その生母の実家の者たちがときめくことになることがアホらしく
なったのかも知れない。